今だって、荷物を整理してドトールから帰ろうとしたけど、やはりそれは稲妻のようにやってくる。
今までこの力を無視して、自力で組み立ててきたが、いや、たまにこれを使って書いていたことがあったが、違いが少しだけわかってきた。
俺が書いちゃダメで、俺は道具で、ペンだ。
俺には俺にだって、書きたいものがある。作り出したいものがある。計画がある。そしてそれを一文づつ綴っていこうとすると、必ず迷う。道から外れる。苦しむ。すぐに何も出てこなくなる。でもやっぱり根性だ! ガッツだ! となって、このハリボテの城の建設に躍起になろうとするけど、やっぱり死体は死体で、死に化粧はどこまでいっても死に化粧で。
バガヴァッド・ギーターに「よく覚えておきなさい。あなたが行為をするのではない。わたしが行うのだ」という言葉があるが、きっと、本当にそうなんだろう。
あんまり自分の作ろうとしているものに固執してはダメらしい。作らされるようにならないと。そういうときはちっともエネルギーがいらない。むしろいくらでも湧いてくる。もちろん、評価も、俺が書いたものとは雲泥の差でね。俺が書くものはいつだってひどいもんだ。
今書いている4万字の記事を書くのもやめて、投げ出して、俺の活動は終わりにして、倒れて、ただ待っていようか。剣に関しては、本当にこれで上手くいった。本当に何もせず、ただ立っているだけなのに、身体が勝手に動いてなんとかしてくれる。あれを文章に応用するにはどうしたもんか。
俺は自然の受信機になって、ただ待っているのが仕事か。やっぱり人との会話においても、それが勝手に話し始めるまでは、待ったほうがいいだろう。静かにしていれば、自分が思っていること以上に、話してくれる。
やっぱり俺が話すことも、書くことも、何もないのかもしれない。経験、体験、後悔、やり直したいこと、いっぱいあるけど、あとはすべて任せてしまいたい。そっちの方がずっと自由になれる気がする。
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何もしていない時間に、潜在意識がぐるぐると回って成長してくれていて、俺はいつもその恩恵に預かっているに過ぎない。何もしていなかったのにも関わらず、ある日できないことができるようになっていた経験なんて誰にでもあるはずだ。
俺と、俺の下の部分で二つの時間が流れていて、俺の方が迎えに行こうとすると、いつもダメな結果になる。本当にそれは、時間の流れが異なる。
いつも、下層部の方で、俺以上に忙しく、地球の自転のような速さで回転していて、ある瞬間、それが満ちた時、蓮の葉の露がこぼれ落ちるかのように、スッと落ちてくる。それが努力といったら努力みたいなもので。だから究極何もしないってことになるが。バガヴァッド・ギーターの「わたしにすべての仕事をあずけよ」と言っているのは、このことを言っているのだと思うが。
俺はあくまでそれに任せている。最近はこの方法に完全にシフトした。今までは座っていることに罪悪感があり、時間をドブに捨て続けている感覚があったが、今はない。今は座っている時間以上に至福はない。中高生たちは、いつもやるべきことが明確な問題集をドシドシ解いていって、ドトールの店員は間断なくあくせく働いて、俺だけが、こんな年下どもに置き去りにされていく感覚があったが。やはり俺は猛スピードで動いているのだ。一種の霊媒のようだが、これが霊媒でなかったらなんだろう。しかし、女の子が数式を何十行と書いているのを見ると、とても敵わない気分にさせられる。お手上げだ。生命として負けた気分になる。安そうな、百均のペンやらで、数式を何十行も書かれると、頭がおかしくなりそうだ。その子が左利きだったりすると、悲しみは二倍だ。
すべてはすべてを予期している方へ進んでいる。俺の仕事はただ待つだけさ。ただ生き延びること、座ること。こうしている間にだって、それはただ完成へと向かっているんだから。熟した果実が一人でに落ちるように、無理に刈り取るような真似はやめておこう。
これを、人と話す時にも応用したいと言ったが。
しかし、だ。あんがい無口な人というのは、すでにこれをやっていて。みんな、自分から迎えにいくようにして話しているけど、無口な人っていうのは、待っている。蓮の葉の露がこぼれ落ちるのを待つように。まあいいじゃない。ちょっとくらい沈黙したって、柔らかい笑顔を浮かべてさ、それがたった一言で全て帳消しにしてくれるし、お釣りがくるくらいだ。みんなだって、その一言を求めているのだから。文章なんてのはその総体さ。そして、恋ですら、これでするものじゃないかと思っている。
ある日自分でもよくわからない、なぜこんな文章が書けるんだろうという瞬間があって、俺はそれに出会うために文章を書いてるのかなと思う。イメージの中の状態になりたい、それを現実化したいと頑張るのではないのだ。ただ起こるのだ。やってくるのだ。そしてそれはやっぱり指一本触れられるもんじゃない。
ドイツ人哲学者オイゲン・ヘリゲルは、日本文化の研究のため弓術を研究することにし、阿波に弟子入りした。しかし、狙わずに中てる事という阿波の教えは合理的な西洋人哲学者に納得できるものではなく、ヘリゲルは本当にそんなことができるのかと師に疑問をぶつけた。阿波は、納得できないならば夜9時に自宅に来るよう、ヘリゲルを招いた。
真っ暗な自宅道場で一本の蚊取線香に火を灯し、三寸的の前に立てる。線香の灯が暗闇の中にゆらめくのみで、的は当然見えない。
そのような状態で、阿波は矢を二本放つ。一本目は、的の真ん中に命中した。二本目は、一本目の矢の筈に中たり、その矢を引き裂いていた。暗闇でも炸裂音で的に当たったことがわかったと、オイゲンは『弓と禅』において語っている。二本目の状態は、垜(あづち)側の明かりをつけて判明した。
この時、阿波は、「先に当たった甲矢は大した事がない。数十年馴染んでいる垜(あづち)だから的がどこにあるか知っていたと思うでしょう、しかし、甲矢に当たった乙矢・・・これをどう考えられますか」とオイゲンに語った(オイゲン・ヘリゲル著『弓と禅』より)。
自分で書いた文章ってのは、どれもこれもひどいもんだ。