小生は自動車の運転が下手で、相当に意識を集中していないと、すぐに事故を起こしてしまう。小生はこれまで2回、累計点数が6点になり、2回、違反者講習に行った。
結婚相談所では、「初デートは必ずドライブに連れて行ってもらいなさい」と女性はアドバイスされるらしい。運転にその人の性格が表れるからだという。これは教習所でも言われた。小生は運転しているとき、「バッキャロー!」とか「ぶっ殺すぞ!」とか、引っ越しババアのようにずっと怒鳴っている。前のバスが搭乗者の乗降のために停車していると、待ちきれずにイライラして、片側一車線だとしてもバスを追い越そうとして、ちょうど向かい側からきた車とぶつかりそうになったことがある。そのとき向かい側の運転していた女の人の顔が忘れられない。
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ある日、TSUTAYAの入口の押し扉を、とあるお姉さんが押し続けていた。子供を中に入れさせるつもりだったらしい。子供の後ろに続いて小生も入っていった。一緒にいた友達に、「すごいよ。お前、あれはすごかった。俺、あの女の人の顔、一生忘れられないわ」と言われた。小生はその女の人の顔を見なかったのでわからないが、上の運転で驚かせてしまった女性と同じ顔をしていたのかもしれない。もしかしたら同じ女性かもしれない。
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仕事の送迎で、軽自動車の後部座席に3人乗せてきてしまったことがある。雨で濡れた靴のままフロアを歩いて床をビチャビチャにし、患者さんを転ばせてしまったこともある。カルテの患者さんの名前を書き間違えたので、名前を二重線で消して、その上に正しい名前を書いて、「どうしてこういうことができるの?」と上司に言われたこともある。パスタ屋でバイトをしたときは、掃除して溜まったバケツの水をキッチンに流した。
俗にこういうのをADHDというらしいが、小生は自分をこれにカテゴライズしていない。実際にそうかそうでないかは置いておいて、自分のことをADHDと言っている人間が好きではないからだ。
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実家に帰った。
2階にあったタンスを1階に運んだ。高さは180㎝ほど、奥行きは60㎝くらい。不用品回収に出すためだ。
この大きさのものを一人で無理して運んだ。床を引きずりながらいったら、階段の滑り止めをぜんぶ壊してしまった。
「ねえ、なんでこういうことするの? 15時に回収の人が来るんでしょ!? そのとき運び出してもらえばよかったじゃん! 一人で運べるものじゃないでしょ!」
母に怒られてしまった。小生はもうすぐ35歳だ。
小生はなぜこんなことをしたのか。バカなのか。バカには違いないが、それ以上に欲に囚われていた。
ミニマリストの性がじっとしていられなかった。綺麗な部屋を見たかった。すべて断捨離した後の、スッキリした部屋をはやく見たくて、15時まで待てなかった。
小生は掃除が好きである。ゴミ屋敷を見ると掃除したくなる。友人の部屋へ遊びに行くと掃除したくてたまらなくなる。起動に10分かかるノートパソコンを使ってる人を見ると捨ててあげたくなる。いつも寝てばかりのくせに、物を捨てたり、片付け作業になると、みんなが休憩しているときでも、小生だけはまったく休まず捨て続ける。本当に捨てるのが好きだ。友達の部屋が散らかっていると、お願いだから掃除させてと言って、目に映るものを勝手にほとんど捨ててしまったことがある。
いつも捨てられるものを探している。これも十分に物に囚われているというのだろう。
「15時に業者さん来るんでしょ? そのときに運んでもらえばよかったじゃん」
母はそう言った。小生は朝の7時に運んでしまった。15時まで待てなかった。
本当に大変だった。階段からタンスを下ろしていると、途中で天井が低くなるところがあり、ちょうどすっぽりタンスが階段に埋まってしまった。
「ちょっと! 2階に行けないじゃん!」
