みなさんにこの話をしても面白いかわからないけど、人が正直に感じたことを正直に話すのであれば、大概は面白くなるから、遠慮なく話させてもらおう。
最近は小説投稿サイトに出入りして遊んでいる。暇だからだ。
小説家志望者ほどこの世で純粋な人間はない。小説は既に過去の産物で、オワコンと言われて久しい。これほど流した汗が報われない分野はないだろう。
漫画も読まれなくなってきているし、映画ですらAmazonプライムでゴミ山のように堆く積まれているけど、人々はもう2時間も画面の前に居座ることができなくなってしまっている。YouTubeで5分のコンテンツを呆けた顔で垂れ流すしかできなくなってしまった。
だから何かが間違って、その上にまた間違いが重ならなければ、小説が手に取られることはない。
わざわざここに人生をかけようという変態たちがいる。仕事から帰ってきて、飲みの誘いも断って、血を一滴一滴落とすように文字を走らせる人がいる。結婚もせず、親戚の子供に切ない笑顔でお年玉をあげながら、書く。
小説投稿サイトというのは狂っている。小生はこれほど狂った世界を見たことがない。当たり前かもしれない。終焉にすがりつくのだから。自分の全運命をかけて終焉にすがりつくのだから、狂うのも当たり前かもしれない。
ここでは信じられないくらいの罵詈雑言が蔓延っている。TwitterやYouTubeの炎上とは比較にならない。無駄にたくさん本を読んで引き出しが多いせいか、人を傷つける材料が豊富なのである。同じ人種なのだから仲良くやればいいのに、決してそうはならない。お互いの夢に向かって励まし合うことはなく、足を引っ張りあう。引っ張るどころか切り落としてしまう。
さて、では小説投稿サイトでは、どんな作品が投稿されているか、一作品だけ例にとって見てみよう。
『白い冠を被った山々は居丈高に麓に住む我々を圧迫するその作用がもたらす結果は冬の間長々と続く我々の憂鬱だ。空を鋭く切る音を響かせながら吹き荒れる冬の木枯らしと、何もかもを白く埋め尽くし生活を甚だ不便なものとしてしまう過酷な積雪。そういった自然のもたらす圧威は物理のレベルの超えもっと根源的な段階、心理のレベルで人々を陰鬱な感情に浸らせてしまう作用を持っているのだ。裏日本の懊悩の何もかもを象徴するような陰気極まる冬の到来に、私は思わず乾いた溜息を吐いた。それは自然の悪辣に対するせめてもの抵抗である。道の中心に一列になって設置された消雪パイプは周囲に赤錆の臭いのする水を振りまいている彼らは路面の凍結を防ぎ積雪の害を食い止める為に設置されているのだが、おかげで歩行者にとっては少々邪魔くさい。油断しているとすぐに飛沫がズボンの裾を濡らしてしまう。濡れた部位は水分の蒸発に伴う吸熱作用によって、寒風の吹き荒れる中ますます冷たく冷えてしまうのだ。私のみならずその作用を厭うているのは皆同じだろう。私は時に大股で歩いたり腿を上げたりしながら、パイプの描く水により成る放物線を踏み越え足元の悪い路地を進んでいった。ところどころ朝の放射冷却により一層冷やされ凍りついた路面がある。こういった場所は恐ろしく滑るので質が悪い。その上私は昔から平衡感覚のあまりいい方ではないのだ。全く、雪というヤツは文字通り、我々の生活を足元から不便なものにしていくのである。太平洋側や南国の連中はしばしば降雪という現象をうらやましがるが我々からするととんでもないことである雪は間違いなく厭うべきものだ。毎年何人独力で雪かきを行おうとした孤独な老人が、屋根から滑り落ち骨折したり時にはそのまま雪に埋もれて命を失っていると思っているのだ。雪とは自然界におけるもっとも酷薄な淘汰圧の一種である。しかしながらあの雪の白さには例えば<砂>のようなシンプルな美の萌芽があるということは、認めても良いことなのかもしれない。際限なく街の風景を俯瞰的な視座で分析してみれば、中には雪が作り出す美しい光景の断面がないわけではないのだろう。けれども美しい光景などほんの一部である。雪は舞っている時は混じり気のない白に見えるが積もりだすと途端に憂鬱な鼠色へと変色してしまうものだ。雪は裏日本特有な風景の陰鬱を、いっそう重苦しいものにするばかりである』
