印刷工場で働いた体験談 仕事

印刷工場でパラ検をやってたら、レクサスに乗ってる工員に床にぶちまけられた話

印刷工場の女はもともと美人はいないけど、ツナギと作業帽とワッペン姿だから加速度的に女を失っていく。しかし、『本当の私はこっちだから間違えないように』という風に、出勤時にはとてもオシャレをしてくる。正門から更衣室まで5分もない、帰りと合わせて10分足らずのために華美な服を着てくる。

小生は大卒だったから手取りが16万円だったけど、彼女たちは高卒だから13万円ぐらいだったと思う。彼女たちは毎日違う服を着ていたから、おそらく服代だけでも毎月4万円はかかっていたと思われる。

残念ながら彼女たちの自己演出は失敗に終わった。小生が今、彼女たちのことを回想するとき、グレーのツナギの方しか思い出せないからだ。しかしこれは彼女たちが悪いわけではない。これは白石麻衣だったとしても同じ結果だったと思われるからだ。

工場の男たちはタバコを吸いながら、パチンコ、風俗、モンストの話をして、誰が一番スマホ代を使ったか競い合っていた。下層市民のさらに下層となると、スマホ代をたくさん使うことが幸福度のバロメーターになる。おそらくそれは親からきている。高校時代の級友を見て観察したところ、親からきているようだった。

彼らは今を生きていた。手取りが13万円なのに、ローンでレクサスを買っている男もいた。おそらく700万円はする代物だろう。さっきまで印刷機の前でスイッチを入れたり切ったり、部材を載せたり、巻を交換してた男が、レクサスに乗ってドヤ顔で帰っていく。

小生は工場の中で浮いていた。天井にぶつかりそうになるくらい浮いていた。

いつも濡れたアンパンマンのように力が出なかった。海に落ちた悪魔の実の能力者といってもいいだろう。ハイジが山から下りてきたとして、まず、こいつにいったい何から教えたらいいんだ? という印象を周りに与え続けた。毎日アルバイトみたいな顔で出勤した。

そんな中、レクサスと二人で印刷機を廻していた。

小生は「パラ検」といって、印刷機から出てくる製品の封筒が閉まっているか、糊がついているか、宛名が見える位置にあるかなど、10枚くらい手にとってパラパラ見て確認する仕事をしていた。小生は、大卒ということもあって、入社時は期待され、本来は機械のオペレーターをやるはずだったのだが、あまりにも仕事を覚えられないので、パラ検以外やらされることはなかった。しかし、そのパラ検すらまともにできなかった。

パラパラめくっているだけで、一度も宛名の位置なんて確認したことがなかった。糊がついているか、封筒がしまっているかどうかも、一度も確認したことがなかった。

たとえば、一つの封筒を思い浮かべてみてほしい。その中に個人情報が記載された書類が入ってあって、その封筒の口が開いたまま個人宅に届いてしまったらどうなるか? 場合によっては、何億円という賠償金が発生する。一通でも封筒が開いたまま届いてしまったら最後、売上より賠償金の方が多くなってしまう。会社はその仕事を請けなかった方が良かったということになる。

小生は「パラ検」という言葉に、非常に強いアレルギーを感じていた。なんだよパラ検って。勝手に変な言葉つくってんじゃねーよ、と、ちゃんちゃらおかしくて、絶対にその言葉を言わなかった。会社っぽいことをしている。会社の真似事をしている。彼らが営業活動の一環として、独自の規則、名称、文化を作り上げていることを認めなかった。だから、小生は2年間この工場に勤めたが、一度もパラ検という言葉を使わなかった。「製品のチェックやります」と、まわりくどい言葉を使った。

レクサスの歳は20歳で、背は高くないけど筋骨隆々で、金髪で顎髭を生やして、色が黒くて首に金色の太いネックレスを巻いて、いつもはだけた作業服からチラつかせていた。年に一度、海で自分の肉体を披露する事だけを生き甲斐としている男だった。

私生活が充実するあまり職業選択は適当とならざるを得ないために、この工場に腰を掛けているという顔をしていた。しかしそんな彼もちゃんと始業時間にやってくるし、ちゃんと作業着も着る。学生時代の同級生だったらカツアゲしていたかもしれない工場長に媚びへつらう。「人は制服どおりの人間になる」というナポレオンの名言と、常に戦っているように見えた。

レクサスは初めは小生に親しくしてくれた。まだ入社間もない頃、小生は印刷の巻が回転してるのが面白くて、突っついていたら、「突っついちゃダメだよ」と笑いながら注意してくれた。

