霊的修行

静けさと変容について

午後17時。今日も今日とて、さっきから4時間ぐらいずっと横たわったまま、時間だけが過ぎていっている。

一応、午前中は活動的に過ごし、朝8時から9時までは公園の壁にボールを投げ込んで、9時から12時までは、ドトールで事務仕事などをやっていた。

んで、13時に家に帰ってきてからというもの、こうやって寝て過ごしているわけである。

一応、聖書を読もうと思っていた。他にも読みたいと思っている本はある。合気術道場で習ったことの復習、ボクシングでプロに勝つためのイメージトレーニング、絵の勉強などもやろうとは思っている。

先延ばし、先延ばしだ。

先延ばしをして、こんな文章を書いている。

今日は実家に帰ってきているのだが、実家に帰ってきても、生活スタイルは変わらないようだ。

夕食の時間はだいたい18時なので、 お母さんがご飯だよと言ってくるまで、あと1時間ある。あと1時間、何をすればいいんだろう。暇だ。

GWもこのまま突入していくことだろう。

運命論を肯定する人間は、自分の怠惰まで肯定してしまうから、神も救いようがないかもしれない。

ずっと横になっているから腹も減らないし、何を考えるわけでもない。ただシンとしている。

あまりにも長い時間をここで過ごしたので、この件に始まってこの件に終わるくらいのことはできそうだと思った。

というわけで、書くことにする。

これはずっと前から思っていたことだけれども、私たちは、いちばん最大の娯楽を、すでに手に入れているのではないかということだ。

漫画を見たり、何か、YouTubeでもいいし、PrimeVideoでアニメを見るにしたって、それらを二番手としてやっているということに、異を唱える人がいるだろうか?

まだ見ぬ最高の映画、エンターテインメント、もっと幸せな体験、見たことのない世界、愛、自由でも、よい。それらがどれだけ優れたものでも、二番手なのである。一番はすでにもっているのである。

おそらく、一番は、このシンとした空気。誰もが仕事から帰ってくると、まずはこの空気を浴びたくなる。

とりあえず、一呼吸。魚が海に戻るように、猿が森に帰っていくように、いったん、自分自身を整えるために、人は静かになろうとする。

部屋の壁をポーッと見たり、カフェでコーヒーを飲みながら窓の外の景色を眺めたり、考えているわけでも、感じているわけでもない、寝ているわけでもない、生きているわけでもない、死んでいるわけでもない、何もない、この言語に絶する時間が、誰の人生にとっても、過ごす上でいちばん長い時間になるのではないかと思われるが。総量として。

人が、ここを嫌いになることはない。どんな素晴らしい物語作品を見ても、5回も10回もみれば、それ以上見れたものではないけど、この時間は、千回、万回と、たった一日の中でさえ、何度と登場するかわからないというのに、飽きることはない。

いや、そりゃあ、たまには飽きるもので。飽きるから、それでやっと、なんか漫画でも見るか、primeVideoで新作のアニメを見るか、さーて、今期はいいのやってるかな? お、すばせかの3期がやってらぁ。転スラもやってるじゃん。なんて思うけれども。それでも、サッと視聴に移るかというと、そうは問屋が下さない。やはりまた、静けさの友となって、しばらく静けさの中に戯れて、それで、蓮の葉のしずくが落ちるような、あるいは母の服を掴んでいた赤子がとつぜん手を放すような、そんな自然現象のような、執着離れの到来を待つしかない。

わたしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、きれいにすきとおった風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。

と宮沢賢治が言っていた通り、少し意味合いは違うけれども、すでに第一級の味をしめているからこそ、そこからあえて自分からバランスを崩して、足を踏み外して、格下のものに手を伸ばしたくなる、というところがあるのではないか? 少なくとも、俺にとって、PrimeVideoはそういう位置付けにある。

優れた書物というのは、大喜利にしても、芸人のコントにしても、わりと、今、ここから、離れていない場合が多い。ゼロ地点と形容していいような、一つも離れないということはありえないかもしれないが、シェイクスピアの劇作に見られるように、この地点に近いほど評価が高いということになる。

