仕事 ドトール観察記

8時間シフトのあと、交代が来れなくなって、16時間シフトになってしまったドトールの店長

ドトールの店長は誰よりも熱心に働いていた。時間があれば脚立に立ってエアコンのフィルター清掃をしたり、ポリッシャーを床にかけたり、長いブラシで屋根を磨いたり、従業員のやりたがらない仕事を率先してやっていた。

おそらくブラック企業の名残りが働いているのだろう。ブラック企業にいた頃はこれくらい当然にやっていたから、誰にいわれるでもなく身体が勝手に動いてしまうようだった。

このドトールの店長は、ブラック企業で散々にやられ、限界になってここに流れ着いた顔をしている。もう一般企業はこりごりだ。これからは地域密着型の飲食店で、慎ましくコーヒーを作って過ごそう。そんな顔をしていた。

従業員は大学生とパートのおばちゃん、下手したら女子高生しかいない。もううるさくいってくる上司はどこにもいない。給料は下がったけど仕方ない。世の中は等価交換だ。

小生がコーヒーを頼むと、元気はあまりないが、丁寧に卒なく提供してくれる。いつも毎朝9時に同じ格好でやってくる小生を見ても、蔑むような態度を出すことなく、「どっちもどっちですから……」という体で、コーヒーを渡してくれる。

従業員たちはみんな楽しそうに笑うけど、この店長だけはいつも小さく笑うだけだった。全力で笑いきれないでいた。がんばっても6割程度の笑みで、全開で笑っているところを見たことがない。大人はみんなそうかもしれないが、企業との戦いに負けてドトールに流れ着いてくる者は、特にこのような笑い方をする。

これもブラック企業の名残だろう。相当に辛いことがあって、まだ人間らしい感情が戻ってこないようである。ブラック企業は、辞めればそれで終わりという単純な話ではない。潜在意識にまで、その毒牙が抉り込まれていて、辞めた後でも人間らしい感情を取り戻すまで時間を要する。

場合によっては、もう二度と10割の笑顔で笑えなくなってしまうこともある。実は小生がこの病にかかっていて、未だに全力で笑いきることができない。

小生も昔ブラックの印刷会社で働いており、もう辞めて10年経つが、未だに全力で笑いきることができない。楽しいこと、嬉しいこと、日々の日常の中で素晴らしい体験はいくらでもあるが、十全にそれらを味わうことができない。

おそらくもう感情は戻らないと考えている。小生がこのブログでたまに気がおかしくなってしまうのは、すべてあの印刷会社のせいである。印刷会社のせいで、残りの人生は一生欠陥品として生きていくことを余儀なくされた。人をこんな傷物にし、重篤な後遺症を残させておいて、未だに埼玉の奥地では、誰にも必要とされない印刷物を製造しながら、新しい欠陥人間を生み出し続けている。

ドトールの店長は、精を出して働いているのか、精がなくなってしまったために首尾よく働けているのかわからないが、人の3倍働いているのは確かだ。給料が増えるわけではない。誰からも褒められるわけでもない。地味で、静かで、報われない世界である。ネットに蔓延るインフルエンサー達とは真逆の道を行っている。

ある日、20時ごろ。店に一本の電話が鳴った。店内は閑散し切っていて、小生と店長の他に誰もいなかった。店長の口ぶりから、電話ではどんなやりとりがされているか、およそわかった。

「おお平田くん、どうしたの?」

「あの、すいません。40度の熱があるっていうか」

「えっ、そうなんだ、大丈夫?」

「えっと、ちょっと苦しいっていうか、頭がぼーっとするっていうか、こうして電話してるのも苦しいっていうか」

「そうなの? 平田くん。きょうシフト入ってたよね?」

「はい、そうなんですけど、休ませてもらいたいっていうか」

「そうなの?」

「はい、ちょっと厳しいっていうか」

「じゃあしょうがないね」

「はいっていうか」

「じゃあ今日は休んでください。お大事にね」

「ありがとうございますっていうか」

店長は力なく子機を下ろした。しばらくそのまま立ち尽くしていた。

店長が思ったのと同じく、小生も仮病だと思った。昔から小生は人の仮病がわかるという特技を持っていた。仮病を使うときの人間の微細な空気を見抜くことができた。35歳になると、電話している人間の電話先の相手が仮病かどうかまでわかるようになってしまった。

店長は遠い目をして店の壁を見つめていた。

(きょう、8時間働いたんだぞ。これからまた8時間ここにいろってか? いいかげんにしてくれよ。いてくれるだけでいいんだよ。コーヒーも不味くていい。事務所でずっとスマホいじってくれててもいい。いてくれればいいんだ。

どうせネットサーフィンしてたら、エロい画像見つけてオナニーしちゃって、バイト行く気分じゃなくなったんだろ? 今ごろハテた顔して、ベッドで寝転んでるんだろ? そうだよ。こっちは何もできねーよ。証拠もないしな。ゴミ箱のティッシュを科学研に持ち込めば射精された時間が特定できるかもしれんが、ブラック企業のせいでそこまでやる気力がでてこない。やめられてもこっちが困るしな。

あと8時間だと? やっと帰れると思ってたのに。これだから社会に出たことのないクソガキと一緒に仕事すんのは嫌だったんだよ。どこにいっても人間関係で苦労するもんだな。

店長はバイトより耐久力があると思ってんのか? 同じ人間だぞ? あと8時間……。16時間だぞ? 16時間ぶっ続けて働くんだぞ? 俺だって家に帰ったらひっそりと楽しみたいことがあるんだ。俺だって人間だ。欲がある。一晩中オンラインゲームをやる夜だってあるし、アメトークも見る。お前らと見る番組なんて変わんないよ。店長はNHK見るものだと思ったか? 俺のこと、裁判官だと思ってやがる。大人は楽しんじゃいけませんってか? 大人はいつもガキの尻拭いだけしてろってか? 大人だって子供だよ。大人のふりが上手いだけさ。

発泡酒と炙りイカを買っておいたのに。俺にはこのささやかな楽しみしかないのに、お前らはそれすら奪っていくのか? なんで24時間営業なんだよ。何でこんなに人員カツカツなんだよ。深夜なんてホームレスと家出少女が寝にくるだけじゃねーか。なんでこいつらの為に店開けとかなきゃなんないんだよ。逆に利益率下がるだろ。

俺だって昔はブラック企業で人を縦にも横にも動かしていた人間だ、なぜカツカツかはわかっている。カツサンドを作りながらカツカツの理由をわかっているが、まさか飲食チェーン店の現場はこれほどだったとは。別にいいんだよ。16時間働くことはもういい。どうせ俺がやるしかないんだから(タイムカード偽装してな!)問題はそこじゃない。誰もセックスしてくれないことだよ。こんなにがんばってるのに、なんで誰もセックスしてくれないんだよ。なんで俺がいちばんがんばってるのに、いちばんセックスできないんだよ。おいバイトの女。俺よりシフトすっぽかす男の方がいいのか? そんな男と結婚してみろ、結婚記念日もすっぽかされるぞ。確かにバイト小僧の方が髪も詰まってて、活きのいいちんこをしているかもしれん。だがそれだけだ。俺よりちんこの硬度が高い、それだけだ。どうせブラックなら、ブラックコーヒーの方がいいと思ってやってきたが)

© 2025 しまるこブログ Powered by AFFINGER5