小生の方でわざと改行をしなかったり読点を打たなかったわけではない。そのまま載せた。これはまだ序文で、全文はこの20倍の長さになる。最後まで雪のことをいっている。
何をいってるかわからないだろう。小生も何をいってるかわからない。しかし、この何をいっているかわからないことに彼らはすべてを捧げている。別の人が投稿する作品もこの作品と似たようなものである。
雪をどうこういっているけど、この小説自体が氷山である。氷山を登るように、アイスピッケルを一回一回引っ掛けながらでないと読み進められるものではない。やっと登り切っても、頂にあるのは空っぽの宝箱だ。この人たちは本気でこれで食べていこうと考えている。
好きにしたらいいし、非難する気もない。このブログも雪の下に埋まっているようなものだし、小生も、誰も読みやしない竹内まりやとか馬場ふみかの記事を書いたりと似たようなことをやっている。この記事だって誰が読むんでしょうね……!
小生は文芸の方はよくわからないし、この作品が出版されることはないから無用の心配だけど、人々は仕事で忙しいし、小説は人を楽しませるためにあるのに、かえって苦痛になるのはどういうことだろう。多くの人は生活が精一杯で、本を読む時間などないのに、たまたま読む機会が訪れて、さて……と本を手に取って、その本が苦痛とは、どういうことだろう?
しかし……。肝心なのはここからだ。この作品に対するコメントが凄いのだ。
『自己完結型であり、開けても何も出てこない宝箱に何重にも鍵をかけたような作品です』
『いくら自分に対して繊細なものを追い求めても、それを他人に読ませようと投稿すれば、その行為の中に確かなガサツさが存在するというパラドックスがあると思います』
『物書きにとって作品は子供です。産んだはかりの赤子を人様の前に出すべきではありません。胎脂や母親の血液や母親の大小便にまみれたままだからです。きちんと産湯できれいにしてから人様の前に出すべきです』
『言葉の隙間に雪が詰まってるみたいなザマばっかなんですよ。セックス下手糞みたいなオーラが臭いばっかなんですよ』
『わたしがこの景色を文章としてもっともその欲求を叶えてくれるカタチとして、親切に、贅沢に、客観をもって、内包させて通用するものとして差し出すべく思いつきたくなるような文章は、【ああ、くそさみい】程度のものだったりします』
『自己の可能性を信じすぎた人間の成れの果ての姿を体を張って示してくれてありがとうございます』
『思いついたものを何でも描写する自分を許してしまっているように感じました。自分の言葉はすべて価値があるという思い込み、自己愛からきているのではないでしょうか』
『身の程を知りなさい。駄文しか書けない自分を恥じなさい。あなたの文章からは卑しい品性が滲み出ているから、人を不快にさせるのです。あなたは身の程もわきまえず、思い上がりが強くて鼻持ちになりません。どんなに自分が間違ってても決して自分の非を認めない。感謝すべき相手に逆切れする。だからいつまでたっても駄文しか書けないのです。素直に自分の非を認めなさい。謙虚になって学びなさい。そうすれば少しはまともな文章を書けるようになるでしょう。少なくとも、鼻持ちにならない傲慢さが文章から透けて見えることはなくなるでしょう』
『コメントした人達に対して殊勝なお返事をされていますが、軽いお返事に感じます。あまり響いていないように見受けられます』
物書きとしての品格を保とうとして敬語で中傷するから、全員フリーザみたいな口調になっている。
本当のところをいえば、ただ、つまんねーという感想しか覚えないのだが、凝った言い回しで、血と汗の結晶を一つ一つ丁寧に崩壊させていく手法をとる。
