霊的修行

『へたも絵のうち』 熊谷守一 レビュー

よく才能という言葉を、我々は曖昧で抽象的なものとして捉えるけれども、才能というものを一つの言葉で単純に表すのであれば「観察力」である。

小生もたまに書いた文章を褒められたりすることがあるけれども、そういうときは観察したものをうまく書き出せた結果に過ぎない。

自然探求。この有象無象の曖昧模糊とした自然の観察を、手前の虫眼鏡でもって浮かび上がらせ、ピントがはっきりすればするほど褒められる、ぼやけてたら褒められない、それだけの話である。

観察をせずに、あるいは観察する対象がないまま書き始めると不幸な結果になる。小生が自分で勝手気ままに書いたもので褒められたケースは何一つない。

熊谷守一さんほど、自然をひとつの単純な線で描ける人はいない。複雑な広大無形の自然を、たったひとつの単純な線で描くのである。

この猫の絵をみて、もっとこの人を調べてみようと思った。

顔を見てみると、まさに仙人。只者でないことがわかる。

そして今回『へたも絵のうち』という熊谷さんの著書を買ってしまったわけだ。

熊谷さんの面白いエピソードとして、「地面に頬杖をついて蟻の歩き方を何年も見ていてわかったのですが、あれは左の2番目の足から歩き出すんです」と人に話して驚かせたという。

これは熊谷さんの元々の習性がそうさせたのだと思う。誰よりも観察力を抜きん出ようという野心から始まったものではない。

熊谷さんはいったん電車に乗ると、その電車の構造を細かいところまで気になるという 。金物だったら機械だったり時計だったり、細かいものの部品や物事を調べたくなるという。絵描きは極めてこういう特性が強い。鳥山明も小さい頃からよく絵を描いていて、何10種類のペットや昆虫を買ったり、バイクだったり欲しいものがあると、細かくなんでも模写していたという。今でもその癖は続いているらしい。気になるものがあれば何でも書き写す。手塚修虫や葛飾北斎もそうだったという。

才能とはつまり偏り。無意識にそれを観察してしまう慣習。

小生は元々ゴッホや岡本太郎の絵が好きなのだが、漫画なら鳥山明、キラーマシーンの絵がいちばん好きである。

単純に小生は木や花や土の匂いを表現することが苦手である。苦手というより、見いだせない。ろくに観察していないからである。ゴッホの絵を見ていると、糸杉やひまわりの中からその生命を見出していることがわかる。決してただの狂人ではないことがわかる。花咲くアーモンドの小枝などは、もっとも善良でもっとも知性ある人にしか描けない絵である。

肥田春充先生も、庭で風呂に浸かりながら、竹と会話することができた。竹が語りかけてきた言葉を娘さんに話しているが、娘さんはさっぱりわからなかったと日記に綴っている。

アインシュタインもこの世界をたったひとつの数式で表すために生涯を費やした。多くの芸術家や宗教家や科学者は、分野や職種をとわず、たったひとつのはっきりしとした線を求めたくなるのは、それが自然界の究極だからである。

「家にも流行りがあって、そのときの群衆心理で流行りに合ったものはよく見えるらしいんですね。新しいものができるという点では認めるにしても、そのものの価値とは違う。やっぱり自分を出すより手はないのです。なぜなら自分は生まれ変われない限り、自分の中にいるのだから」

「絵を描くのは、自分にも新しい、描くことによって自分にはないものが出てくるのが面白い」

「絵でも、字でも上手く描こうなんてとんでもないことだ」

熊谷さんは絵を上手くなるにはどうしたらいいですかと聞かれたときに、「うまいとか下手とか論ずるのはおかしい、結局自分自身を打ち出すしかないのだから、下手な人が下手の絵を書いていればいい」といっているけれども、また別の人から絵を書くの上手くするにはどうしたらいいですかと聞かれたときに、「経験」と答えている。

しかし経験というけれども、他の画家に比べて描く量が極めて少なかったといわれている。それに反して見る時間は非常に多かったとのことだ。たくさんのペットを飼ったり、庭に花をするのだって、床を歩くアリだったり、石ころ1つを1日中眺めていられる、数ヶ月だろうがいくらでも見ていられると熊谷さんはいっている。

経験というのは、どれだけ観察したかという経験だろう。たった一つの石があればそれだけで何ヶ月も過ごせると語っている。熊谷さんの奥さんが熊谷さんが絵を描くところを語っているが、ずっと何時間も、何日も石を見ていて、急に絵筆を取り出して描き始めるといっている。毎日、毎日、はじめて石を見た人間のように石を眺め、そして、初めて絵を描く人のように描くといっている。

小生はこの話を聞いて、ゲーテが、『多くの女と交際した男より、たった一人の女と長く付き添った男の方が女をしっている』といっていたことを思い出した。

画家は一般的に長命だけれども、熊谷さんも96歳まで生きた人である。画家が長命なのは、画家はひとつの作品を描くたびに、新しく何度も生まれ変わるからだとピカソはいっている。ひとつの作品を描くたびに、あるいはひとつの絵を描く中で、何度も何度も生まれ変わるという。

ピカソはその言葉のとおり、絵を描くごとに若返っていった。熊谷さんがいう『経験』とは、生まれたての目で物事を見る目に戻っていく経験。我々が使う経験とは逆の意味の経験だと思う。

原子はどれくらい小さいのでしょうか? 一滴の水の中には地中海を満たしている水滴と同じくらいの数の原子が含まれています。そしてその数は、世界中の草の葉の数と同じくらいです。この紙をつくっている原子は、いったい何でできているのでしょうか? 電子と陽子というさらに小さなものでできています。これらの電子は皆、原子の中心にある陽子のまわりをまわっていて、その電子と陽子の間は、たとえていえば、月と地球ほども離れています。そして、この小さな宇宙の中のこれらの電子は、一秒間におよそ一万六千キロという実に驚くべき速さで、独自の軌道上をぐるぐるまわっています。ですから、あなたが今、手に持っているその一枚の紙を構成している電子は、あなたがこの文章を読みはじめてから、ニューヨーク─東京間に相当する距離を動いたことになるのです。そして、あなたはつい二分前にはこの一枚の紙を静止した、退屈な、生命のないものと思っていたかもしれませんが、実際には、それは神の神秘の一つなのです。それはまぎれもないエネルギーの台風なのです。

これは、D・カーネギーの『話し方入門』という本に書かれていた一文だが、熊谷さんが見ていたものを、物理学的観点から捉えているように思える。

一つひとつの行動に、最も見て、最も聴いて、最も感じなければならないものが動いている。表現は、これに行き着いたものと、そうでないものがあるだけだ。オーギュスト・ロダン

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