霊的修行

国会中継の大人が全員で自決したらいじめはなくなる

またいじめで中学生が亡くなったそうな。

いじめは絶対になくならない。こんな楽しいものがなくなるわけがない。

だって、大人がいじめをしているのだから。

みんな、楽しくて、楽しくて仕方ないから、いじめばかりしている。

Xで、いじめで子供が亡くなったことに対して、みんなで騒ぐけれども、そうしている間にだって、的外れなコメントをいじめる。

いじめをやめよう!と言っている連中が、行動を起こすたびに、誰かをいじめる結果になっている。

それを煽る。騒ぐ。親や教師、校長、理事長をいじめる。

銭湯に行ってサウナ室に入ると、テレビに映った見たくもない国会中継を見ることになるが、(その時にしかおよそニュースは見ない)、まぁ、なんちゅう、汚い野次だと思う。これが、日本を先導する、トップ陣の会話かと思う。終始、議論とは名ばかりの、相手を負かしてやる、恥をかかせてやる、いじめてやる、という空気に満ちている。

総理を問い詰めて喝采を浴びているその人が総理大臣になっても、今度はもっと悪くなってしまったりして。総理大臣なんてものは、責任の所在を入れ替えているだけで、民衆のゴミ箱としてどうしても必要になっているだけだと思う。

国会にいじめがある以上、中学校でもいじめはなくならないだろう。大人の中のいちばん見本とならなければならない大人が、その見本を見せているのだから。

いじめをやめようと動き回る人がいるけれども、彼らはいつも外を追い求める。決して内側を追い求めようとはしない。

その責任を、親、教師、理事、国に求め、最後は法律とか条約とか、臭いものに蓋をするように、規制という形でしか対処ができない(そのため法律が多い国ほど悪国だと言われるのだ)、依然として、悪意は眠ったままである。

アインシュタインとフロイトは、世界大戦の真っ只中であるにも関わらず、『戦争が起こるのは人間の底にある決して尽きることのない悪意からきているのではないか』というテーマの往復書簡を、大陸をこえて交わしている。

なぜ、天才中の天才である彼らが、こんな中学生が思いつきそうなテーマを、一冊の本になるくらいの分量と熱量でもって交わすのだと不思議に思う人もいるかもしれないが、彼らだけは内側を求めたのである。

何か、どこかに、悪を、責任の所在を、見出さずにはいられない。これは現代の病であり、何が原因が、何か理由があると思っている。その理由を見出して、どうにかすれば片が付けると思っている。しかし、この理由を見出そうとすることが病なのである。

