霊的修行

カラスが椰子の木に降り立った瞬間に、椰子の実が落ちた。時間と空間の中では、この二つの出来事は関係しているように見えるが、実際には何の因果関係もない

世界の中に私たちがあるのではなく、私たちの中に世界がある。

では、どうやって世界が作られているかというと、精神的条件付けによってである。

精神的条件付けがないところに世界は存在しない(存在できない)

「カラスが椰子の木に降り立った瞬間に、椰子の実が落ちた。時間と空間の中では、この二つの出来事は関係しているように見えるが、実際には何の因果関係もない」聖仙ヴァシシュタ

まったくもって不思議な話だが、世界は世界として直接認識されず、ただあらゆる誤見、条件づけだけが蔓延っている。知識から得られるものは全てこれである。今日も今日とて我々は、本やネットを行き来して条件付けを探し回っている。これまでの精神的条件付けを基礎にしながら、また新しい条件付けを得ることに余念がない。空想のさらに空想の拍車をかけているのだ。

話せば話すほど、考えれば考えるほど
ますます真理から遠ざかるばかり
話すことも考えることもやめなさい
そうすれば知り得ないものは何もない

277 「条件付けられたものはすべて、無常である」(83)と、 叡智によって理解したならば、苦しみはなくなる。 これが清浄に到る道である。

278 「条件付けられたものはすべて、苦しみである」と、 叡智によって理解したならば、苦しみはなくなる。 これが清浄の境地に到る道である。

今枝 由郎. ダンマパダ~ブッダ 真理の言葉~ (光文社古典新訳文庫)

これもよく聞く話ではあるが、物事それ自体が私たちを苦しめることはない。物事に対する私たちの解釈が私たちを苦しめるのだ。この精神的条件付けがないところに苦しみは存在しない、というより世界が存在しない。世界はそれ自体が作り出されているわけではなくて、私たちが条件付けをすることによって作り出されているからである。

こうして、この世界は、私たちの条件付けによって作り出されているのだから、真実ではない。すべて空想、想念、想像による産物である。空想によって苦しめられ、想像によって疲弊する。夢に過ぎない。

悟りにおいては何も考えないことが大事とはいわれているが、条件付けをしないことが、想念や思考、世界を消し去る唯一の方法である。

『信心銘』

大いなる道は難しくない
選り好みをせず
愛することも憎むこともなければ
すべてははっきりと明らかになる

たがわずかでも分別をすれば
天と地は遙かにたる
真理を実現したければ
賛成や反対の見解を抱いてはならない

一つを嫌い一つを好むことは
心の病だ
物事の本質を理解しないとき
心の平和は徒に乱される

道は大いなる虚空のように完全で
欠けたところも、余分なところもない
ただ取捨選択するために
物事の本質を見極められないだけだ

外界に巻きこまれてはならない
空という概念にもとらわれてはならない
物事と一つになって、ただ静かにしていなさい
そうすれば誤った見解はひとりでに消え去る

(中略)

分別心が起こらなければ、心は存在をやめる
主体である心が消えれば、対象も消え去るように  想いの対象が消えれば、想う主体も消え去る

私たちは何かものを見るときでさえ、それを見てはいない。ただ条件付けをしているだけである。妻に会っても母に会ってもすれ違う街人に会っても神に会っても条件付けをしているだけである。これまで集めてきた条件付けを下敷きにしながら、また新しい条件付けによって粘土細工のようにもて遊んでいるだけである。神もそれと変わらない。

神でさえ、その人の想像の産物に過ぎない。神は存在しない。小我が消え去ったときにあらわれるのが神であり、小我とは精神的条件付けのことである。精神的条件付けによる神は神ではない。それゆえ、ブッダもクリシュナもイエスも存在しない。その人の想像のなかに住んでいるだけである。

だから、本当は何も実在しない。神も人間もどんな知識も存在しない。どんな神学的概念も存在しない。すべて精神的条件付けによって作り出された偽りの世界であり、精神的条件付けのないところにしか神は存在しない。

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