霊的修行

神や祝福・その完璧さといったテーマと、自然界の動物の食物連鎖、とくに今後も未来永劫補食され続けるであろう多くの草食動物たちの命運というテーマ Q&A

古参の読者

わざわざ探して頂きありがとうございます、お手間をとらせてしまいました。

書物に基づいた情報でなくてもいいので、もし可能であれば、お暇なときで構いませんので今回話題にのぼったテーマについての見解を記事でぜひとも読んでみたいです。

すなわち、ちんこさんが日頃記事で書いている神や祝福・その完璧さといったテーマと、自然界の動物の食物連鎖、とくに今後も未来永劫補食され続けるであろう多くの草食動物たちの命運というテーマは、どう折り合いがついているのか?どのように説明ができるのか?といった見解です。

私はこのテーマを本当に正面から取り上げて詳細に説明している書物を見たことがありません。

多くのスピリチュアルや精神世界についての本でも、書かれているのは人間についてのことばかりですので。

ちんこさんのように色んな世界を横断できる人なら、包括的に説明ができるかもしれないと思いました。

この質問にお答えするにあたって、私の中でどうしても考えるにあたって外せないカルマの問題があります。私は人間と動物はつながっていると考えています。それは転生という意味でつながっていると考えております。

それについて説明する上で、パラマハンサ・ヨガナンダ著『人間の永遠の探求』「講話28〜転生〜魂の完成の旅」と、『パラマハンサ・ヨガナンダとの対話』「8章〜カルマの法則〜」「9章〜魂の輪廻〜」から多分に引用して考えていきたいと思います。長い引用となりますのは、それは私がカルマの法則について言い表せないからです。私がヨガナンダ先生の文献を引用する理由は、 私にはどうしてもヨガナンダ先生が話していることが真実としか思えないことと、ヨガナンダ先生がアストラル界(死後の世界、天上界)を行き来して、その様子を書いていてくれるからです。アストラル界について、じっさいに自分の目で見て語っている者は、スウェーデンボルグとヨガナンダ先生とシュリ・ユクテスワと出口王仁三郎しか私は知りません。肥田先生も、日記に、「昨晩は楽しい世界に招待された」と一言だけ残されていますが、体験は記されてません。ついでといったら何ですが、ヨガナンダ先生がアストラル界について話されている箇所も引用しておきました。アストラル界についての詳しい説明は、ヨガナンダ先生の著「とあるヨギの自叙伝〜スリユクテスワの復活〜」に書かれてあるので、よければそちらをご覧になってください。ヨガナンダ先生のカルマの講話、私のカルマの考察、それから動物に関する話へと帰結するよう話して参ります。3万2千字の長文となります。

『人間の永遠の探求』「講話28〜転生〜魂の完成の旅」からの引用

『転生とは、ちょうど、われわれが学校卒業するまでにいくつもの学年を経るのと同じように、魂が、神との合一を果たして永遠不滅の完全さを取り戻すまで地上で進化の生涯を重ねることです。自分が神の子であることを忘れた不完全な束縛状態にある魂は、死によって肉体から開放されても、自動的に本来の神の子の意識状態に戻れるわけではありません。われわれは神の似すがたに作られましたが、肉体に宿って自分を肉体的存在と錯覚するようになったため、肉体固有の不完全さと限界とを身につけてしまったのです。われわれは、この生死に束縛された不完全な人間意識から脱け出すまでは、再び神の国の住人に戻ることはできません。

放浪の王子は、王宮を飛び出して貧民窟に隠れ家を見つけました。そして、そこの風習に浸って悪い仲間たちと交わっているうちに、いつの間にか自分の素性を忘れてしまい、長い年月の後、父親に発見されて王宮に連れ戻されるまで、自分が王子であることを思い出しませんでした。

われわれもまた同様に、宇宙の王の王子ですが、父の家を飛び出してきました。そして、あまりにも長い間自分を肉体の中に閉じ込めてきたため、自分の聖なる本性を忘れてしまったのです。何度も地上に生まれ、そのたびに新たな欲望と束縛を自分でつくり出してきました。そのため、われわれはそれらの欲望をすべて果たすか、または、英知を開発して、それによってそれらの欲望を解消するまでは、何度でもこの地上へ戻って来るのです。

欲望は、これを果たすか、または英知によって解消しなければなりませんが、自分の欲望を”すべて果たす”ことによって生死の輪廻から解放される人は、ほとんどいません。それは、欲望というものの性質から、よほど強固な意志をもつ人でないかぎり、一度それを果たして満足を味わうと、かえってそれによって、同じ経験をしたいという欲望がいっそう強められるからです。

神は、われわれをこの地上へ送ってわれわれの行動を命令する独裁者ではありません。神はわれわれに、好きなように振る舞う自由意志を与えてくださいました。われわれは常々、善良であれと教えられています。しかし、もし一部の人が言うように、だれでも死後直ちに天国へ行くとしたら、どうして生きている間に善行を積む必要があるのでしょうか? もし、一生の終わりに皆が同じ果報を与えられるなら、だれでも、いちばん容易な、利己的で欲望のままに生きる道を選ぶでしょう。善人も悪人も一様に天使になるなら、偉大な聖者たちの生き方を見習う必要もないでしょう。

また、もし神がそのご計画の中で、われわれをすべて地獄へ送ろうと決めておられるなら、その場合も同様に、われわれは今いかに振る舞うべきか心配する必要はありません。われわれの一生がまるで自動車のように、古くなったらスクラップにして捨てられ、それが終わりになるなら、われわれは、自分の行ないに気をつける必要ないでしょうし、それがわれわれの人生のすべてなら、聖典を読むことも、自己制御の訓練をすることも無意味なことでしょう。

進化には時間が必要

しかし、もし人生に高遠な目的があるとすれば、われわれは、死んで生まれる赤ん坊のように一見不公平に見える事実をどう説明したら良いのでしょう? また生まれつき盲目であったり、おしであったり、不具であったり、二、三歳で死んでしまう子供がいるのは、どうしてなのでしょう? 持って生まれた欠点や欲望と闘って自分を改善する時間がもてるのは、長く生きられる人たちだけです。もし、数か月で死んでしまう子供にとって、将来別のチャンスが与えられないとすれば、神はその子に心を与えながら、その心の潜在能力を育てる時間をお与えにならないというのはなぜなのでしょう? われわれが成長を遂げるためには時間が必要です。十分な進化を遂げるには、一回の生涯ではとても足りません。

生まれて間もなく死んでしまう子供には、実はそれなりの理由があります。そして、そのような場合、つまり自分の人間的または神的能力を発揮する十分な時間がなかった彼には、それを果たすための別の機会が与えられるのです。それはちょうど、病気で学校を休学した生徒と同じです。彼は学校をやめてしまったわけではなく、病気が治れば、また学校へ戻って、し残した授業を受けます。人生においても、今生で学ぶ機会を持てなかった人には、いつかそれを果たす機会が与えられるのです。

中略

人間には、自分がどこから来て、どこへ行くかを理解する力が与えられています。しかし、我々は自分自身の自分の人生について考える十分な努力を払っていません。常識的に考えてみても、われわれの現在の性格は、今生における自己改善の努力に応じて多少変化するだけで、そのまま死後に引き継がれると思われます。あなたは一年に三百六十五日ずつ歩み、何年かたてばある程度は進歩するかも知れませんが、あなたの性質は、死後も生前とほとんど変わらないでしょう。死んだからと言って、すぐに天使に変わるとは思われません。変わるのはあなたのからだだけで、それ以外は何も変わりません。死とは、通り過ぎる門のようなもので、肉体が取り去られるほかは何も変わりません。もし、あなたが激しい気性をもっていれば、死んでもその気性はそのまま持ち越され、あなたがそれを克服するまであなたに付いてまわります。もしあなたが、現世で健康の法則を守った生活を送れば。来世では健康なからだがもてるでしょう。特に、人生の終わりの部分の生き方が、始めの部分よりも重要です。なぜなら、今生の最後の自分が来世での最初の自分になるからです。

中略

また、あなたは自分が子供の頃からいつも良心の導きに従って行動しようとしてきたかどうか、自問してごらんなさい。あなたは自分の行動をたえず反省し、自分が間違っていたときは率直に直そうとしましたか? 子供のころから、このような内面的な闘いをしてきましたか? もしそうだったら、あなたは前世で、三番目のクシャトリアの段階にあったと言えます。そしてまた、もしあなたが、子供の頃からいつも神のことを考えていたなら、あなたは四番目のバラモンの段階に入っていたのです。

中略

自分の気性をチェックしてごらんなさい。あなたの中に何か目立った気性があるとすれば、それは過去世においてつくられたものです。もしそうでなければ、同じ両親を持つ家族の中に、生まれつき嫉妬深い子供がいたり、おとなしくて思いやりのある子供がいたりするはずはないでしょう。また、叱られるとすぐに反抗する子供や、素直に言うことを聞く子供もいれば、中には盗み癖のある子供もいます。これらの生まれつきの性質は、前世の性質がそのまま持ち越されてきたものです。

私は以前、一人の赤ん坊を抱かされたことがありましたが、その瞬間、もう少しでその子を落とすところでした。それは、神が私に、その赤ん坊が前世で残忍な人殺しだったことを知らせてくれたからでした。しかし普通は、人の過去は完全に秘密にされています。神が特にその人に知らせようと思われたとき以外は、知ることはできません。

中略

ときどき、初めての場所へ行ったのに、そこで何かの情景が思い浮かんでくることがあります。しかし、その情景の中に登場する人たちはもうすでにいません。又、初めての人に会ったのに、以前から知っているような感じがすることもあります。私の場合は、以前知っていた人に出会うと、すぐに分かります。ことに、以前私の弟子だった人ははっきりとわかります。

