この地上(サンサーラ)を生きる上で、最も役立つことといえば、精神的条件づけをやめることだろう。
私たちは、いつも考えている。その考えていることの内訳とは、何かと何かを対立させたり、比較していることがわかるだろう。何か、一つの考えごとが生まれてくると、それに対して、こうでもない、ああでもない、いや、でも、あるいは……、うーん、こうだろうか……と、考えに対して考えをぶつける、ということをやっている。
ヨーガ・ヴァシシュタにも書いてあったが、生まれてきたばかりの赤ちゃんはこういう部分をもたない。しかし、他者の存在を認め、他者の視線を通じることで、自分に批判する目を与えてきてしまった。もっとも、ヨーガ・ヴァシシュタでは、赤ん坊や幼年期の存在も誉められたものではないという。無知ゆえに、自己制御も取れず、生理的に反応して泣いているだけ。ただ本能の申し子にすぎないといえる。
信心銘、アシュターヴァクラ・ギーター、ヨーガ・ヴァシシュタなどを立て続けに読んでいると、精神的条件付けを止めることを何よりもいちばん重要に説かれている。この、あらゆる人生哲学の中で最も大事なことが、世の中に知られていないことは嘆かわしいことだ。
悟りにおいて、想念を止めること、心の活動を止めること、何も考えないことが大事だということは皆さんも知っての通りだろうが。もし、一分間でも、何も考えないでいられたら、それが至福だということはすぐにわかるだろう。その証拠に、私たちは寝ている間がいちばん幸福に感じられる。試しに、今からたった10秒でも、想念を一つも発さないでいたら、どれだけ幸せか、試してみてほしい。
この想念のせいで、過去にいき、現在から離れ、
だが、何も考えないでいることは、難しい。
信心銘では、有念も無念もいたずらに心を疲れさせるばかり、と書いてある。
無理に想念を止めることも、邪法か。
何をしていようが、いなかろうが、さまざまに考えは浮かんでくる。そして、これが一つ浮かぶと、人は知らず知らずのうちに巻き込まれていってしまう。
そうして、人は、原初の存在から離れて、自分で拵えた観念のもとに生きてしまう。少し考えればわかるが、なんであれ、私たちを苦しめているものの正体は、私たち自身、私たちの心だ。それがどんなにポジティブなものであれ、良い考えだとしても、それが考えである以上、私たちの心を疲れさせる。無駄にいろいろなことを考えてしまうせいで、心を疲れさせている、これが私たちの不幸の原因なのである。
考えがあらわれるのはいい。ただ、対立させることをやめることだ。
それについて、フワッと考えごとが浮かんできても、価値判断や、条件づけ、無意識にやっているこれらをやめることだ。ただ、あるがままにしておく。すると、すぐに幸福がやってくるのがわかるだろう。
考えることをやめるといってもなかなかできることではないが、考えに考えをぶつけることをやめることは簡単だ。
俺はこうして、考えが浮かんだら、浮かんだままにしておいて、それについて、ああだこうだと比較検討したり、嫌な人間、嫌なこと、あるいは良い人間、良いことがあっても、それについて、対立させたり、理由づけや、条件づけ、自分の観念の整理みたいなことをやめるようにしてから、とても平和になった。
何か、嫌なことがあっても、こうで、こうだから、あの人はこういう生まれで、こういうタイプの人間だから、こうで、とか。そういった類の、理由づけはすべてやめてしまうこと。
こういうふうに生きていると、ああ、今、精神的条件付けをしているな、というのが、すぐにわかるようになる。そうしたら、そのとき、精神的な条件付けをすべてやめてしまうことだ。それがいかに幸福をもたらすかすぐにわかるだろう。
何も考えないでいることは難しいが、精神的条件付けをしないでいることは簡単だ。
人は間違うことを恐れて、精神的条件付けをするが、あるがままの状態でいれば、いつも正解でいることはできるのだ。むしろ精神的条件づけをすることで間違えてしまう。
精神的条件づけする癖をやめると、自分のつくり出した観念から言葉を発したり行動をするのではなく、一元なるものから行動することができるようになるので、いつもみずみずしい状態の中で生きることができるようになる。
これを知れば、いかに私たちが、いつも不幸の中にいるか。地獄とは、自分で拵えた観念の中にいることがわかるだろう。
もう一度いうが、考えが浮かぶのいい。ただ、それについて、条件づけすることをやめるのだ。考えを上乗せしていったり、べつの考えをぶつけたりしないこと。ただ、そよ風が吹くように、あるがままにしておくことだ。
一切の精神的条件付けをやめて、あるがままに見て、あるがままに生きる、幸せになれる道はこれしかないのである。