「人はあらゆる物や人に意味を見出そうとする。これは我々の時代にはびこる病気だ。」パブロ・ピカソ​​​​​​​​

われわれ大人が、生活の中で、この悪意というものがなくならない限り、子供たちのいじめもなくならない。

この”悪意”について、気になるところがある。個人的には、アインシュタインとフロイトが交わした内容よりも、興味深いものだ。

うちのブログに遊びに来ていた、きみひとさんという女性が、昔に語ってくれたものである。

でも、現実の私は、小さな個人の囚われに縛られているし、

病や老いは受け入れられないし

最近は直観の声を意図的に無視しているのもわかるし、

自分と他人の境界線も明確であるし

悟りや真我とは程遠く、

現実は、進んでいるのか退化しているのか困難も色々あります。

だから、

私は悟ってなどいないので、

体験談として書くなら、

「真実の悟りを開いたAmma と出会って」という体験談

になるかなと思いました。

Ammaとは

業病と言われたハンセン病という恐ろしい病に罹患している人も

国の大統領も、

美しい人も醜い人も

最も病めるインドのカースト最底辺のダリッドという人々も

皆に虐げられている人もどんな人も

何の差別もなく等しく万人を愛する人

また、万物の意識と一致しておられる聖者さまと言われる方です。

日本より海外の方が有名かもしれません。

会社勤めは色々辛い事がありますが、その中でのお話です↓

私が以前勤めていた健診センターは、

センター(建物内)または健診バスで、

会社で行われる恒例の健康診断を行う所でした。

受診する企業の従業員は、

数十名から、千人以上あるところまで、

繁忙期は色々忙しかったです。

その中で、一緒に働いていた先輩同僚と私は、

仕事のやり方において考え方が違っていた事もありますが

理不尽とも思えるくらい辛く当たってくる事があったので

私はとても苛立っていました。

健康診断という、公益的な仕事であっても

最近は健診センターなるものが1㎞圏内に建設されるなど競争が激しく

社員は営業をして、企業健診の受付を獲得していかなければいけません。

勤めていたそのセンターは、お金がなかった。

残業する時は逐一報告しなければなりませんでした。

にも関わらず、先輩同僚は、就業中は手を止め、携帯を見て時間を費やし

残業をするようにしていました。

上司もみんな大体そういう事はわかっていたけど、誰も何も追求はしません。

無理矢理残業代を工面しようとする先輩同僚に対し

理不尽にきつい対応も相まって、

苛立つ日々を過ごしていた私でしたが

その年もAmma来日の日がやってきたので

会いに行きました。

会いに行くと行っても、長蛇の列に並んで、

ほんの一瞬、10秒くらい?

抱きしめてもらう、それだけなのですが。

その時に、悩みを打ち明ける方もいらっしゃいますが、

私は特に何も言いませんでした。

何も言わなくてもAmmaは、

訪れて来るその人の心の内側を誰よりも、

その人自身よりもわかってくれて、

一番良いと思われる「祝福」を与えてくれると聞いてきたし、

そうであった気がします。

Ammaのダルシャンを受けて

これは不思議な事なのですが

心の中にある「先輩同僚への苛立ちと怒り」が、

根こそぎ消えてしまいました。

心中に巣食うその苛立ちの「根」が

「根こそぎ」引き抜かれたような、

怒りの種がすくい払われた、その様な感じです。

その後は何故か、

「苛立ちと怒り」を持たずに

先輩同僚に接する事が出来るようになりました。

相手は、変わらず理不尽に辛く当たってきていましたが。

そんな感じで、また普段通りの日常を過ごしていました。

ところがある日、その先輩同僚が

「息子が勝手に車に乗って、自爆して車を傷つけて、修理代に20万かかることになった」。

と、嘆いていました。

無理矢理、残業代を工面していたのが、無になってしまったのです。

偶然だったのでしょうか、

嘲りの気持ちもなかった訳ではないですが、

同時にとても不思議な気持ちになりました。

「悪意」はないのですが、

理不尽に相手を悲しみに追いやる人に対しては、

そういった事が起きる経験というのは、その時ばかりではありません。

(楽しい話ではないので割愛します)