中略

人がとかく、おだてられるとつい好い気持ちになります。そのため、ときどき悪い連中につけ込まれることになるのです。先程の話でも、あなたがたが前世に何であったとか、世間的に有名であったかどうかなどということは、ほとんど重要ではありません。世間的な地位などとは関係なく、神を知るタイプ、バラモンに属する性質を持っていることこそ、最もすばらしいことです。ここに集まっているあなた方は、みなある程度そういう素質を持っている人たちです。そうでなければ、今朝ここには来ていないでしょう。

中略

われわれには前世の特徴が残っているのです。特に、目は魂の窓で、ほとんど変わりません。怒りや、恐怖心や、ずるさを表す目をもっている人は、自分の魂の本来の美しさを隠したりゆがめたりするそれらの好ましくない性質を取り除いて、自分を変える努力をすべきです。環境や交友関係が変われば、あなたの表面的な心や容貌はいくらか変わりますが、性質が変わらなければ、目はほとんど変わりません。生まれ変わっても、ほとんど同じような表情の目をしています。

中略

われわれが普通、前世のことを思い出せないようにつくられていることには深い理由があります。それは、もしわれわれが前世の知人を思い出すことができると、そうした仲間どうしが再び集まって、自分の愛をそれ以外の人々に拡げようとしなくなるからです。神は、われわれが広くすべての人々に愛と友情を注ぐことを望んでおられるのです。しかし、われわれは、愛と友情の関係を少なくとも一つの間柄を通して”完成”させなければなりません。あなたは昔の古い友人たちと再び出会ったとき、彼らとの間に愛を完成させることができます。グルは、弟子との間に聖なる友情を完成させます。弟子とは、そういう人のことで、グルの導きに忠実に従う人を言います。真のグルの導きは英知に裏付けされており、それに忠実に従う弟子は、グルと同じ高さー解脱の境地ーに引き上げられます。

何よりもまず、あなたはこの人生でできるだけ多くのことを学び、最高の霊的進歩を遂げるよう努力すべきです。そして、早く神との霊交を果たしなさい。この最高の義務を果たせば、それ以外のこの世の中の義務の遂行にいくらか足りないところがあっても赦されるでしょう。自分を、この世の義務に束縛するカルマから解放するために、英知と聖なる意識を開発しなさい。

『パラマハンサ・ヨガナンダとの対話』「8章〜カルマの法則〜、9章〜魂の輪廻〜」からの引用

ヨガナンダ:「たとえば、航空機事故では、なくなったすべての人がそうなるカルマを持つ必要はありません。その惨時の多数をしめる人のカルマが、たんに生きるべき少数の人のカルマより強かっただけかもしれません。しかし生きるべき十分に強いカルマを持つ人は、その事故に遭いながらも助かるか、あるいは、その飛行機にそもそも乗らないか、いずれかで救われるでしょう。 

国家のカルマは、その国民が全体として、どの程度宇宙の法則を守っているかに依存します。

私は、たとえ敵がアメリカを攻撃しても、アメリカも長い目で見れば、負けるはずがありません、としばしば言ってきました。なぜなら、多少間違った行為はあるものの、アメリカのカルマは基本的にいいものだからです。対照的に、現在のアメリカに敵対する国家のカルマは悪いものです。彼らは、その代償を払わなければならないでしょう。

動物でさえカルマをつくります。しかし、動物の意識は、エゴの意識も含め、弱いものです。それゆえ、個のカルマというより集団のカルマに支配されています」

弟子:「人を殺す事はいつでも悪いカルマですか?」

ヨガナンダ:「違います。それは行為の背後にある意図と、全体的な結果に依存しています。たとえば冷酷な独裁者の侵略から自国を守る時など、正義という大義の意識に支えられて敵を殺した兵士は、まったくカルマを生じる事はありません。むしろその者の行為は善いカルマとなるのです」

弟子:「朝鮮半島にいるアメリカの兵士はどうなるでしょう。敵を撃つためのどういうカルマがあるのでしょう?」

ヨガナンダ:「この戦争の大義は善いカルマで悪い、カルマではありません。なぜならこれは聖なる戦いです。悪者たちは打倒されなければなりません。さもなければ、世界はさいごに奴隷化されてしまいます」

弟子:「先生は『あるヨギの自叙伝』のなかで、シュリ・ユクテスワの『生き物を殺すことは、それがどんなに小さな生き物でも、またどんなに余儀ない場合でも、多少の罪を残す事は免れない』という言葉を引用されています。ならば、蚊や蝿や毒虫を殺すことも、間違った行為でなければならないと思いますが、そういうことでしょうか?」

ヨガナンダ:「有害な生きもの殺す事は、いつでも善いことです」

弟子:「しかし、先生、こうした虫たちが人間の命にとって危険だと言えるでしょうか? ほとんどの場合、ただうるさいと言うに過ぎないと思いますが」

ヨガナンダ:「それでも、そうした虫がはびこるままにしている国では、その虫が広める病気のせいで非常に高い死亡率になっています。繁殖がコントロールされている国では、ずいぶん衛生的で病気が少なく、人の平均寿命はずいぶん長いです。ですから、世界がそうした害虫から解放される事はよいことなのです。さらに言えば、そうした害虫は、悪の手先なのです。悪もまたコントロールされなければなりません」

カルマには幾つの形があるのですか? とある人が質問しました。たぶん人間界の法定で下される判決の種類のことを考えていたのだと思います。

あなたはカルマと罰を混同しています師は答えました。

微笑みながらさらに「多くの人が同じ間違いを犯します。しかしカルマとは単に行為(アクション)を意味しているだけです。行為には多くの種類があります。本質的には、善と悪、もしくは中立です。中立の行為は、しばしば善と悪の間の転換点として機能します。ヒンズーの聖典では、宇宙そのものが、”善、動、悪”の三つの属性(グナ)の混同台であるといわれています。

善の属性はサットワ・グナと呼ばれ、神の源泉への意識を高めます。ラジャスまたはラジャ・グナと呼ばれる動の属性は、かならずしも悪の行為に向けてでは内にしても、エゴの得になるような行為にひとを駆り立てます。

悪の属性はタマスといいます。それが悪いというのは理解力を暗くするという理由です。ほとんどの人は、この世の財を好み、個人的利益のために行動します。しかし、他人を傷つける意志をもって、そうした行動をとる人はほとんどいません。実際に邪悪だと言えるひとはほとんどいないのです。

行為そのものが多種多様であるように、その結果も多種多様です、

聖書には『人の血を流すものは、人の血に流される。(創世記9。6)』と書いてあります。それは戒律ではなく、神の法則を説明したものです。

イエスが、その病を癒した男にむかって『もう罪を犯してはいけない。何かもっと悪いことが、あなたの身に起こるかも知れないから。(ヨハネ5・14))』と言われました。その示唆するところははっきりしています。男の病は、そもそも以前に犯した罪のせいであるということです。

よいことに関しても、例えば、なんの努力もしないのに成功する人々が居ます。(少なくとも、見かけ上、努力なしの成功に見える)その幸運は、どこからやって来るのでしょう。それはただ単に、善いカルマからやって来ているのです」

質問者:「しかし、多くの殺人を犯した者がベットの上で安らかに死んでいます。そして、多くの成功した人が、ちょうど先生のおっしゃったように、その成功に値することをしてきたようには見えません」

師(ヨガナンダ):「それはほんとうです。ですからカルマの法則は、それに平行する輪廻の法則と複雑に絡み合っているのです。二つのどちらかが欠ければ完全なものではなくなります。

あるひとの地上の滞在時に始められた無数の行為の輪を完結するには、一度の生では不十分なのです」

ある弟子が「それが間違いとは知らなかったのであれば、そうした無知や愚かさから生じた過ちのために、罰せられるのは不当ではないでしょうか?」とため息まじりに言いました。

「無知や愚かさが法を変えることはありません。もし車を運転して、不注意にも木に衝突したなら、その結果うけた傷が、不注意だからといって、決して少なくなるわけではありません。

ひとは自分の行為の方を、法に適応させなければなりません。シュリ・ユクテスワがかつて私に話したことがあります。『もし法則というものが、人間に信じられなければ機能しないとしたら、宇宙の秩序は混乱してしまうだろう』」

「先生、宇宙の法則はどうしようもないほど複雑だと思います。ひとつの国の政府によって一年に成立する法律でも、どれほどあるかを考えて見てください。宇宙の法ならばきっと無限の数があるにちがいないですから」

師はくすくす笑いながら「実際は、思うほどそんなに複雑なものではありません。バガヴァッド・ギーターには、悪の力(フォース)の種類は多数ある、しかし善の力(フォース)の種類はほんの僅かである、と述べています。イエス・キリストもまた、堕落する道は広い、しかし『命にいたる門は狭く、その道は細い(マタイ7。14)』と述べておられます。

間違いの道はどこまでも曲がりくねっています。しかし、間違いから抜けだす道は真っすぐです。わずかの法則で十分です。その中でもっとも重要なものは、ただひとつ、神を愛することです。

『多く愛した者に、イエスは、その多くの罪をゆるされた、と言われた。(ルカ7・47)』

パラマハンサ・ヨガナンダは言いました。

「どうしてある赤子は手足が不自由に生まれるのでしょう。この事実を満足に説明できるのはただ輪廻の法則のみです。その児を見れば愛らしく無邪気に見えます。しかし、その魂は、過去生のどこかで神の法則に背き、そのせいで十全な両脚の記憶が奪われたのです。それ故に、また心(マインド)が肉体をコントロールするがゆえに、魂が肉体に再びもどってくると着、完全な両脚を準備することができず、不自由な状態で生まれるのです。

