匿名
最近はめっきり出会い系の記事も見なくなりましたが、もう性欲やSEXとは決別されたんですか??
しまるこ
出会い系をやる事はもうおそらくないと思います。性欲は、完全にとはいかないかもしれませんが、ここ最近はずっと決別されていた感じです。
匿名
出会い系の記事、魅力的だったので少し残念です。
やはり霊的な進歩と肉欲は共存したり同時進行できるものではないとお考えですか?
聖も俗も両方持ってる、両方捨てない人だと思っていましたが…
しまるこ
さすがにもう年齢的なところから、マッチングしなくなってしまったので、現実的な理由で諦めたところはあります。1日中性欲によって悶えることも少なくなりました。食事と年齢からくるものだと思います。
食欲や肉欲からくる欲求と、神への欲求と振り分けて、ただ神の欲求だけに専念していこうと思っています。肉体の喜びに追いやられている間は、神を見出せないように感じております。
もし表現の上で必要であれば、下品なことをこれからも書くと思います。
匿名
現実的な理由も大きいんですね。
肉食が密接に性欲とつながってることは体感として分かりますよ。
たしかに霊性とほど遠い、くだらないものに振り回されてるなと自分でも感じる時がありますが、自分としては雄としてのアイデンティティをこのまま枯らして本当にいいのかという迷いや執着が相当強いんですよ。
19歳が理想という価値観に縛られてるとか、不美人ばかりと付き合ってきたからどこか自分の中で成仏できない情念がある、みたいなことを過去の記事で言ってたじゃないですか、
そういった情念は成仏or昇華できたんですか?今後後悔とかなさそうですか?
ズケズケ聞いちゃってすいません
しまるこ
確かに皆さんそう言いますね。生玄米菜食などをしていると、性欲が著しく減って、それどころか、いろんな欲求も減って、夢や目標に対する活動力までも落ちてしまった、このままで良いのだろうか? という不安の相談を受ける事は何度かありました。
私も同様な不安を抱くこともなくはありません。バガヴァッド・ギーターには、どれだけ欲求を克服しても、神を見出すまでは、それまで体験してきた欲求が、どうしても頭によぎり、知識という形で頭の中にこびりついて、完全に滅却できないと書かれております。
感覚の対象を見 また思うことで 人はそれに愛着するようになり その愛着によって欲望が起こり 欲望から怒りが生じてくる
肉体をまとった魂は 禁欲しても 経験してきた味わいを記憶している だが より上質なものを味わうことにより その記憶も消失するのだ。
私が神を求めているのは、幸せになるためです。食事やセックスの快楽は凄いけど、やっぱり今、今。ほんとに心から幸せと言えないこと。まぁ上級ミニマリストによる、燃費のいい欲求でもあるのですけれども、本当の意味で、本当にすばらしい、天を穿つような喜びを体験したい。そしてそれも、永遠の至福の喜び。もう食べ物とかセックスとかじゃ満足できなくて、本当の喜びに出会って、自分の中の不安を完全に拭い去りたいというほどまでに、欲望が膨らんでしまったのですね。 もし神にアクセスできるコツを自分の中で見出せれば、日夜、始終、ずっと至福に包まれることになります。また、その境地から発信される内容は、きっとこれまでとは比べ物にならない記事や動画になると思うのです。つまり、凄く強い贅沢な欲求からであります。出会い系でセックスしたとしても、また次のセックスのためにあれこれを業を燃やすと考えると、やはり燃費も悪いし、 まぁ3番目や4番目にそれを求めるのはいいかもしれないけれども、 私もセックスできるチャンスがあったら普通にしますが、一番は神ですね。
オスとしての意地や矜持とか言ったところで、何だかんだいって、やっぱり欲求のため、肉体的な感覚的な満足をさせるため、つまり喜びのため、心にハッピーを思わせるため、喜びとは幸せですよね、感覚がパーーッと気持ちよくなることを1番の目的としていると思いますが、そういう意味では私も同じです。その欲求としたって、すぐに終わってしまうものだし、もしそれより100倍も1000倍も大きな喜びがあって、それを一瞬じゃなくて常に永遠にずっと感じられるものだとしたら、そして聖人たちの言うように、その喜びに包まれていると、全く肉欲に対する愛着がなくなってしまうとしたら、どちらがいいかという事ですね。どちらが自由か。
