※文章乱れてます^^
しかし素晴らしい絵と彫刻だ。オヴィリとは野蛮人という意味らしい。
『オヴィリ―野蛮人の記録』この本は、ゴーギャンが真の芸術を求めるため、都会を離れてタヒチという島国で過ごした体験記である。
〈私は単純な、ごく単純な芸術しか作りたくないんです。そのためには、汚れない自然の中で自分をきたえなおし野蛮人にしか会わず、彼等と同じように生き、子供がするように原始芸術の諸手段をかりて、頭の中にある観念を表現することだけにつとめなければなりません。こうした手段だけが、すぐれたものであり、真実のものなのです〉(タヒチに発つ前、1891)
「今晩はなんて美しい夜だろう。沢山の人たちが、今夜私と同じようにしているにちがいない。ここの人たちは気楽に暮らし、子供たちはひとりでに育っている。彼等は、どこの村であろうが、どんな路であろうが、どこにでも出かけてゆき、他人の家の中で眠り、食事をし、礼一つ言わない。お互同士おなじことをしあっているからだ。彼等を野蛮人と呼べるものだろうか? 彼等は歌い、決して盗まず――私の家の戸は、何時も開けっ放しだ――人殺しをしたりしない。二つのタヒチの言葉に、彼等の性質がよく出ている。「イア・オラナ」(今日は、さようなら、有難う、などの意)と「オナトゥ」(かまうもんか、どうでもいいさ、などの意)だ。それでも彼等を野蛮人と呼べるものだろうか?」
「私のはだしの足は、毎日砂利をふみ、大地になじんだ。ほとんどいつも裸の私の体は、もはや太陽を怖れない。文明は私から少しずつ離れてゆく。私は、単純な考え方をするようになり、わが同胞にほとんど憎しみを抱かなくなった。私は動物のように、自由に、今日と同じ明日を確信して働く。毎朝太陽は、みなのためにも、私のためにも、はれやかにのぼる。私は、無頓着になり、落着き、優しくなった。」
〈私は野蛮人だし、今後も野蛮人のままでいるつもりだ〉(死の直前)
小生はゴーギャンの原始芸術の思想に触れたくてこの本を手に取ったのだが、それ以上にタヒチの結婚や女性のあり方にすごく惹かれてしまった。
ゴーギャン(当時45歳)はタヒチの部族の女の子(13歳)と結婚したのだが、その経緯が凄い。ん
「どこへゆく」と、41歳ばかりの一人の美しいマオリ女性が言った。
「ヒティアにゆくんだ」
「何しに?」
そのときどんな考えが頭に浮かんだのか、よく覚えていない。私は答えた。
「女を探しにね。ヒティアには沢山綺麗な子がいるって言うから」
「一人欲しいのか」
「ああ」
「ほしいなら、わたしがやろう。わたしの娘だ」
「若いのかね」
「エハ(そうだ)」
「きれいか?」
「エハ」
「丈夫か?」
「エハ」
「よろしい連れてきてくれ」
こうして結婚したことがびっくりなのだが、更にびっくりするのが次の文章である。
〈私の新妻(13歳)は口が数が少なく憂鬱気で嘲笑的だった。二人とも相手を観察しあった。彼女の方は計り知れないところがあり、私はすぐにこの戦いに負けた、心の中で誓ったのにも関わらず、私は感情をすぐにむき出してしまい、まもなく私は彼女にとって開いた本同然の存在になった。私は彼女を愛し、それを口にだして言った。すると彼女は嘲笑するのだった。彼女の方も私を愛しているらしかったが、少しも口に出さなかった。私が仕事をしたり夢想したりするとき、テハマナ(妻)は本能的に黙っている。彼女は私の邪魔をしないでいつ話しかけたらいいかをいつも心得ていた〉
小生はこの文章を読んだとき、雷撃に打たれた気がきた。これだと思った。
この時代のこの部族の女の子は、男女のなんたるかを知っていた。知っていたというより、教えこまれていたのだろう。
13歳で、話しかけないことができるとはそういうことだ。この子が自分で発見した定義ではないと思う。おそらくこの教えは部族の戒律として代々的に伝えられており、どの家庭でも実践された。娘はみんなお母さんの背中を見て覚え、お嫁にいくときはこれだけは絶対にちゃんとしなさいといわれて出ていったのではないか。
嫁入りの精神としてこれ以上のものがあろうか。小生も自分の娘が結婚することになったら、これだけは教えようと思う。
※