「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」といった言葉も、ここからきている。人間のいちばん静かな部分と馴染むのだ。この静けさに普遍性があるから、そこから現れた言葉にも普遍性が宿る。とても静かで、とても多くのものを孕んでいて、シンプルさの中に、さまざまが含まれている。E=mc2とかも、そういうことなのかな? わからないけど。

優れた作品というのは、この静けさをそのまま形にしたものであろう。

外側にどれだけドタバタに見えるかどうかは関係がない。この起き畳の上に寝転がってシンとした精神が、そのまま作品になっているか、ということである。

人は、ここからきている作品にふれるとき、「よっこいしょういち」と、気合を入れて仕事に向かうような、そんな変化を迫られず、あくまで自分のその根源の状態のまま、そのままの自分のいちばん静かな状態のまま鑑賞ができるから、意識の上で、負担を迫られない(無論、シェイクスピアの作品なんて、難しくて見れたものじゃないけどね)。水の中で呼吸する魚の呼吸がそのまま続くのである。

これについて、吉本ばななは、とても興味深いことを言っている。

私は同じ時代を生きたというのに、もったいないことに知識不足で岡本太郎さんをそんなに大好きというわけではなかった。かの子さんの小説を好きだったので、かの子さんの息子さんとしてとらえていた部分の方が大きかったと思う。しかし、妊娠してつわりがひどく、いろいろなものを見たり聞いたりしても気分が悪かった時期に、なぜか岡本太郎さんの本だけは読むことができたのだ。不純物のないシンプルな文章だったからだと思う。吉本ばなな

木や石に勝てる作品など、ないのだ。

熊谷守一さんは、最高の絵とは何かと聞かれ、何も書いてない白紙の絵がいちばんいいのですよと答えた。

鳥山明の描くスライムやキラーマシンがどれだけ優れているといっても、神が作り出したイラスト、すなわちハチやキリンの造形美には敵わない。

私たちは、自然という、あらゆる中で、第一級の創作物に囲まれていて、我々の、この”意識”すら、自然の創作物であり、あらゆるものの中で、第一級にあたるものであって、無活動の中において、十分にこれを味わえるのである。

それでは、なぜ、その、安寧とも至福ともいえる、その万感の静けさから旅立っていってしまうかというと、時節の到来というものがあって、単に、人間の中の物質性からくるグナの推進力によって、動かざるをえないだけだ。

しかし、このまま、この静けさを保ったまま、作品を創らなければならないように、日常生活もまた、この状態で送らなければならないのである。それが禅であり、動的禅と言われるものだ。

白紙の絵のまま、ここから起き上がり、玄関を開け、外へ出ていく。そのまま影響を受けず、白紙のままあり続ける。

今、こうして話している、小生の書き振りからしても、いちばん、静かなところからきている気がするだろう? だから皆さんは、なんとか読み続けていることができるのである。この均衡をぶち壊そうとすれば、いつでもできる。

おっす!!!

それで!!! 吉本がバナナながーーーーーーー!!!!!!!!! うわーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! 

わあああああああああああああああああああああああああああああああああああああでね、岡本たろうが!!!!!!!!!!

わあああああああああああ!!!!

わーわーわーわー!!!!!!!

わーーーーーーーーーーー!!!!!!

わーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!

わああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!

わーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!

うわーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

静かになること、そう、静かになること。

すべての聖典は、静かになることを言っているに過ぎない。

静かと、うるさいは、対局にあるだろうか?

静かであることはそれ自体が真実であり、うるささの対極にあることではない。なぜなら、静けさだけが真実であり、その静けさに一つでも、異音が混じると、それだけで真実が妨げられてしまうからである。それほど真実は繊細なものなのである。静けさとうるささは対局にあるものではなく、おなじ線上にあるものではなく、真実とそれを破壊するものといった関係なのである。

先ほど、熊谷守一さんが言った、一枚の白紙の絵に、一線でも加えてしまうと、全てが台無しになってしまうように。

まるで、台無しになることを恐れるように、さっきからずっと横たわっている。

起き上がって、primeVideoを開いて、転スラや、すばせかを見たいのだけど、そうすると台無しになってしまうような気がする。

このままGWに突入してしまう気がする。

しかし、この静けさは、ここに留まるものではない。ここにだけ存在するわけではない。それは変容するのである。

さまざまな形を取り、さまざまな物の中に住み、たとえば、ボクシングをやるにしても、この寝転がってシンとした状態と、なんら変わらないことがある。どんなに激しい運動をしていても、この静けさと寸分の狂いがなく静けさを保っていられることがある。そうすれば、技術も完全である。

