ブログ・文章論

今目の前にあることを書くことでブログを更新する

ブログを書き続けてわかったことがある。ブログを書き続けるいうことは思ってたより大変だ。ただちょっとした記事を書くだけなのに、めんどくさい。仕事から帰ってきて、書く気になれない。

 

ブログを書き続ける理由としては、広告収入目当てだ。お金が欲しい。お金で自由を買いたい。もう一つは魂の浄化。人として生まれたからには、何かをやらねばならない。世の中にはやらなければならないことなどないかもしれないが、何もしないでいると自分の魂が腐っていくのがわかる。一日中ネットやテレビを視聴して終わってしまうと、また今日も魂が腐ったなと実感する。

 

魂の浄化のためには、誰かのために何かするのがいいという。今、俺は介護の仕事をしていて、誰かのために何かをできる立場にある。みんな俺のマッサージを楽しみにしてくれている。その為に、精一杯になって身体の痛いところを取り除いてあげたり、気持ちよくさせてあげたり、運動能力を向上させてあげたり、よく話を聞いてあげたり、できることはいくらでもある。これらをやってあげると、魂にとっていいことをしているな、と感じる。

 

なぜ、そんなに魂の浄化にこだわるのか。人間が生きることで、この上なく重要なことは、自身の魂をキラキラに輝かせることだと思うからだ。キラキラに輝いた魂は美しく、周りの人間にも伝染する。そして、俺の心の一番確かな部分が、それこそが人生の一番大事なことだと、確かにそう訴えるからだ。

 

また、最古の物語? といわれるアーサー王物語でも、魂が気高いことこそが、人間にとって一番大事だと書かれてあったからだ。黎明期に近づけば近づくほど、物事は何でも素晴らしいので、最古の物語であるアーサー王物語がそういうのなら、魂の問題が一番重要ということになる。

だが、俺は仕事で手を抜いてしまうことがある。気をつけているが、マッサージを流れ作業のように終わらせてしまうことがある。俺のマッサージは手抜きだ、とクレームになったことが何度もある。俺にとっても、相手にとっても残念なことだ。色々反省したが、これは直らないような気がする。つい、ぼーっとしてしまう。ブログでこんな高尚なことをいっておいて、逆のことをしてしまっている。

 

世界最高の作家として数えられるバルザックは、1日に10時間以上の執筆をしたそうだが、法律事務所で仕事をしていたときは、使い物にならず、忙しいときは、事務所から来ないでもらいたいと宣告されたことがあるらしい。古代ギリシャの時代の天才作家ソポクレスは、兵役として招集されたときは、ぼーっとしていてよく怒られていたらしい。ずいぶん昔を見渡してみても、創作するために生まれた人間というのは、夢遊病のような、つねにぼーっとしており、自分の脳内にあらわれては消える活字と格闘することに追われてしまう宿命があるのだと思っている。

 

俺も彼らと同じなのだと勝手に思っている(笑)。どこからくるかわからない活字に毎日追われている。毎日、考えている。感じている。他の人間になったことがないのでわからないが、みんなこんな感じでいつも活字に悩まされているのだろうか? 他の人は、俺より雑念が少ないような気がするが。

 

仕事はしっかりやりたいし、目の前の利用者の力になりたいと思う。だけど、どうしても雑念に邪魔されてしまう。マッサージをしながら、ずっとろくでもない事を考えている。工場で働いていたときも、突っ立ったまま、ずっとぼーっとしていた。

 

こうして文章を書いているときは、自分の雑念と、書くことが一つになっていると感じる。だから、向いているんだと思う。こういう仕事をしなければならないんだと思った。それで辞めようと思った。そう、魂の浄化のために。

 

有り難いことに、辞めるといった俺を、何度も説得してくれる上司がいる。俺が辞めたら悲しむ利用者もたくさんいるようだ。もう少し、続けてみてもいいかな、と思う自分もいる。

 

だけど、人間の一生は短い。瞬間瞬間を大切にしたい。一日の中で無意味だと思う時間を限りなく減らし、最高の時間だけで圧縮したい。そんな人生を送りたい。瞬間、瞬間に死んで生まれ変われるような、なんの執着もない、自由そのものでありたい。ふと浮かんできたアイデアを大事にしたい。これは素晴らしいと思ったアイデアを作品として形にしてみたい。浮かんでくる他愛もない活字の中から、真実だけを見いだせるようになり、それを文章で綴れるようになりたい。だが、ほとんど毎日、テレビとネットで無駄に過ごし、ちんこにティッシュを貼り付けたまま、横になっていることが多い。

 

10代、20代は煩悩に振り回されるだけで、それを形にすることができなかった。30代になって、初めて、すらすら文章を綴れるようになってきた。自分の核というものが見えてきたのか。あるいは、自分というものがなくなって、自然界の受信機になり得ることができたのか、とにかく文章を綴ることに苦がなくなってきた。魂が熱く燃え盛って、自分でもいい仕事をしている、と思える瞬間がある。だが、まだまだ迷ってばかりいる。時間を忘れて本気で打ち込めたらいいのだが今の俺は2,3時間が限界だ。バルザックや、アイザックアシモフのような作家は一日中ずっと書き続けられたようだ。俺もそうなりたい。結局、天才の尺度は、ずっとやってられるかに尽きると思う。抵抗力が働けば働くほど、書けなくなる、これは自然本来の流れに逆らうことを意味する。

