※文章乱れてます^^
さいきん、急に150キロ投げれるようになりたいなと思って、ずっとボールを投げ込んでいた。
いつも深夜の22時頃から公園のトイレの壁に投げつけている。今のところは通報されていないが、通報されるのは時間の問題だろう。ここに引っ越してきてから、深夜にバットの素振りをしていて二度通報された。
小生はボールひとつあれば2時間でも3時間でも遊んでいられる。どんな遊びよりも楽しい。これほど安上がりな趣味はない。
長年運動に携わってきた人なら、運動はとどのつまり体重移動でしかないということに異論はもたないだろう。
腰の回転とか捻れとか、飛んだり跳ねたり、スナップとかキレとかはどうでもよく、肝心なのは体重移動である。
球速が速い人のピッチングほど、自然で大きくゆったりと投げている。ゆっくりで軽いが、体重は極めて大きく動いている。
3時間ほど投げ込んだが、翌日まったく筋肉痛が起こらない。ちゃんと効率的にボールにエネルギーを伝えた結果だろう。まあ、来週末実家に戻ったとき、明るい公園で撮ったものを載せようと思う。毎日のように凄まじい速度で進化していっているので、変化を残しておくのはいい事だろう。
武井壮も走ることを玉転がしに例えている。重心を動かすことによって身体がついてくるから、スタートダッシュで急にバッと走ろうとすると、重心が動き出す働きを妨げてしまうから、スタートダッシュは身体を前に倒し続けていくのがいいといっている。
宮本武蔵も、身体の動きにそって、手足を遅れて自然についてくるものだから、刀はゆっくり振ることが大事だといっている。落合博満や前田智徳もバットのスイングにおいて同じことをいっている。急に腰を回転させたり、急に強く腕を振ってしまうことは、正確な本来の体重移動を妨げてしまう。
さて、で、ここからがとても大事なのだが、これは精神においてもまったく同じことがいえるのだ。
精神にも体重があるということはご存知だろうか。変に揺れたり意図的に自分で動かさなければ精神は揺れ動いたりしない。動くとしてもいちばん深いところにある芯の部分が揺れるなら問題ないが、それより上空や右辺左辺にある気が動くのはよくない。
これは、身体における体重移動や、身体の中の体重が流れる感覚をよくよく実感しながらやっていればわかることだ。
とりわけヨガや太極拳のようなゆっくりとした動きの正体は、自然な体重移動だけを抽出した結果だろう。ゆっくりにすればいいというわけではなく、それが自然な体重の移動だからだろう。
体重は手足のように速くしたり遅くしたりできるものではない。惑星の運行のように正しいタイミングがひとつあるだけだ。速い遅いは、その正しいタイミングのズレをいっているに過ぎない。
そして精神もまた、まずはいちばん自分の核となる重たい部分を感知しなければならない。すなわち重心である。これを縦や横に動かして、重心以外のその他の余計な動きを付け加えないようにする。それが正しい働きである。身体とまったく同じ運動法則が適用される。
身体と心は繋がっているというなら、この理屈はぜったいに正しいはずであり、小生はこれを確信しており、後はただ証明するだけである。アインシュタインも相対性理論を発見してから証明するまで5年かかった。
植芝盛平は「歩く姿が武である」といった理由は、人は歩いているときにいちばん理想的な運動をしているからである。重心、身体のコアが真っ直ぐ水平移動して、それに手足がついてくる。何も邪魔されない正確な体重移動だけがある。
運動が下手な女の子は、例外なく手足の動きが速い。手や足をビシュビシュと一生懸命に速く振る。そのくせ重心は動かない。手足がバラバラに動き、陸地なのに溺れているような格好だ。走っても強風に前から煽られているように、手や足を一生懸命バタバタしているけど進まない。反対に運動が上手い男ほど、止まったように静かである。運動は単にもっとも体重を伝えやすい姿勢に移り続けることなのだ。
小生からいわせると、運動神経が悪い人などいない。自分の核を感知して、本源すなわちコアである体重だけを動かすということをしらないだけなのである。単に知識である。しっているかしらないか、それだけである。
小生も昔はすこぶる運動音痴で、50メートルは8秒台だったし、体育も5段階に2だった。自分でプログラムをし直した。
室伏広治も運動の秘訣はプログラムをし直すことだといっている。本来の人間の正しい動き方はもともと身体がしっており、正しい動き方は、正しい動きをしたときに身体がハッキリ感じとれるという。それを発見したときほど楽しいことはなく、その楽しさを求めてやっているといっていた。