そんなに、自分を喜ばせるために肉を食わないとダメなのか、セックスしなきゃダメなのか、もっと1番に、ただ幸せそのものに直接にアクセスできないものなのか、燃費の良い考え方です。そして喜びの正体が神だとして、幸せの正体が神だとして、「神を求める」というと、みんな、「?」となるかもしれないけど、「幸せを求める」というなら、みんな納得でしょう、みんな幸せを求めているのだから、幸せの正体が喜びなら、喜びの正体は神だとしたら、それは本当に、肉とかセックスのベールに包まれたものでなければダメなのか。
人間の正体は霊であり、魂を直接的に喜ばせる方法はないのか? 肉体的快楽と魂の喜びの違いは何か、魂の喜びとは一体どんなものなのか。結局はみんな肉体を楽しませることを一番にしていて、みんなの、どんな欲求も、やっぱり肉体です。幸せを求めて、いつもいつも金や女や結婚や仕事や車や家を求めて仕事をしているけれども、すべて、その金は肉体を楽しませることに使われています。金を持って何に使うっていったって、車だっていったって、いいパソコンだって、いいソファーに座るとか、ディズニーランドとか、モバイルバッテリーとか、キャバクラ、風俗、釣り、温泉、エアコンの温度が何度だとか、すぐにダラダラしたり、仕事をサボろうとしたり、YouTube、アニメ、採れたての野菜や玄米、ぜんぶ、肉体に根ざしています。仕事の対価として、これらの欲望を満たすのが順当だと思っていますが、これしか欲望というものを知らない無知なためでしょう。結婚も、多角的に見れば、将来に向けて肉体を満足させるためでしょう。肉体は、人間がこのかりそめの世界で活動するための器でしかないのに、その器を喜ばせたところで、幸せとは無関係です。喜ばせるどころか、喜ばせ方すら間違っているから、苦痛を招くばかりで、傷口を引っ掻いているだけです。
私も、なんだかんだ言ってセックスしたくなる時はあります。前のように、自分からガンガン外に求めてほっつき回ることはないと思いますが、37歳でそんなことしてるのもみっともないですしね。ただしかし、こんなこと言っていてですが、 可愛い子とセックスできるチャンスがあったらやったーーーと思ってセックスしますよ。
友人も結婚しましたが、いまだに学生時代にモテなかったものを引きずっているところがありまして、可愛くてエッチな子が気になって寝れない、可愛くてエッチってどういうことだろう? 可愛いのにエッチなんだぜ? ブスでエッチならわかるけど、可愛くてエッチなんだぜ? ブスでエロくないとかどうなるの? おい、聞いてる? 意味わかってる? わからねーわけねーか。ねぇ、どういうこと? 学生時代に制服デートをしたかった、体育館倉庫の中で跳び箱の中でフェラしてもらいたかった、とよく言っていますが、それは、そこそこ可愛い子と付き合ったり、結婚したり、散々セックスしたとしても、どうしても残ってしまうようですね。エロゲーやアニメに社会人が熱中するわけです。
私も出会い系でそこそこの女の子とセックスしましたが、同じような執着が残っております。これから私が19歳の、かわいい子に運よく出会って、そういう行為に励んだとしても、私が高校生じゃないから、 一緒に青春と言う形では、昇華できなくて。 結局今世ではどうやっても昇華できなくて、来世に持ち込まれてしまうとしたら、やはり神のレーザービームで全てを滅却するしかなさそうに思えるのです。 セックスの喜びを知らない人に向かって、セックスの喜びを説いたって、「?」となるだけですが、1度でもセックスの喜びを知ってたら、こうして質問の大きな要となってくるように、神の喜びを少しも体験できていないことが、そもそもの原因なのではないでしょうか。 もし質問者さんが神の喜びを少しでも体験できたことがあれば、そもそもの前提がまるで変わってくるのではないのでしょうか。私たちは神の喜びを見出せないがために、その代用品として、渇望感を埋めるために、肉や魚やセックス、あるいは他人や愛に埋めてもらおうとしているだけではないでしょうか。本当の本当の本当は何なのかというところですね。
