理学療法「独立開業・副業・仕事体験記」

授業中に女子生徒の机を蹴っ飛ばした哲学講師

投稿日:2020-05-14 更新日:

理学療法の学校の教師というものは、大学の教育学部を卒業したわけではなく、教育実習を履修したわけではなく、教員免許を持っているわけでもなく、ただ病院で働いていた経験があるだけの人間であり、本来は教壇に立つべき人間ではない。

理学療法士の年収は400万円くらいだが、教師になると700万円くらいになる。教師たちは生徒たちから徴収した入学金や授業料をレクサスやBMWに充てていた。

教師たちは全員理学療法に興味をもっていなかった。本を読んでいるところを見たことがないのがいい証拠だ。

基本的に理学療法士は本を読まない。理学療法士は同僚との雑談の中で新たな医療知識を耳にするとすごく嫌な顔をする。耳にしてしまったからには覚えるしかあるまい、と出会いたくなかったものに出会った顔をする。だから同業者同士では理学療法の会話は禁忌である。これは業務に支障をきたすこともある。

生徒は学年で100人くらいいたが、彼らも理学療法に興味などなかった。教える者も教えられる者も興味がないという狂った世界だった。

ではなぜ入学してくるかというと、理学療法士という名前が頭がよさそうな感じがするからである。高齢社会だから医療系の資格は食いっぱぐれがないだろう。でも医者にはなれない。看護師は注射するから嫌だ。介護士はうんこを触るから汚い。だから理学療法士なのである。

本当はみんな、声優やYouTuberや釣り人や、なんとなくパソコンを触る仕事がしたいのだが、18歳かそこらで将来を閉ざす。過小評価の早熟だ。

教師も生徒も互いにこんな感じだから、いっそ正直に告白しあって手を抜き合えばいいのに、そうはならない。人間の不幸はいつだってしなくてもいい努力をするところにある。

教師たちは自分から理学療法を取ったら何も残らないという顔で講釈を垂れ、生徒たちは、「先生! はやく次の『中臀筋の筋力低下によるトレンデレンブルク兆候』について説明してください! 先が気になって仕方ありません!」という顔をしていなければならなかった。それが本当に可哀想だった。そんな顔をして学校生活を送るなら、一人で教科書を読み進めればいいのだが、そういうわけでもなかった。誰もとめやしないからいくらでも読めただろうに。そんな辻褄が合わないことばかりの世界だった。こういった文化は22歳から始まるものだが、彼らは少しばかり早かった。

しかし外部講師にとってそんなことはどうでもよかった。

週に一回、哲学講師は外部講師として勤務していた。まだ35歳かそこそこで、自分の仕事に信念を持っており、明らかに意識が高そうで、「精神的向上心がない人間は馬鹿だ」と顔に書いてあった。グレーのチノパンツ、ナイロンウェア、ヒゲは散らかし放題、ビニール袋にきゅうりを入れてふらっとやってくる孤高の遊歩者という風体だった。

哲学講師は授業らしい授業はやらなかった。自分が過去にどれだけの努力をしてきたか、20代後半に仕事を辞めて、そこから哲学講師になるまでの道程を熱く語るというもので、教科書の内容にまったくそっていなかった。自分語りのために講師になったのではないか、授業ジャックではないか、ナルシスト、マザコン、寝るときはスーツ着て寝てそうなど、陰口を叩かれることもあったが、ほとんどの生徒が熱心に授業を聞いていた。本を読まない理学教師の授業よりもずっと重きを置いていた。それは確かに哲学だった。

ある授業中、哲学講師がいつものように意識の高い話をしていると、三人の生徒がこそこそと話をしていた。

一人はメガネ男。二人目もメガネ男。三人目は普通の女の子だった。

「おいそこの三人。さっきから何をずっとピーチクパーチク話してるんだ?」

哲学講師は三人に向かっていった。

「何を話してたかいってみろ」

三人の生徒は突然、自分たちが矢面に立たされたことに驚いた。

「何を話してたかいってみろ」

「…………」

三人とも黙っていた。

「あのな、こっちは何を話してたのか、それを聞いてるの。何を話してたかわからないことないだろ。つい数秒前まで話していたことなんだから」

「…………」

「…………」

「……………すいません」

「いや謝ってほしいわけじゃないの。いい? よく聞いてね。授業中なのに話してたってことはそれだけ話さなきゃいけなかったんだよね? それだけ大事なことだったんだよね? いや、べつにただの雑談でもいいんだけど。大して意味のない話をしてただけだったならそれでもいい。俺はね、それを聞きたいの。だからいってくれる? 何を話してたか」

