すでにコミュニケーションは完成されている。口に出さずとも、自分と相手の親密度はよく分かるものだ。相手が好意を抱いているか、自分の好意がどれだけ伝わっているか、明らかである。
その辺りは動物の方がずっと上等だ。人間だけが原点に留まれない。顔や表情や仕草、メンタリズム、あちこち目のつけ所を用意されて、たくさんの視点を用意されて、一喜一憂し、結局自分の好む視点だけが残る。癖がつくだけである。
地味で物静かな女が一番饒舌だ。メスとしての上質な臭いを発奮させ、その香気に導かれて小虫のような男がやってくるが、すべてにおいて、二人は気づいている。このピンク色の空気ほど雄弁なものがあるだろうか。
会ってから考える、会ってから対応するのは間違いだ。視点は確立しておかねばならない。コミュニケーションは、会った頃には終わってなければならない。なぜなら、自分の心的態度によって、相手は巨獣にも妖精にもなり得るからである。
会う前に、鏡を一点の曇りもないピカピカの状態にしておいて、頭の中に生い茂る雑草を全て刈り取っておかなければならない。そして後は、そのまま突き進むのである。決して相手の邪念に巻き込まれてもいけないし、正論をかざしてもいけない。相手と話すわけじゃない。永遠に孤独の戦いなのである。ただ鏡を磨くのである。人間は喋りすぎると性格が悪くなっていくから、会話中に善性を取り戻したいと思ったら、黙るしかない。ただ相手と同一化する。相手の中にある一番奥にある一点。定点。光球。霊魂だけを見据えて、そこにとどまり続ける。それが愛なのである。
あなたは終始透明でいなければならない。果たして相手の言葉や態度や思考はどこから生まれているのか? それは彼女の口から発生しているのか? 違う。一点から生まれている。言葉は、最後の最後の最後に絞りカスとして排出されるもので、幾枝にも分かたれた小枝の先端部分である。それは、生い茂る雑草の生長は、はたしてどこからやってきているのかを突き詰めることに似ている。水でも空気でも太陽でもない。神の息吹がそうさせている。植物も目を凝らしてみると、前進しようとする力が働いている。一点からきている。
大本を見ることである。一番最初の発生しているもの。そこが肝心要で、そこ以外見る必要はない。恋愛本にみられるテクニックは、最後に外に表れた結果だから、それをなぞろうとするのは、解説を読まずにただ答えだけをノートに書き写してるものである。
20歳ぐらいから少なからずこんな考えでいた。恋愛本を読み、コミュニケーション本を読み、よく読み進めてきたけど、いつかは無用の長物となるだろうと思っていたけど、やはりその運命にあった。無駄に荷物が増えて邪魔なだけだ。一点の光だけを見ればいい。
ボクシングだって同じだ。KOパンチのところばかり人は注視してしまうけど、それも内的事象が外に表れているだけだ。それこそ幻影なのである。殴って倒れていることの方が幻影なのである。本当の世界は、その前の精神的なパズルを解き明かした一抹であり、相手の意識の起こりを捉えた瞬間にある。
何かを与えようとしてはならない。足し算ではない、引き算なのである。人は、足して足して足して足して満足する生き物だ。我々がコミュニケーションにおいてできることは何もない。何もしないことだ。じっとしていられないから話してしまうだけだ。しかし、何もしていないとき、相手はあなたから多くのものを与えられたと思うだろう。