俺はこの話が気になって、アンマのダルシャンに参加した人のブログを調べたのだが、また別の人がこう話している。

ダルシャンの順番が回ってきたら、案内係の指示に従い、舞台前の椅子に座り、だんだんとアンマ に近づいていきます。

近くで見ると、アンマは大きな方に見えました。

特にオーラは感じませんでしたが、パワフルな方に見えます。

優しそうというより、芯の強い方のように見えました。

本当の優しさというのは、強さがないと出てこないものなのかもしれません。

長時間、一人一人を抱擁し続けているにも関わらず、全く疲れているように見えませんでした。

近くまで来ると、アンマが一人一人を抱擁する表情まで見られます。

あれだけの大人数を相手にしながら、一人一人と向き合って対峙しているのがわかります。

抱擁する人によって、表情が変わります。

悲しい気持ちの人を抱擁すると、アンマに悲しい気持ちが伝わるのかもしれません。

アンマも悲しい表情になります。

嬉しい気持ちの方を抱擁すると、アンマの表情も嬉しい表情になります。

抱後、涙ぐんでいる人もいれば、すっきりした表情になる人もいます。

アンマは本当に一人一人と向き合って、その人の気持ちを汲んで抱擁されているのだなと感じました。

いよいよ私と友達の順番が来ました。

私はダルシャンを受けて、どんな気持ちになるのだろうか。

友達が先にダルシャンを受けました。

友達を左肩に抱擁したまま、私の順番が来ました。

私はダルシャンを受ける前に、手紙とバラの花を渡しました。

この手紙をアンマに渡すことが、今回の私の目的ですから「どうぞお願いします」という気持ちで渡しました。

アンマは私の手紙を手に取り、手紙で自身の頭を叩いて私にうなづきながら微笑みかけて下さいました。

「ガッテン承知。請けあったよ。」というメッセージに受け取れました。

それを見て、私はなんとも不思議な安心感を覚えました。

これで大丈夫だ。

私が心を入れて書いた手紙だということが、アンマはわかったよと言われたように思えたのです。

私を慰めるでもなく、労わるでもなく、力強く明るく「よっしゃ!」と請けあってくれた気がして、それは一番私に合った対応に思えました。

心から「あ一、今日、ここに来て良かった。」と思えました。

私はこれだけでもう満足。

その後、左肩に友達、右肩に私でダルシャンを受けましたが、その時には特に何も感じませんでした。

ただアンマの肩が広いなと思ったこと、アンマの力が強いなと思っただけです。

ダルシャンの後、バラの花びらとキスチョコをもらいました。

次の人の順番になり私がアンマのそばを去ろうとすると、アンマが私の左手をとって引き寄せ、手にキスしてニコニコして下さいました。

物凄く人懐っこい感じ。

「あんたの事、大好きよ」と言われたような感じがして、嬉しくなりました。

アンマが取り巻きに何か言うと、取り巻きが私と友達にバナナを一本ずつくれました。

他の人はバナナを買っていませんでした。

ダルシャンの時間はpm14:00過ぎだったのですが、会場のご飯がまずそうで食べる気がしないとお腹を強烈に空かせてブーブー言っていた友達のことがバレたのかなと思いました。

ダルシャンが終わっても、希望者はしばらく舞台上の椅子に座って、アンマの近くに居ることが許されます。

私はもうすっかり満ち足りて満足だったのですが、少しだけ椅子に座っていることにしました。

ダルシャン後、友達は凄く優しい目になっていて、穏やかな表情になっていました。

それはもう、一目でわかるくらいに。

今回、友達はアンマに興味はなかったのですが、私に付き合いでついてきたような子です。

ダルシャンの直前まで、お腹が空いたとプープー言って、不機嫌だったのですが、すっかり文句も言わなくなりました。

「目が変わってるよ。何か感じた?」と聞いたら、「何かわからないけど、気持ちがスッと楽になったような気がした。」と言っていました。

もう少しアンマのそばに居ることもできたのですが、私も友達も大満足したので、次の人たちに順番を譲ろうということになり、早めに席を離れることにしました。

本当にアンマに会いに行って良かったです。

アンマは英語ができないので、手紙は取り巻きがヒンドゥー語に訳して、アンマに伝えるそうです。

お願い事が叶うかどうか。

それはまだわかりません。

でも本当に今回、このタイミングでアンマに会いに行って良かったと思っています。

アンマのダルシャンを受けにいってきた⑤ ダルシャンの感想より

これが最近、立て続けに書いている記事の帰結として、自分を無くす、虚無、神の所在について、肉体感覚、生活感をともなった記述になるんじゃないかと思ったのである。

悪意がすっぽり抜けてしまう。アインシュタインもフロイトもこれを探していたのではないか。原因を追求したってダメで、原因を突き詰めて、それをどうにかしようとしたって、どうにもできないものが悪意で。ただ消すしかない。それが宗教の役割だと思った。

