小生は高校のとき、鞄を持たずに登校していた。
自転車通学だったが、カゴの中には何も入っていなかった。
空っぽのカゴの自転車で、住宅街、自転車道、商店街、学園通りを40分かけて通り過ぎて、学校の門をくぐっていった。
小生が自転車を駐輪場に止めて、手ぶらで校舎に向かうと、クラスメイトが窓から小生を指さした。
「なにあれ?」「朝2度目の登校?」「一度目だよ」「サイクリングかよ」「本当に何も持ってない」「マジウケる」「何しにきてんの」「もうクロスバイクでいいじゃん」「めっちゃウケる」「しまるこが鞄なしで登校してるぞ〜〜!」「本当だアハハハハ!」と、指をさして笑われた。
それは一種の学校名物だった。朝はこういったものがいちばんウケる。山あり谷ありオチありの長話より、単純に視覚に訴えるものがいい。
小生自身はウケ狙いではなく、面倒くさいから持ってこなかっただけだが、周囲はとても反応した。この指とまれといったような、家族みんなでリビングに集まって一笑するような、ゴールデンタイム番組的な汎用さがあったギャグなのかもしれない。
小生は、雨の日も、風の日も、授業が盛りだくさんの日も、鞄を持たずに登校した。
ある時期から、「朝のあいさつ運動」などという低俗な学校行事が行われた。いろんな教師が入れ替わり立ち替わりで校門に立ち、生徒にあいさつをするというものだった。
教師「お前なんで鞄持ってこないんだよ(笑)」
小生「(笑)」
という感じで、ほとんどの教師は笑って見過ごしてくれた。「朝からフットワーク軽いね〜!」と言ってくれる家庭科の先生もいた。「サッカーだったらオフサイドだな」とか「散歩?」と気が利いたことをいう教師もいた。美術教師は想像力が掻き立てられるようで、小生のことをじーっと見ていた。偏差値の低いクソみたいな生徒しか元々いない学校だから、もういまさら怒ってもしょうがないと、お互いにかわす習慣が根付いていた。じゃあ、あいさつ運動なんてやるなよって話しだがね。
「止まれ」
体育教師だけが黙っていなかった。小生は体育教師に呼びとめられた。筋骨隆々の赤Tシャツを着た角刈りの体育教師だった。
「お前なんで鞄持ってないんだ」
体育教師は流れてくるレーンの中で一つだけ不良品を見つけたように言った。
「学校の机の中に、教科書は入れてあるからです」と小生は答えた。
「じゃあ家で復習はどうするんだ」
「自宅用の参考書があるからそれでやってます」
もちろんやってなかったがそう答えた。
「それは市販の参考書か?」
「はい」
「学校で勉強した内容なんだから、学校で使う教材で勉強しなきゃダメだろ」
「市販の参考書も書いてあることはほとんど同じなので大丈夫です」
「だが学校で習う内容と、市販の参考書では、違ったところがでてくるだろう」
なんだこいつは? お前だって学校の教材と市販の教材を見比べるような勉強したことねーから体育教師になったんだろうが。仮に少しくらい違ったっていいだろ。その結果困るのは俺だし、どっちも開かない生徒より100倍マシだろ。つーか嘘だよ。はじめからぜんぶ嘘だよ。学生が家に帰って復習するなんてどこの都市伝説だよ。まあ嘘って気づいてんだろうけどな。朝から校門前で嘘つき合戦なんてしたかねーんだよ。
「お前は全部の科目の教科書を、机にしまいこんでいるのか?」
「はい」
「プリント類とか貰ったものはどうしてるんだ?」
「プリントも机の中にしまいこんでます」
「家に持ち帰る必要があるプリントはどうするんだ?」
「学ランのポケットにいれて持ち帰ってます」
「ポケットにいれたらプリントがくちゃくちゃになるだろう」
うっるせーな……。なんなんだこいつは? 俺のプリントがくちゃくちゃになろうがてめーに関係ねーだろうが。さっきから、体育教師のくせに変なところに想像を働かせるヤツだ。
「ちゃんと丁寧に折って、重ね折りしてポケットの中にいれています」
「しかし、折り目がついちゃいけないプリントだってあるだろう」
なんなんだ? なんでこんなめんどくせーんだ? てめーの方がよっぽど折り目がめっちゃついたプリントみてーな性格じゃねーか。なんでこんなネチネチしてるんだ? マッチョって大概ネチネチしてるんだよな。ネチネチして気が小さくて舐められたくないから一生懸命筋トレしたが、まだその残滓が残っているんだろう。小柄な女の子のほうがよっぽどざっくらばんとしてることが多い。