バラエティ番組で、小池栄子の旦那が、本を読んでいるときに妻が話しかけてくるのが困ると細木数子に相談していた。
細木数子はその場にいた小池栄子を凄まじい勢いで怒った。そのあまりの怒り様に、他のタレントや観客は、そんなに怒ることか? なぜこのおばさんはこんなに怒っているんだと唖然としていた。
観席の女性たちは、小池栄子と同じ考えのようだった。話しかけられた夫は、いったん本を閉じて、妻の声に耳を傾けるべきだという意見が大半のようだった。
この番組を見ていた当時の小生は16歳くらいだったので、なぜ細木数子が引越しババアのようにこれほど喚き散らすのかわからず、こんなに狂乱するババアとの方が結婚したくないと思った。
しかし今は細木数子が怒った理由がわかる。
夫婦の間でもぜったいに話しかけてはならない間が存在する。この間を軽く見ると取り返しがつかないことになるのだ。
離婚のほとんどの原因が時間と空間の問題だ。時間と空間を破られる苦痛。男は女に不適切なタイミングで話しかけられると、著しく性的魅力を感じなくなっていく。どんなに若くて美しい女と結婚したとしても、時間と空間を破られる度に、性欲に亀裂が入り、潜在的に拒否反応を覚えていってしまう。最終的には存在そのものにアレルギーを抱くようになる。
たとえ女がどんなに主婦業を立派にこなし、夫の収入にも口を挟まず、ご近所付き合いも完璧で、夜の生活もAV女優顔負けにこなしたとしても、話しかけるタイミングひとつ間違うだけで離婚になることもありえる。細木数子もそれで離婚したのかもしれない。あれは、過去の自分に対して怒鳴っていたのかもしれない。
じゃあどうすればいいの? じゃあいつ話しかければいいの? 話しかけていいときなんてわかんないから、紙に書いて壁に貼ってくれる? と女はいい出したくなるだろう。しかしリビングの壁に、『話しかけてもいいとき』と大々的に書かれた紙が貼られていたら、それが目に入るたびに、いつも注意されている気分になってしまう。それを見ながら夕飯を食べたら不味くなる。だから男はなるべく壁に貼らず、なあなあのタイミングで互いで気づき合う方向に導こうとするのだが、女はどうしてもこの塩梅がわからない。「じゃあ私も貼らせてもらうね」といって、際限なく貼り出してしまうのが女だ。しまいにはリビングは書き初めの展示場になってしまい、訪ねてきた客はお茶を吹き出してしまうだろう。
高校生たちが運動会の出し物についてクラス会議をする場合においても女がいない方があっという間に進行する。男だけだったら「リレーにしよう」の一言で終わるが、女が入ると3時間にも4時間にも及ぶ。
これはどこの職場や家庭においても見られる。だから昔は女が男のやることに口を出すのは禁忌とされていた。女が社会進出するようになってから、仕事が家事の延長のような性格を持つようになり、細々としたことが増え、繊細で丁寧で去勢された犬のような仕事ぶりを求められるデリケートな世の中になった。
男には、女の声がどうしても騒音にしか聞こえないときがある。理由はない。理由はないが、今だけはお前の存在が迷惑なんだ。お前という情報を与えないでほしいというときがある。
誰にだって、頼む、今だけは話しかけないでくれ、後で取り返すから、後で倍にして話すから、今だけは話さないでくれ、というときがある。すべてを完全にシャットアウトして、それこそWindowsのシャットダウンのように、またシステムが構築されるまで、プスンと停止していなければならないときがある。
こういうときは、女の言葉がどんなに気遣ったものであり、何一つ誤りのないように見えても立派な攻撃になるのだ。しかし女は何もしないということだけができない。引き算の優しさをしらない。足して、足して、足して、こんなに優しくしたのに(足したのに)裏切られた……! と恨むようになる。
ただでさえ女の声は甲高い。病棟なんかでも、「〇〇(患者)さーーーん!!!」「廊下歩いちゃダメっていったでしょーーー!!」と、耳がつんざくような声を平気でだす。立派な痛覚刺激だ。そういうとき患者はいつも心の底から痛そうな顔をする。傷口も開いてしまう。それを見た女は「ほら、動き回るから傷口開いちゃったじゃない!」というが。男はこういう過ちを犯さない。医療の現場でこうした行為をする男を見たことはない。
