まず、名前が素晴らしい。顔と名前がこれほど一致した女もいないだろう。
一見、上品な顔で育ちが良さそうだから、丁寧に扱ったらいいのか雑に扱ったらいいのかわからなくなるが、「馬場」という苗字で合点する。ああそうか、そういうことか、抜き散らしていいんだと、こいつは抜かれにきた女なんだと腑に落ちる。これが、「加藤恵理子」とかつまらない名前だったら、あー? なんだてめぇ、アナウンサーでもやってろッ! と髪を掴んでTBSのビルに放り投げるところだが、馬場はまさに奇跡だ。それに続くふみかも、マクド・ナルドのように完璧な配置とリズムを誇っている。
細いのに巨乳。砂時計のような胴をしている。しかし、こんなに細いのに不健康には見えない。健康そうに見える。上品でありながら、エロさがある。これはグラビアで最も大事なところだろう。いくら天才美少女の名を欲しいがままにしている橋本環奈だとしても、抜けなかったりする。
神聖さがある。あごのラインがすっとしていて、抜けるように気が流れている。一つ一つのパーツがうるさくなく、控えめである。といっても、顔が小さいことが一番大事だったりする。顔が大きいとその時点で神聖さはなくなる。50万と10万以下で売られるトイ・プードルの違いは骨格にあるという。運がある。どうやっても悪い人生にはならない顔だ。美しいとは、それだけ神に近いことだ。しかし神聖でありながら、たぬきのような顔をしている。たぬきという、動物の中で最も下等でだらしない生物に似ていることは、我々を安心させる。たぬきだから安心して抜き散らしていいんだということになる。アーメンとザーメンをひとつにしたような女だ。
この手の女は決まって女優になりたいというけど、馬場ふみかは女優にはなれない。変な医療ドラマに出ているのを目撃したけど、あれはドラマではなく写真撮影だった。一人だけ写真撮影をしていた。みんなが役になり切っている中、彼女だけが自分の顔をしながら救急箱を持って走っていた。馬場ふみかと似たタイプを探すなら相武紗季だろう。相武紗季と存在と役割がよく似ている。彼女たちは観葉植物みたいにその辺に突っ立ってることしかできない。なのに仕事がもらえる。それが一番いいのである。彼女たちを主役にしてしまったら一話目で病院が潰れる。間違って点滴にウーロン茶を入れてしまい患者は全員死ぬだろう。彼女たちが自分の内面を豊かに掘り起こし、泣いたり怒ったりしているところなんて、誰も見たくないのだ。それは沢尻エリカの仕事だ。
馬場ふみかは自分が抜かれていることに対してどう思っているか? おそらく、どうでもいいと思っているだろう。彼女は自分がどう見られているか、どう抜かれているか、気づいている。目の前の男たちのひとつひとつの視線に質量を感じていて、右のおっぱいに14グラム、左のおっぱいに11.5グラムといったように、正確に測定できてしまえる。数字を叩き出しながら、元気におはようございますと言っている。その視線に気づいていないふりをしているが、その気づいていないふりすら気づかれていることも気づいている。みんなですべてに気づいていながら仕事の話をするので、いったい何をやってるんだろう? と思いながら、今日も仕事に行くのだ。