理学療法「独立開業・副業・仕事体験記」

授業中に女子生徒の机を蹴っ飛ばした哲学講師

理学療法の学校の教師というものは、教育学部を卒業したわけでもなく、教育実習を履修したわけでもなく、教員免許を持っているわけでもなく、本来は教壇に立つ人間ではない。ただ病院で働いていたことがあるだけの人間である。

理学療法士の年収は400万円くらいだが、教師になると700万円くらいになる。だから教師になる。彼らは、生徒から徴収した入学金や授業料をレクサスやBMWに充てていた。

教師たちは全員、理学療法に興味など持っていなかった。本を読んでいるところを見たことがないのがいい証拠だ。

俺はついぞ理学療法士が本を読んでるところを見たことがなかった。理学療法士たちとの雑談の中で、新たな医療知識をつい口にしてしまうと、すごく嫌な顔をされる。耳にしてしまったからには仕方なく覚えるしかない、と、出会いたくなかったものに出会った顔をされる。

学校の生徒は、学年で100人くらいいたが、彼らも理学療法に興味がなかった。教える者も教えられる者も興味がないという狂った世界である。ではなぜ入学してくるかというと、理学療法士という名前がなんとなくかっこいい感じがするからである。頭がよさそうな感じがするからである。高齢社会だから医療系の資格は食いっぱぐれがないだろう。しかし医者にはなれない。介護士はうんこ触るから汚い。だから理学療法士なのである。本当はみんな、声優やYouTuberや釣り人や、なんとなくパソコンを触る仕事がしたいのだが、18歳かそこらで自分の将来を閉ざす。

教師も生徒も互いにこんな感じだから、いっそ正直に告白しあって互いに手を抜けばいいのに、そうはならない。教師たちは、自分から理学療法を取ったら何も残らないという顔で講釈を垂れ、生徒たちは、「先生! 僕たちは理学療法が大好きでたまりません! 早く次の『中臀筋の筋力低下によるトレンデレンブルク兆候』について説明してください! 先が気になって仕方ありません!」という顔をしていなければならない。

それが本当に可哀想だった。こういう文化は23歳からはじまるのだが、彼らはちょっとばかり早かった。

だが、外部講師にとって、そんなことはどうでもよかった。

この男は哲学講師として学校に勤務していた。来るのは週に一回である。まだ35歳かそこそこで、自分の仕事に信念を持っていそうで、自分の知性を手先のように操りたいという願望が顔に表れていた。

ぶらっと近所のカフェにやってきたような、グレーのチノパンツ、ナイロンウェア、ヒゲは散らかし放題、孤高の遊歩者、夢想家という風体だった。

哲学講師の授業は、授業らしいことはやらなかった。

自分が過去にどれだけの努力をしてきたか。20代後半に仕事を辞めて、そこから哲学講師になるまでの道のりを、熱く語るというものだった。

教科書の内容にはまったくそっていなかったが、それは確かに哲学だった。

ほとんどの生徒が熱心に耳を傾け、俺も楽しく聞いていた。

哲学教師がいつものように意識の高い話をしていると、三人の生徒がべちゃくちゃ話していた。

一人はメガネ男。二人目もメガネ男。三人目は地味な女の子だった。

「おい、そこの三人。さっきからずっとピーチクパーチク、何を話してるんだ?」

哲学講師は話をやめて、その三人に向かって言った。

「何を話してたかいってみろ」

三人の生徒達は突然、自分たちが矢面に立たされたことにびっくりした。

「何を話してたかいってみろ」

「…………」

「もう一度いう。何を話してたかいってみろ」

「…………」

三人の生徒は黙っていた。

「あのな、こっちは何を話してたのか、それだけを聞いてるんだ。何を話していたかわからないわけないだろ? つい数秒前まで話していたことなんだから」

「…………」

「…………」

「……………すいません」

「いや、謝ってほしいわけじゃない。いいか? よく聞いてくれ。授業中なのに話してたってことは、それだけ話さなきゃいけないことがあったんだろう? それだけ大事なことだったんだろう? いや、別にただの雑談でもいい。大して意味のない話をしてただけだったんならそれでもいい。俺は何を話してたのか、ただそれだけを聞きたいだけなの。だからいってくれる? 何を話してたか」

「…………」

「………すいません」

講師は笑い出した。

「おいおい。ここを間違えるのはやめようよ。ただ話してほしいの。何を話してたか。本当にそれだけなんだってば!」

「…………」

それでも三人の生徒は黙っていた。

「えーーーー? 嘘? なんなの君達? なんでそんなに頭悪いの? 困ったなぁ。全然伝わんないな。俺が悪いのかな? なんていえばいいんだろう?」

といって、講師はまた笑った。

「怒ってないっていえばわかる? あのね、本当に怒ってないの。だからお願いだから謝らないでくれる? それだけは約束して? 逆に謝ったら怒るよ? 何を話してたのか話してほしいだけなの。だからもう一度聞くけど、何を話してたの?」

「…………」

「………………」

「おいおいおい! 嘘でしょ? 君たち嘘でしょ? 何で黙っちゃうの!? 自分が今話してたことだよ? わかんないわけないじゃん!! そして俺は怒ってるんじゃないって何度もいってるじゃん!」

「…………」

「えええーーーーー!! うそ!!! 今の子ってこんなに何もできないの? ちゃんと買い物とかできんの!?」

「じゃあさぁ、何を話していたのか、その『お題』だけでいいからさぁ、それでいいからいってくれない? 一言だよ。お題の一言でいいから」

俺はこの教師を優しいと思った。別に生徒を傷つけたいわけではないのだ。もうこんなことはさっさと終わりにして、次にいきたいのだ。こんなやつらと論理的遊戯にしゃれ込んで知能比べをしたところで、脳汁の一滴も出やしない。