呼吸を殺すこと。無になること。完全に無と同化し、相手に自分の存在を与えないという優しさの形があることを女はしらない。
話しかけなければそれでいい。それだけでいいのだが女にはわからない。マザーテレサやナイチンゲールだったら、何も語らずに行為に没する。言いたいことも聞きたいことも飲み込んで、行為の中に自己を没する。決してそのときがくるまで一語も話したりはしない。夫の奥にある魂の声が語りかけてきたとき、「さあ、ごはんにしましょう」と一言だけいい、微笑むのである。
『グッドウィル・ハンティング』という映画でも同じ方法がとられていた。こじらせた主人公をカウンセラー達が救おうとしたがうまくいかなかったが、この原理を知っていた一人の優秀なカウンセラーが解決させた。
優れたカウンセラーはこの方法をとる。現代に生きる我々はみんな精神患者なのだから、必要なのはカウンセリングの技術で愛の押し売りではない。夫婦生活も精神療法も同じだ。
※
小生が会社勤めしていたころ、いいか? 絶対に俺に話しかけんじゃねーぞ? いいか? 絶対だぞ、というオーラをあからさまに出してやっていたにも関わらず、話しかけてくる女がいた。
36歳の独身女性だった。彼女は自分の仕事が終わっても、いつも会社に残って誰彼構わず話しかけてばかりいた。独身だから家に帰っても暇で寂しかったのだろう。小生が残業中に一人でパソコンを叩いてると、必ず話しかけてきた。
『今はお引き取りください』というオーラを全力で出してやっているにも関わらず話しかけてくるので本当にイライラした。エンターキーを壊す勢いで無言でタイピングしているにも関わず、平気で近づいてくる女だった。
彼女の誰にでも話しかける態度は基本的に職場で通用していた。だから彼女が自分の優しさに自信を持つには十分だった。話しかけてあげている方が悪いはずがない。ツーンとパソコンを打っている方が悪いに決まっていると思っていたことだろう。
彼女は小生のメッセージに気づいていた。気づいていながら話しかけてきた。ただでさえ独身生活が長く、自分が男に必要とされていないのではないかと不安だったから、小生に無視されることで、その不安に拍車がかかってしまったのだろう。
彼女は既婚者のスタッフたちが子供の話をしているのを遠い目で眺めたり、職場に営業の男がやってくると彼らとの結婚生活を想起したような顔をよくしていた。学生時代に見向きもしなかった男と結婚する心の準備はできていたようだったが、そう上手くことは運ばないようだった。
確かにこの狭いフロアを見渡しても、自分より若くて可愛くて丈夫な赤ちゃんを産みそうな女がたくさんいる。彼女たちに比べて自分が勝っている部分はなんだろう。誰が私と結婚したいんだろう。誰にも必要とされていない気がする。毎日毎日が無情に過ぎていく。いま一分一秒経つごとに私は価値を失っていく。この仕事だって代わりがきくだろう。私でなければならない必要はどこにもない。私のことを認めてほしい。もう結婚も子供もどうでもいいから私のことを必要だといってほしい。ただそれだけだった。彼女は小生と付き合うつもりも結婚するつもりもなかったが、小生に無視されるといよいよ自分の存在が無価値だと思わざるを得なくなるのである。だから、それに抗うために小生に話しかけてきた。
「だからてめーは独身なんだよ」と彼女は小生にいいたそうだった。小生も彼女にそういいたかった。独身同士が喧嘩すると、どちらが既婚者の思想に近いかということで張り合うようになる。
この世には、女が男を拒絶することはあっても男が女を拒絶してはならないという決まりがある。私がお前を否定することはあっても、お前は私を否定するな……! お前が私と結婚する気がないとしても、私と結婚したいつもりで接しろ! そんなに正直な顔でパソコンを打つな! という心の声がいつも聴こえてきた。
彼女は「ねえ? それ何の書類?」と聞いてきた。「機能訓練計画表」と小生は一言だけ返すと、「この前もそれやってなかった?」といった。小生が「うん」とだけいうと、その一言だけだと納得がいかないようで、もう少し長い文を引きずり出そうとしてきた。「どんなこと書いてるの?」と聞いてくるので、「適当に」と小生は返した。「適当」だけだとさすがに突っぱね過ぎているような気がしたから「に」をつけた。
