霊的修行

神は自分の外側にいるわけではなくて内側にいる

まだまだ修行の途中だが、最近は大きな進歩を遂げたので、記載してみたいと思う。

仕事から帰ると、ついついタブレットをいじってしまう。大体は調べ物だ。調べているというより、惰性で欲しい商品のブログや動画やAmazonレビューなんかをだらだらと見ている。こんなのは調べ物とはいわないだろう。買わない買い物というやつだ。

自分のつまらない欲求を捨てさり、大吾したいと思っているはずなのに、ベッドに寝転んで欲しい商品を見つめては、購入したときの様子を思い浮かべて、半目を浮かべている。全く正反対なことをしている。

 

そんな経緯の中で「自分を変えなくては……!」と思った。

 

まずはタブレットをいじるのをやめた。タブレットは閲覧という行為において、これ以上ないくらい快適に作られている。そのくせ生産するという行為には恐ろしく不向きだ。つまり、消費するしか能のない豚のためにわざわざ作られた製品といえる。俺は、しょっちゅうiPad proを触っていたが、これを自粛することにした。

俺が毎日欠かさず見るものとしては、イケダハヤト氏のブログと、mgs動画の更新状態ぐらいなもので、それ以外は惰性で、想像力を駆使しながら、わざわざ調べ物を探しにいくので、それをやめることにした。イケハヤ氏のブログとmgs動画だけ更新チェックして、あとは瞑想することにした。

基本的に、タブレットは1日に4、5時間くらい弄っているので、この時間を瞑想に置き換えるだけである。(この記事は半年ぐらい前に書いたものだが、今現在はタブレットをよくいじっている 2018 5/08 )

瞑想とは、次々と湧き出てくる、考え、ふつふつと湧いてくる雑念、そういうものを遠くから眺める行為らしい。人間の心は一層ではなく、何層かに分かれており、怒ったり、泣いたり、笑ったり、感情に支配されている自分がいるが、それをただ観察している自分もまた別の層に存在している。その色も形もない、観察しているだけの部分が真の自分で、真の心というものらしい。その真の心に焦点を合わせ、ふつふつと湧いてくる雑念をただ眺めるだけの行為に専念することを瞑想というらしい。

 

また、心があって、気があって、行為がある。と武道の本には書いてあった。

一番、根幹にあるのは心で、心の後に気が遅れてついてきて、気が働くと、行為になるとのことだ。

心→気→行為。の順番になっているらしい、

普段、考えたり、雑念が湧いたり、女のことを考えたり、人生のことを考えたりするのは、自分が考えて自分がやっていることのように思うが、これは自分ではなく、ただ、気が散漫になっているだけのことのようだ。空海はこれを悪魔といっていた。

心は常に鏡や、静かな水面のように、自分自身や世界を客観的に映すだけの代物に過ぎず、この、鏡のような部分が本当の自分であって、ぼやぼや思い煩っている方の自分は自分ではなく、悪魔の所業らしい。

今まで、頭や胸でいっぱい考えて感じてきたことは全部、本当の自分ではない、ということになる。

本当の自分は、もっと心の奥のどこかにいる。

 

 

よーく、自分の心の静けさに目を向けて、探って見ると、胸か腹か、中心のあたりが光っているような感覚がある。

この光と一体になっていると、不思議な自信が湧いてくる。いいことをするとこの光が一層光り、悪いことをすると、消化不良的な、もぞもぞした気分が残る。

いろんな本を読んでいると、この胸か、腹か、鉄線のように自分の中心に張り巡らせている心こそ、神と呼ばれていたのだとわかった。

本来神は内側にいるものと見做されていたが、どこかの宗教の初心者が、救われたい一心で、外に神を求め、「救ってくれる神、救われる自分」。「祈る自分、祈られる神」という2極化を作り出したようだ。

精神が未熟だと、幼児化という現象は避けられないものらしい。心理学では、母性、父性を克服できないと、未熟なまま世界に投げ出され、外に神を求めだすようになると言っていた。

まぁ、心理学の問題はどうでもよく、問題は、神が外にいるのではなく、自分の内側にいつもいるということだ。

俺もこれまで、はるか向こう側や、天にいるのか、とにかく遠くにいるような気がしていて、そこからいつも見てくれているのだと思っていた。

 

武道では、心→気→行為の 心の部分を神という。

武道では、神に祈るとは、遠くに仰ぎ見る神に対して祈るのではなく、自分の心の中に神がいることを正しく認識して、その一体感を感じることを指す。

心の中のいる神と一体感を味わうことによって、結果、外にあるさまざまな森羅万象とも一体化できる。

 

 

 

瞑想とは、神を実感する行為なのである。

武道だったり、奉公だったり、運動でも、仕事でもいい、いつも心の中に神がいることは確かだが、何かしながらではなく、何もしないで、ただ神を実感する行為を瞑想という。

何もしないで座って、神の存在を感じて、感謝するという時間は必要だ。何かしながらでもできないことはないが、何にも阻まれることなく、神と一対一で向き合うという姿勢は、より純粋だ。より寵愛を頂けるような気がする。

自分の中に神の存在を感じて、その意識を広げていくことによって、その後の行動が変わってくるだろう。

だから、マザーテレサは1日の始まりの朝に、朝の4時から6時までを祈りの時間にしたのだろう。1日の始まりに神の意識で埋めておくことは大事なことだ。

心についての勉強ばかりはネットだとあまり役に立たない。昔の本ばかりが頼りになる。

マザーテレサや山岡鉄舟などの昔の本を読んだが、これらを読んでわかったことは、本当に教わる必要があるのは、自分の心の内側に神がいるということ。

だから、心の内側にいる神の存在を感知しながら思索をすすめることが大事なのだ。

俺はいつも、外から知識や経験を得ることばかりに気を取られていたので、やみくもに色々調べたり、商品を購入してばかりいた。自分の内側の絶対なるものから勉強していくのであれば、金がかからない。タブレットを延々といじる時間がなくなる。ほとんど瞑想ばかりしていればいいということになる。

 

情報断食をしようと思ってもなかなかできない場合、今話した心的態度が大事になる。外に答えを求めようとしないということが大事になる。

常に心の真芯を捉えて、その真芯が光っているか、光っていないか、神と一体となっているかなっていないか、その精神の輝き具合だけが重要だと思っている。

トルストイもいっていた。「人間は、キラキラしているだけでいい」

このキラキラとは、別にテンションが高いことを指すわけではない。神と一体となっているかどうかをいっている。

ただ、気になることもある。「放心が最上」と沢庵がいっていたことだ。放心とは心を手放すということ。つまり、心の真芯に捉われている俺は、放心ができていない。つまり、最上ではないということになる。

沢庵は、心の真芯を見放さないようにするのも大事なことだといっている。これも結構なことだと言っている。しかし、これを手放すことで、臨機応変に心が動いて、様々な問題に対処できるという。

この「放心」というのが最上なら、まだまだ道は険しい。

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