霊的修行 恋愛 コミュニケーション

全存在として

まだよくわからないが、あるがまま、全存在として相手とひとつになることが、愛らしい。

「嫌われる勇気」によると、愛に一番近い感情は、尊敬らしい。

たとえば、授業中にうるさく騒ぐ生徒がいて、(教師が)叱っても褒めてもどうにもならないとき、どうすればいいかというと、ただ対等にまっすぐ話し合うことでしか解決されないと、書いてある。

相手に間違いをわからせるには、親しみのある話し合いをすればよい。大切なのは、それができる信頼関係を築くことだ。アドラー

教師として指導する場にあったとしても、生徒を尊敬しなければ、生徒から尊敬されることはないと書かれている。

あくまで人間は、個の人間として、縦ではなく、横のつながりとして、向き合わなければならないらしい。それは互いがどんな立場であったとしてもだ。

嫌われる勇気によると、褒めてはいけない、叱ってもいけないらしい。心から生徒を認め、相手を全存在として尊う気持ちがあれば、言うことを聞くらしい。子供や生徒がいうことを聞かないのは、教師から愛を感じないかららしい。

この、「全存在」というのが気になる。相手を丸ごと信頼するということらしいが。

確かに私たちは、恋人だろうが親友だろうが家族だろうが好きな人だろうが、疑いの目、否定の目が入り乱れ、まるごと信頼しているということは少ない。たとえば、アプローチしている女性がいたとして、必死にラブコールを繰り返しても、その愛が伝わるどころか疎まれてしまうのは、この信頼感、あるいは尊敬というものが欠けているからではないか。つまり、それは好きとか愛というよりも、所有欲。つまり、欲、欲、欲。欲からきている。

確かに私たちは、自分の全存在、自分のあるがままを認めてもらいたがっている。地球上にたった一人くらい、そんな存在がいてくれないかと。

しかし、そう思っている人ほど、他人のあるがままを承認できないものである。

ただ裸一貫で、相手を全存在として受け止めるか。

何も考えず、何も持たず、何も期待せず、ただそのまま相手にぶつかっていくと、案外それで会話ができてしまえるところがあるが。

ただ、心を開いて、あるがままに相手の全存在として、一体となるのがいいらしい。それが愛らしい。

そうなると、誰でもいいということになってくるが、「嫌われる勇気」によると、誰でもいいらしい。究極的には、愛とは、誰とでも築ける性質のものらしい。。愛されることよりも、愛することを完全にできれば、誰と付き合って誰と結婚しても幸福になれるらしい。そうでなければ、愛の勉強としては不十分らしい。だからだろうか、自由恋愛の今日の時代と比べて、昔の方が上手くいっていたりもするのも。

未熟な愛は言う、「愛してるよ、君が必要だから」と。

成熟した愛は言う、「君が必要だよ、愛してるから」と。

エーリッヒ・フロム

もし愛されることよりも愛することに喜びを見出せるようになったら、愛する、それ自体が楽しくてたまらないものだとしたら、誰でもいいということになるし、そして、そんな人間ばかりになったら世界はとても美しくなるだろう。

考えてみよう。世界中の人が、愛されることを考えていたらどうだろう? 世界はめちゃくちゃになってしまう。でも、どうだろう? 世界中の人が、ぜんいん、愛することを考えるだけになったら、どちらの世界がいいか悪いか、考えなくてもわかることだ。愛されることばかり求めている人間だけで構成された世界、愛することばかり考えている人間だけで構成された世界、どっちがいいか。

一つわかっているのは、こういうとき、言葉が邪魔になることが多い。言葉を何か話そうとすると、そのあるがままの状態に合った言葉が見つかればいいが、見つからないことの方が多い。眼差しの方がよほど語彙として適切なことが多い。しかし、あれだけ女と入水自殺未遂を繰り返した太宰治が、愛は言葉である。言葉こそが愛の表現であると言っているから、(しかし、本当に相手を想うと、愛しているという言葉は言えなくなるとも言っているが)まぁ、難しいところだ。

