こうして、自分の胸の中にやってくる思想、感情は、自分が作り出しているのだろうか?
これは向こうからやってきている。ものを書く、絵を描くなんてことは、自分で果たして完成させるなんてことができるだろうか? 断然無理だと俺は答える。ただ外に表すことができるだけだ。
ジタバタと抵抗するのは諦めて、ただ神に任すことだけができたら。
以前、「線について」という記事を挙げたが、これだけ繰り返し読まれていたw 他は知ってるの通り、くだらない自己葛藤の連続の中で、一つだけアカデミック? な記事だったがと思うが。アカデミックというには抽象的で、俺自身も実のところわかっていないが、でもどうしても伝えたくなって書いてしまった。
線について
やっぱり、一から十まで、そっくりそのまま全体がやってくることなんてことはなくて、せいぜい、一つか二つ、なんの脈絡もなしに突然やってくる。こればかりはコントールできるものでもないし、迎えにいったって、迎えられるものではない。
「私の場合でも、ある場面が頭に思い浮かぶが早いか、待ってましたとばかり、心に浮かんだままに書きくだします。それですっかり嬉(うれ)しくなってしまうのです。さてそれから、数ヶ月、あるいは一年もかかって、それに手を加えます。つまり私はその場面について、一度だけではなく、何度でもインスピレーションを受け直すのです(なぜならば、私はその場面を愛しているからです)。これまでずっとやってきたように、私は何度でもここを削ったり、あすこへ付け加えたりするのです。そして、正直な話、ずっとよいものができあがります。もちろん、これはインスピレーションがあっての上です。インスピレーションがなくては、なにひとつできるものではありません」ドストエフスキー
宮崎監督が独特の制作手順を踏むことはよく知られている。一言で言えば、�T数枚のボード(シーン)から発想し、次第に一本の映画に膨らませる�Uという創作法である。宮崎作品は、多くの場合、文章としてのシナリオからではなく、「絵」すなわち物語のある場面や情景を凝縮した�Tイメージボード(イメージスケッチとも言う)�Uから全てがはじまる。この作業により、作者のウォーミング・アップと作品の方向付けが行われる。宮崎監督は、事前にシナリオがあろうが、原作が存在しようが、シーン先行・イメージ先行の創作法を変えていない。汲めども尽きぬ泉のように、毎回毎回強烈なインパクトのあるイメージの断片をひねり出し、それを作品に醸成し続けている。それにしても、各イメージを分散させることなく、無理なく物語にまとめ上げるバランス感覚は驚異的と言える。監督はよく「最後には作品の方が自分で映画に収まろうとする」と語って来たが、これは特異なシナリオ制作行程を感覚的に表現した発言と思われる。
このように、宮崎作品においてはイメージボードは作品の源泉となり、必然的に各ボードは物語を内包するに足る強烈なインパクトを持つものが採用される。たとえば、「天空の城 ラピュタ」の空から降ってきた少女シータを受け止めようとする少年パズー、「となりトトロ」のバス停に横並びで現れたトトロ、「千と千尋の神隠し」では自動車の後部座席に花束を持ってつまらなそうに横たわった千尋と、豚舎の前に立つ千尋…。これらのボードはごく初期に描かれたものだが、いずれも本編に組みこまれた上、改めて清書され宣伝ポスターとして使われた。一つのイメージが作品を方向づけている典型と言えるのではないだろうか。
作家の保坂和志さんは、ただ2時間も3時間も座っているらしい。そして座ったあげく、出てくるものはせいぜい、一日に2、3行で。そうした日々の毎日らしい。だが、保坂さんはこう言っている。「それでも、2〜3時間座っていなければ出てこない文章だったんだ。これが作家の仕事なんだ」と。
まぁ、さくらももこも言っていたけど、人間が一日にできることなんて、ほんのわずかだ。最近は、つくづくそう思う。
これは、自分でも、いつも信じられないことだが、今日はこれを書こうと思ってドトールに行って、それを書いた試しはあまりない。大体の場合は、よくわからないが、ふと別の、何かを書きたくなって、全然違うことを書き出してしまう。そしてそれは、100%の確率で、予め書こうと思っていたものより、ずっとずっと良くなる。
そうなってくると、それが、巷で言われている「今」というものだと思えてくる。
結局、文章なんてものは、「今」しか書きようがないものだと思う。俺はやっぱり人を笑わせるのが一番好きで、芸人にだって負けたくない、俺の方が面白いことを証明してやる、というつもりでいるが、そうやって、俺の面白さを見せつけてやる! という気分で、何か題材を探そうとすると、なかなか見つからないばかりか、書いてみたところで、あまりウケた試しもない。いつも、ふと、どこからともなく現れた、自分でもこんなことは当たり前すぎるから書く価値もないだろう、というものを、書いて、公開すると、そっちの方がウケることが多い。狙うとダメになる。
宮本武蔵は「あくまで狙わないといけない」と言っている。これは、他の剣の流儀への非難を込めて言っているのだろう。無心、無想剣、身体の反応に任せる、頭ではなく身体で。江戸時代中期、多くの場合は無想剣を奥義の中の奥義と定め、それを剣の最終局地と見ていた節があるが、宮本武蔵だけは、あくまでも狙わないとダメだと、五輪書に書いてある。
狙うということは、おそらく、神の意思だけを狙うということで、それは確かに向こう側からやってくるものに違いないが、こちらからも、十分にアクセスできるようにしておかなければならない、ということではないか? そんなふうに俺は考えているが。
愛ですら、恋ですら、無目的の交遊、趣味、仕事でさえ、本当の本当の大事な部分は、狙い澄まして、別に策謀について言っているわけではないがね。それはいつも向こうからやってきて、こちらでコントロールできず、確かに指一本触れられるものではないが、狙い澄ましていなければならない。
いいものを書こう。面白いものを書こう。正しいものを書こう。善いことを……。でも、魂が呼び込んでくる。善は確かに真実に近いところにあるかもしれないが、真実ではない。真実は、善も悪も超えている。
ただ思ったことを書くのだ。それしかない。俺はせいぜい、それにああだのこうだの言って、変に捻じ曲げてしまうものだが、胸に去来したものを、そのまま外に出してあげればいいんだ。
これはね、別に、「線について」の記事もそうだけど、創作法について語っているわけでもない。
人はいつだって、思うこと、感じること、経験すること、それらは全て決まっていて、なんらかのバランスを取るために、宇宙がそうさせている。すべて、その人に必要だから、やってくるのだ。会う人も、会うことも、会う感情も。そのために、指揮棒を振らされるがまま、運命に翻弄されていくしかのだろう。そして、それが自由とも言える。
この胸にやってくるものは、善も悪も越えて、ただやってきて、完成されていて、スピリチュアルな話になってしまったが(最初からスピリチュアルだったが)。
今日は書く気がしない、今日はダメだな、でも試しに行くだけ行こう。書かずに、座っているだけでもいいから、行くだけ行こう。と、そういう時の方が、面白いものが書けたりするから不思議だ。