『体育教師だからってバカにするな。ちゃんと高校生よりは頭いいんだぞ?』って言いたいのがバレバレだ。体育教師は座学教師より頭が悪いと思われていて、だからいつも、生徒と知恵比べをしたくてたまらなくなっている。もちろん定期テスト上位2割に入るような生徒には負けてしまうので、そうなると活発なグループの生徒たちのところへ点数を稼ぎにいき、ノリについていけなくなると、教師ヅラをして説教をし、次は知性的な生徒のグループの方へいって、「お前ら勉強もいいけど少しはハメを外さないといい大人にならんぞ」と言って歩く。自分の立ち位置が定まらない、不規則なバウンドをするラグビーボールのような存在なのである。きっと学生時代はラグビー部で、パスキャッチに失敗してラグビーボールが頭の中に入ってしまったんだろう。
「学生がな、鞄を持たずに登校するってことがどういうことがわかってるのか?」
教師は腕を組み、仁王立ちでいった。
「学生はな、学校の看板をいつも背負っているんだ。サラリーマンが鞄を持たずに歩いていたらどうだ? その会社員が務めている会社の商品を買いたいと思うか?」
「いや、別に……」
小生はそう答えた。本当に別にどうでもよかった。小生は欲しい商品があったら、その企業の社員が全裸で歩いていても買う。任天堂の社員が頭にPS5を乗せて歩いていても、ニンテンドースイッチを買う。
教師は小生の返答にカチンときたようだった。口調を荒げながら言った。
「お前はなんとも思わないかもしれないが、みんなは思うんだよ! 同じなんだよ、その会社員と! 朝の8時に、鞄を持たないで自転車をこいでる学生を見ると、どこの高校かしら? 〇〇学園? いったいどういう教育をしているのかしら? うちの子を入学させるのはやめておこうかしら? ってことになるんだよ!」
なるほど。近所のババアたちのために鞄を持てと言いたいのか。まあ、言ってることはわからんでもない。それがお前の授業か。座学教師の真似事をしてみたわけか。
小学校でも中学校でも会社でも家庭でも、どこでもいえることだが、不良より昼行灯タイプの方が怒られてしまう。
小生の高校には不良がいっぱいいた。もともと偏差値40くらいの学校だったので、学ランを全開に開けていたり、腰パンをしたり、ローファーの踵が潰れていたり、はなわのような髪型をしたり、派手な化粧をしたり、鞄を持たないよりずっと学校の風評を悪くしそうな生徒がうじゃうじゃいた。しかし、そういった生徒たちよりも、鞄を持たない生徒の方が怒られてしまうのだ。
不良は学校カーストのトップに位置しており、発言力がある。その支配力は教師にも及ぶ。また、不良は高校生らしくてどこか青春の匂いがする。不良は正良なのである。エロゲーを制服の裏ポケットに入れているオタクよりずっといい。不良を怒る方も怒られる方も健全だ。健全な学園ドラマを模倣しているような安心感がある。この崩れた時代に残された最後の希望として重宝されている節すらある。また世故に長けており、人と関係を築くのがうまいから、教師も強くいえない。だから不良は見送られる。
しかし鞄を持たない、昼行灯タイプの、仕事のできないサラリーマンの卵のような学生は、どれだけ怒っても怒りすぎることはない。怒るのに遠慮はいらないとされ、これ以上ないサンドバッグにされる(鞄がないのにサンドバッグにはされてしまう)。
勉強もやらず、スポーツもやらず、いったい何のために学校にやってくるのか? 働かないくせに飯だけは食いそうな、一度も人生に本気にならないまま終わりそうな、不良よりずっと不良品。見ているだけで、こたつの中でみかんを食ってる自分をそいつの中に見出してイライラしてくる。なんだこの生産性のなさは? 学生とはいえ、時間の無駄使いをしている人間を見ると人は我慢ならなくなってくるのである。そのうえ鞄を持ってこないだと?
社会をなめるな。社会はそんなふうにできてない。そんなんで通用すると思うなよ? 鞄を持たないで登校するだと? 大人をなめるな。反社会的な芽。大人への反抗。大人への反抗なのかこれは? 摘み取ってやる!