悪意は

家庭にもある。

タリーズにもある。

道場にもある。

仕事でも、じっさい上の能率よりも、いちばん声が大きい人の話す言葉が真実となる。

家庭でも、おばあちゃんがお母さんにいじめられているのを見る孫も、お母さん側につくしかない。

道場でも、技よりも、先生に取り入るのが上手い人が幅を利かしている。

いつだってキーパーソンなる人がいて、そのキーパーソンの醸し出す空気が、そのコミュニティの真実となる。

こういった理不尽に、私たちはあまりにも慣れてしまった。口を閉じ、我慢して見逃し、鈍感になってしまっている。

何が原因かというならば、この鈍感さだ。

この鈍感さは、国会中継以上に流れている。

一昔前には、これに心を痛めて、命を落とす者までいた。三島由紀夫である。肥田先生である。

三島由紀夫の件で、

ほとんどWikipediaから抜粋で申し訳ないけど……。

たぶん、いつの日か、国が平和とか、国民総生産とか、そんなものすべてに飽きあきしたとき、彼は新しい国家意識の守護神と目されるだろう。いまになってわれわれは、彼が何をしようと志していたかを、きわめて早くからわれわれに告げていて、それを成し遂げたことを知ることができる。三島の生涯はある意味でシュバイツァー的生涯だった。— エドワード・G・サイデンステッカー「時事評論」

「私は佐藤首相が三島の行動を狂気と言ったのが間違いであることを知っている。それ(三島の行動)は論理的に構成された不可避のものであった。(中略)世界は大作家を失ったのである」ドナルド・キーン

ひとつの稀有な文才の消滅を惜しむのはよいが、生きていればまだよい作品が書けたのにといういいかたには、金の卵を生む鶏の死を惜しむのに似たけち臭さがある。三島氏の作品がもっと多ければそれだけ日本の文化遺産だか何だかのの量がふえるのに、というのがそもそも俗悪な考えかたなので、三島氏がその行動によって示したのが、文化とはどういうものであるかということなのだった。— 倉橋由美子「英雄の死」

現在、日本は、外国から一人前の国家として扱われていない。国家も、人間も、その威が行われていることで、はじめて国家であったり、人間であったりするのであって、何の交渉においても、外国から、既に、尊敬ある扱いをうけていない日本は、存在していないのと同じである。(中略)滑稽な日本人の状態を、悲憤する人間と、そんな状態を、鈍い神経で受けとめ、長閑な笑いを浮べている人間と、どっちが狂気か? このごろの日本の状態に平然としていられる神経を、普通の人間の神経であるとは、私には考えられない。— 森茉莉「気ちがいはどっち?」

以前、『高尾山の女仙人』という、肥田先生が書いた本で、この女仙人のことをブログで紹介したことがある。もっとも記事ではなく動画だったが、わりと反響が良く、コメントも多かった。内容としては、彼女が自死に至るために100日以上に渡る断食を行うが、かえってそれによって悟性に至るというものである。

なぜ死のうと思ったかというと、学校教師になろうとした彼女が教育界の悪習慣に失望したためである。著者である肥田先生も、同じ理由で断食をして、天に召された。

俺は、いつも、彼女や、肥田先生や、三島由紀夫が、こういった死を迎えることに対して、不思議に思っていた。

なぜ? 大悟したのに? 三島由紀夫なんて超天才で、頭脳でいったら日本で一番いいのに。生まれてから今日に至るまでの全ての記憶を持っていて、世界一文章がうまくて、サヴァン症候群顔負けの絵も描けて、肥田先生……。死なないでください……。どうか地上に残って、私たち迷える子羊をもう少し導いてください、と思っていた。

しかし、そういう人だけにしか、わからない世界がある。愛国心というものがある。この国を本気で憂う心がある。この気持ちを持たないものには、日本なんて、どうせぶっ壊れてるんだから、俺は俺で好きにやるぜと、区切りがつけてしまう人間は、最後まで、個人の小我にしか生きられず、それが彼の限界なのだろうと思わなくもない。

彼らの死が無駄だなんてとんでもない。われわれは新しい時代を迎える上で、死ななければならない必要性が出てくる。その先立った英霊を模倣として、アンマの魔法を習得するために、われわれは死ななければならなくなるだろう。

今、一つだけ言えるとしたら

国会中継で議論する、彼ら全員が自決したら、いじめはなくなると思う。

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