すべての技術といわれるものは、この静けさを問われているのであり、最も静かでいられる人、ボクシングをしているとき、部屋で転がってシンとなっている状態の変容になっていれば、完全というわけである。かの時代、宮本武蔵の素振りを見た人の感想が伝わっているが、「私には剣のことはよくわからないが、ただ、とにかく静かだった」とある。

下手な人ほどうるさい。我が、顔を出し、その繊細さが壊れていることに気づかず、異音だけが響くありさまになっている。そのまま気づかずにボクシングをする人がいる。音を奏でる人がいる。人と話す人がいる。上手いというのは、静かであることである。下手な人はうるさいのだ。

人と話すときでも、一線も加えず、何も加えず、一切のうるささを加えずに、そのままの状態で話すということは可能である。基本は、この部屋の中で最も静かになっている状態を最高として、その変容として、それぞれの技術、芸術、コミュニケーション、仕事、部屋を掃除するでもいい、この静けさを失ったとき、神から切り離されるのだ。

小生はそれを恐れて、なかなか、primeVideoに移れないのである。仕事もしたくないのである。

この静けさが全身に満ちて、完全に静けさの中に溶け込んでしまい、もうそこから帰ってこれなくなったら、すばせかを見るでもいいし、友達に勧められている病院で働いてもいいかなと思わなくもないが、なぜなら、その境地に至ったら、活動している間も、こうして置き畳の上に寝転がってシンとしているのと何も変わらないことになるからだ(働かねーけどな!!!)

しかし、まだ静けさと一つになれるわけでもなく、時間だけが過ぎていく。

そんなふうに思えるくらい、日常の中で、何かをすることが、その白紙の紙に、汚れが入るような気がして、このままゴールデンウィークも、起き畳の上に横たわったまま、過ぎてしまいそうである。

晩年の、ゲーテの夜の過ごし方などといったものは、ここに現れている。

彼(ゲーテ)はまた私にも、この二三夜以来全く眠れない、またちっとも食欲がないと訴えた。「この冬もこんな具合ですむだろう。」と、彼は言った。「何をすることも何を作る事もできやしない。全く精神に元気がない。」私は、そう仕事のことばかり考えないように頼み、きっとすぐ治るでしょうと言って慰めた。「ああ」と、ゲーテはそれから言った。「いらいらしてはいない。私はすでにこういう境遇をありあまるほど経験して来て、苦しむことも、耐え忍ぶこともおぼえている。」彼は白いフランネルの寝間着を着、毛布を膝と足との上にかけて巻いていた。「私はまったくベッドに行かないで、」と彼は言った。「こうして椅子に掛けて夜を明かすだろう。どうもうまく寝付けないから。」エッカーマン. ゲーテとの対話

いちばん最高のものをすでに手に入れている、ということは、とても素晴らしいことだ。人はみんな、少なくとも、このことには気づいていたほうがいいだろう。

いくらか低次な物言いで言い換えるなら、たとえ10億もらえる代わりに失明するといった条件を持ちかけられたとき、だれも首を縦に振らないように、もともと持っているものに対して、注意を払わないのだ。

じっさいは、どんな場合においても、自分がもともと持っているものの素晴らしさには敵わない。どれもこれも、二番手、三番手にもくだらない、あまりにも自分の持っているものの素晴らしさの中に溶け込み過ぎていて、初めての視点で、この素晴らしさを一目する機会を失っているだけだ。

自分自身が最大のエンターテインメントだ。熊谷守一さんは、その辺の庭の石ころを一つ手に取って、それを眺めて遊んでいるだけで1ヶ月は裕に過ごせてしまうと言っていた。それは、石も、目も、いちばん静かなのだ。

人と会うのが嫌だったり、出不精の人は、この静けさから切り離されるのが嫌なのだろう。

しかしまた孤独であることが耐え難いときが人にはあり、そういったとき、この静けさを保ったまま付き合える友に出会うと、たまらなく嬉しく思えるものである。

© 2024 しまるこブログ Powered by AFFINGER5