(以下、体育教師の回想)
俺はとっくに芽を摘まれてしまった。俺は職員室でいつも馬鹿にされ、肩身が狭い思いをしている。体育教師だからという理由で発言を低くみられ、俺の提案だけいつも却下される。俺が挙手するだけでニヤニヤされる。力仕事だけは回ってくる。「我々と同じ教師と名乗ってもらいたくないものですな」「この前ライザップの新規従業員募集してましたよ」と、そんな声が聞こえてきそうな気がする。
俺が鞄を持たないで職員室に入ったらどうなる? 考えただけで恐ろしい。全身の血の気がひいていく。何も言われないだろう。誰も何も言わないだろう。その無言が怖い。視線が怖い。みんな無視して静かに事務仕事を続けるだろう。その静けさが怖い。その静けさがチクチク刺さるたびに筋肉が分解していきそうな気がする。その視線が刺さるたびに、俺は自分を変えてきた。それが今の俺だ。鞄を持たないお前の姿を見て、俺の、この変え続けてきた俺の努力を否定された気分になった。
こんなことはあってはならない。ぜったいにあってはならない。鞄を持たないだと? バカバカしい! バカバカしくて怒る気にもなれん。どうして他の先生たちは無視できて、俺は無視できないんだ? どうしてこんなに胸が熱くなるんだ? 別に鞄を持ちたくないとは思わんが、頭で押さえつけてきた俺を見せられているようで、社会に順応するためにとうに捨てた自分を、まざまざと見せつけられているようで、摘んだと思った芽が生えていたようで、むしり取りたくなってくる……!
なぜほかの先生たちはこの生徒を怒らないんだ? ユニークなジョークだけ言って、特に注意をしなかった。俺だけ反応してしまった。俺だけやっぱり頭が悪いのか? 俺だけセンスがないのか? 俺が体育教師だから反応してしまうのか? 反応しない練習? 俺が間違っている? そんなわけがない! 鞄を持ってこないんだぞ!? 一周まわってそういう解に達したのか? 俺だけ一周まわれなかったのか? 俺だけガチで反応してしまう。俺だけ生徒と同じレベルだから反応してしまうのか? やっぱり俺は生徒と同じレベルなのか?
看板は……、俺も背負ってるんだ。俺は女子生徒に言い寄られたら関係を持ってしまうだろう。午前中は昼飯をどこに食いに行くかばかり考えている。定時になったら学校と関係のない人間の顔になって去っていく。だから本当のところで強く言うことができない。生徒たちにもそれがわかるんだろう。見下げた看板を背負ってるのは俺もそうなんだ。
別にお前が鞄を持たないのを羨ましいとは思わない。不便だと思うし、鞄を持たずに職員室に入りたいとも思わない。だが、その他人の目を気にしない態度が気にいらなかった。人と違うことをしたらもっと赤面してほしかった。もっと気にしてほしかった。もっと俺のことを気にしてほしかった。もっと慌ててほしかった。もっと困ってほしかった。もっと俺に……。
(回想終わり)
「……」
小生はすべて理解した。すべてを理解した小生は、鞄を持つことにした。一緒に負けてあげることにした。教室カーストと職員室カーストの底辺同士、手を繋ぐことにした。鞄という社会の重荷を一緒に背負ってあげることにした。なぜなら、体育教師は小生に寄せることはできないが、小生は体育教師に寄せることができるからだ。
※
「しまるこがきたぞ!」「しまるこだ!」「鞄持たないでやってくるぞ」「これがなきゃ朝が始まらんからな」「笑ってやろうぜ」「ほれ、みろ、あそこだ……」
?
それは、何も入っていない鞄だった。小生の鞄だけ異常にふにゃふにゃしていた。空気の抜けた浮輪みたいだった。そこには紙一枚入っていないことは明らかだった。
「うーわマジかよ」「つまんねー」「まさか体育教師に怒られたぐらいで自分のスタイル曲げるヤツだったとはな」「持ってる鞄みたいにふにゃふにゃした野郎だ」「なんだあのEDみてーな鞄は」「見損なった」「毎朝楽しみにしてたのに」「死ね」「チッ」「あの鞄なら持たない方がマシだろ」「持つ方が嫌味だよな」「卒業まで一回でも開くことあんのかよ」「小テストやる気なくした」「学校くるな」
小生は自分の席につくと、鞄を机のフックにひっかけた。
「ひっかけてんじゃねーよ捨てろよはやく」「捨てろっていってんだそれをはやくバカが」「バカじゃねーか」「ばーか」「死ね」「お前が鞄持ったらお前に何が残るんだよ」「お前の仕事は鞄を持ってこないことだろ」「お前は鞄を持ってこないために学校に来るんだろうが」「ちゃんとやれ」「昨日をこえるつもりで今日鞄を持ってくるな」「はやく捨てろ」「そのいかにも建前しか入ってないらしいそのイライラする鞄をはやく捨てろっていってんだろバカが」「その見てるだけでイライラする鞄をはやく捨てろ」
小生は机の中から一限の授業である現代文の教科書を取り出した。
「やっぱり机の中から取り出してんじゃねーか」「マジで意味ねーじゃん」「鞄なんの意味があったんだよバカが」「意味ねーことしてると殺すぞ」「教科書机の中から取り出すんだったら鞄持ってきた意味ねーだろマジでバカが」
小生は静かに授業の開始を待った。目を窓にやると、校門に体育教師がいた。登校する生徒にあいさつをしていた。