馬鹿だの死ねだのいうことは決してない。丁寧に、上品に、史上最大の悪口をいうために文学的頭脳をフル回転させる。
人間はその人の悪口をいうとき、自分がいわれるといちばん嫌なことをいおうとする。
いちばん嫌なこととは、自分と、自分の書いた小説を全否定されることだ。その痛みは彼らがいちばんよく知っている。彼らも作家志望であり、誰よりも小説について考えてきた。だから、作者が何をいわれたらいちばん傷つくか、痛いほどわかるのである。
作者の見たくはないけど見なくてはならない現実を、無理やり眼をこじ開けて見せようとする。それが異常に盛り上がる。現実以上の恐ろしい悪口はないから当然かもしれないが。カレーを入れられた方がまだマシだろう。
彼らが仕事で出会っていたら、決してこんなことにはならなかった。むしろ仲良くなったかもしれない。しかしここだと、変な薬を注入されたマウスたちが一つのケージに詰め込まれたような事態となってしまう。文学という極めて偉大な精神を追求しようとする彼らが、暴力から一番遠いところにあるはずの彼らが、荒れ狂うネズミと化す。
一体何のための読書だったのだろう? 本を手にとってポカポカ殴り合っているようにしか見えないが。
中には、女性投稿者からの好意的なコメントもある。
『上手な描き方だなあ、と思いました。そして文体、いいですね、独自性があります、降雪の、陰気な、日本海側の、閉ざされた冬、そこで交わる、人間的な、というより、真実の交接が描かれている。冷たく、あまりにも冷たく、非人間的なまでに冷たい中に、ぽっと灯る電燈のぬくもり、しかし、そのぬくもりは、ささやかで、なんと、それもある意味、人間的ではないので、語り手にとってはかなり人間的なのだと思いました』
と、わけのわからないことを言っているのだが、作者は、
『コメントありがとうございます。はるこ様から返ってきます反応は、夜の湖面にうける星明り、月明かりのようなもので、まるで鏡のように澄んだものを感じさせます。無音の夜の静けさのなかに、ほのかな反射光のみが、皓々と輝いて、今、私に積まれた雪を溶かしました』
と返す。すると、
『ヒューヒュー! オメエら結婚しろよッ! 文学ぼっち同士、お似合いじゃねーか! 夢も二人で食った方が安上がりだろうッ! ホコリかぶったカビ臭い古本みたいな性器でせいぜい子作り頑張れや!』と汚い野次が飛ぶ。こういう時だけはあえて言葉を崩すのである。
一生懸命悪口をいっている彼らも、作品となると静かになる。静か過ぎで書いてあるのかわからないくらいだ。あれだけ現実を見ろと諭していたのに、上記の雪の作品とまったく同じものを書く。そして周りから叩かれる。次の人もまた、朝起きたら窓の外で犬が吠えていたということを数万字にわたって書いて投稿する。それを皆に馬鹿にされて、精神を破壊して、別の投稿者の精神を破壊する。ずっとこれを繰り返している。
※
この雪の小説の文章から伝わってくるのは、一文一文死ぬ思いで書いたということだ。決して流暢に書けたわけではない。一文書くたびに振り返って、また書いて振り返っての繰り返しだ。色あせた本が詰まった本棚に囲まれ、悲しみが窓から出たがっている締め切られた部屋で、文学とは何か、小説とは何か、10年も20年も苦悩してきた。文章を自分の手先のように、あるいは脈打つ血液のように一体させることを目的とし、痺れを切らしてベッドにダイブして、数日経ってまた戻ってきて、そうやって書いた。完成に3ヶ月はかかった。小生にはわかるし、投稿サイトの人間ならみんなわかることだ。
おそらくこの作者は、小説を書くのが楽しいかというと、楽しいどころか大変苦痛だった。そんな苦痛なことを仕事にしようとしている。彼らにとって小説を書くことは素潜りと同じである。おっかなびっくり潜っていくけど、すぐに空気を欲しがって顔を出してしまう。