何かプレゼントを送ったり、褒めたり気持ちのいいことを言ったり、笑わしたり、ひたすら能動的に、行為、行為、行為を繰り返すことが愛、そしてそれに喜びを見出すのが愛だと思っていたが、そういうことでもないらしい。ただあるがままに相手の全存在をそのまま見ること、受け止めること、そこからスタートすること、それが愛らしい。岡本太郎と岡本敏子は相手の目を見なさいと言っていたが、そういうことだろう。

恋人でも、御亭主や奥さんでもいいわ。ほんとうに、この人は、どんな顔をしているんだろ、どんなことを考えているんだろうかって、まじまじと見たことありますか? ないでしょう。岡本敏子

赤ちゃんはこちらをまっすぐに見る。動物もそう。それは、とてもプリミティブなもので、減らして、減らしていって、究極的に残るものは、相手の全存在ということになり、それをあるがまま受け止め、こちらもあるがまま向かっていく、そしてそれを自分が始めなければならないのだ。それが愛……。

みんな、小生も、愛とは自然に発生するものだと思っているが、これを自分から一歩歩み出すことによって、周りも応えてくれるといった性質らしい。もちろん、それが伝わらなくても一向に気にしてはならない。それは相手の課題なのだ。相手の自由であり、何人も侵せない相手だけの課題なのだ。

誰かが始めなくてはならない。見返りが一切なくても、誰も認めてくれなくても、あなたから始めるのだ。アドラー

誰かが始めなければならない。他の人が協力的ではないとしても、それはあなたには関係がない。私の助言はこうだ。あなたが始めるべきだ。他の人が協力的であるかどうかなど考えることなく。アドラー

それは剣の理合と似ている気がする。

ただ立っているだけで、相手のすべてが伝わってきて、相手は何もできず、相手の全てが手に取るようにわかり、こちらが自由に剣を振えたりできるものだが、これもまた同じ性質だと思われる。

会話も剣の斬り合いとまったく同じだと昔から思ってきたが、やはりゼロ化するということか。

そうしてありのままその人を見ることができて、全存在として感じることができて、なお、そこから喜びを得られるようになれたらどうだろう? そういうときは、確かにある。誰にでもある。だから、ここに留まればいいのか、それが愛なのか。ここから離れてしまうからよくないのか? これは、誰にでも感じられるところだろう。

愛されるよりも、その相手の持っている全存在に触れて、それをそのままこちらも全存在として受け入れられて、それはセックスか、セックスを超えているのか、夫婦愛、すべてを超えた老夫婦にも見られるものなのか、マザーテレサはこれを愛と考えていた節があるが。

男女の愛も友愛も人間愛も、行き着くところは一緒なのか。相手が生きていること、存在していること、そのすべて、ただそのすべてをあるがまま包み込んで、愛するということ、そして、そこに、至上の喜びを感じられるとしたら、それが愛ということか。もっと何か汗水を垂らさなければならないと思っていたが。しかし、この気持ちに留まり、ただこの気持ちであれたら、汗水垂らすことも厭わなくなるだろう……!

イエスなどはその域に達していそうだが。だが、これはすべての人類が誰しも持たなくてならない課題とも言えそうだ。

なぜならそれは、他人事ではない。個としての、自分を救うことになりそうだからである。たとえ気持ちが報われなくても、ただ他人へのその想いが、行為が、それだけが、愛されたいと希求して病まない我々の精神病を解決してくれるのだ。

なぜなら、我々のすべての不幸の原因は、愛されることばかり願うことにある。

どうしたらみんなを喜ばすことが出来るかを、毎日考えるようにしなさい。そうすれば憂鬱な気持など、吹き飛んでしまいます。反対に自分のことばかり考えていたら、どんどん不幸になってしまいますよ。アドラー

本当にその通りで、自分のことばかり考えていたり、他人に愛されることばかり考えていると、それはもちろん絶対に叶うことがないから、どんどん、どんどん、苦しくなってしまうのだ。ここ最近は愛されないことにずっと苦しんでいた。つまり、苦しみを脱したくて、今、これを書いているのだ。