毎日がこんな感じだった。小生が最小限の一言で終わらせようとすると、それを許さないと彼女が猛追する。いかに終わらせるか、いかに引き伸ばすか、わかっていたことは、先に敵意らしい敵意を見せた方が負けになるということだった。お互いに残業で疲れきっていたのに、毎日毎日、そんな日々が続いた。
一方で、小生に絶対に話しかけてこない女性もいた。この人は26歳の既婚者だった(やはり既婚者か)。
この既婚者の女性は大して可愛くはない。胸もBカップぐらいで、まったく恋愛の対象ではなかったが、この人となら結婚してもいいと思えた。
心の気流が底部を流れていて、男性的な流れ方をしていた。ほとんどの女は胸式呼吸でいつも気が上空にあるものだが、この女性は女性的な細やかさを有していながら男性的な心的律動を奏でていた。彼女とはほとんど話したことはなかったが、話したときはいつも旧友に出会ったような懐かしさを感じたものだった。また、彼女は話しかけるときに必ず、「今お時間よろしいですか?」と聞いてくる子だった。
彼女にシカトしてやろうと思っても、話しかけてこないからシカトしようがないし、何より不思議とシカトしようという気持ちが起こらなかった。彼女の持つ間合いと空気だけで毒気を抜かれてしまった。
先の独身女性より10歳若いのに女の極意を身につけてしまっている。やはり女は歳ではない。この女性とはどうやっても喧嘩にならなそうだった。
どうでもいいことだが、彼女はジャージの上からケツ汗が染み出ていて、ジャージのケツの部分だけ変色していた。かなり生地の厚いジャージがビッチョリに濡れていたから、パンツやケツ本体はどれだけビッチョリになってるんだろうと、彼女の後ろ姿を見る度に小生は考え込まずにはいられなかった。
しかしそれががんばっている証拠に見えないこともなかった。スタッフ全員がこのケツ汗はなんだろうと不思議に思っていたが、もちろんいえるはずもない。彼女が座った後の椅子は濡れていることがあったが、不思議と誰も嫌ではなかった(もし先の独身女だったら、小生は立って仕事をするところだ)。彼女は気づいていたのか? 彼女ほどなんでも気づく人間が自分のケツ汗に気づかないなんてことはあるのか? 脱衣場でケツの部分だけ変色したジャージを手に取り、気づかないなんてことがあるのか? 気づいた上で仕方ないから諦めているのか? しかし小生は彼女の優しさとケツ汗に一種の相関があるような気がしてならなかった。
さらに3ヶ月ほど独身女を無視していたら、独身女は物狂いのようになってしまった。お願いだから、一言だけ、一言だけ、私は世界に必要とされているといって……! 私は生きていてもいいといいなさいよ……! といっているようだった。
夫婦喧嘩の極地はいつもこんな感じだ。喧嘩の理由もよくわからなくなって、とにかく自分を認めろと互いに物狂いのように頭が熱くなってしまう。
彼女に一言だけ、「いつもお疲れ様。ありがとう」といったら、どれだけ喜んだだろう。床に崩れ落ちて泣いたかもしれない。彼女はその一言だけで十分に生きながらえることができた。明日、楽しく出勤することができた。そしてその一言ですっかり安心して二度と小生に話しかけてこなくなったかもしれない。小生はそれだけわかっていながらなぜ一言をいわなかったのか。
小生もまた物狂いになっていた。
人が人に話しかけることはそんなに簡単なことでも気安いことでもねーんだよ。十分に配慮して、相手の心音と自分の心音が深いところで交わる融和点にいきついたときだけ話しかけろ。話しかけたらちゃんと話してもらえて当然だと思ってんじゃねーぞ? 話しかければ人がにこやかに返してくれると思ってんじゃねーよ。気持ちのいい返事がなかったらそれで優しさがないと思われる……だと? 勝手に人の領域を踏み荒らしといてそんな理屈が通ると思うなよ? そんなのノックせずに部屋に入ってくるのと同じじゃねーか。人と人との間にある神聖な壁を薄くしてくれるなよ? 人間が人間に話しかけるということはテレビのリモコンのスイッチを入れることじゃねーぞ。