「…………」

「………すいません」

講師は笑い出した。

「おいおい。ここを間違えるのはやめよう。ただ話してほしいの。何を話してたか。本当にそれだけなんだってば!」

「…………」

しかし三人の生徒は黙っていた。

「えーーー? 嘘? なんなの君たち? なんでそんなに頭悪いの? 困ったなぁ。ぜんぜん伝わんないなぁ。俺が悪いのかな? なんていえばいいのかな?」

といって、講師はまた笑った。

「怒ってないっていえばわかる? あのね、本当に怒ってないの。だからお願いだから謝らないでくれる? そこだけは約束して? 逆に謝ったら怒るよ? 何を話してたのか話してほしいだけなんだって。だからもう一度聞くよ? 何を話してたの?」

「…………」

「な・に・を・は・な・し・て・た?」

「………………」

「おいおいおい! 嘘でしょ? 君たち嘘でしょ? 何で黙っちゃうの? 自分がいま話してたことだよ? わかんないわけないじゃん! そして俺は怒ってるんじゃないって何度もいってるじゃん!」

「…………」

「えええーーー! うそ! 今の子ってこんなに何もできないの? ちゃんと買い物とかできんの!?」

講師はイナバウアーのように胸を大きくそっておどけて見せた。

「じゃあさぁ、何を話してたのか、その『お題』だけでいいからさぁ、それだけでいいからいってくれない? 一言だよ。お題の一言でいいから」

「…………」

講師は生徒を傷つけたいわけではなかった。哲学で磨き上げた頭脳を粗製濫造の頭脳と競わせるなど不服もいいところだった。彼はこの粗製濫造の頭脳と自分のそれが解剖学的に同じ見た目をしていることにすら腹を立てていた。

講師はこんな茶番は終わりにしてさっさと次にいきたかった。名前だけは総理大臣みたいな専門学校の生徒と論理的遊戯にしゃれこんだところで脳汁の一滴も出やしない。お前らがバカなのはわかってる、反省してることもわかってる、だけどそれを沈黙でうやむやにしたり謝って終わりにしてしまっては前進がない。

例えばもしここで、「渡部の不倫について話してました」というような、授業に最もふさわしくない単語が彼らの口から出ること、それが何よりも重要だと考えたのだ。「え? 18歳なのに不倫に興味あるの?」なんて聞き返したりしない。「じゃあ俺と不倫する?」なんて言わない。ただ今までと違う自分に一歩でいいから踏み出してほしい。いじめられっ子が一瞬でもいじめっ子に抗うような、輝かしい一歩を見せてほしい。そんな願いがあった。哲学講師にとってそれは沈黙や謝罪よりもずっと反省を、いや、哲学を意味するものだった。

「…………」

しかしこの三匹の子羊たちはなんだろうか。女性ホルモン剤を毎月投与されているのか。な口から一行の音を出すだけで見逃してくれるといってるのだからそれにあずかればいいのに、自分で試練を大きくしている。

彼らはどこまでも怒られていると思っていた。だから怒られている人間としての態度を貫かなければならないと思っていた。勇気がないといえば勇気がないのだが、それ以上に配布された問題文を読み違えていた。

「代わりに二人のどっちかが答えてくれると思ってるんだろ? じゃあこうしよう。おいメガネ。あーメガネ二人いるなめんどくせぇ。つーかなんでメガネキャラなのに授業中に雑談してんだよ。じゃあお前、青いセーター着てる方のメガネ。メガネ一号。この先はお前にしか聞かない。よかったな残りの二人、お前らは解放してやる。メガネ一号。お前をターゲットに絞る。キミに決めた……!(講師はポケットモンスターの主人公のポーズとセリフを真似てみせた。先のイナバウアーといい、講師はこういうお茶目なところがあった。それが一周まわって哲学的深遠さを感じさせると一部では人気を博していた)お前が答えるまで終わらないよ。お前が答えない限りずっとやるから。授業が進まなくてみんなの迷惑になるからはやく答えろ」

「…………」

「…………すいません」

メガネ一号はさっそくいってはいけないことを口にした。このとき講師の眉間からブチッと何かが切れる音がした。

「だから謝んなっつってんだろいい加減にしろオラァ! 俺は怒ってねぇっつってんだろ! お前が謝るから怒るんだろうがっ! いい加減にそれを理解しろっ!」

講師は教壇を降りていちばん近くにある女子生徒の机まで歩いていった。

「いいか? 次すいませんっていったらこの女の机蹴っ飛ばすぞ? めちゃくちゃに散らかってみんなの迷惑になるぞ? お前のせいだからなメガネ一号」

こういう災難を引いてしまうのはいつだって地味な女の子だが、それに漏れず、机の主の少女は非常に生命力が低そうな、いつも家に帰ったら真っ先にハムスターにエサをやり、夕飯の時間に家にいないことはなさそうな親孝行そうな子だった。