あなたのために他人がいるわけではない。「○○してくれない」という悩みは自分のことしか考えていない何よりの証拠である

そう、他人は小生のためにいるわけではない。その全存在は、小生のためにあるわけではないのだ。小生の望がままに、愛を注いでくれる都合のいい存在ではない。

ゲーテですら、こんな思いを抱いていたようだ。

私はこれまでの生涯、自分がどんなふうに愛されたいか、理想をいだいてきました。そして、その成就をいつも妄想に求めたのですが、無駄でした。ゲーテ

誰もが、本当の意味で、自分の全存在を認めてもらいたいと思っている。大人も、子供も、婚活市場の男女もね。出会いを求めているようでいて、あれは、全存在を認めてもらいたいんだと思う。むかし、婚活パーティで、テーブルの上にうつ伏せになって寝ている男がいて、女も、他の男も、運営者も、小生も、小生の友人も、全員それを見て笑っていたけど、あれは他人事ではない。本当は、みんな、あの気持ちが痛いほどわかるのだ。

「よく恥ずかしくねーよな」

「金払ってきてるのにw」

「あれで声かけてきてもらえると思ってるのかなぁ?」

「寝にくいだろw 家で寝ろよw」

「声かけてあげなよ」

「えーやだw」

しかしだ。みんな変わらないのだ。みんなだって、彼のようにテーブルに突っ伏して、すべてのことから目を背けて、愛だけは見ないようにして、愛からだけは逃げるようにして、ああやってテーブルに突っ伏したいと思っているのだ! 今だって立っているのがやっとなのだ! 会話だって何も話してはいない。彼の方が素直と言えば素直な言葉を発しているかもしれない。家でやるか外でやるかの違いなのだ、みんな家ではそうやっているのだ。だから激しい共感を呼んで、婚活パーティなのだから婚活っぽい話をしなければならないのに、私たちの心は彼に釘付けで、私たちはずっと彼の話をしていたのだ!

そうなってくると、今まで使ってきたものさしはすべて役に立たず、それらはすべて手放してしまって、ただ無一物で、今、目の前の、彼女の、全存在を、そのままあるがままに感知するということが重要になってくる。それは、肌に突き刺さってくる、生の情報。本当の情報。それが、愛なのだ。それが宮本武蔵の剣でありピカソの絵となりえるのだ。悟りとは、つまりそこにあるのだろう。

そうなってくると、今日では、学校というものをなくして、オンラインサロンだとか、気の合う連中だけで連んでいこうじゃないかと言う流れになってきているようだけど、そうもいかなくなってくる。しかし、理論はまちがっちゃいないだろう。もちろん、愛は理論ではなく実践に違いないが。

ゲーテもこう言っている。

性に合わない人たちとつきあってこそ、うまくやって行くために自制しなければならないし、それを通して、われわれの心の中にあるいろいろ違った側面が刺激されて、発展し完成するのであって、やがて、誰とぶつかってもびくともしないようになるわけだ。ゲーテ

すべてを手放し、全存在をあるがままに受け止め、胸に一物も持たず、その瞬間に飛び込む、すべての細胞が開き切る、これ以上のことがあるだろうか? 

単にテクニックとして極めた者ががキャバ嬢やホスト、売れっ子営業マンだとしたら、波動して、概念として、叡智として極めたのが、芸術家、宗教家だろう。

何か嫌なことがあっても、退魔の剣を振るうが如く、自分の澱んだ気を消し去っていって、最高の波動体であり続ける。

確か聖者アンマに会った時、不思議と心の毒気のすべてを抜かれてしまったと、うちのブログの読者さんも話していたが。

波動、気の問題なのだろうか。

ゲーテのパーティ会場での社交の様子を、弟子が綴っているが、ゲーテはまず最初の一声は必ずゲーテから行うらしいが、ゲーテが一言二言話すと、そのあとは客人がひっきりなしにずーっと話し始めるらしい。それは聞き役に徹するとか相槌がどうとか巷に言われるキャバ嬢的な寂しいテクニックではなく、波動として、愛に貫かれるらしい。だから、ゲーテは、74歳になっても19歳の女の子と恋愛できたのだろう。

