女について考えていると、亜紀のことをよく思い返す。亜紀との関係は最初は良好だった。友達と一緒に俺の家に遊びに来たこともある。
大学生になって俺はすごく静かになった。いつもだんまりを決め込んでいて騒いだり心が揺らぐことは悪だと思っていて、一言だけ返事を返すと、また思い込みに耽った。みんなとカラオケに行ってもじっとしていた。別に俺は無視していた訳ではなく、ただ心の静けさの中にいなくてはいけないと思っていた。
それが相手の求めているコミュニケーションではなく、みんなや亜紀のコミュニケーションの常識に当てはまらないということもわかっていた。ただこの道の先に俺の求める答えがあるような気がしていた。
亜紀は肉づきが良くて少し太めだった。眼がトロンと溶けていた。散々顔面にチンコを押し付けられて、女の大事なものを溶かしてしまった顔をしていた。過去に闇を抱えていそうな眼だった。しかし妖艶だった。いつもどこか男を誘惑している眼だった。常識的で周りがよく見えてムードメーカーだったが、感情的でよく泣いていた。授業中も泣いていた。付き合ってる男と喧嘩ばかりしてよく泣いていた。可愛いので男にはモテた。
亜紀はよく話す女だった。男女区別なくよく話していた。誰と話すときでも彼女の中で確立したコミュニケーション法で話していた。いつも話し方やテンションが決まっていて、亜紀と話す相手もその公式に準じて会話していたように思える。何が言いたいかというと、ノーマルな人間ということだ。極めてノーマルな人間が常識の中で常識的な会話をしている。それが正解だと信じて疑わない。世の中にはそれ以外のコミュニケーションで航海する人間がいることを知らない。
亜紀はなぜ俺のことを嫌いになっていったのか? 亜紀のことを思い出すと、「しまるこくんって風俗好きそう縲怐vと、ドス黒い嫌味を含んだ顔と声でそう言われたことを思い出す。
ある日、大学の校舎内で亜紀とばったり会った。しっかりお互い顔を見合わせたけど、俺は亜紀をシカトした。嫌いだからシカトしたわけではない。知り合いと目があった。クラスメイトと偶然会った。俺の家に遊びに来たこともある女の子とすれ違った。それだけだ。挨拶しなければいけないという決まりはない。そのまま俺は普通に自分の進路を歩いた。亜紀は俺を見て反応を示していたが、俺が視線を戻して、これから通り過ぎますみたいな顔をして本当に通り過ぎていったから不思議そうな顔をしていた。というかびっくりしていた。怒ってさえいるようだった。
そして再びまた同じ場所で偶然出会ったとき、俺はまたシカトをした。亜紀は一度俺にシカトされたから、今回もまたシカトされるんじゃないか? と不安な心持ちで俺を見ていた。それでも声をかけるべきか、あるいは俺が声をかけてくるのを待つべきか、迷った顔で俺を見ながらオドオドしていた。俺も亜紀と同じことを考えていたけど、オドオドするのはかっこ悪かったから、ごく自然に再びシカトした。
この辺りから、加速度的に俺と亜紀の仲は悪くなっていった。仲が悪くなっていったが、俺は一切負の感情を外に出さなかった。ただ静かにしていた。何もしないでいた。それはつまり自分から亜紀に絶対話しかけないというものだった。つい挨拶をしないでいたら勝手に仲が悪くなってしまい、俺から関係の修繕も図ろうとしないということだ。亜紀が俺に悪感情を持っていることをわかった上で何もせず静かにしている。亜紀はこういう俺の態度が納得いかなかったらしい。「しまるこのクソ野郎。退学しろ。内定取り消しになれ」と顔に描かれていた。
俺は亜紀以外にも5人ほどの女とこんな関係になったことがある。男ともある。
俺は普段、かなり無口で過ごしていて、それが板についているキャラクターである。普段からほとんど口をきかずにいるので、亜紀と口をきかなかったとしても、それは自然な状態なのである。亜紀はそれが気に入らないようだった。
(キャラクターのせいなの? 嫌っているから話しかけてこないの? どっちなのかわからない! しまるこは私がどっちなのかわからないことを利用して私に話しかけずに済むようにしている……! そしてそれに安心している……!)
と亜紀は思っただろう。亜紀は、自分ばかりが心を波立たせていて自分ばかりが不快な目にあっていると思っただろう。誰にせよ、自分の方から話しかけなければ絶対に話しかけてこない人間など、大嫌いだろう。しかも無口キャラを利用して話しかけなくても済むように計算しているとしたら……?
