食べ物に関する研究・美容・健康

本当に小食はいい

やはり、人生において何よりも良いことは少食だと思う。最近はとくにそれを実感する。今現在は、発芽玄米の8分煮て、10分蒸らしたものを0.7号食べている。一日一食である。これに一平方cmの昆布も食べている。血液をアルカリ性にするためである。味付けはない、調味料は使わない、塩も使わない。素材のそのままの味を楽しんでいる。

昆布を食べるのは血液をアルカリ性にするためである。玄米が体に良いといっても、玄米は酸性食品であるためにどこかアルカリ性で補う必要があると二木博士は言っていたけれども、後年、二木博士は、玄米は最終的にはアルカリ性になるとも説いている。なかなかこの判断は難しいけれども、まぁ1平方センチメートルくらいは昆布をちょこっと食べてもいいかなというふうにして北海道の乾燥昆布をメルカリで買っている。肥田先生も、生玄米とは別に、レタスや海藻類をちょこっとだけ食べていた。昆布を一平方センチメートル食べるがの良いといっている。単純に、最もアルカリ性に富んでいるのが海藻類だからである。

乾燥昆布ほど良いものはなくて、これをちょこっとだけ切り取って。ちょこっとだけ食べるだけですさまじく体内がアルカリ化される。1000円で買ったとしても、1年は十分にもつし、食べ過ぎると、ヨードの取りすぎということで、口の中が、へんな塩辛いような、昆布特有の変な感じが残るようになり、どのくらい食べればいいかというところもわかりやすい。農薬の心配もない。長期保存もできる。安い。

こうした食生活のおかげで、この夏もほとんど暑さを感じなかった。もう、毎年、暑さを感じない。出前館でいちばん暑い時間帯、配達していても、ほとんど暑いと感じなかった。大抵の配達員は、いちばん暑い時間は避けるせいか、俺の方にオファーが集中して鳴りっぱなしだった。いつもふわふわと気持ちのいい幸せな状態が続いて、煩悶や苦悶といったものもなくなってくる。いつも良い考えしか浮かばない。油はもちろん、塩も摂らないせいか、汗もみずみずしくて、しょっぱかったりねばっこい感じがない。汗をかいてもサラサラしている、

この夏は塩を2ヶ月以上摂らなかったけれども、塩を摂らなくてもまったく平気なのは、俺の身体で証明された。だから、やたらと、夏は塩分摂取、塩分摂取と喧伝するのは間違っているといっていいだろう。こんなふうにして人々は、自分の身体で試してみることもなく、世間で言われることを鵜呑みにして、やかましく他人にも押しつけているのだ。むしろ、私は強くこれについて反対する。もともと大地には塩気が含まれていて、それを地盤に育ったものに塩分が含まれていないはずがないのだ。玄米には、完全食の穀物には微量な塩分が含まれているため、それを食べていれば、必要な分の塩分は摂取できるのである。だから塩分を摂っていないということではないと思われる。白米だったらちょっとわかんないけどね。

水は、ちょうど、家の近くに湧水が流れているから、それを飲んでいる。ヨガナンダ先生は、人間は6割以上は水で作られているのだから、食べ物よりも水の方が重要と言っていて、一応、飲む水も気をつけているけれども、これも、厳密に水道水と比べようにも、なかなか難しいところはあるのだけど、やはり、湧き水を飲んだ方が調子がいい気がする。この調子が良いとか悪いとか、こんな主観的なところでしか判断はできないのだけれども、やはり水の方が重要な気がする。この水を飲んでいるから、もしかしたらずっと最近心地の良い状態が続いているのかもしれない。