山岡鉄舟にもまったく同じ逸話があり、客が訪ねてくると、深夜になっても誰も帰ることがなかったという。鉄舟が道場に一足踏み入れると、道場全体が確かに温かい波動になるのを感じたと弟子達が証言している。

他人と会うことなんて、月に数回しかない人間が何をそんなに考えることがあるのか、まったく謎だが、この辺りを完璧にしてみたいという欲求には取り憑かれてきた。その割には、あまり人から好かれず、俺と二人きりになると、会話に詰まってしまって、早く逃げ出したいという顔をする人も少なくないが。

どうも正体は、この波動や、気にあるような気がしてならず、言葉だけが動き回るようになると、また一旦、根源的な波動体に戻して、ということを繰り返してきた。といっても、人に好かれたいからやっているわけではなくて、自分の表現を完璧なものにしたくてやっている。

しかし、岡本太郎は50年間、一度も怒ったり褒めたり、好きとか愛しているとかも言ったこともないけど、彼ほど私を愛してくれた人はいないと岡本敏子は言っていたし、岡本太郎が風俗に行く時は、一緒について行ったとも言っている。

つまり、こうなってくると、やはりというか、気や波動の問題となってくる。岡本敏子が言っていた、このセリフや、

男は考え違いをしている。一生懸命、無理して役割を果たしているのに、女はちっともわかってくれないと心外に思っているだろうが、わたくしたちは、何もそんなことを頼んでいないのよ。岡本敏子

役割を果たしたから、愛を履行したと思ってしまう過失があるが、ただ相手の全存在をあるがまま受け止めるということが、本当の本当なのかもしれない。

昨今では、人から好かれるテクニックとか、彼を思い通りにする方法とか、そういう小判鮫みたいなハウツーばかりが繰り広げられ、愛もまた、そこに寂しさがある。愛を、波動的、原始的、根源的に考えていこうする姿勢が薄いようである。

こうしていると、ただ波動的に、愛の念波を送って、あとは特に何もしなくていい。寝ていてもいい、ということになってしまいそうになるが、行為と愛の関係も、また考えていかなくてはならないだろう。

会話にしろ、行為にしろ、一緒にいても、互いの全存在のゼロ点に居続けることができないことに、すべての原因があるような気がする、この全存在にゼロ点に居続けることができれば、どんな女も俺のことが好きになるような気がする。それは、落とすのではなく、勝手に惚れられると思う。

向こうが未熟で、ゼロ点からすぐに離れていってしまっても、小生がゼロ点でありつづけることによって、彼女もまたゼロ点に引き戻される。そうすると、あれ? この人は違う。この人といると、私はあるがままになれる。私は自由だ。この自由は部屋で一人でいるときにしか成し得ないと思っていたが……。ということになる。どれだけ貢いでも貢いでもキャバ嬢が手に入らない恋愛童貞のように、行為というわけでもないと思う。しかしマザーテレサは行為だと言っているから、この辺は考えたいところだ。おそらく、相手をあるがままに全存在としてキャッチしながら、そこから自ずと出る行動が行為だと思われるのだが。波動だけではだめか、波動と行為の関係。

まぁ、誰も俺にはぁはぁ息を荒くして追いかけ回されたいとは思ってはいないだろうから、いちばんいいのは、胸に何も一物も持たず、ただすべてを開いて、相手の全存在をあるがままに手離しで感じる。それは、誰にも悪い気を起こさせないだろう。

それはアンチだろうが同じで、アンチが何か言っていようが、それを全存在としてあるがままにあるとして、そこに二元的な私情を挟む余地はない。それが白隠禅師の言っていた「ああ、そうか」と、通じるものがあるのではないかと、小生は考えている。

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理論としては、これ以上のものがあるとは思えない。あとは、実践だろう。親の肩を揉んでやったり、今すぐにできることはたくさんあるのだが、やっぱり厳しいね。

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