世間ではヒカルとかシバターやらラファエルとかが、トークが上手いだのなんだのいわれているようだけど、やはり年季の入ったベテランには敵わない。N国の立花さんや鴨頭さんやらと比べると、明らかに段階が違う。
鴨頭さんのトークは30分があっという間に過ぎる。巷でトークが上手いといわれてる人の動画を見ていても、2分や3分が限界だったりするが、鴨頭さんだけは別格だ。画面から飛び出てきそうなエネルギーに圧倒される。どれだけ編集を凝ったものにしても、たった一人の人間の生命力に敵わない良い例だ。
YouTubeで一番トークがうまいし、芸能界を見渡してもこれほどうまい人はいないだろう。まあ、講演家に対してトークがうまいという言葉自体が失礼にあたるが。
鴨頭さんのトークを観察していると、一言一言が本当に正直で、腹の底から出た言葉だけが矢継ぎ早に繰り出されていく。言葉のひとつひとつが生命を伴い、輝いて、そして爆発する。
Mr.Childrenの桜井さんやフレディマーキュリーのライブを見ていると、歌を歌っているのか、命を爆発させているのかわからなくなってくる。あれと一緒だ。
自分の深層心理を外に表すための、専門的な訓練をした結果だろう。思っていることを指先のように器用に操るために、どういう心的態度であるべきか研鑽の跡が見られる。それでいて、技術の影を見せない自然さもある。まるで急に後ろから頭を殴られたときの人の話し方だ。
なぜこんなに爆発力があるかと言うと、その爆発の根源に迫って深堀していくと、やはり正直というところが大きい。
たとえそれが間違っていようが、賛否両論だろうが、なんだろうが、その人が本気でそう思って100%本気でそう思って言っているところにエネルギーが集約され、見ている人もそのエネルギーに巻き込まれてしまうのだ。
立花孝志さんも同じことをいっていた。本当にトークがうまい人は正直に話すことをモットーにしていると。立花さんも、鴨頭さんの動画からトークを勉強しているらしい。
鴨頭さん自身も、今の世の中は、正しいことをいう人に、人が集まってくるのではなく、正直な人に集まってくるといっている。
鴨頭さんは1500個ぐらいの動画をあげているけど、それでも大体、話すテーマは似たり寄ったりしている。結局のところ、『そう思ったらそうなる』という思想を、色々な例え話や別の角度から言って飽きさせないようにしているだけで、これが鴨頭さんの根幹の思想である。
どんなに頭の悪い人間でも、講演家や物書きとして考察力に欠けていたり、技術が稚拙だとしても、その人が正直に話したり書いたりしたものは、必ず人の胸を打つ。
世の中では、正直と嘘とどちらの人が多いかでいったら、正直な人の方が多い。嘘をつくより正直でいた方が楽だからである。しかし正直の深度が浅い。正直は、完全に正直になろうと思ってもなれるものではない。多くの人は基本的には正直でいるけど、正直の際の際まで進もうとはしない。
正直は簡単に見失ってしまう。訓練が必要なのである。真正面から正直を見据えて、正直から生まれるエネルギーだけを捉えて、そのエネルギーを限界まで増幅させて爆発まで起こそうと考えている人はYouTubeでは鴨頭さんぐらいだろう。
スティーブン・キングも、小説を書く上で、嘘は最も良くないといっていた。他の欠陥は修復可能だけど、嘘をつくと小説の中にトラックが通れるほど大きな穴が開いてしまうといっている。
正直を、ただ思っていることをいうように思ってるかもしれないけれど、小生からいわせると違う。
本当の正直とは、神の意思をいうのである。自分で正直に話そうと思っても、正直になりきれない人がほとんどである。それは、そもそもが、自分が自分だと思ってる自分は決して自分ではなく、ただの精神的な一つの強い傾向でしかないからだ。
正直とは、神の顕在度による。神の意思が100%具現化されて、やっとその人間は正直になれるのである。
正直になろう、正直になろうとするほど、正直から離れていく。フラスコの中の水をかき混ぜてるだけだ。
自分が本当に思っていることすら、一生懸命問い詰めていくと見失ってしまうが、自分が透明になれば、透明になるほど正直になっていく。
だから、せいぜい正直者といわれる人ですら、神の意志を普通より多分に賜っているにすぎない。自分の意思と神の意思の割合において、神の意思がそこそこ配分されているにすぎない。
夏目漱石や太宰治やエジソンなどの写真を見ると、ポカンと虚ろな顔をしている。文豪や発明家、偉人というのは、みんなこの手の顔をしている。
どうみてもインスピレーションを受けている顔だ。神と対話している顔だ。これがまさに正直者の顔。これは自分の中の一番根源なる、真我、神、最も正直な部分からインスピレーションを引っ張り出してくるために、自分を空っぽにするからこういう顔になる。
正直者というと、感情の起伏が激しく、厚い壁が迫ってくるような、人間的で、心が慌ただしい様子を思い浮かべるかもしれないけど、心が静かなときにやっと現れてくるものなのである。つまり上記の人間たちを指す。
本当の正直というものは、ただ歩いているとき、洗濯物を干しているとき、ふわっと浮かび上がってくることをいうのである。すなわちひらめきである。自分でどうにも操れない何かなのである。そこが、それこそが正直であって、そこを基準にして生きる人を正直者という。自分の気持ちを注意深く追いかける程度ではまだまだ正直とはいえない。