「ギャンブルはいいよ! パチンコやろうよ!」「この工場の女何人ヤレそうな女いる? 俺は3人だけヤッてもいいと思ってる女がいる!」と、聞いてもないのに開け透けに何でも話してきてくれる男だった。「俺も初めはみんなからシカトされてたけど、自分から話していかないと仲良くなれないよ? まずは分からないことあったら自分から質問するといいよ!」と、小生の境遇に関しても、よく心配してくれた。

小生はレクセスに愛想よく対応した。レクサスに限らず、小生は誰かに話しかけられたら、それまで孤立していたのが嘘だったかのように、まるでコミュニケーションをなんなくやってこれた人間のように対応した。しかし一度会話が終了すると、世捨て人がまた山奥の小屋に帰っていくように、何事もなかったかのように自分の内側へ帰っていく。また誰かに話しかけられれば愛想良く対応する。また帰っていく。それをずっと繰り返した。

周囲からは、一度仲良くなったはずなのに、どうしてまた振り出しに戻そうとするんだ? と不思議がられた。親密度が10増えても、次の日は0になる。途中でセーブができないゲームのようだった。毎日、新しく新入社員としてやってくる人みたいだった。

工場というのは、その性格からして、内気な人が大変多いが、あまりにも多いために、内気な人用の交際マニュアルが完備されている。内気な人は全員そのマニュアルをもって対応され、対応する方も対応される方も、そのマニュアルを守っていた。つまり、小さくボソボソと話しながら、自分はコミュニケーションが苦手だけど、苦手なりにがんばっているのです、という態度を遵守せねばならなかった。

小生も初めはそのマニュアル通りに対応されたが、数日経たないうちに、みんな、どうも違うらしい、と混乱し始めた。なんでこいつはこんなに孤独が板についてるんだ? と不思議がられた。こんな人間との交際マニュアルはうちの工場にはないぞ? と不思議がられ、そしてイライラさせた。

当時の小生は、漫画家を目指していたこともあって、四六時中、頭の中でデッサンを描き続けていた。仕事の時間は、すべて頭の中で絵を描く時間にしようと決めていた。流れてくる製品を手に取り、パラパラとめくって目で見て確認するという外側の行為は守りながらも、内側の意識はまったく違うことをしていた。

その結果、小生のせいで工場に多額の賠償金が発生しようがどうでもよかった。この時代に、肉眼で封筒の口が開いてるかどうか確認しなければ、多額の賠償金が発生してしまうというシステムの方が悪いと思っていた。誰とも話さない、話してもふりだしに戻す。機械操作は覚えられない。パラ検もできない。そのくせ大卒だから給料が多い。周囲の我慢は限界だった。レクサスが爆発を起こしたのは当然だと思う。

レクサスは工場内でよくはしゃいでいた。油圧ジャッキをキックボードみたいに蹴って移動したり、印刷巻きを跳び箱みたいに手をおいてジャンプしたりしていた。周囲とよく馴染んでいて、楽しい気分が溢れてしまい、そんな行動をとってしまうようだった。こういう人間のこういう行動に際したときは、姿勢を低くして笑わなければならないとマニュアルには書いてあったが、小生はやらなかった。小生は視界の片隅に油圧ジャッキをキックボードみたいに乗りこなすレクサスをただ映すだけだった。

レクサスはこれに我慢ならないようであった。浮いてるから話しかけてやってるのに、自分からは話しかけてこない。シャイで話しかけてこれないなら可愛げがあるが、そういうわけでもなさそうだ。

なんなんだ? なんなんだいったい? レクサスは小さな、彼のとても小さな引き出しの中からマニュアルを引っ張り出そうとしたけど、見つからないようだった。工場全体から見ても、そんなマニュアルはどこにも置いていないのだから仕方がないだろう。

小生がおどおどしたり、慌てふためいていれば、今回のような事件は起きなかっただろう。レクサスは突然コンテナを蹴り飛ばした。小生がパラ検←笑をして、積んでいたものだった。背丈くらいの高さになっていた。

レクサスは狂ったようにコンテナをガンガン蹴っ飛ばし、コンテナ内の印刷物は盛大に辺りに散らばった。汚れたり破れたり使い物にならなくなってしまった。

「ウオオオオーーーッ!!」 「ウワアアアアッッーーー!!」

とレクサスは獣のような咆哮をあげながらコンテナを蹴り続けた。顔は真っ赤になり半狂乱化していた。

やがてゼーゼー息を切らしながら、立ち止まって小生を睨み続けた。小生もパラ検をやめてレクサスに向き合った。しばらく睨み合っていた。その間、印刷機はマイペースに仕事をしていた。パラ検をする者が誰もいなくなってしまったから、印刷物は床に落ちていった。

さて、殴るか、どうする?