どうしてある者は愚鈍に生まれ、ある者は頭脳明晰に生まれるのでしょう。もし神がそのようなことを理由なく起こすのであれば、神はすごく不公平ではないでしょうか。しかしそれには原因があります。つまり、私たちが現在あるのは、過去における私たち自身の様々な行為の結果なのです。

魂のレベルでは、人は不死です。しかし個我意識(パーソナリティ)のレベルでは、人間的不完全さをぬぐいとってしまわないかぎり、不死の意識を取り戻すことはできません。己を陶冶し不完全さをぬぐい去る努力は、石像を掘り起こすとき、余分の石を取りのぞく切削作業に似ています。それは隠されている完全な姿が現れるまでつづくのです」

初めて教えを聞きに来た人:「なぜ私たちは輪廻しなければならないのですか? もし、私たちがみな、神からやって来ているのであれば、どうして死後、ただ単に神のところに戻って一体となってしまわないのですか?」

パラマハンサ・ヨガナンダ:「もし私たちの個我が、死によって消えてしまうなら、まさにそうなるでしょう。しかし、エゴが肉体を形成するのです。エゴは、肉体誕生の結果ではなく原因なのです。

肉体の死後、ふたたび取り戻すことになるアストラル体にとっては、エゴがその基本要素です。肉体とは単なる物質へのエゴの投影に過ぎません。

単に死ぬくらいの簡単なことでは、神を手に入れることはできません。死ぬことは簡単です。しかし、魂が無限なるものへと戻り、一体となる高次の意識レベルを獲得するのは非常に難しいのです。

仮にそんなに簡単なことであるなら、地上の人びとは、いったいどうするでしょう。さらには、天国に置いてさえ、いったいどのように振る舞うでしょう。たぶん、ちょうど地上と同じように、すべてに不満を言い、議論し、互いに争うにちがいありません。そうすることで、天国そのものを、あらたな地獄に変えてしまうことでしょう。

死後、ひとの性質の基本的な傾向は地上のときのままに維持されます。ギャングのアル・カポネが、この存在次元を離れてすぐに天使になったりはしません。犯罪者は、自分がやりたいことをやり遂げるまでは、悪の傾向を維持しています。たぶん何回もの輪廻と厳しい試練を経るまでは、つまり、彼らの強欲が他者を助けたいという欲求に、彼らの無法意識が法を守るという欲求似、彼らの残忍さがすべてのものへの優しさに変容するまでは変わらないのです」

初めて教えを聞きに来た人:「何が個我(エゴ)を輪廻させるのですか?」

ヨガナンダ:「欲望です。いいですか、欲望がエネルギーを指揮するのです。ひとが地上のものを欲しがるかぎり、ここに戻ってこなければなりません。そこでしか、その人の欲望をみたされないのですから。もしタバコを、あるいは車を、お金を欲しがるなら、アストラル界はそうしたものを提供できません。ですから、そうしたものが手にはいる地上に戻らざるをえません」

ある弟子:「地上で抱かれたすべての欲望は、同じようにまた、地上で満たされなければならないのですか?」

ヨガナンダ:「いや、純粋な欲望は違います。たとえば、美しい音楽、広大な風景、調和した人間関係への希求などです。そうした欲望は、この不完全な物質界よりアストラル界のほうが、ずっとよく満たされます。この地上で美を創造したいという欲求は、多くの場合、ひとがアストラル界において経験した、意識下にある美と調和していたときの記憶によるものなのです」

初めて教えを聞きに来た人:「魂は、アストラル界で、どの程度、生命について体験し学ぶことになるのでしょう? 物質界を離れて長年そこに留まるのですか?」

:「それは霊的進化の度合いに依ります。唯物主義的な魂(ここで私は『魂』をあなた方のいう意味で使います。実は魂はどんな時も完全なものなのですが)の場合、アストラル界に自分と一緒に持ち込んでいくのはエゴ意識です。そして、唯物主義的な魂は、あまりにも自分たちが事物の本質だと思っているものに魅せられているので、存在の精妙な領域を感じることができません。死後、そうした人びとは、深い眠りに落ちてしまいます。たとえ後に目を覚ましても、闇か灰色の霧に包まれている自分を発見するだけです。自分がどこにいるか分からないのです。さらに、彼らが、もし地上で悪の人生を送ってきたなら、悪夢にうなされるかもしれませんし、また悪魔に苦しめられるかもしれません。

しばらくすると、彼らは霊的覚醒への長い山道を登り続けるため、次の新しい肉体の中に生まれ変わります。一方、より霊的に進歩した人たちは、善き行いと性向により直感力を強めていきます。そのため、彼らは死後の世界での感受性がより強くなり、より意識的にその美しさを楽しむ事ができるようになります。善き行いにより自分自身の波動が高められることで、アストラル界では高次の波動に引き寄せられるのです。とくに今生で、たとえ少しでも瞑想をしている人びとは、死後、とても美しい領域へといきます。肉体的存在より道徳的義務と真理に重きをおいた人でも、又、高次の領域へと行きます」

訪問者:「では、戦場で死んだ兵士たちでも天国へ行けるのですか?」

:「もし彼らが道義と真理のために死んだのであれば、そうです」

訪問者:「天国はどんな感じなのですか?」

:「天国には二種類あります。たいていの人が思うのは、アストラル界の天国、つまりアストラル界のなかの高次領域のことです。しかしほんとうの天国とは、イエスがしばしば話されているように、神と一体の世界をいうのです。

アストラル界の天国は、イエスが描写しているように、たくさんの「館」すなわち波動の階層(レベル)を持っています。それは物質界とよく似ています。というのも、ここ物質界は、そうした精妙なアストラル界領域が投影された世界のうちの一つだからです。しかし、地上の存在次元にある無数の不完全さは、アストラル界の天国には存在しません。

ふつう人が想像するように、天国は「上の方」にはありません。それは私たちを取り囲んで降り、人間の物理的視野のちょうど背後にあるのです。私はいつもそれを見ています。そして、そこで多くの時間をすごします。それは広大な宇宙であり、美しい光、音、そして色でできています。物質次元の色は、それにくらべるなら非常にくすんでいます。天国の美しさは、あなたの今まで見たいちばん輝く夕陽のようであり、いや、さらに美しくさえあるものです。

アストラル界には無限の多様性があります。そこの四季は、進化した魂たちの意志で変えられることがあります。ふつうは中陽のさす春の季節です。雪も降りますが、降るときは穏やかで美しく、まったく寒くありません。雨が降るときは、やさしく無数の彩りの光線として降ります。

アストラル次元では、感情も非常に洗練され、ふつう地上で経験するよりずっと密度の濃いものになります。天国は手持ちぶさたなところではありません。そこにいる住人は非常に活発です。ここでの感性上の波動は、すべて天使たちによってコントロールされています。アストラル界の存在達は、忙しいけれども、同時に非常に幸せなのです。

ときどき、人間にたいする同情から、夢やビジョンで人びとを訪問したり、人に美しい想念を吹き込んだりします。どのくらいアストラル界に留まるかは、地上でどれほど善く生きたかに依ります。善いカルマを持つ人びとは何世紀にもわたって留まるかもしれません。一方、覚醒への欲求に駆り立てられる魂は、自分の霊的努力を継続するため、地上に早く帰ることを選択するかもしれません。というのは、アストラル界においてもまた、永遠にして完全なる神の顔容はベールに覆われていることを知っているからです」

弟子が質問しました。「先生! どのようにして、魂は地上に生まれ変わるのですか?」

ヨガナンダは答えました。

「アストラル界でしばらく時を過ごすと、その期間は、善いカルマをどれほど積んできたかによるけれども、意識下にある物質への欲求が再び目覚めます。そして彼らは、欲望の磁力によって、地上に引き戻されるか、もしくは物質界の他の惑星に行くことになります。

物質界で受胎が起きるときは、エーテル界で火花が散ります。あの世で肉体の再生を持っている魂たちは、その火花の波動が自分の波動と和合するとみるや、火花をめがけて殺到します。時として、一つ以上の魂がひとつの子宮に入っていきます。双子や三つ子が生まれるのはこうしたときです」

弟子:「霊的な魂はいつも霊的な家族のもとに生まれますか?」

:「類は友を呼ぶ。これが一般的ルールです。しかし、たとえば、タイミングとか都合や事情といった多くの要素が入ってきます。聖人のような魂の場合、高度に進化した家族に転生することは多くありません。というのは霊的な人びとは、どちらかと言えば結婚を望まなかったり、子供を持たなかったりするからです。それ以上に、非常に複雑な個々のカルマの問題があります。

人は多くの混じりあった性質をもっています。たとえば犯罪者の夫婦であっても、もし平和に対し非常に強く惹かれているとすれば、時には聖者がその気持ちに共感して、そうした両親のもとに生まれることがあります」

師は続けました。

「霊的な子供を欲しいのであれば、両親は肉体的結合を果たすとき、その意識を高く保っていることが重要です。というのは、そのときの波動が、アストラル界での火花の質を決定するからです。

ある夫婦に、霊的な子供に恵まれたいので、そのような魂が自分たちのところに来るように助けてほしいと頼まれたことがあります。私は、直感的に転生するためのカルマ上の準備ができていると感じていた、以前に亡くなったある子供の写真を、その夫婦に見せました。彼らはその写真に強く引きつけられていました。そこで私は、『あなた方は、今後六ヶ月禁欲し、毎日瞑想しなさい。瞑想の間、この写真に集中し、この存在(魂)に自分たちの家に来てくれるように招きなさい』と言いました。彼らはそうしました。そして六ヶ月後、その妻は妊娠しました。彼らのもとに生まれたのは、まさにその子供だったのです」

