カラマーゾフの兄弟を久し振りに読み返していたら、やっぱり宗教色が強いなぁと思った。一巻を読み終えたばかりの感想だと、教会と国家の関係についての記述で気になることがあった。
ドストエフスキーの思想には、教会が国家より上に位置していなければならないというものがある。教会が国家を先導して政治を執行するということだ。法の裁きよりも神の恩寵を選ぶ。
教会がトップに立って政治を主導すれば、自然とその神聖さが国家全体に伊吹き、懺悔、祈り、愛といったものから国民は出発することになる。
では今回は懺悔について取り上げて考えてみる。
この法治国家の元では、どちらの言い分が優れているかと、どうしても勝ち負けで考えてしまう。相手の欠点を深くたくさん炙り出し、判事に提出する。正しいか間違っているかでしかものを考えず、絶望的に聖性というものが欠けている。
人の究極の目標は本当の人間になることなのに、競争社会ゆえに競走ばかりに明け暮れ、いちいち目の前の戦いに勝利して喜んだり悲しんだりしているうちに人生が終わってしまう。
絶対的な指導者がいない。結局なんなのか。どうすればいいのか。誰の言うことが正しいのか。何を目指せばいいのか。誰が偉いのか。誰の言うことを聞けばいいのか。誰に何を話せばいいのか。
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これらもあてにしていいのかよくわかったものではない。本当の人間の進むべき道を照らしてくれるわけではない。本当の本当のところでは誰にも何も言えない。部屋の隅で膝を抱えてうずくまるしかないのである。
もともと、どう進むべきかは我々の心の中にいる神が、いつも、絶え間なく語りかけてくれているが、それでも、物質社会で汚れた我々の鼓膜では、なかなか聞き取れるものではない。
聖書。賢者が残した書物。その教えに従ってる生きていくのもいい。しかしそれもなんだか寂しい。目の前に確かに感じられる英傑のオーラが重要だ。
信仰は決して醜いものではない。達観して愛にあふれた人はどこにでもいる。優しい人は多い。自分の家族のように社員を大事にする会社経営者。どんな困難にもめげずに夢を追い続けるニート。何を言われても決して怒らない人。しかしその人たちですら、本当の高潔な精神から生きているわけではない。
我々がいまどうしようもなく行き詰まって、何をどうしても拭いきれないこの不安と気持ち悪さは、何に立脚し、何を追いかけていいのかわからないからではないだろうか。
懺悔なんてものがなんのためにあるのかずっとわからなかった。
昔は確かにこの人こそ神の化身だという人がいただろう。長老みたいな偉い人がいて、毎晩その人に懺悔する生活があったのだろう。
本書にそんなシーンが書かれてあったが、まじめに罪の告白をすることはなく、「俺がお前に対して怒ってることにするから話を合わせてくれ」と、懺悔を捏造する人にあふれていた。
たった一人、成熟した長老みたいな偉い人がいて、教会にいって懺悔する。反省、後悔、心のゴミをすべて掃除する。これでもかと思いっきり誰かに話を聞いてもらうということ。なかなか親友や家族にも話せないことはあるし、忙して聞いてももらえないこともあるだろう。誰かに話すことは重要だと思うが、大事なのはそこではない。真に精通した聖人を実際に感じることが重要なのだ。長老みたいな偉人の空気、オーラに触れることが重要だ。
今の時代は若者は大人をバカにしてるし、老人なんてガラクタだと思っている。自分の魂をぶつけられる存在なんてどこを探してもいないと思っている。実際にいない。そんな人はこれまでも現れなかったしこれからも現れない。
漫画に出てくるようなすごいおじいちゃんがいて、何人も地域にいて、教会みたいなところで座っていて、俺たちは日曜の夜に懺悔しにいく。そして月曜日を聖性に満ちた気でスタートさせる。誰にもいえないこと、自分とはなんなのか、それらをすべて告白していく。目の前の聖人の空気に当てられて、空間をともにしてゆっくり叡智を味わう。
と、そんなような理由から懺悔というものがあったように思われる。
リアルでもネットでも寂しがり屋が鳴いているこの世の中において、皆が一人の英傑のもとに集い、祈る文化が必要な気がしないでもない。
一番問題なのが、そんなすごいおじいちゃんがどこにもいないという点なのだが。
俺がじじいになったら引き受けてもいいと思っている。