ソクラテスの言う、「無知」とはこういうことでしょうか。この国は幸せの研究について遅れていると思います。幸せの定義すら曖昧で、我々はリードに繋がれた犬のように欲望をひっかけられている、他人の欲望が自分の欲望とはよく言ったもので、欲望らしいものを目の前にぶら下げられて、つまり洗脳されているだけではないでしょうか。神とか言ってる方がよっぽど洗脳臭いように思われるかもしれませんが。お金持ちはみんな幸せでしょうか。成功者はみんな幸せでしょうか。AV男優は幸せでしょうか。貧乏の成功者でないAV男優でない私が言うのもなんですが、私が見たところ、ヨガナンダ先生が1番幸せに思えるのです。ヨガナンダ先生も肥田先生も、その方法を私たちの代わりにたくさん考えてくれて、本に残してくれました。幸せになる科学的な方法がその本に書かれてあります。どうせ試したところで、失うものは何もないし、それで幸せになれたら、それほど素晴らしい事はないし、駄目だったら駄目で、またセックスに戻ればいいと思います。セックスの欲求をやっぱり大切に残しておきたいなら、残しておけばいいわけで、それは神を見出してから選択してもいいわけだと思います。中村天風先生は、そんな様子が伺い知れます。質問の答えとしては、神の喜びとセックスの喜びを比較して、その上で残したいものを残せばいい、ということになります。
神の喜びを追求することは、そんなにあてのない旅でしょうか。もしそれがほんとに人間にとっていちばん自然で、いちばん効率的で、いちばん帰るべき場所で、ややもすると、ちょっとコツを掴んで。あーこんな感じか。これか、これはすごい、これは気持ちいいぞ、となって。瞑想が最高の趣味で、最高の喜び、となって、一分一秒いつでもどこでも神と繋がれて幸福になれたら、これほどお金もかからないものはないし、簡単で便利なものはありません。私はそれを自分のものにしたいのです。まぁ上級ミニマリストのサガですね。おまけに、仕事も最高のパフォーマンスを発揮し、カルマも終えて、19歳とセックスするために、再びこのくだらない世界に戻ってくることもない。別に0か100かの話をしているわけではなく、10が15になるだけでも、少しずつ霊的進化を遂げて。その分、神の馥郁を感じられたら、その充実感を目安に進んでいけて、その上昇した分だけでも、それ以上の見返りは無いように思います。
私は欲望を捨ててストイックに取り組んでいるのではなくて、欲望がいっぱいで、幸せになりたいから取り組んでいるのです。そして、それは神しかないと思っているのです。神の子としての当然の権利で義務です。親は子の幸せを願うものだし、子は幸せになることが最大の親孝行です。そして、それを他者に分け与えることができたら、これ以上ないほど、私は最高の人生を生きたと言えるでしょう。
最近、同じような相談といいますか、最近の私の心境を聞かせてほしいという質問に対して、アンサー動画として語った動画があります。非常に長い動画になりますから、あまり気軽にお勧めできませんが、 もしよかったら見て下さい。
同じような質問を受けることがありますので、今回、この交わしたコメントを記事にさせてもらってもよろしいでしょうか? 最近更新できてないから、その間に合わせとして(笑)
匿名
まずこの凄まじい熱量のコメントを今すぐそのまま1本の記事にしたらいいと思いました。他の読者のためになるし、紹介されてたYouTube動画(見ました)の内容が文章として良くまとめられていると思います。
〉もちろん記事にしてもらっても大丈夫です。もし可能であれば以下の疑問にも言及してもらえたら嬉しいです。
・去年8月上旬頃にブフロンの影響で一時的に精神が覚醒状態になったという記事について。
あの時と現在を比べて、人生観に変化はありましたか?(起こる以前と以後を比べてどうですか?)