精神もまた正しい活用をさせたとき、自分ではっきりとこれが正しいと感じとれるものである。重心の場所を理解して、それを動かすことである。
自分の重心を感知できない人はみんな、溺れているように人と話す。女性がすぐにキャピキャピして話すのは、自分の重心を見つけてそれを動かすことをしらないからである。女性はいつも浅瀬で溺れているような話し方をする。胸式呼吸で、気が上空に流れていて、ふんどしを締めるような話し方ができない。気を鎮めて重心の鉛玉をそっと転がすという話し方をしらないのである。
記事もまったく同じで、重心を動かすだけなのだ。枝葉末節を作為的にちょこちょこ動かそうとすると、まっすぐに本道を貫いていく移動を邪魔してしまう。芸術も宗教も化学も恋愛も同じである。正しい重心移動だけがある。
イメージとしては、低く重たい玉を、コロコロと転がすことである。慣性に任せて勝手に転がっていくので、それを妨げないことである。妨げなければ、凄まじい勢いを作品自体が勝手に放ち、まっすぐ進んでいくようになる。
人間もやはり動物なので、立っているときよりも歩いているときの方が自然である。歩くことができれば、どんなスポーツや武道も行える。しかし小生からいわせると、歩くことがちゃんとできている人は少ない。特に女性は本当に歩き方が下手だ。どこかの体操教室で教わったのか、手を大きく振って歩いているオバサンがいるが、あれは頭に頼った最もよくない歩き方だ。本人は良いと思ってるから困りものだ。
足で歩いてはいけない。前に倒れればいいのである。重心を前に倒せば、足が勝手に出てくる。これが自然な歩幅。運動学でこれをストライドという。そのまま前に倒れ続ければ自然に足が出続けてもっとも自然に歩くことができる。すべてのスポーツはこれの応用である。
文章やストーリーもまた同じである。いちばん低い位置にある玉をゆっくり転がしてやることである。玉の自然な慣性の動きだけを見届ける。決して枝葉末節な余計な力や小細工を弄してはならない。上空にあるバタバタした気を持ち出してはいけない。
芸術作品で爆発を起こそうとジタバタしても、決して爆発は起こらない。ただ空回りするだけである。いちばん肝心な部分をいちばん自然な速度で流していって、その挙句に大きなエネルギーが生じるのである。
人と話すときは自分の重心が動いたものか、それとも上空の気がバタバタしたものかどうか、逐一チェックしなければならない。
肉体の中心を正しく活用した運動は精神にも影響を及ぼし頭が聡明になる。肥田先生は中心力練磨をやるようになってから成績は著しく上がり、一度聞いたことはどんなことでも覚えられるようになり、一切ノートは取らなかったがどの教科も満点だったという。
広瀬すずも、午前中はキックボクシングのジムに行くらしいが、ジムに行った日と行かない日では、午後のセリフの覚えがぜんぜん違うといっていた。広瀬すずのミット打ちを見たところ、キックの方はよかったがパンチはぜんぜんダメである。中心の動きができていない運動なのにセリフの覚えがよくなったのならば、中心のうまくいった運動だったら、どれほどセリフを覚えられるだろうか。
身体の中心の、いちばん低く深い重心の玉を自然に感知したり動かせるようになれば、精神のいちばん深い部分の動かし方も上手くなる。
ずっと身体の重心を見続けていたら、いつもより簡単に精神の重心を見つけられるようになり、2時間くらいずっと核となるものから目を逸らさずにいられることができた。集中とはつまり、この重心なる真芯から目を逸らさないことである。重心が見えないのに集中などできようはずがない。
人は部屋で一人で洗濯物を畳んでいるときは、とても重心が下りていて、どんな仕事も完璧にこなせそうに見えるが、職場だと重心が上に上がってしまって何もできなくなってしまう。上司や先輩のような重心が下りた大きな鉛玉に、重心が上がっている小さな鉛玉が簡単に吹き飛ばされている光景はよく目にするものだ。肝心なのは重さである。彼らより腹が座っていればいいのである。部屋で洗濯物を畳むような気持ちで仕事ができれば何もいうことはない。
人間の行動や人生は、小さなことでも転がしていくことによって慣性の法則で大きなことも成し遂げられるようになる。急に立ち上がって急にバリバリ動こうとするからエネルギーの正しい流れから外れてしまう。だから何事もゆっくり重心を動かして仕事にあたることが大事である。
まぁここまで言ったからには、絶対に150キロを投げれるようにする。何がなんでも絶対に150キロ投げる。自分で150キロ投げられるということはすでにわかっている。