「おいメガネ一号、たった一言だろうが。黙って乗り切れると思ってんじゃねーぞ? 終わんねーぞ。男見せろよ! 一言だろうが!」

「…………」

「新しい自分になれよ! お前ここで何もいわなかったら、明日から死んでんのと変わんねーぞ!」

メガネ一号はハトが豆バズーカを食らったように硬直していた。大した授業を受けてこなかったメガネ一号にとって、今日の授業はこれまで受けてきた中でもっとも偏差値が高かった。歩いていたら急に『マネーの虎』に出演させられるのと同じレベルだった。人は精神を限界まで追いつめられたら死ねるのか? そんな授業タイトルのようだった。自分は誰なのか。今日は帰ったら録画していた「Re:ゼロから始める異世界生活2nd season」を見る予定だったのに。あれ? もしかしてここが異世界? 僕はいつ転生したんだろう? もう少しマシな脚本の異世界はなかったのか? 転生に失敗して次元の狭間に落ちてしまったのか。メガネ一号? それがこの世界での僕?

「…………」

沈黙が続いた。講師は次に口にする言葉が見つからなくなっていた。沈黙も沈黙でなかなかやっかいである。何かを話し続けなければこの沈黙にうやむやにされてしまう。ただ黙ってるだけの人間に正義が屈していいはずがない。しかし勇気を引き換えに手にしたこの沈黙は、その代償にふさわしい絶大な威力を誇った。

普通の教師だったら、「もういい、あとで職員室にきなさい」といって、この沈黙に負けてしまうものだが、なんと、この哲学講師はカウントダウンをはじめた。

「10、9、8、7、6……おーい、メガネ一号。10終わるまでにさっさといわねーと、マジで女の机蹴るからなぁ〜? この女を救えるのはお前しかいないぞ〜?  5、4……」

こんな男がいるのか、と生徒全員が思った。そして同時に、この男はやる、と思った。他人にこれだけの男らしさを要求する男だ。自分に男らしくない結末を許すはずがない。知識を究極まで追い求めると勇気に変わるのか。GTO? ごくせん? 一部の生徒は歓喜した。教室中のメガネが全滅するまでやってほしいと望む生徒もいた。机の主の女の子は、今もご主人様の生還を待ちながら回し車で回ってるハムスターのようにグルグル目を回していた。

「3、2、1」

5を下回っても秒読みの速度は変わらなかった。凄まじい音がした。机は見たこともない飛び方をして後方の男子生徒にぶつかっていった。教科書やペンケースも、文房具ではなくスポーツ用品に生まれ変わったように飛んでいった。どんな災害も最後は音一つしない静けさに収束するように、机の最後の運命は静かに、本来使われる用途の逆に面し、滑った芸人のように四本足が天井に向いていた。

彼女は椅子だけになってしまった。教室中でただ一人、机がなかった。泣く準備ができていた彼女は、時計の針のような涙を流した。彼女はどうやって授業を受ければいいのかわからなかった。なんでもいいから顔を埋めたかったが、何もなかった。

全員息を飲んで黙っていた。哲学とは体育系科目だったのか。メガネ一号は焼き鳥になったハトのような顔になっていた。

「10……9……」

講師はまた例の地獄のカウントダウンを数えだした。教室中の机が飛ぶのが先か。メガネ一号が口を開くのが先か。メガネ一号の自殺が先か。

「俊哉(としや)、がんばれよ」

「俊哉……!」

「俊哉がんばれ……!」

一部の男子生徒たちがメガネ一号を応援し始めた。

「俊哉……! 俊哉……!」

少数人が声を上げると、それにつられてたくさんの生徒がエールを送り始めた。机を飛ばされた女子生徒も、濡れた瞳でメガネ一号を見ていた。

「どうするんだメガネ一号、このままでいいのか? 今日変わらなかったらいつ変わるんだ!」

「今でしょ!」

愉快な一人の男子生徒がおちゃらけていった。「おい」といって後ろの男子生徒が頭を引っぱたいた。クスクスと教室に笑いが生まれた。

「俊哉がんばれ~!」

「俊哉いけるって! がんばれ!」

「俊哉……!」

「俊哉くん……!」

教室中が彼を応援した。女子生徒も応援した。女子生徒の数人は泣いていたが、その涙はどこか前向きさを感じさせる涙だった。机を飛ばされた女の子も、自分の犠牲を押し売りすることなく、純粋にメガネ一号の克己を願った。

「メガネ一号、理学療法士になるんだろ? 患者さんの前でも黙ってんのか! メガネ一号!」

メガネ一号は意を決したように音を立てて椅子から立ち上がり、小さな声でいった。

「……すいません」

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