テレビに浅田真央が映っていた。一日に練習を6時間やるらしい。引退した後も毎日6時間滑るらしい。俺はなんだ? 妻も子もない。やることはわかりきっている。あとは書くだけだ。時間は十分にある。でも書かない。俺はこのために人生を捧げたんじゃないのか? なぜ書かないんだ? 机に向かい続けることがどう頑張ってもできない。30分ももたない。おかしい。俺はこのために生きているはずなのに。木が全身全霊で木であるように、石が全身全霊で石であるように、俺はいつだって書いていなければおかしいはず……。
果たして小説が彼を裏切っているのか。彼が小説を裏切っているのか。
純文学を食べて構成された血肉ほど美味い餌はない。この処女のように美しく儚い中年を犯したらどんな風に喘ぐだろう? 夢を追いかけた時間ほどでかい声を出すだろうか。
ハイエナたちは、この作品が苦悩の果てに書かれた遺書のようなものだと知りながら、待ってましたぁ〜〜♪ といわんばかりに、彼らもまた磨いてきた語彙や比喩を手に、骨片も残らぬほど喰らい尽くす。10年も20年も自分の生命活動のすべてを費やしてきて、朝起きたら犬が吠えてたってどういうことですか〜〜?? とゲラゲラ笑いながらナイフとフォークを突き刺す。
それに対して作者は、
『わたしたちは商業ベースにのっている存在ではありません。そもそもデビュー未満の存在であるのに、読者獲得のために、うわべを取り繕って書くことに習熟することに、なんの益があるのでしょう。実質的な成果が得られたにせよ、書き手の魂はたぶん死ぬでしょう。読者のためを第一義において、書くことこそわが信念という人にとってであれば、それはたぶん「嘘」ではなくなるでしょう。しかしわたしにとってはそれは嘘にあたる。だから、人によってちがった意味をもって扱われている言葉なのです』
と返す。すると、他の奴が、
『むしろ、積極的に世界としての嘘を構築しなくて、それを楽しんで楽しませられなくて何が小説なんですか。創作なんですか。作品に込めるものに嘘のない態度で臨むことはわたしも当然と考えるタチのものですが、その意思を作品そのものの性格として、あるいは目的として落とし込みたがる、さも自己実現か何かのために小説というものに仮託しているかのような言質を知ってか知らずか自らのうのうと標榜して言明して憚らない態度、しかもそれを爪の先ほども自覚する意思がないようなことを反論の如く魂胆と手段において表明出来てしまう辺り、やはり所詮濁った何かでしかありません。そんな有り様を嘆くのも汚らわしと嫌うのも個人の自由に違いありませんが、所詮ケチ臭いような美徳を貫いてみたところで相手にされなければ、価値を認められなければ存在しないことと気づきなさい。結果以前の美徳なんて臆病なだけ。自分に嘘をついてでも誰かの役に立って、価値を認められて、そうして初めて主張出来るものこそが美徳としてふさわしいもののはずで、あなたが言っているようなことは投票にも行かないくせに国や政治を嘆く古ぼけたような老人と同じです。文章だけでなく人間も古臭い』
と凄まじい勢いで文学喧嘩が始まっていく。共食いだ。いやセックスか。彼らは文字を使ってセックスする。
この雪の小説の作者も、罵詈雑言や誹謗中傷であればいくらでも話すことができた。あれほど書けなかった文章が泉のように湧き出てくるのである。
数ヶ月かけて書き上げた作品より、2分や3分で書いたコメントの方がよっぽど面白いというのは皮肉だ。あれだけもったいぶって遠回しでこんがらがったテレビのザーッと流れる砂嵐のような文章が、見る影もなく読みやすく生命力に溢れている。それでいて文学的な営みも残している。なぜこれを作品の方でやらないのか不思議でならない。
瞬間芸。コメントでは、彼らの瞬間芸が働いている。瞬間が持つ生命力に、無機物の寄せ集めがかなうはずもない。
いつも作品よりもコメント欄の方が賑わっている。おそらく俺の他にもコメント欄の荒れ模様を楽しみにやってくる人がいるからだろう。誰も作品なんて読まない。小生も読まない。読まないけど、火種に投げ込むと、よく燃えるのだ。この炎の美しさを本人達だけが知らないでいる。