洗濯カゴを持って現れた母親が下から叫んだ。これから2階のベランダで洗濯物を干したいらしい。タンスを2階へ戻そうと思っても、ぴったり綺麗に埋まってしまったから、どうしようもできなかった。横もほとんど隙間なく埋まってしまったので、裏にすら回れなかった。
「えっなにこれ」
今度は姉ちゃんが出てきた。朝食を食べ終わったから、2階の自分の部屋に行きたいらしい。
「えっ仕事遅刻するんだけど」
「……」
午前7時。一番忙しい時間だった。確かになぜ小生はこんな時間に運ぼうとしたのだろう。朝7時。家庭内の導線がいちばん荒れる時間帯だ。
小生は現在、自営業で週に一日だけ働いて、残りの6日は一人暮らしニートをしているから、仕事という概念がなかった。朝の7時も夜の7時も変わらない。だから、朝の7時に誰かが仕事に行くという発想がなかった。昔はあったのだが、数年前からなくなってしまっていた。
「ねえ、本当に遅刻するんだけど」
9年ぶりに姉と話した。小生と姉は世界でいちばん仲の悪い兄弟で、何十年も同じ家で過ごしてきたが、ほとんど会話をしたことがなかった。最後に話したのは小生が25歳の頃だったか。小生が姉のチキンラーメンを勝手に食べてしまい、「50円払って」と言われたので「わかった」と返した。それが最後だった。
小生にも小生の計算があった。本当は、姉が仕事に行くことを計算していなかったわけではない。姉はご飯を食べるのが非常に遅く、なんと朝食を食べ終わるのに30分かかるので、その間に運びきれると思ったのだ。タンスの中身をぜんぶ抜いたら案外軽かったので、30分? 5分もいらねーよ(笑)と思って、小生は作業の開始に踏み入ってしまったのである。
「本当に迷惑なんだけど」 「ほんと、余計なことしてくれるよね」
「…………」
ブツブツいわれながら、タンスと格闘するのはつらかった。なんでここにタンスがハマっているんだろう? これは一体なんだ? 本当に俺がやったのか? すごい存在感だった。ぬりかべ? ドッスン? ファンタジーの世界に見えた。写真を撮りたかったけど、スマホは2階だった。
しかし、なんとかなった……!
とにかくすごく頑張って、無理やり引きずりだすことができた! そしたら今度は、激しい摩擦で、木屑やら破片やらがたくさん散らばってしまったので、小生はそれを雑巾で拭くことにした。
すると2階から、「ちょっと何これ!」と姉の叫ぶ声がした。
台所の流しが詰まってしまったらしい。どうやら2階の洗面器は勢いよく水を流すと、すぐに詰まってしまうらしい。小生は長男としての誇りを取り戻すべく、せめて後片付けぐらいはちゃんとしようと思って雑巾を濡らしたのだが、洗面台は、木クズやらが相まって、奇跡体験アンビリーバボーでよくやってた津波で流される家々の映像みたいになってしまった。汚水が湖みたいに溜まってしまって、人喰いネッシーが出てきそうだった。
「歯磨けないんだけど」
姉が言った。
別に職場の男とキスするわけでもねーし、お前の歯が汚れていても、待ち受けている今日の未来は変わんねーよと思ったけど言わなかった。
今日はよく姉と話す日だ。9年分話した気分だった。
「ねぇお姉ちゃん、仕事間に合うの?」と母が姉に尋ねた。
「わかんない」と姉は言った。
姉はいつも7時45分に家を出る。女というものは、7時45分に家を出るとしたら、5時半に起きて、シャワーを浴びて、お弁当を作って、化粧をするものだと思うが、小生の姉はいつも7時に起きていた。そして30分かけて朝食を食べて、歯を磨いてうんこをして、5分で化粧をして、7時45分に家を出る女だった。いや、女なのかもよくわからない。お兄ちゃんなのかもしれない。仲が悪いから、性別もよくわからなかった。
「この流しはちょっとずつ開けないとすぐ詰まっちゃうから、気をつけなきゃなんないのに」
イライラしながら母が言った。
んなもんしるか。じゃあ洗面所の鏡に張り紙をくっつけとけ。たまにしか実家に帰んねー俺にわかるわけねーだろ。一体なんなんだこの家は? なんでこんなボロいんだ? ボンドで作られてたのか? 俺は本当にここに何十年も住んでいたのか?