そうして、生煮え玄米とちょっとした昆布と湧き水で、夏を過ごした。特筆すべきは、精神面である。食べ物を物質的な側面として考えてしまう我々だけれども、心もまた物質的なものであり、心も食べ物から作られている。これは多くの人はまだよくわからないところかもしれないが。しかし、どうだろう、なんだか、よくわからないけど、イライラしたり、不機嫌だったり、モヤモヤしたり、どこからきたかわからない、何かに悩まされてしまうことは、誰にとってもなきにしもあらずだと思う。嬉しくなったり、悲しくなったり。これは、どこからくるというと、摂取した食べ物からきている。幸福論の著者であるアランは、その著書において、こうした煩悶や苦悶は、肉体からくると断言している。心の問題も肉体的な問題であるというのだ。ちょっとした不機嫌やイライラも肉体的な問題であると言い切っている。これは興味深いと思って、俺もずっと内部観察を続けていたのだが、確かに、よくわからない、どこからかやってくるイライラや不機嫌は、これは心ではなくて肉体からきていることがわかった。心というものをよくよく観察してみると、肉体的であり、物質的なものであることがわかるのである。

肉体と心はつながっているといってしまえばそれまでだけれども、単純に、この、心というものが物質なのである。私たちは、精神的で、手に追えない幽玄微妙なもので、意思によって変幻するものだと思ってはいるが。心は物質であるため、正常な肉体には正常な精神しかやらないのである。試しに、サートヴィックな、純粋で自然な食べ物だけを食べていると、本当にその通りになる。また、悪い食べ物を食べていると、本当に心もそうなってしまう。これは何度も食べて試したものだ。

そのため、案外、どれだけ成功して、どれだけ金がある人間でも、その食生活を見るまでは、それほど羨むものではない。多くの金持ちは、暴飲暴食して、美食をして、好きなものを好き放題食べているから、ひどい見かけをしているし、国会議事堂で会議している政治家の面を見ればまるわかりだろう。ほとんどロバみたいになってしまっている。彼らは居眠りばかりこいて、もうまともに会話する力さえ残ってない。たいてい、どこを歩いていても、こういう50代、60代に出くわすばかりだ。彼らは、いつも鈍重そうで、頭も回らなそうで、いつも気分が悪くいつも不快であることが多い。美食ばかりしていると、その時は気分が良いかもしれないけれども、後になって必ず不快となる。しかし粗食だと、その時はそんなに美味しくはないかもしれないけれど、その後は一日中ずっと幸せでいられる、それが人生となってあらわれるのだ。

さて、現代医学的な観点からお話しするのは、その筋の人に任せするとして、あくまで俺は自分の実体験や霊的観点から語ろうと思う。

バガヴァッド・ギーターに書かれてある通り、人間の性質にはタマス、ラジャス、サットヴァと、3つの性質がそれぞれ入れ替わっていることは、このブログの読者も耳にしたことはあるかもしれない。

この3つの性質は、どんなふうに入れ替わるかというと、食事によるところが多い。それはサイババが口をすっぱくして言っているところでもある。

人間の性質は、肉体にしろ、精神にしろ、食べ物から由来していることは、私たちでさえ潜在意識下で知っているかもしれない。例えば、私たちが使う昔からの慣用句で、「いったい何を食べていたらあんな風になるのか」「いったい何を食べていたらあんなに頭が良くなるのか」と、際立った能力の人を見ると、何を食べたらあんなふうになるのだろう?と、つい口にしてしまうが、この、つい口に出してしまうことに、案外、答えはあるものである。それは、私たちが根源的な部分で、食べ物が頭脳に関係していることを感じ取っていることに他ならない。実際、アガサクリスティーも、「日本人があんなに頭が良いのは、いつも生煮えの玄米を食べているからだろう」という言葉を、自身の小説内のセリフで残している。

残念なことに、この市場経済で売られている食品はのほとんどすべてはタマスとラジャス食品である。タマスは主に、加工食品、一週間、外に置いといても腐らないとされるようなコンビニ弁当や、カップラーメン。ラジャスは、カレーやラーメン、味覚を美味しく感じさせるために手の込んだもの、調味料、肉、魚、ハンバーガー、ジャンクフード。こうしたものを食べている人間は、タマスやラジャスになる。