お前らがバカなのはわかってるし、反省していることもわかってる。だけど、それを沈黙でうやむやにしたり、謝って終わらせてしまっては前進がない。

すぐに沈黙したり謝るから、こんな脆弱な精神ができあがる、と思ったんだろう。

例えば、もしここで、『嵐の解散について話していました』というような、彼らの口から異質な響きが出たとしたら、それこそが何よりも重要だと考えたのだ。

今までと違う自分に、一歩でもいいから踏み出してほしい。いじめられっ子がたった一瞬でもいじめっ子に抗うような、輝かしい一歩を見せてほしいと、そんな願いがあったように思えた。

哲学講師にとって、それは、沈黙や謝罪よりもずっと反省を意味するものだった。いや、それこそが哲学なのだ。

「…………」

しかし、この三匹の子羊たちはなんなんだ? 女性ホルモン剤を毎月投与されているのか?

口から一行の音を出すだけで見逃してくれるっていってるんだから、それにあずかればいいのに。自分で試練を大きくしている。

おそらくこいつらは、どこまでも怒られていると思っていた。だから怒られている人間としての態度を貫かなければならないと思っていた。

勇気がないといえば勇気がないのだが、それ以上に、配布された問題文を読み違えていた。

「じゃあこうしよう」

「代わりに二人のどちらかが答えてくれると思ってるんだろ? おい、メガネ。あー、メガネ二人いるなめんどくせぇ。じゃあお前、そこの青いセーター着てる方のメガネ。メガネ一号。この先はお前にしか聞かない。よかったな残りの二人、お前らは解放してやる。メガネ一号。お前をターゲットに絞る。お前が答えるまで終わらないよ。お前が答えない限りずっとやるから。みんなの迷惑になるから早く答えろ」

「…………すいません」

メガネ一号はさっそくいってはいけないことを口にした。

そのとき、教師の眉間からブチッと何かが切れる音が聞こえた。

「だから謝んなっつってんだろ! いい加減にしろコラァ! 俺は怒ってねぇっつってんだろ! お前が謝るから怒ってんだろうがッッ!! いい加減に理解しろオラァッッ!!」

「いいか!? 次すいませんっていったら、この女の机蹴っ飛ばすぞ? めちゃくちゃに散らかるぞ!? お前のせいだかんなメガネ一号!!」

そういって、教壇のいちばん近くにある女子生徒の机を指した。

机の主の女の子がびっくりして大きく背中が動いたのが、後ろから確認できた。

「おいメガネ一号! たった一言だろうが!? 黙って乗り切れると思ってんじゃねーぞ? 俺は終わんねーぞ! 男見せろよ! 一言だろうが!」

「…………」

「はやく言えよ! 新しい自分になってみろよ! お前、ここで何も言わなかったら、明日から死んでんのと変わんねーぞ!!」

「…………」

「…………」

「…………」

講師も次に口にする言葉が見つからなくなっていた。

沈黙は沈黙でなかなかやっかいである。何かを話さなければ、この沈黙にうやむやにされてしまう。この沈黙は勇気を引き換えにすることで誰も敵わない威力を誇ることができた。

普通の教師だったら、「もういい。あとで職員室にきなさい」といって、この沈黙に負けてしまうが、なんと、この哲学教師はカウントダウンをしだした……!

「10、9、8、7、6……おーい。メガネ一号、10終わるまでにさっさといわねーと、マジで女の机蹴るからなぁ〜? 今この女を救えるのはお前しかいないぞ〜〜?  5、4……」

なんと! 俺は本物の男に会えたことに感動した……! 毎日こんな授業をやってほしいと思った。

メガネ一号の自殺を引き換えにしてでも毎日やってほしかったが、しかしその俺ですら、さすがにまずいと思った。この男は本当にやると思った。この哲学者は知性だけでなく勇気も持ち合わせている。

「3、2、1」

教師は本当に机を蹴飛ばしてしまった。

机は今まで見たこともないような飛び方をして、後列の男にぶつかっていった。

教科書やペンケースやら、色んなものも一緒になって散らばっていった。

彼女は椅子だけになってしまった。

スースーしてひとりだけ空間が広がって身軽に見えた。彼女は泣いてしまった。

悲鳴はひとつもあがらなかった。全員息を飲むように、ただ押し黙っていた。

メガネ一号はすいませんも言えない状態になっていた。放心していた。

「二人目行くぞコラァ!!」

「10……9……」

また例の地獄のカウントダウンを数えはじめた。

教室中の全員の机を蹴り飛ばすのが先か。メガネ一号が口を開くのが先か。

「トシキ、がんばれよ」

「トシキ……!」

「トシキがんばれ……!」

なんと、周りの生徒がメガネ一号を励ましはじめた。

一人二人が声を上げると、それに釣られて、たくさんの生徒が一緒になって励ましはじめた。

机を蹴っ飛ばされ女子生徒の他にも、泣いている女子生徒がいた。

前列の生徒たちは次は自分かもと怯えていた。

「どうすんだメガネ一号! お前このままでいいのか!? 今日変わらなかったらいつ変わるんだ!?」

「今でしょ!」

愉快な一人の生徒がいった。クスクスと教室に笑いが生まれた。

「トシキがんばれ!」

「トシキいけるって! がんばれよ!」

「トシキ……!」

「トシキ……!

男子生徒たちは一生懸命励まして、女子生徒たちはみんな泣いていて、机を吹っ飛ばされた女の子も泣きながら応援していた。

「理学療法士になるんだろ!? 患者さんの前でも黙って突っ立ってんのか!? メガネ一号!!」

メガネ一号は意を決したように、小さな声で呟いた。

「…………すいません」

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