弟子:「先生、もし白人が黒人に対し偏見をもち嫌悪するなら、来世でそのひと自身が黒人に生まれるということになるのでしょうか?」

パラマハンサ・ヨガナンダは笑いました。

「それは、まったく本当です。嫌悪することは心惹かれることと同様、強い磁力となります。神は、人間の偏見に善い印象をもつことはありません。

ときどき、家族の間で争いばかりしている家があるでしょう。彼らは前世で敵同士だったのです。それが今生では同じ家族に引き寄せられて、そこで面と向き合い互いの憎しみを否応なく解決しなければならなくなるのです。

合衆国南部の教会で起きたこんな話があります。その教会は白人にだけ礼拝が許されていました。ジムという黒人の守衛は、日曜礼拝に白人会衆とともに参加させてもらうことを、何より強く望んでいました。牧師は言いました『ジム、君にもぜひ参加して欲しいと思っているよ。でもそうすると、分かってくれたまえ、私は職を失うのだよ』

ある日の夜、ジムは張り裂けそうな気持ちでイエスに祈りました。『主よ、どうか私を白人たちと一緒に礼拝できるようにしてください』と。しばらくして眠りに落ちていました。そしてビジョンが授けられます。イエス・キリストが壮大な光に包まれて現れ、慈悲に満ちた笑みをたたえて言われたのです。

『我が息子よ、がっかりすることはない。私も、二〇年間まさに、その教会に入ろうとしているのだが、いまだに成功していないのだよ』」

「おそれいりますが、もし私たちをこの世に結びつけて放さないものが、この世への欲望であるとするなら、自殺した人びとは、なぜ開放されないのですか?」とある弟子が質問しました。「彼らがこの世に留まる欲望をもっていないのは明らかです。この世から逃れるための極端な方法にも、一理あるのではありませんか?」

師はこのばかばかしい質問に、くすくす笑って答えました。「しかし、そこには積極的な神への欲求がなければならないのです」

自殺について、ヨガナンダは別の機会にも話しました。「人生とは、無限意識に入っていくためにどうしても卒業しなければならない学校なのです。もし、あなたが無断で授業を抜けだしたとしても、人生の究極の授業の履修に必要とする回数分、あなたは何度も何度もここに帰ってこなければならないのです」

二人の弟子が、師のためのあるプロジェクトを一緒に進めていたのですが、とつぜん何の理由もないのにふたりの間に反感がわき起こりました。そのことは彼らを驚かせましたが、まもなくその感覚を克服し、やがて互いに心からの尊敬を抱くようになりました。のちに、その一人が師に訊ねました。「どうして私たちは突然そんな憎しみを感じたのでしょうか?」

「二人は前世で敵同士でした」と師は説明しました。

これは別の機会に師が説明したのですが、

「感情は、魂のレベルでの本当の私たちを表しているわけではありません。魂は、どんな時も愛にあふれ、どんな時も喜びに満ちています。しかし感情はその永遠の真実(リアリティ)を曇らせてしまいます。

自由を見つけるためには、感情の波を鎮め、どんな時も愛と喜びの意識のなかに穏やかに留まっていなければなりません」

かつて、ある弟子に対しパラマハンサ・ヨガナンダは言いました。「君とは、幾たびの前世で接触が失われたことがある。しかしこれからはもう決して君を見失いはしない」

「輪廻の教訓とは、すべてのものへの優しさ、赦し、同情を表現することによって、また真我に根ざした確かな充足をもつことによって、好悪の感情の波、熱愛と嫌悪の波、そうしたものを平準化させるところにあるのです。私たちは他者を愛さなければなりません。その個性ゆえではなく、皆のなかに等しく住まう神が顕現した姿であるがゆえに愛さなければならないのです」

「もし、あなたが他人を侮り糾弾するなら、いつか今生、または来世において、あなたがいま無慈悲にも退けた相手が受けた、その同じ体験をしなければなりません」

砂漠で五ヶ月間パラマハンサ・ヨガナンダと一緒に過ごしたあと、ある弟子が言いました。「私はいつもこのように人里離れてこのように過ごしたいと思っていました」

師は答えました。「それは君が過去生において何度もそうして来たからです。私のもとにいる大多数の者は、多くの過去生を、そのように人里離れて生きてきたのです」

弟子:「私は過去生でヨギでしたか?」

ヨガナンダ:「もちろん、何度も何度も。こうして私のもとで生きるために、これからも、またそうすることでしょう」

あるとき弟子が嘆きました。「先生、私は善いカルマを持っているとは思えないのです」

パラマハンサ・ヨガナンダは強い口調で答えました。「覚えておきなさい。人が神を知りたいと願うようになること、ただそれだけでも、大いに、大いに、大いに、善いカルマが必要とされるのです!」

弟子:「先生、なぜ私は過去生を思い出せないのですか?」

師は微笑んでユーモアを交え答えました。

「過去に犯した過ちをすべて知っていたなら、ひとはすぐにやる気を失ってしまうでしょう。自分が自身の犯した間違いそのものであるかのような錯覚を与えることなく、再挑戦する機会を、神は人びとに与えているのです。

肉体への執着から離れれば離れるほど、とくに深い瞑想中においては、人はますますはっきりと過去生とそれぞれの生で為したすべてのことを思い出すようになるのです」

「過去生を思い出しても、ほとんどの人には、助けにならないでしょう。かけがえのない今世においてさえ、多くの人が、どれほど習慣の奴隷と化しているかを見てください。私はそれを心理的骨董家と呼んでいます。彼らのする事はすべて予見可能です。口笛や歌う曲目さえ、来る年も来る年も同じです。年をとればとるほど、ますます自分の考え方、感じ方、ふるまい方がワンパターンになってしまうのです。そうした人びとには、今まで自分のしてきたことや自分がどうだったかを忘れ、出直す機会が必要です。自分自身を善くできるという希望は、もう再出発することにしか残されていないのです」

「この見せかけの夢のなかで生きることを楽しんでいるかぎり、この世とこの肉体の苦楽を経験しながら、次々とどこまでも転生を重ねていくことになります。バガヴァッド・ギーターはそのことを、永遠に回り続ける巨大な車輪として描いています。しかし、もし、そこから抜け出したいと強く思うならば、あなたは解放されなければなりません。自由こそが、あなたの永遠の目標であることを、忘れないでください」

※10章からは、カルマを克服するというテーマに移っていくのですが、ここでの抜粋は以上とします。

感想

長い引用をしましたが、ここから私の感想に移りたいと思います。

私はヨガナンダ先生の言う通り、地上は魂の修行の場で、我々は神を見出すために生まれてきたのだと思っています。スードラとかヴァイシャとか奴隷とか魚とか、難しいことはわかりませんが、人間のいちばんの始まりは今よりずっと低い魂から始まって、何千何万回と生まれ変わって現在の生があるのだと思っています。そしてそれは完成するまで終わらないのだと思います。

私は自分が何世代も前から神を追いかけていたことはわかります。バガヴァッド・ギーターも、「前世で聖なる意識をもっていた徳により 彼は我知らずヨーガの思想に惹かれる」とあります。周囲と同じような生活をしてきたのに、周囲にはまったくこの知見について考える人間がいないのに私だけが考えてしまうのは、私から発端されたものではなく、神が信号を送ってくれているからだと思っております。友達はおろか、同じ家で育った姉にもこれはありません。

私が、私の中にある良心や、発想や、能力や、あるいは愛は、神からきていると思っております。誰かに手を差し伸べたりすることすら、私ではなく神がやっていると思います。中国の儒教者、王陽明が言っていたように、人間の胸の中には光の球体のようなものがあって、真実を見極めるためのセンサーのような働きをするものが用意されていて、これを頼りにしながら、我々は一つひとつ階段を上っていくように思われます。神は唯一これだけを自分の子に与え、これを手引に旅をしろと言っているように思います。その証拠に、人を傷つけたり、盗みを働いたりすると、心が痛くなります。あるいは心の中でさえ、悪いことを抱いたり、不機嫌だったり、毒ガスめいたものを振りまいていると、この波動に適応するように外側に惨憺たる事態が表れます。後ろめたい気持ちからお天道様も直視できなくなり、自分で自分を破壊していってしまいます。それは何度も身をもって私は体験してきました。もしこの世界に法則があるとすれば、唯一この法則だけだと思われます。人間が作った法則とちがって、一片の瑕疵なく働いて、目には見えず、条文もどこにも記されていないけれど、確実に存在していることはわかります。肥田先生は「私は私の精神を以て、直接、法則理法の玄妙に触れて、物理化学的秩序の厳正なることを観た。」と言っております。

宇宙間の一切は、ことごとく一つの理法の下に支配されている。原爆、水爆が出来るのも、それは人間の力ではなく、天地の理法をみとめ、これに則り、これを活用したまでである。物理現象界には厳然たる理法があり、秩序があるのに、これを支配する精神界が、無秩序、乱雑に放置されているということは、あり得ない。科学を推進すれば、哲学の領域に入る。哲学を推進すれば、宗教の領域に入らざるを得ない。科学と宗教とは一理を以て貫かれている。ここに、科学的宗教がなければならない。宗教は、最高の世界である。宗教の世界は最も厳粛である。然るに宗教家の中には、神の名をかたって、人を欺き、自ら生神様だとして、病める者、悩める大衆から浄財を搾取し、金殿玉楼に優遊して居る。宗教法人の認可を持たなければ『他人を欺罔に陥れて、財物を騙取したる』詐欺罪として監獄に打ち込まるべきものである。しかし私は、彼らを悪むというよりは、むしろ憫然たる感があるものである。何となれば、彼等は、厳たる法則的神罰を免れないからだ。