「本当余計なことしてくれるよね」 「こんなことするくらいなら帰ってくんなよって感じだよね」
2人でブツブツ言っていた。
「ねえ、大体、たまにしか家に帰ってこないのに、何でそんなに部屋を片付けたいわけ?」
母は率直に小生に疑問をぶつけてきた。
「…………」
上級ミニマリストは、実家の部屋も綺麗にしたくなるのである。上級と中級の違いはそこにある。たまにしか帰ってこない実家の部屋を、家族に迷惑をかけてまでミニマムにする者が、上級ミニマリストと称される資格をもつ。
小生は、台所の詰まりを解消できそうな細いブラシのようなものを探すために、1階へ降りていった。箸もスプーンもあるけど、汚れていいものとなるとなかなか見つからなかった。台所の棚をたくさん開けていると、2階から声が聞こえた。
「なんかさ、あいつが独身なのわかるよね」 「ぜったい結婚したくねー」
それは、女が合コン中のトイレで語る男性評に似ていた。
久々に本気で人を殺したくなった。細いブラシは見つからないけど、包丁はすぐに見つかった。
小生も悪い。いや、小生が悪い。小生はこれだけのことをしておいて一言も謝らなかった。しかし、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。謝りたかったけど、タイミング的にうまく切り出せなかった。家族相手だと素直に謝りづらかった。
しかし、「こんなことするくらいなら帰ってくんなよって感じだよね」「ぜったい結婚したくねー」の言葉が許せなかった。こういうことを言われると、かえって家中を破壊したくなってしまう。だから、悪いことをした人間に悪く言うことは逆効果なのだ。
どうしてこんなことを平気で言えるんだろう? お母さんでしょ? お姉ちゃんでしょ? 家族でしょ? どうしてそんなひどいことを言うの? 小生とこいつらは本当に血が繋がっているのか? 小生がやらかしたこともひどい。でもそれだけ暴言を吐いたのならイーブンだろう? だから謝らない。それでいいだろう。そんなにひどい悪口を言うのだったら、小生はもう謝らなくていいはずだ。小生の脳内では、こういった計算結果が叩き出されていた。
いや、しかし、今こうして俺が書いている悪口も十分同じレベルか? くそ! 家系譲りかよ! 小生の性格がこんなに捻じ曲がってしまったのは、家系の血か! じゃあしょうがないな。血が悪いんだから小生のせいじゃない。
※
結局見つからなかったので、手ブラで2階に戻った。姉は排水溝を割り箸でほじくって直そうとしていた。
「お姉ちゃんもういいよ。あとはあいつにやらせよう。1階の洗面台使いなよ」と母が言った。
あいつ? やらせる?
だから、言っていいことと悪いことがあるだろうが。母親のこの口の悪さは今に始まったことではないが、34年生きてきて、とうとう慣れることはなかった。ミスをして人に迷惑をかけた人間には何を言ってもいいと思ってるのか? そこまで人権を無視したら魔女狩りじゃねーか。なんで家庭内で魔女狩りが行われているんだ? 俺は悪い魔法使いか? ここは中世のキリスト異端審問所か? へぇ、知らなかった。しばらく実家に戻らないでいたら、うちの実家は異端審問所になっちゃったんだ〜〜〜!
冗談はさておき、あのな。だから家庭内殺人が起きるんだよ。ニートが母親殺すんだよ。用件だけ言えばいいだろ。用件だけを。
『壊れたすべり止めを弁償して』 『詰まった洗面台を直して』
これだけでいいだろうが。グチグチいう必要がどこにあるんだよ。こっちは悪いことしたってわかってるんだから、あとは俺がどう責任取るか、それだけだろうが。感情がいらねえっつってんだよ。感情が。感情が余計なんだよ。なんでどいつもこいつも感情を抜きにして用件だけで話せねーんだよ。まぁ、今の俺は感情しかないけどな!
俺はてめえの半分しか生きてねぇけどそれができるぞクソババア。俺はお前より三つ若いけどそれができるぞクソブス独身女。
こんなのと結婚したくねー? こっちのセリフだよ。そっちのセリフでもあるけど、こっちのセリフでもあるんだよ。独身女、いつもトイレのドア開けながらウンコしやがって。1階のトイレは母親の領分。2階のトイレはお前(姉)の領分になってるからって、扉開けながらウンコしてんじゃねーよ。バカじゃねーの? 弟が帰ってきたときぐらい閉めろよ。わかってるよ。2階はお前の独占空間になってて、ドア開けてウンコするのが癖になってて、もうドア閉められない身体になってんだろ? だから急に俺が帰ってきても、対応できねーんだよな? まぁ、わかるよ。俺もこっちのマンションじゃドア開けてウンコしてるからな。兄弟で似たようなことやってんだな。まぁ、一人暮らしのOLはみんなやってるかもしれんが。楽だしな。別にいいけど、よくそれで人の結婚がどうとか言えるな。
小生は感情を抜きにして用件だけを話すことはできるが、朝の7時にタンスを運ばないということができない。だから、感情を抜きにして用件だけを話すことができる妻と結婚したとしても、いずれ感情を芽生えさせてしまうだろう。
小生はこの部屋を8時間はやく見たいがだけのために、今回の犠牲を払った。
【before】
【after】
ただこの景観を見たいがために、小生は……。
小生は……。