タマス=愚鈍、怠心

ラジャス=激性

サットヴァ=純粋性

この3つのトリグナがいつでも自身の体内の中で推移しているわけだが、こうした食べ物を食べていると、タマスやラジャスを自身のうちに呼び込んでしまう割合が多くなる。ただし、勘違いしないでほしいことは、人間はもともとサットヴァであり、タマスやラジャスを浄化することによって、いつでもサットヴァでいられるということだ。

パパジは、現在、世界中の9割の人間がタマスだといっていて、9分がラジャスであり、一厘がサットヴァだといっている。それはそのまま、その食べ物を口にしている割合のまま当てはまるだろう。

俺も、世の中を渡り歩いていて思うことは、ボクシングジム、キックボクシングジム、道場、タリーズ、図書館、と渡り歩いているが、ボクシングジム、キックボクシングはラジャスがとても多い。みんな血の気が多く、格闘家なんてやるものは自身の力を見せつけたがる輩が多いからだろう。あとはほとんどタマス。それは顔を見ればわかる。サットヴァの人は光り輝いているし、ラジャスの人は、成功を追いかけているインフルエンサーみたいな顔をしている。タマスの人は、いつもどんよりものぐさな顔をしている。サットヴァは誰もいない。せいぜい、道場の先生と、タリーズの数人の女性店員だけである。

食べているもので、この3つのトリグナの性質がわかる。やたらと金儲けに走ったり、活動的な人間がいるが、例えば、その筋のインフルエンサーや起業家たちはラジャスであり、彼らはラジャスっぽい食べ物、よくネットでこれを食べるといいと言われるような、情報を鵜呑みにしたようなものを食べており、一応、意識は高く、意識が高い食べ物を食べるのだけど(青汁をたくさん飲んだり)、本当の純粋性からほど遠い食べ物のため、自身の性質も本当の純粋性からほど遠いものになってしまっている。

しかし、サットヴァな食事。つまり、地元の湧水を水につけて発芽させた玄米を8分だけ煮て10分だけ蒸らして食べるという、まぁアガサクリスティーが言っていた、昔ながらの日本人でもやっていたような、生煮えの玄米を食べていれば、サットヴァになるのである。

サットヴァの食事をしていれば、目が澄んで、はっきりして、光り輝いていて、身体全身から光輝があふれ出るようになる。心においても、いつも偉大なことしか考えられず、良い発想、良い考えが浮かび、いつも幸せな気持ちで居られる。やはり、大事なことは、この状況は食事で作り出すことができる。美食をしていれば、確かにその時は気持ちいいかもしれないが、こうした状況を作り出すには粗食でしかありえない。粗食はその時は大して美味しくないかもしれないが、後に続くこういった状況を作り出すことができるので、これが人生において最も大事なことになる。

最近は、いつ、いかなる時も、肉体においても精神においても、こうした状態が続いている。やはり、どう考えてみても、食事のおかけだ。試しに、あえてわざとポテトチップスを食べてみたり、カラムーチョを食べたりしてみたが、もうとてもすぐに体が熱くなって、油っこくなって、そりゃみんなエアコンガンガン使うわけだわと思った。

肉体的な方面においても、ほとんど疲れない。何をやっても疲れない。もう40になろうとしているけれども、10代や20代の時と比べて変わるとは思えない。毎日のように、世界ランカーのボクサーとマススパーリングをしている。裸になってみても、高校生の裸体とぜんぜん変わらないだろう。これは、塩を抜いているのも手伝っていると思われる。サイババは、塩を食べるのは厳禁、塩はとくに血液を毒性化させると言っていて(白砂糖には負けるが)、どうも俺は塩を食べると、夜間頻尿だったり、朝むくみがあったりで、やっぱり、あまりいい影響を与えないのではないかと思い、やめてみたら、すこぶる快適になった。もともと快適なので、これ以上望む余地もないかと思ったら、ぜんぜん違った。病院やデイサービスへ勤めていた経験がある者からすると、やはりすべての原因は高血圧である。もっといえば血液の問題である。多くの人間はみんな血液を悪くするために病気になってしまう。やはり塩である。塩分がもたらす味覚に依存してしまっていて、もう40や50になると病気になり、俺の周りでももう血圧が高くなっていたり、大抵どこかしら何か欠陥を持ち始めている。こうして見ていると、この人生を最後まで健康で生ききることができるものが本当の勝者だと思う。たとえ他の分野で成功したり、うまくいったりして、金を得たとしても、それを十分に使う前に死んでいってしまう。