科学は日進月歩の発展をしているのに、宗教は、宗教家がでたらめをやっているので、進歩が止っている。精神界においても厳然たる因果律方程式があって、人間の行為、思想、思惟、感情に至るまで、悉く、厳正に審判され、しかも、それは、キリスト教にいうような『最後審判』などと云うのでなくて、時々刻々自己清算されつつあるのであって、人はその厳正なる清算書を持って、死の門をくぐって行くのである。宇宙は進化しつつあり、瞬間もやまぬ生々化育の働きをやっている。物質界のみならず、精神界にも、厳粛なる秩序が貫かれている。

宇宙理法は、物質界精神界を一貫して厳存し、人間の行為、行動、思惟、思想、感情に至る迄、悉く、彼自らが、時々刻々、法則的に、精算、審判せられつつあって、死ぬときはその無形の判決書を以て、死の門をくぐって行くのである。神は愛の神であると同時に、智の神、また正義の神である。宗教の世界は、科学の粋であり、その厳正さは、数学的である。奇を求めるのが、人間の興味心からであるから、諦める外はない。科学理念に反した宗教などは、凡て錯誤か虚偽である。科学の究竟、科学真の極致が宗教である。真宗教の実体は、数学的厳正である。神の数字は、御利益の出鱈目で、乱されるものではない。

中略

私は私の精神を以て、直接、法則理法の玄妙に触れて、物理化学的秩序の厳正なることを観た。物質以上精妙な生命精神界が、無秩序、乱雑に放置されて居る筈は無いのである。茲に私は、精神界にも厳然たる法則が存在して、其れは正確なる神の数字を以て、処理せられて居ることを、確認したのである。

『機関誌 聖中心道』「聖中心道NO.3中心帰一の根本道」「宇宙倫理の書(一)序論」

出口王仁三郎聖師はこう言っています。

この現象世界のことをウツシ世という。それは、実体界を映写した世界という意味なのである。しからば実体界とは何か、という問題がおのずからおきてくるが、わかりやすい言葉でいうと、実体界は「精神界」ということである。たとえば、人が激昂して相手をなぐるとすると、激昂することが精神界の働きであって、なぐるということが現象界の働きになるのである。大宇宙間に起こるもろもろの現象は、実に複雑きわまる関係におかれているものであるから、簡単な人間の推理力で、その奥底を把握することは不可能であるが、すべて精神界に起きたことは、あるいはその形を変え、その過程を違えることはあっても、かならず現象界にことごとく映写されるものである。

『出口王仁三郎の「食」と「健康」論 』〔『愛善健康法』「病気は心の悩みの反映」〕

私はこの世に偶然が一つとしてあるとは思えません。我々はいつも宇宙裁判所の法廷に立たされていて、ありとあらゆる行動、一分一秒、一挙手一投足、心に思うことまで、すべてが神の秩序のもとに完全なはかりにかけられていて、人は自分が撒いた種を収穫する運命から逃れられないのだと思っています。山岡鉄舟は、弟子が刺客に闇討ちされたときに、「敵をとりましょう」と別の弟子に催促されましたが、「罰ならもうくだっている」と言い、弟子たちの仇討ちを咎めました。私も、悪事はその人のもとに同時に罰は下されていると考えています。やれ復讐だの警察だの裁判だの言ったところで、人が人を裁くことなんてできはしないし、その無意味さといったらありません。自分もまた悪の波動に侵食されるだけだと思っています。私が誰に何をされても仕返しをしない理由の一つがこのためです。友達が出会い系の女に5万円ぼったくりにあって相談された時、私は山岡鉄舟の真似をして、「罰ならもうくだっているよ」と友達に話しました。この法律を本気で信じるかどうかで変わってきます。過去の私のように、もし道路にタバコを捨てても何も思わなくなるほどになってしまったら、それは地獄以外のなにものでもありません。頑固な人には、自ら招いた難儀がいちばんよい教師になるにきまってます。宇宙には生命の前進を促す生成化育のエネルギーしか流れておらず、妬み、嫉み、僻みなどの消極的な心は悪であり、宇宙の流れに順応しないものはすべて悪だと言っていいと思います。

私は20代後半まで、運転しながら道路にタバコをポイ捨てしていて、高校時代はゲームキューブを万引して換金して、ウニをたらふく食べていました。雨が降った日は他人の傘を盗んで帰るのが当たり前でした。誰に裁かれるということはありませんでしたが、これらが今自分に返ってきていることがわかります。悟りが神の恩寵によってもたらされるのであれば、神は私の頭をグイっと自分に向けて存在を見させてくれるという恩寵を与えてくれたけれども、未だそれ以上先へ進めずにいるのは私の怠慢が大きな理由ですが、こういった諸々のカルマも手伝っていると思っています。私はもう二度と地上に生まれてきたくはありません。できるなら今すぐ去って、すべてがすべての意味で消滅してくれたっていいのですが、それでは終われないことはわかります。

上述のヨガナンダ先生の講話にもありましたが、またラマナ・マハルシも話していますが、人間は自殺すると、はるかに低いステージからやり直すことになり、次は霊的成長を胸に秘めた人間として生まれくることがかなわないどころか、人間として生まれてくることすら難しくなるとのことです。別に人間として生まれてこなくたっていいように思いますが、それでもこの旅は続いていきます。ずっとずっと昔に歩いた道をまた引き返して、また人間になって、それからまた何度も生まれ変わって、また今回のような自分として生まれ、今より5年10年前に闘った問題、今日や昨日闘った問題と闘わなければならなくなるのです(と言っています)。こんな屁理屈はタバコと一緒に道路に捨ててしまえばいいと思うかもしれませんが、私はどうも無視できません。何度も越えてきた、あの死にたくなる夜をまた越えねばならないと思うと、末恐ろしくなります。私は今回の生で決着をつけなければなりません。

坂本龍馬は誕生日の33歳に亡くなり、コービーブライアントはバスケット選手としてすべてを手に入れて間もなく飛行機事故で亡くなってしまいました。ヒトラーも演説中に10回以上も爆弾を仕込まれましたが、なぜか爆発せず、壇上から降りた直後に爆発することはありました。ナポレオンは「死なぬときは千の銃弾を前にしても死なぬけれど、そのときが来れば一匹のハエによって滅びるだろう」と言っていますし、ラマナ・マハルシは「肉体の通り抜ける感覚が決まっていないはずがない」と言っており、シェイクスピアは「木の葉の落ちるタイミングですら決まっている」と言っています。空海や中村天風先生は、人の生き死にの時間を言い当てて周囲を驚かせました。見えていなければ言い当てられることはありません。ずっと昔の話になりますが、25年前、ちょうど私の家に遊びに来ていた従兄弟の5歳の女の子が、「ねぇ、どうしておじいちゃんの顔だけないの? 真っ黒になってる」と言って周りの大人達を困惑させましたが、どうみたって祖父の顔はそこにありました。しかしその晩、祖父は亡くなりました。子供にはこういったことがあるようです。

彼らはアバターといって特別な任務をこの地上で遂行するために遣わされ、地上での仕事を果たしたら天に還っていくと言われていますが、一般人だって似たようなものだと思います。それぞれ役目をもって生まれてきて、果たしたら去らなければならないのだと思います。

私の父は、1月24日に、とある住宅の屋根で電気工事をしているときに落下して亡くなりました。私はどうやったらあの1月24日は防げただろうかと、当時からよく考えてましたが、やはり事前に知っていたとしても、避けられないものだったのだろうと思っております。訃報を聞いて、すぐさま二つ離れた県から駆けつけた父の姉は、「これは運命だったんだね」とポツリとこぼしましたが、そのときは怒鳴りつけてやろうかと思いましたが、父の学生時代、毎日お弁当を作り続けた姉は言う資格があると思いました。

人の生き死にが運命だとしたら、人の出会いも運命だと思っています。いま現在われわれの周囲にいる人は、過去世で出会った人間だと言われております。ネットといえどもその効果は波及しており、私のブログを読みにくる人たちですら、偶然の皮を被った必然だと思っています。私は人間の出会いに偶然はないと思います。今の両親のもとで生まれてきたのも、自分が望んで生まれてきたのだと思います。私はどんな職場に行ってもかならず嫌な人間にあいますが、どういうわけかその相手はいつも同じタイプです。こんなネットの隠れ家みたいな場所に逃げ込んでみても、そういった人間とぶつかります。そして彼らの中に自分を見ます。まるで私自身が変わるまではいつまでも追いけてくる、神が指揮棒を振って彼らを飛ばしてきているようにしか思えないところがあります。

人生の中で特別に親しくなる間柄、1000字以上話す相手など、そう多くありません。我々は本当にわずかな人としか会いませんし、話しません。いつだって会うのは決まりきった相手です。どうしてもぶつかってしまう相手というのは、過去世で乗り越えられなかった人間がまた立ちはだかってきて、克服するまで何度も出会ってしまうのだと思います。私は、何度も何度も同じ人間に出会っているように感じます。もっと言えば、本当は他人など存在しなくて、問題集が擬人化している幻とすら思うことがあります。斎藤一人さんも、夫婦は世界でもっとも相性が悪い者同士が結びつくようになっていると話していますが、それはネガティブな意味ではなく、その人の前進においてなくてはならないから、神の磁力が働いて結びつくのだと思います。夫婦が別れないのはそのためだと思います(別れていますが)。子供だとか、経済的な問題よりも、魂のレベルで、義務を果たさなければならない、克己心のためにつながり合っているように思います。樹木希林さんも「(内田裕也さんと)来世で出会わないために、今完璧に付き合っているのよ」という言葉を残しております。