あれはきっかけが薬であれ、求めていた境地(大悟とか、動画で言っていた真の歓喜のようなもの)をついに体験したという感覚が文章から伝わってきました。つまりしまるこさんとしてはブログで当初から掲げていた悲願を達成したということだと思いますが、その後の様子を見ると以前とそう変わらない平常運転に戻っているように感じます。
僕の知り合いにも似たような体験(いわゆるワンネスを経験したと言えばたぶん伝わると思いますが)をした人がいますが、一時的に確かに物質的な価値観を超えたものに触れる、“悟る”ことがあったが、それで人生そのものが変わるわけじゃなく、物質的世界で日常を生きていく現実はその後も続いていくもので、浮世に生きている限り外的なものに振り回されることは人生通して避けられないから、いっとき神のレーザービームを浴びることが出来てもその後の人生としてはどうということはない、といったことを言ってました。
つまり、これまたズケズケ物申して恐縮なんですが、しまるこさんの目指す境地を見てみたい気もするけど、ヨガナンダの本などを見てると、人間というよりは文字通り霊界から降りてきた生き神のようですよね。魂の次元が違う存在に思えます。なので日本でそう一般人と変わらない生活をしながら過去の聖人のような境地に至れるアクセスコードを解明しようという試みは、できたら素晴らしい、でも実際のたころどうなんだろうか?という目もあるわけです。これは多分ですけど他の読者も少なからず感じていることと思います。どっちに転がっても魅力的な文章だから外野としては無責任に楽しませてもらっているけど、それはそうとて、しまるこ氏の目指す大悟というのは果たして…?という気持ちです。
失礼は承知ですがこれが率直な意見です。
答えられる範囲で記事にしてくれると嬉しいです。(無理なら無理でもちろん大丈夫です)
しまるこ
以前の薬の記事は自分でも恥ずかしいなと思います。三方ヶ原の戦いで惨敗し重臣のほとんどを無くし、糞便をもらして城に逃げ帰って、まずその情けない姿を画家に描かせたという徳川家康のように、まぁそれに比べるのもおこがましいですが、恥ずかしい記録として残しております。
あれは薬の幻覚でしょうね。あんなの大悟の1つにカウントしてはいけないですし、小悟ですらありません。無駄に文章を巧みに動かして、それらしく人に信じさせるのが少し上手いばかりで、詐欺師と同じ手段です。本来登るべき階段から外れて、近道をしようとして、余計に迷ってしまったというところですね。
悟っても日常生活は変わらないという趣旨の意見ですが、それは私はありえないと考えています。 神を知ればちゃんとはっきりと至福に包まれて、すべてが明らかになると思います。思います、としか言えませんが。彼らが奇跡を行えたのもありますが、私はなぜか本当に悟った人の悟った言葉というのはなぜかわかるつもりですので、もうこうなってくると、〜と思いますとしか言えない領域ですので、これ以上は語れませんが。
ヨガナンダ先生の言っていること、あまりにも遠く感じて、自分に置き換えて考えみたり、自分の日常生活に取り入れて実行してみようと思う人は少ないと思います。私の記事を読んでも、へーこんな人いるんだと言う感じで見ている読者が大半だと思います。それはそれでいいのです。私も誰かを変えようとして言っているわけではなく、これしか言えないから言っているだけです。盲人が盲人を導けるわけでもありません。ですので、私が神を見出しますとしか言えません。
匿名
なるほどそうでしたか、それならまだこの先に本当の希望があるかもしれませんね。
色々ケチをつけてしまってますが僕自身も悟りたい、できることなら惑わずに超然と生きたいと思っているところがあります。もっともこれは見栄や虚栄心かもしれませんが。
それでも彼等は聖人だから、自分たちは凡人だから、で片づけてしまっては確かに身も蓋もないですよね。
しまるこ
着実な一歩を、実感として掴めるように、心より応援しております。