塩抜きは、なかなかこれは真似しづらいところかもしれないけれども、玄米はともかく、例えば野菜なんかは少しだけ茹でたものを口にしてみると、なんともその甘みだったり、その自然の味の美味しさにびっくりすることか、スーパーの野菜なんかでも、ジャガイモやニンジンをちょっとだけ茹でて、そのまま食べてみると、スーと心が落ち着いて、これはこれで、なんとも美味しいのだ。これが、採れたての無農薬の農家の野菜だったら、もっとうまいことだろう。これに塩をつけて食べると、やっぱり塩の味ばかりがしてしまい、むしろ邪魔に感じてしまうものだ。

このように当たり前になりすぎていることを疑わなければならない。別に塩を抜いたっておいしいのだ。まぁそんなにうるさく塩を抜け抜けというつもりはないけれどもね。玄米自体に排毒作用があって、体に悪いものや、余計な塩分を吹き飛ばしてくれる働きもあるというし。世の中は無知だから、本当に一歩一歩、慎重に食材選びをしていなければ死んでしまうということだ。大抵、みんな、食生活が悪いからすぐに死んでしまう。仲のいい友達ですら、そんな運命にあるから悲しいと思うだけだ。みんな、一生懸命働いて、結婚して、家族のために金を稼ぐが、食生活が悪いために死んでしまう。これは10か0で言っているわけではなく、みんな、ほとんど半分くらい生きながら死んでいるということだ。

運は、その人においてもともと決まっているわけではなくて、食事の慎みから決まってくる。食べ物はすべての生命の根源であり、私たちは食べなければ生きてはいけない。食事は命そのものである。この命を使えば使うほど、天禄を使っていってしまうことになる。これは食録といってもいい。人は生まれつき、食べられる量は決まっていて、この食録を使えば使うほど自身の運勢が悪くなっていく。逆に貯めれば貯めるほど、天に徳を積む形となり、運勢は良くなっていく。これは、水野南北が言っていたことだ。

吉凶はすべて食にあり、食を慎めば、慎むほど運勢が上がっていき、もともとの自分自身の天禄すら書き換えられてしまうという。そのために、人間には、もともと運というものはない。運はみんな同一であり、すべての人に開かれている。そして、それは、ただ食の慎みによって決まるという。

また変に性欲に煩わされることもなくなり、今、芸能人のスキャンダルといえばたいてい性犯罪であり、性犯罪を目にしないケースがないくらいであり、悲しいことに、40代や50代になってもいい大人が女子高生がどうだとかいって、政治家だったり、市役所の偉い人が、女子高生スカートをめくったとか、積み上げてきたものを台無しにしてしまうのは嘆かわしいことである。そして、多くの人は、これに対して、ちんこを切り落とせとか、ギャーギャーワーワー言うけれども、これもラジャス的な食事からきているものであり、ラジャスだから、こうした罪を犯した同胞に慈しみを持てないのである。だから、犯罪者に対して更生の余地や前向きな未来を考えてあげることができず、ただ罰しろ、ただ殺せ、と、ラジャス的な考えしか浮かばないのは、ラジャス的なものしか食べていないからである。とにかく刺激が強いものを食べると、その刺激性がそのまま言動に現れてしまう。また、先のエロいことだってそうで、これは世の中が無知だから知られていないことだけれども、このエロさにおいても、食事からきているのである。人間はもともとサットヴァであり、ラジャスやタマス的なものを食べてしまうから、エロくなってしまうのである。エロさも、純粋な生物的な欲情や反応だと思われているけれども、これも食事なのである。もし生煮え玄米を0.7合食べていれば、そんなことは起こりっこない。それはそのまま俺をもって証明できる。ソクラテスもイエス・キリストも、主よ、彼らをお許しください。彼らはただ無知なだけなのです、と言ったが、無知とは、こういうことである。何を食べたらどうなるかわかっていないのである。