以上、カルマについてお話しましたが、聖女アンマは、「カルマについては人間が把握できる程度をこえているから考えなくてもいい、それよりも真剣に神を求めなさい」と言っています。神が見ているのは行為ではなく、我々の心の内側だということです。外面的なアクションの問題ではなく、真に試されているのは心、そしてそちら側の方が真実だという話です。

さて、ここから質問者さんの質問に対する私の答えとなりますが、ヨガナンダ先生は上記の引用では赤ん坊を例にお話されていましたが、これは動物にもあてはまると私は類推しています。

スキー事故で脊髄損傷、脳性麻痺で生まれてくる子供、ギリシャ数学者ヒュパティアの非業の死。すべてを手に入れているように見える芸能人の自殺も、これもアンチのせいだとか云々騒がれていますが、これもまたどこからくるかわからない苦しみによって起こっていて、彼らは原因不明のよくわからない苦しみから逃れるためにその手段を選ばずにはいられなかったのだと私は考えています。私もまたどこからやってきているかわからない苦しみに悶える夜があります。これはカルマによるものだと思っております。

うちのように可愛がられる猫もいたり、道路で轢き殺される猫もいたり、愛される猫もいれば、愛されない猫がいます。目が違います。人間と同じように、物乞いのような品性のない猫は煙たがれ、YouTubeで人気のもちまるはあんなにチヤホヤされています。もちまるは、ああいうふうに表舞台に引き出される運命にあった猫だったと私は思っております。そしてもちまると出会った主人もまた、前世の徳からきているように思います。

うちも猫を一匹飼っていますが(レオンヌ チンチラゴールデン 10歳 オス)

レオンヌは、前世で人でも殺して猫に生まれてきたのか、宇宙裁判で有罪判決を受けて人間から落第してきたのか、ホームレスのような見た目で路地裏で横たわり誰からも排斥され、愛に飢えてこんな可愛らしい見た目になったのか、あるいは魚だったけど順当に四足動物に進歩したか、私のようにダラダラして生きていたからか、目は変わらない、とヨガナンダ先生は話していましたから、目を覗き込んでみましたが、よくわかりません。無垢な目です。無垢としか言えません。人間より無垢な目です。

私がレオンヌを見ていて思うことは、愛を学んでいるのではないかと考えます。過去生で愛し愛されなかったから、こうして無垢な生き物に生まれ変わって、愛を学んでいるのかなと思ったりもします。悪いことをしたくてもできない、せいぜいできることは、買ったばかりのカーペットで爪研ぎをするくらいです。人間と比べると、良いことも悪いことも含めて可能性をぜんぶ閉じられてしまっている。狭い可能性の中で、ただ愛だけに焦点をあてられて生きているように思いました。

私は、人間は、盗み殺しや、自ら命を絶ったり、動物を殺して食べてばかりいると畜生に成り果て、屠殺される動物側に転生するのではないかと考えているところがあります。まるで彼らが刑務所に服役しているような言い草となりますが、屠殺のような非人道的な行為が許されていいはずがありませんが、彼らがその行為をうけるにあたった因果があったのではないかという見方をしているのは事実です。これはヨガナンダ先生が書き残したわけではなく、私が勝手に導き出した類推ですが、バガヴァッド・ギーターにはこのように記されています。

嫉妬心 羨望心が極めて強く 他者に害毒を与える最低の人間どもを わたしは繰り返しくりかえし物質界の魔族の胎内に投げ入れるのである

魔族の間で再生を繰り返す彼らは アルジュナよ 決してわたしに近づくことはない 彼らは次第に下方に沈んで行き ついには最も忌まわしい形の存在となる

出口王仁三郎は以下のように言っています。

一切のものは輪廻転生の理によって形を現わしておる。動物は畜生道に堕ちた霊がそこに現われておる。故に動物は向上して人間に生まれ変わろうとの希望をもっておるものである。愛護されておる動物、虐使されている動物、一見はなはだ不公平の如く見えるが、虐使されつつある動物は、その修行を経ねば向上することができないようにできておるのであるから、人間がことさらに愛護するということになれば、修行が完成せられないで、死後再び動物界に生まれ来て、修行の仕直しをせねばならぬことになる。故に形から見れば愛護であっても、その霊性から考えると一種の虐待になる。今日の世の中は動物愛護よりも、神の生宮たる人間で畜生道に堕ちようとする危険のものが沢山あるから、この方を救うてやることが、より急務である。動物愛護会などは形に囚われたる偽善である。いかんとなれば多くの人はそれを食い物にしようとしておるから。

しかし、一方で、出口王仁三郎はこう言っています。

神様は愛善の徳に満ち給うが故に、いかなる悪人といえども罪し給うようなことはないが、人間の怨霊くらい恐ろしいものはない。故に人間は人間に対し、仮にも恨まれるようなことはしてならぬ。どこまでも愛と善とを以て地上一切に対すべきである。人間の怨霊が、猛獣、毒蛇となり、その人に仇を報いたり、あるいは牛となって恨みの人を突き殺したりして、禍いを加うるのであって、神様が直接に罰を蒙らせらるるようなことは全然ないものである。仁慈無限の神様は、総ての人間が、私利私欲の念より相争い、相殺し、恨み恨まれ修羅、餓鬼、畜生道に堕ち行く惨状を憐れみ給うて、至善至愛の惟神の大道を智慧暗き人間に諭してその苦しみを救わんがために、神柱をこの地上に降し、誠の道を説かせ給うのであって、実に有り難き大御心である。

冷酷な言葉のように聞こえるとは思いますが、出口王仁三郎は動物を哀れみ、蚊一匹殺さないばかりか、動物と意思を疎通することができ、動物と会話した様子を日記に書いております。自身も一匹のハエに変身して、弟子たちの周りを飛んで驚かせたといいます。

さいきん読者さんから寄せられたコメントにも、同じ趣旨のことが書かれています。

私は特に神道に傾倒しているわけでなく、神と云われている存在達も創造主のマウスピースの1人にすぎないと考えております。

仕事で相手の肉体や霊体をエネルギー的に視ていくと、明らかに人と食べられた動物の霊体や潜在意識が合一化しているなと感じる場面が多々ありました。

そこに言及しているスピリチュアル的な書物は殆どなかったのですが、天照大神が言及をしていたので取り入れた感じです。

食べると、獣の精(おそらく霊体や潜在意識)や憑き物がつくだの魂と獣の霊とが合体化し来世は獣の世界に行くとかなり厳しく書かれており、私的にはかなり腑に落ちたので取り入れた感じです。

しまるこさんも過去の記事で一般的に肉をガンガン食べてる人を見ると豚に見えると仰ていて、かなり感性が鋭い方だなと思った次第です。(肉体的なものだけでなく、潜在的なエネルギーも見ているのでしょう)

私はYouTubeを見ていて、とある大食い系YouTuberの顔が、単純に豚に似ているなと思っただけなのですが、YouTubeを開くとなぜかおすすめに上がってくるので目に入ってしまうのですが、新しい動画のサムネイル画像を見る度に、牛に似ていっています。肉を食べていると、黒目が小さくなり眼球が上昇し、三白眼となります。また、鼻先辺りからぐわっと昇ってくるような動物臭のようなものが発生しているのが画面越しからもわかります。それは自分自身に対して確かめられるものであり、肉を食べた晩の翌朝というものは、顔は腫れぼったくなり、上記のような現象がわずかながら起こります。

動いている生き物は、少なからず、尿酸をはじめとする毒素を体内に残します。その肉を食べるということはその毒素まで吸収することになり、血液が粘っこくなり、そうした血液の異常が、現在はびこっている病気の原因となっています。また、人間の血液は、怒りや恐怖によって色が変わると言われていますが、動物もまた殺される瞬間、恐怖や憎しみによって、血液がドス黒く変色し、その状態となった屍肉を、私たちは食べることになります。

私は、彼らの肉には人間に対する恨みが宿っていると考えています。思想とは強烈なもので、昔はあれだけ大好きだった肉を見るのも食うのもイヤになってしまったのは、こうした宗教上の理由が大きいですが、とうぜん彼らが可哀想だという思いも持っています。普通に考えて、動物を殺して食うなんてことは最低と言わざるをえません(まぁ、たまに食ってますが)。人殺しと同じです。では植物はいいのかという話になってくると、ややこしくなってくるのでここではしませんが。彼らがこうして食べ物になってくれたのだから、「いただきます」と手を合わせて感謝をしていただこうというのも、間違っていると思います。甲田先生も「食われる方の身にもなってみろ」と吐き捨てています。彼らは決して我々に食べられるために生きているのではないのだから。それに比べると、果物などは、よく熟して豊満に実ったそれは、色艶や芳醇な香りを振りまいて、まるで人間に食べてもらいたがっているようにも感じます。

私は、彼らのことを想い、心を痛め、彼らを救い出そうと活動している方たちのことを尊敬しますが、私はそこまでやろうと思った事はありません。私は自分のコントロールできることだけに目を向けて、自分のコントロールできないことは心を用いないように努めているところです。すなわち肉を食べないということです。捕殺されている動物たちよりも、現代に生きている人間の苦しみの方が大きいと言うつもりはありませんが、私たちもまたこの地上という檻に閉じ込められているという意味では同じだと思っています。欲望の網に捉えられ、さまざまな心配と焦燥に右往左往し、情欲と怒りに惑乱して、神を軽蔑して見向きもしない、誰もがすべての行動が不安から出発し、自分の撒いた心労を刈り取るのに疲弊しています、私は神以外にこの不安から逃れられるすべはないと思っております。ヨガナンダ先生の話す通り、神だけが唯一の救いで、それ以外は苦しみを味わうだけだと思っております。