しかも最初の原因はシカトをしたこいつにある。シカトしたあげく、仲直りのタイミングも掴めず、掴もうともせず、普通の会話すらせず、この険悪なムードのままやり過ごそうとするのである。おそらく卒業まで続くだろう。亜紀はずっと腹が立っているけど、俺はまったく無関心そうなのである。亜紀と口を聞かなくても全く構わないという顔をしている。
どんなに馬鹿な人間でもこういうことだけは勘づく。自分と絶対に話そうとしない人間をしっかり見抜く。そしてそれを自分が気づいたことが相手に気づかれているということにも気づく。
では亜紀から話しかけられたとき、俺はどうしていたのか? 俺の良いところか悪いところか分からないけど、俺は亜紀に、しっかり満面の笑みをして、心から善意をこめて返事をしていた。今までの戦いがなかったような、ごく自然な感じで返事をしていたのだ。
サークルのみんなで風俗の話をしていたら、急に亜紀が「しまるこくんって風俗すごい好きそう縲怐vと言ってきた。とにかく俺を傷つけたくてしょうがない様子だった。場の雰囲気や盛り上がりを利用すると同時に、自分の純粋な思いつきからでた発言という体裁を繕って、こういう発言をしてきた。本当にあなた風俗が好きそうだから思わず言葉に出ちゃったの、という感じを利用したわけだ。
「いやいや! ワッハハハハハ! 風俗て!!wwww」
俺は無邪気に気持ちよく笑った。本当に亜紀は面白いこというなぁ縲怐I という感じで上手く笑うことができた。成功したかどうかは亜紀の顔を見ればよくわかった。困惑していた。俺は心を器用に操作することが得意で、悪意の一欠片を含めることなく返事をすることや笑うことができた。そういうときはいつもいい仕事をした気分になった。そういう時は決まって亜紀はキョトンとした。
(あれ、私としまるこって喧嘩してなかったっけ? なんでこいつ笑ってるんだろう? 悪意を感じない……。いい笑顔……。喧嘩は私の勘違いだったのかな? 本当にそういうキャラだから話しかけてこなかっただけ? あれ? 本当は喧嘩なんてしていなかったのかな? 私の思い過ごし? でもあの時シカトされたような気がしたけど?)という顔をしていた。
ある冬休みの日。サークル仲間全15名が俺の家にやってきて、突然旅行に行こうと言ってきた。2泊3日の温泉スキー旅行だ。しばらく前からの決定していたことらしい。俺はサークルの会長だったが知らされていなかった。何も準備していなかった俺は、「わかった」とだけ言って財布だけ持っていこうとした。みんながゲラゲラ笑って、
「さすがしまるこ会長!」
「え、会長、本当にカバンなしで行くの?」
「うん」
「泊まりの旅行だよ?」
「うん」
「会長、着替えは?」
「いらない」
「会長、パンツは?」
「裏返しにして履けばいいだろ」
と言ったら、「マジない……!」と亜紀が本当に気持ち悪がって大声で言った。他の女も引いていたけど、亜紀はここぞとばかりに俺を全力で気持ち悪がった。女という生理的に優位なポジションを利用して俺をとことん拒絶した。こういうときは俺をどれだけ気持ち悪がっても許される。それだけのことを俺がしたという下地がある。いい武器を手にしたという調子で、ずっとわざとらしく引いた様子を繰り返していた。
まあ、なんにせよ、女はこんな風にじめじめした男は大嫌いなのである、肉を喰らって臭いウンコをして馬鹿笑いしている男が好きなのである。鋭すぎる男は気が休まらないのである。
亜紀は悪意を込めながら俺に話しかけることが多々あった。そして俺は戦いがなかったように、清々しい態度で明るい笑顔で返した。その度に亜紀は混乱した。
(あれ? こいつ、やっぱりどっちだろう……。私のこと嫌ってないの? 私の一人相撲なの……? それともこいつ天然? でも……それでも、この笑顔を間に受けてしまったら、自分が本当にバカになりそう……! どっちにせよ、この程度のことでしまるこを受け入れるつもりはない!)という顔をしていた。
俺はこういう冷戦のときは悪意を表に出した方が負けだと思っていた。亜紀の悪意や葛藤を見届けると、またつまらぬものを斬ってしまったという顔でその場を立ち去るのが常だった。
しかし人間の自分に対する悪意を気づく能力は素晴らしい。少量な悪意でさえよく気づく。俺は満面の笑顔でいつも返事していたけど、亜紀はいつもどこかで俺を訝しがっていた。そういう時の勘は全て正しい。全て当たっている。俺は亜紀のことが嫌いでもなければバカにしているつもりもなかったけど、全てに気づいていたことは認める。あの笑顔は嘘だったことは認める。
こうなってしまった時の解決方法を、俺は一つだけ知っている、全裸になることだ。お互いが全裸になる。心を脱ぎ捨てるという意味ではない。今着ている服を全部脱ぎ捨てる。そして2人で全裸になってお互いをずっと見つめ続ける。股間を手で隠してはいけない。そのままずっと見つめ続ける。それで解決する。
自分より知性がある人間がいて、そいつがその知性のままに誰にも気を遣わず毅然とした態度で、下等生物を鼻先にもかけない態度で過ごしたら、我々はとても腹が立ってしまう。
例えば落合陽一氏なんてそう。実際会ったらどうだか知らないけど、冷たい感じはするだろう? 口喧嘩したらすぐに負けそうだ。自分の全てを見透かされていて馬鹿にされていそうだ。馬鹿にすることもとっくに飽きられていて、その次の次の次のことを考えていそうだ。一生交わる階層は訪れない。俺のことを本当にどうでもいいと思っていそうだ。別にいいんだけど、「俺はここにいるぞ!」「俺を見ろ!!」と落合の顔面を掴んで、無理やりこっちに向かせてみたくなるときがある。
自分に無関心な人間を見るとイライラする。イライラするけどその件で怒るわけにもいかない。「落合さん! 何でもっと僕と絡んでくれないんすか??」「落合さん!! ねぇ……!! 落合さんってば……!!」と泣いてすがりつくなんて死んでもできやしない。死んでもできやしないのだが、頭の悪い女というのはそういうのが仕草や態度に思いっきり出てしまう。さすがに、口に出しては言わないけど、プリプリして過敏に反応する。
俺はそういう女の前を颯爽と横切ってきた。跡の場を濁して飛び去ることもあった。1回や2回じゃない、多分10回以上ある。落合氏もいっぱいあるだろう。今回の話がよくわからなかった人は、あなたと落合氏との関係に置き換えてみればいい。
俺が全裸になって、汗と涙を流して、「亜紀……!! ごめんごめんごめんごめんごめん亜紀ごめんッ!!」と言えば亜紀も納得するだろう。しかし、それだと勝ったり負けたりが繰り返されるだけだ。本当に勝負を終わらせて、ゴールを迎えたかったら、亜紀も裸にならなければいけない。