こういうとき、相手が手を出してきたら殴り返す、と弱者の道徳が邪魔して睨み合ったまま終わってしまうことが多い。そして誰かが止めに入ってくると、安心して、やっとそこから殴りかかるそぶりを見せるものである。

こんなに怒っていても、自分から手を出す人間は滅多にいない。だから小生はこういうときは、自分から手を出せる人間でありたかった。それが勇気だと思っていた。

正直、レクサスに勝てるかどうかはわからない。負ける可能性の方が大きかっただろう。体格差は歴然で、およそ15キロぐらいの体重差がある。それでも小生は自分から殴りかかりたかった。

(先に自分から殴るんだ……! 行け……!)と、必死に言い聞かせたけど、足が震えてできなかった。まず指を5本に開いて相手の目にすっと伸ばせば、どれかの指はレクサスの目に入るだろうと思って、そして竦んだところを徹底的にコンテナで殴りつける気でいた。でも、どうしても足が震えてできなかった。それがとても悲しかった。

それはレクサスも同じだったと思う。だから野獣のように叫んで暴れるしかできなかったのだと思う。ヒョードルやマクレガーなどは、こういうとき、決して感情を乱すことなく、黙って静かに行為に移ると思う。もちろん、ヒョードルもマクレガーも、小生のようなクズに手を上げるという愚行は起こさないだろうが、少なくとも、目標物でないコンテナをガンガン蹴ったり、雄叫びを上げたり、足をガタガタ震えさせて立ち止まってしまうということはないだろう。こういうとき、どちらも一緒だ。コンテナをガンガン蹴るのも、足を震えさせるのも一緒。どちらも臆している。外にでる現象は異なるけど、中身は一緒だ。

こういうとき、ただ足を動かして相手に近づいていき、手を開いて目に入れるという、自然で冷たい行動が取れない。小生はその時間を歩ける人間でありたかった。この時間を静かに、何事もないかのように歩ける、それ以上の美学があるだろうか? その5次元か6次元の世界を歩いてみたかった。でないと、自分のことを嫌いになりそうだった。

睨み合ってるうちに、同僚や上司が、どうしたんだ、どうしたんだと、とやってきた。

みんなでレクサスを囲って、肩を抱いたり、散らばったコンテナや製品を広い集めた。みんなも、偉い人も、レクサスに優しかった。怒ったりすることはなかった。レクサスは椅子にこしかけて、ポケットに手を突っ込んだまま悪い姿勢で座り、納得いかないような顔をしていた。

もちろん今だって仕事の時間なのだが、すべて許されていた。普通の会社でこれをやったらクビになりそうなものだけど、工場では許されるらしい。キレて手がつけられなくなってガンガンコンテナを蹴飛ばして製品をめちゃくちゃにしてしまっても、キレてしまった場合は仕方がないらしい。そのあと上司や工場長がいくらなだめても、ポケットに手を突っ込んで不満げに座っていることが許されてしまうのだ。

これが、くら寿司のような事件だったり、たとえば、印刷物をトイレに流したとか、印刷物の中に陰毛を入れてTwitterに挙げたとかになると話は違ってくると思うが、こういう事件はやんちゃで済まされるのだ。

レクサスのところにはみんな集まってきたけど、小生のもとには誰も寄ってこなかった。

レクサスの怒っている感情や仕草がみんなの心に響くようだった。みんな、レクサスに同情して、レクサスを座らせたり水を飲ませたり、水では不足と思ったのか、嬉しそうに自販機へジュースを買いに駆けていったりしていた。小生の分はなかった。女も、レクサスの荒々しい吐息が子宮に響いてくるようで、セックスしかねない雰囲気だった。よくわからないメガネの男も、群れの最後尾にくっついて、輪の形成に貢献していた。最後尾にくっついても何をするわけでもないのだから、お前だけは仕事してろよと、思ったが。

小生はそのとき、どんな顔をしていたかというと、もう「次」に行っている顔をしていた。「次」といったって、「次」に行くために、みんなで「今」を話し合おうとしているのに、騒動を起こした本人が、「次」のような顔をしていたため、ここでも非常に周りをイライラさせた。

このときのレクサスは輝いていた。最初に述べたように、工場には美人はいなかったけど、彼女たちは全員、小生よりレクサスを選んだと思われる。金とか、工場のヒエラルキーとか、すべてどうでもよく、例えこの工場に年収1千万の男が突然現れたとしても、レクサスが選ばれたと思われる。

みんな、小生のことなんて大して嫌いでもないけど、よくわからないダラダラしたヤツが、パラ検して、溜め込んだ製品の山があったら、なんとなく蹴り飛ばしたくなるから、代わりにレクサスが蹴り飛ばしてくれて嬉しそうだった。

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