今話題に上がっているあの女性も、「私は誰にも愛されなかったんだ」「寂しい」と泣いていましたが、一緒に生活をしていて、誰にも愛されなかったと言わせる男の方こそ問題があるのではないでしょうか。裁判で有利に進めるための証拠となるように動画を隠し撮って回しているから、彼の方はただ計画通りにことを運ばせることしか考えていない口調でしたが、視聴者たちのコメントは「旦那様かっこいい」「こんないい旦那様を裏切るなんて」と持ち上げている始末です。これが地獄でなかったのなら何なのでしょう。彼女を全面的に擁護するつもりはないけれど、彼もまた然るべき報いを受けることになります。

こういったことはどこの家庭にも見られていて、つい最近、正月に実家に帰ったときも、隣の家から「わざとやってるんだよ!」とでかい声が聞こえてきました。後から聞いた話では、そこの家のおばあちゃんが便に間に合わなったようで、孫娘が怒鳴ったそうです。わざとやっていたとしても何だというのでしょう。たまに会うとニコニコして挨拶してくれる25歳くらいの孫娘なのですが、仕事柄、よその家に出入りすることが多いのですが、どこの家庭も似たようなものです。

私の家庭も例外ではありません。母と祖母の仲違いは凄まじいものでした。母は、私や姉や猫には、余り余るくらい愛してくれるのですが、どうしても祖母だけはダメなようでした。一応、料理を作ったり病院に送ったりと身の世話はするのですが、怒鳴るか無視するか、とにかく一日中、祖母のことが気に入らないようで、どれだけ心を入れ替えて向き合おうとしても、ぶつかってしまいます。たまにやってくる母の姉が、「お願いだから、猫(レオンヌ)にあげる優しさをお母さんに少しでも分けてあげて」という手紙が送られくる有様でした。祖母がいくらか認知症を患ってからよく喧嘩をするようになっていったのですが、たとえば祖母が朝、雨戸を開けるのですが、「雨戸を開けるのだけはやめて! 落ちたら危険だから!」と母親は気狂いのように怒り、祖母に約束させるのですが、それでも祖母は雨戸を開けてしまいます。母はいつも泣きながら怒っていて、私は「言っても無駄だから」と言っても、直接の子というのは、親の知性を信じてしまうようですね。期待を裏切られているところから発生しているように見えました。祖母も自分が悪いのは分かっているし、言い合いもしたくないから、つんぼのフリをしてやり過ごすのですが、そうやってつんぼのフリをしているうちに、本当のつんぼになっていってしまいました。

祖母はいつも一日中ベッドに寝てテレビを見ており(ただ眺めているだけです)、ただ痴呆を進ませていくばかりでしたが、とうぜん強いストレスを抱えていたことは見て取れて、夜になる爆発するのですね。夜中になると、しょっちゅう祖母は凄まじいうめき声をあげていました。私はむしろ家にいるより施設のほうが幸せなんじゃないかと思っていましたが、あれだけ苦しめられていても、施設には行こうとはしませんでした。施設に対して収容所のようなイメージを持っていたのかわかりませんが、どれだけ認知症を進ませても、土地に対する愛はあったようで、「ここはオラの土地だ、ぜったいにここからは離れない」と言っていて、施設に行ったその日の夜に、祖母は亡くなりました。

こうして書くと母を悪者みたいに書いているようで、私も嫌なのですが、母もまた苦しんでいました。料理を始めようとした瞬間に、フライパンを持ったまま動かず、急に崩れ落ちて泣いている姿も目撃しました。母は、今はまるですべての憑き物が取れたように、どこか赤ん坊のように無邪気になって、全身の力がなくなり、頭髪はすべて白髪となり、一気に老け込みましたが、しかし祖母が亡くなってからというもの、次は母がうなされるようになりました。夜中になると、阿鼻叫喚といっていいくらいに、助けてーーーー、うわあああああと、地獄の業火に焼かれたような声をあげます。それこそ、その声で身体が持ちこたえられず、死んでしまうのではないかと思うほどです。私は布団にくるまりながら、どうにかおさまるように必死に祈るのですが、しかし、この現象が私にも起こるのです。4、5回に一回くらいの確率で、私も恐ろしい夢を見て、これまで過去に一度もあげたことのない恐ろしい大きな声をあげて、自分の声で目を覚ましてしまいます。誰にも聞かれたくない恐ろしい声なのですが、姉も母も、昨日すごい声だったね、と私に笑って言いますが(お前も同じ声あげてるじゃねーか、と腹の中で思っていますが)、この恥ずかしさに慣れることはありません。出そうと思ったって出せない、恥ずかしい声です。姉にだけはこの現象は起こっていません。

この正月もうなされました。こうして一人マンションで寝る夜は大丈夫なのですが、実家の布団で寝るとうなされるのです。祖母の夢を見るということはないですが、ただただ最低最悪な夢を見ます。いつもだいたい殺される夢です。ひどい殺され方をします。夢といえども、そのときは本当に自分に起きていると思っているから、本当に何度も殺されているようなものです。

どこの家庭もこんなものだと思っています。大人は皆、乾いた涙の跡を隠せない顔をしているし、浮かれた顔をしている人だって、底を叩けば寂しい音を立てます。精力的に活動している人だって、 見たくないものから逃げるようです。恋人や夫婦はおろか、自分は誰にも愛されていないと感じている人がほとんどだと思います。この世は確かに辛いことばかりで、悲劇ばかりだから、せめてブログでは楽しい記事を書きたいと思っているけれども。「人間は泣きながらこの世に生まれてくる。阿呆ばかりの世に生まれたことを悲しんでな」というシェイクスピアの言葉はある意味真実だと思います、笑って生まれてくる赤ん坊はいません。

私を含め、動物以下の生活をしている人間が大半だと思いますが、霊長類の長として、霊的成長のための意志と能力が与えられているという点で、動物より人間のほうが優れていると考えています。私は彼らの執着心のなさは見習おうとはしていますが、こうした進化向上のための意志は、人間には誰にでもあるけれども、動物にはないように思います。人びとがいう、来世は鳥になりたい、猫になりたいなどと言った消極的な発言も私は好きではありません。

質問者さんは、動物は未来永劫捕食され続けるとお話されていますが、私はそうは思っていません。レオナルド・ダヴィンチは「動物を殺すことは人間を殺すことと同じである。人間がこのことを認識する日はいつか来るだろう」と言っていますが、私はそれほど遠い未来の話だと思っていません。今、様々な要因から、肉食とはどういうことか、考えざるを得ない状況にきているからです。

私たちは生まれたときから卓上に肉が出されているのが普通だったから当然ですが、日本の歴史から鑑みるに、むしろ肉食の時代の方が珍しいくらいで、「昔は動物を食べている時代があった」と言われる時代を、今生きているように思います。奴隷や魔女裁判と同じように。今は一人の少女を火炙りするなど、つらくってできるものではないですから。

今こうして平和になって、江戸時代も平和になった瞬間に文化が栄えていったように、急速な進歩を遂げています。大きな戦争によって、核によって世界が破壊されてしまう一歩手前になってわかったように、物質的繁栄も行き着くところまでいかないとわからないのではないでしょうか。しかし、昨今では自然食品や自然物ほど値が高く、重宝され、田舎暮らしやミニマリスト、物が我々に幸福をもたらすわけではないということに気づき始めている人が多くいます。過酷な労働も見直されてきて、ひいては、ベーシックインカムや、あくせく働いている手を止めて見直す時間や、静謐な、瞑想的な時間が誰にでも与えられるようになり、精神的方面へシフトしていくと考えております。この欠乏感の正体に気づかないほど人間は愚かではなく、幸せとは何かと考え直す時が今来ており、そういった本がよく読まれるようになってきています。

全体から見ればまだ少数かもしれませんが、健康面からの見直しもされてきています。肉食による血液障害のために、若くして脳血管障害、糖尿病、40〜50代の大腸がん罹患する人は多いし、その肉に大量にふりかけているホルモン剤によって、女性の乳がんの多発、不妊、男子の精子の減少といった女性化現象も起きています。西洋の真似をして肉食を始めた日本人ですが、その原型となったアメリカでは肉食が見直されてきています。真似から始まったものですが、今では日本人が世界でいちばん肉を食べているとのことらしいです。ピンボールやらインベーダーゲームやら、日本にはアメリカの文化が10年遅れでやってくると聞いたことがありますが、アメリカが菜食になればなるほど、日本に浸透されると思われます。日本は世界を代表する神国であり、決してアメリカに遅れをとる国ではないですが、今はどうしても通らなければならない道を歩いている過渡期にあるように思います。日本人には神性と徳性が遺伝子に深く刻まれており、このままアメリカのものまねで終わる国とは思えません。

解決は明白で、年金も廃止して、ベーシック・インカムにして、地産地消にして、肉食も廃止して、アメリカとも手を切り、学校教育も昔の寺小屋のように儒教や道教やらを教える、うるさい反対派を無視して決行してしまえばいい話なのですが(本当は国民全員が総出で嘆願しなければならないくらいなのですが)、「最悪の策とは、ほとんど常に、もっとも臆病な策である」とナポレオンが言っているように、無知な民衆を前に臆病風に吹かれ、後手、後手となっています。