日本を再生するいちばん手っ取り早い方法は食事である。俺のように、8分煮て、10分蒸らして生煮え玄米を食べろと言わないけれども、昔ながら連綿と続いてきた、ふつうの玄米菜食を、地産地消の、季節の野菜をちょっと塩かけて食べていれば、まったく問題でない。一食でも二食でも良い。そうすれば、世の中は平和になる。今、世に蔓延っているすべての問題、医療、環境、政治、経済、戦争、年金、すべてそうした問題を一挙に解決できる。なぜなら、すべて食事から発生している問題だからである。それに気づいていないのは、世の中が無知だからである。ベーシックインカムが始まったところで何も解決しない。ただ解決できるのは食事だけである。

成功者なんて人たちの生活を見ていても、確かに金はあるかもしれないけれども、その金でジェット機を買ったり。美食をしたり。女を買ったり、そんな生活をしていれば、そのときは良い瞬間かもしれないけれども、また、時間が経てば、そうした生活のために、どこかよくわからない不快感やイライラが残ってしまい、そのために、また金を使って欲求を解消しようとする。まわりはそれを見て羨んでいるだけである。そんなことをいくらやっても幸せにはなれないし、ただ幸せになる秘訣は食事である。こうした食事は貧乏人でもできるので、すぐに幸せになることができる。

およそ夫婦の問題も、これで一挙に解決される。夫婦間の問題も食事のためである。悪い食事をしているために攻撃的になったり、くだらない嫌味やグチを言ったり、くだらないものを買った買わないだとか、食べた後、お腹いっぱいになってゴロゴロ寝たり、朝早く起きれなかったり、いつまでもネットゲームをやったり、洗濯物を干すのを手伝わなかったり、皿洗いを一緒にやってあげる気持ちもなくなってしまうのも、子供と遊ぶのも面倒がってしまうのも、すべて食事である。タマス的な食事をするから、タマスになってしまうのである。

仕事の問題も食事で解決される。仕事も、欲があるから悪いのだ。たいてい、サボろうとしたり、面倒くさがったり、欲深く、怠け心があるために、上手く働けないだけである。その欲を刺激したり、怠心を発生させてしまうのは、やはりタマス的食事にある。たとえば、会社のオフィス内で、電話が鳴った瞬間、すぐに自分が出るだとか、客が店内に来訪してきたら誰よりも早く出迎えに行くとか、そういうちょっとしたこと、他人に優しくあろうとしても元気や体力が足りなかったり、気持ちはあっても溌剌とした対応ができないのも、食事からきている。それを意志の力でなんとかしようとしても難しいところがある。溌剌とした対応は、溌剌とした肉体と精神が必要であり、溌剌とした食事からそれが作られるからである。

そしてこの個人の問題がそのまま大きくなったのが国の問題である。ある人があることに気づけたり、気づけなかったり、ある人が無知であったりエッチだったりするのは、単純に食事のためである。天にそれまでの人生で徳を積んだものがあって、気づきは、そのおかげで恩寵からきている。気づけない人は、単純にこの天禄が少ないために気づけないのである。知性というものはこうして決まってくる。やはり人生を何周も多く繰り返しているから気づけるのである。そんなふうにして、食録というのも、やはりどれだけ積み立てられるかというところにある。こうして運勢が変わってくる。個人を救うも全体を救うも、ただ食事のみである。

© 2026 しまるこブログ Powered by AFFINGER5