家に帰ってからはブログを書く気になれないので、仕事の運転中に音声入力でブログを書いている。初めは相当に苦労して、言葉が全然出てこなかったが、最近は書けるようになったので、その方法を説明する。

 

音声入力で大事なことは(キーボード入力でも同じだが)、話したいことだけを話すということだ。川の流れに逆らって、山の頂きを目指すような書き方はよくない。まず朝の話をして、昼の話をして、といったように時間軸を追ったり、順番通りに丁寧に話そうとすると上手くいかない。今、胸の中にある言葉だけを、声に出すのだ。過去も未来も取り合わない。今、感じていることだけが重要なのだ。

 

常に人間の頭は何か考えている。そこには過去も未来もなく、突然降って湧いてくる、とめどない何かだ。それを話すだけでいい。がんばって無理に思い出そうとしたり、順序よく書き進めようとしたり、書きたくないものを書こうとすると、止まってしまう。頭の中を一回一回、何度もリセットすることが重要だ。白紙にすると、ふわっと言葉が生まれてくる。生まれた言葉をそのままデバイスに移すだけでいい。考える必要はない。考えて書いていたらすぐに限界がきてしまう。書いていても楽しくない。ふわっと浮かんだ言葉を移す。そうすると、またふわっと浮かんでくる。そしたらまたそれを書き写す。

 

過去や未来に心がいってはいけない。ただ、ど真ん中の繰り返し。リセットの繰り返し。瞬間瞬間に生まれ変わらなければならない。瞬間に生まれ変わる癖がつけば、延々と書き続けられる(俺は3時間ぐらいが限界だが)。もっといい方法があるかもしれないが、俺はこのやり方が今は最善だと考える。人間の能力なんてそうそう変わらないので、真似したら誰でもできると思われる。

 

会話ではスラスラ話せるけど、文章や、独白となると、急に続かなくなってしまう人がいるだろう。それは、誰かと話すときは、相手の言葉に反応しているから続くのだと思われる。今という現在だけを追っているときは、相手が誰であろうと。会話は続く。会話が続かないときは過去や未来に気持ちが行っている。心が急いでいる。

 

人間のほとんどのミスの原因は焦りだ。焦ると、今ここにある現在に、心の焦点が合わなくなる。過去や未来にいったりきたりしてしまう。文章を連続でスラスラ書き続けるということは、過去や未来に心を捕われないようにする試みといえる。落ち着いて、心を現在にあり続けることができれば、仕事中のミスも減るだろう、もっと会話を楽しめることができるようになるだろう(俺は雑念ばっかりで仕事をよく手抜きしてしまうから、この理屈と辻褄が合わないが)。

 

そして、正直に話すことが大事だ。正直に話せば、いくらでも人は話せる。嘘によって平気で話せるように人はできていない。小説のようにフィクションの話だったとしても、その中には作者の心の中にある真実が、物語を作っている。嘘をつこうとすると、とたんに心は現在から離れていく。普段人と会話しているときでも、嘘をつくのは面倒臭い。疲れてしまう。正直に話し続けると楽になれるように人間はできている。

 

今胸の中にあることを延々と話すようにする。そうすると、同じメッセージだけがずっと続いてしまって、進展性に欠けると思うだろうか。その心配はない。今あることを話しきってしまうと、それについて興味がなくなる。また新しい「今」がやってくるので大丈夫だ。そうしてずっと繰り返される「今」だけを話していれば、文章はずっと続いていくし、内容も進展していくし、終わりを迎えることができる。初めから、流れを計算してしまってはいけない。ただ「今」を繰り返しているだけでいいのだ。

 

実は俺は出会い系ブログを書こうと思っていた。俺はこれまで出会い系で80人ぐらいに会った。本当によくのめり込んで、1日3人の女性と会ったこともある。とにかく恋愛をしたかったし、セックスもしたかった。本やブログで女性心理というものを勉強しては、実際に出会って実験した。その過程の中でたくさんのことを学んだので、それをブログで発表したくなった。

 

80人との出会いを、初めて会ったときから順に、一人一人のエピソードを克明に思い出して記述しようとした。だが、全然書けなかった。というより、書く気がしなかった。面倒くさくて堪らないのだ。思い出す作業も進まないし、どこで何時に何をしたとか、書いていてもつまらないし、嫌になってなってしまった。それでも懸命に書き続けて、出来上がった記事は、全く面白くなかった。文章はそのとき、感じた心を、熱いままに書き出さないと、書けるものではない。書けてもつまらないことがわかった。

 

今、出会い系の記事に再び挑戦するのなら、出会い系に関して、たった今感じることだけを順番を気にせずに書こうと思う。そうでなければ書き進めるのは難しい。80人のエピソードでも、ぶつ切りで、断片的に浮かんだことだけをただ書いていく。そして、それらをあとで編集して、順番通りにまとめれば、なんとか形になりそうだ。まだ、やってないが、おそらくこれで書けると思う。今は他に書きたいことがあるので、後回しにしている。やってみて、だめだったら、それを記事にしてもいいと思う。まぁ、そのときにはまた新しい発見があるだろう。

 

俺は文章だけでなく、大喜利や、スポーツや武道で学び得たことは「今、ここだけ」だ。どの分野でも、何をするにしても、今、この瞬間だけの世界に自分が存在し、瞬間瞬間に自分が死んで生まれ変わるという体験を繰り返し、この謎に満ちた地球を自由に生きるようになること。芸術も科学もスポーツも武道も、全てはこれを習得するための学習装置なのだと思っている。

 

 

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