しかし、これから人類は霊的進化を遂げていくことは、多くの聖者は予言しています。ベーシックインカム云々はヨガナンダ先生は話していませんでしたが、地球上の人間たちは霊的能力に目覚め、宙を浮いたりテレポートしたりする人ばかりの世の中になると言っております。肥田先生は神通力によって人類の未来を見て、そのあまりの絶望して、紫色の大気球となって天上界に戻られましたが。Amazonオーディブルの『自己鍛錬記 第四巻 実録 今を生きぬく中村天風先生の教え』では、中村天風先生が霊視によって見た未来を語っている項目がありますが、それらはすべて当たっています。第二次世界大戦が起こること、その結末、その後の復興や、今現在に至るまで、そして天風先生もこれから人びとは精神的方面に目覚めていくことを予言しております。出口王仁三郎もすべて言い当ててました。私はそれに驚愕して、彼らの言葉が信じるに足ることを証明するために記事を書いたのですが、どうにも消してしまったのか、見当たらなくて、紹介できず、残念です。

最後に、希望的観測に聞こえるとは思いますが、話をごった返してしまうようで恐縮ですが、これは私が勝手に感じてしまうことですが、人類全体は背後にある電気的磁力によって動かされているように思います。我々が地球を動かしているのではなく、地球が我々を動かしており、地球自体も年を取って、考えや企みがあるような気がして、霊性と太陽系の周期はつながっているように思います。人類の繁栄と衰退も、我々が思っているより、この影響が大きいように思うのです。つまり、徐々にですが、知らずして、人類は霊性に目覚めていくように思います。その過程で肉食の文化も終えると思います。立証になるとは思えませんが、これについて科学的に考察しているスリ・ユクテスワ(ヨガナンダ先生の師)の文献を紹介して終えようと思います。私もほとんど意味はわかっていないのですが。

さて、天体の周期に基づく”ユガ”(期、宇宙的季節)に関する数学的計算によれば、この世界は現在、ドワパラ期にはいっており、今年(西暦1894年)で194年を経過した。そして、この時期の影響を受けて、人類の知識は急速に発達しつつある。

われわれの太陽系において、衛星は惑星のまわりを公転し、惑星はそれらの衛星を従えて自転しながら太陽のまわりを公転しているが、東洋の天文学によれば、太陽にはまた、対の関係にある星があって、太陽はその星のまわりを、惑星や衛星を従えたまま、一周につき24,000地球年の速さでまわっている。天体のこの運動によって、天宮図の分点は後退しながら移動する。太陽はまた、もう一つの運動をしている。すなわち、ヴィシュヌナビーと称する宇宙大中心のまわりをまわっているのである。このヴィシュヌナビーは、創造力ブラッマ(宇宙磁気)の座である。ブラッマは、ダルマ(内的世界の精神的徳性)に影響を与え、これを支配している。

太陽が対の星のまわりをまわりながら、この宇宙大中心ブラマの座に最も近い位置に来たとき(これは秋分点が牡羊座の始点に来たときにあたる)、精神的徳性ダルマは最高に発達し、人類は、すべてを宇宙霊の神秘までも会得するようになる。

「20世紀の初めには秋分点は乙女座の恒星の位置に来るが、それは上昇ドワパラ期の初期にあたる」

それから12,000年たつと、太陽はその軌道上で、宇宙大中心ブラフマから最も遠い位置に来る(これは秋分点が天秤座の始点に来たときにあたる)このとき、精神的徳性ダルマは最低となり、人類は物質を超えた形而上の存在を何も理解できなくなる。同様にして再び、太陽がその軌道上を宇宙大中心に最も近い点に向かって進みはじめると、精神的徳性は発達しはじめ、12000年後に再び最高潮に達する。

これら各々の12,000年という期間は、外的な物質世界にも、内的な精神の世界にも、根本的変化をもたらす。そして、交互ついに働く一対の偶力のように周波を形成し、それぞれダイヴァ・ユガと呼ばれる。こうして太陽は、24,000年で、その対をなす星のまわりを一周して、12,000年の上昇ダイヴァユガと12,000年の下降ダイヴァ・ユガから成る一つの周期を完成するのである。

精神的徳性ダルマの発達は漸進的で、12,000年のダイヴァ・ユガは四つの段階に分けられる。まず、最初の1,200年間(その間太陽は、その軌道の20分の1を進む)をカリ期という(天宮図参照)。この期間は、精神的徳性ダルマの発達の第1段階で、4分の1だけ発達する。この間、人類の知能は、このたえず変化する創造活動のいちばん外側の世界である物質界しか理解することができない。

次の2,400年間(その間太陽は、その軌道の20分の2を進む)をドワパラ期という。この期間は、精神的徳性ダルマの発達の第2段階で、半分まで発達する。そして人類の知能は、この物質界をつくり出している原理である精妙な“電気的力”を理解する。

次の3600年間(その間太陽は、その軌道の20分の3を進む)を、トレータ期という。この期間は、精神的徳性ダルマの発達の第3段階で、人類の知能は、物質界をつくり出している精妙な電気的力の、そのまた源泉である聖なる’磁気的力’を理解する。

最後の4800年間(その間太陽は、その軌道の20分の4を進む)をサティヤ期という。この期間は、精神的徳性ダルマの最盛期で、人類の知能は、宇宙のすべてを――現象の世界を越えた宇宙霊なる神をも――理解するようになる。

秋分点が牡牛座の始点にあった西暦紀元前11501年から、太陽は、その軌道上で宇宙大中心に最も近い位置から、最も遠い位置に向かって移動しはじめた。そのため、人類の知能は衰えはじめた。それから4800年間、太陽がその軌道の20分の4を通過し、下降サティヤ期を経過する間に、人類は、霊的知識を理解する能力を失うようになってしまった。

次の3600年間、太陽が下降トレータ期を経過する間に、人類は、聖なる磁気的力に関する知識を理解する能力を失った。その次の2400年間、太陽が下降ドワパラ期を経過する間に、人類は、宇宙の精妙な電気的力に関する知識を理解する能力を失った。そして、つづく1200年間、太陽は下降カリ期を経過して、ついに、太陽の軌道上で宇宙大中心から最も遠い位置に達した(このとき秋分点は天秤座の始点に来た)。そして、人類の知能は最低に衰え、物質界を超えた存在について、何も理解できなくなってしまった。したがって、この時期すなわち西暦500年ごろは、カリの、そしてまた24,000年の周期の中の、最も暗黒の時代であった。歴史は、このインドの聖賢たちの計算の正確さを裏書きするように、当時あらゆる国々をおおった無知と不幸を記録している。

中略

西暦499年以来、太陽は宇宙大中心に向かって進みはじめ、人類の知能も再び発達しはじめた。しかし、上昇カリ期の1100年間、すなわち西暦1599年までの間は、人類の知能はまだ鈍く、物質を超えたいかなる“精妙な存在”をも理解することはできなかった。政治的な面でも、この間は、どこの国にも概して平和がなかった。

この時期につづく100年間の移行期(ドワパラ期に移るカリ期の薄暮期)にはいると、人類は、精妙な電気的力の存在に気付きはじめた。そして同時に、政治面でも平和が確立しはじめた。

西暦1600年ごろ、ウイリアム・ギルバートは地磁気を発見し、あらゆる物質の本源に電気が存在することを観察した。1609年には、ケプラーが天文学上の重要な法則を発見し、ガリレオは望遠鏡をこしらえた。1621年には、オランダのドレベルが顕微鏡を発明し、1670年ごろには、ニュートンが引力の法則を発見した。1700年には、トーマス・サヴァリーが揚水用の蒸気機関を発明し、それから20年後には、ステフェン・グレーが人体における電気の働きを発見した。

政治面においては、人類は互いに尊敬しあうようになり、あらゆる面で文化が発達しはじめた。イギリスはスコットランドを併合して強大な王国となり、ナポレオンは、彼の新しい法典を南ヨーロッパに宣布した。アメリカは独立をかち取り、ヨーロッパ各地は平穏になった。

科学の発達とともに、世界じゅうに、鉄道や電信網が敷かれるようになった。また、蒸気機関や、電動の機械や、その他種種の機器によって、精妙なエネルギーが利用されるようになった。――もっとも、そのエネルギーの本質については、まだはっきり理解されなかったが――。今から5年後、西暦1899年になれば、ドワパラ期の200年の薄明期が終わって、引きつづき2,000年間のドワパラ期の本格期に入り、人類は、宇宙の精妙な電気的力(宇宙電気とその属性)について十分な知識を獲得するようになるであろう。

以上、聞きかじったことをお話するまでです。質問者さんの参考になれば幸甚です。

すいません、書き終わった後に、質問者さんの質問を見直したら、自然界の草食動物たちが捕食されていることについて聞きたかったのですね。書き終えて気づきました(笑)

「肉食動物たちには生殺与奪の権利が与えられていて、我々は神の作った自然界の法則には一歩も介入できません。また、草食動物たちは神経が鈍感にできていて、我々が思っているほどに痛みを感じないように作られています。そうでなかったら、こんな酷い仕打ちを神が許すはずがありません」というようなことを読んだ本には書いてあって、確かヨガナンダ先生の文章だと思ったのですが。未だに見つからず、紹介できずにすいません。

確かに、質問者さんがおっしゃるように、人間の都合のいい解釈だと思われますが、私は想像力を働かせても、これ以上のものを見つけられそうにないので、ここで見切りをつけております(今回話したことを無理に当てはめるならば、彼らもまた人間だったと考えられるかもしれませんが)。本当に彼らが神経を鈍重に作られているとしても、人間と同じくらい痛みを感じるとしても、自然界は自然界で完成されており、人間が介入すべきではないと思っています。つまり、わかりません。

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