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バガヴァッド・ニャーター2

通っている道場のおっさんに、「猫に会うために月に2回実家に帰っている」と話したら、「猫〜?」と言われて、爆笑された。

「もう15歳で、いつ死ぬかわからないから」と話しても、ゲラゲラ笑われるだけだった。

こういう人はペットの死に目の辛さを味わったことがないだろう。というより、人間相手にも同じことを言えてしまうだろうと思った。

夕方、実家に帰ると、リビングで母が仰向けになって、股間を天井に向けて突き出す格好をしていた。未亡人の成れの果てか、絶頂を迎えたようにグッと腰を持ち上げて、電子レンジで温めて使う簡易的なホットアイマスクで目を覆いながら、65インチのテレビでYouTube動画を流し、亀仙人がカメハウスでワントゥー♪ワントゥー♪とやるようにやっていた。

今年64になる母はヨガに余念なく、毎日16時ごろになると、紫のヨガマットを床に敷いてYouTube動画をリビングに流す。その横では、チンチラゴールデンのオスネコ、レオンヌ(15)が、窓辺で両手を交差させ、職を失った中年サラリーマンのように夕日を眺めている。どことなく、いぶし銀の風格ある佇まいだ。

俺は荷物が詰まったバックパックを床に下ろすと、その音に気づいたか、「あら、おかえり」と母はアイマスクを外さないまま言った。まだ、俺は声を出していない。強盗だったらどうする気だろう。

「コロッケ置いてあるよ〜」と、アイマスクをつけたまま股間を天井に向けたまま話しかけてきた。

「コロッケ?」

「テーブルの上」

母がエアロビクスしている隣のリビングテーブルに、手のひらサイズの大コロッケが4個、クッキングシートに被されて置いてあった。俺の帰省のタイミングに合わせて用意してくれたのか、母用のティーカップが中身が入った状態で備えられていたことから、自身のおやつ用かもしれなかった。市販のものに比べて油は少なく、具はふんだんに詰められていて、玉ねぎの一つ一つ大きく、ニンニクが入っていた。母特製だ。

母がアイマスクを外して、話しかけてきた。

「あんた、また焼けた?」

「ああ」

コロッケを食べながら、無造作に俺は答えた。

「日焼け止め塗らないと、シミになるよ?」

「ああ」

自分でも気にしていることだった。日中の出前館の配達によって日焼けして、食べ物を届けている俺自身が黒光りピータンのようになっていた。(あれ? ピータンなんて頼んだっけ?)と、いつも注文者から不思議そうな顔をされる。

「持ってないの? 日焼け止め」

「持ってるけど」

「塗ってないの?」

「塗ってるよ」

「じゃあ、なんでそんなに黒いの?」

「……」

(殺してぇ)

短い返事だけをして、もうそこに触れるなというオーラをこれでもかと放っているのに、一ミリも通じない。日焼けよりこの無神経の方がよっぽど深刻だと思うが。

本当に、どこで殺意が芽生えるかわかったもんじゃないな。日焼け止めうんぬんで母を殺してしまいましたなんて全国ニュースになっちまったら、なぁ、レオンヌ? レオンヌの方をチラとみる。茶色の毛並みを柔らかく揺らし、日中のほとんどの時間を日向ぼっこして過ごしている。まったく日焼けしないのが羨ましい。

「あれで隠れているつもりなのよ」

カーテンの中に引きこもり、陽が出ている日中は、ずっとカーテン生地の内側の中で過ごしている。3分の1程度、茶色い毛がカーテン布地からはみ出している。そうまでして太陽を浴びたいのか。ひまわりのように、すべての生き物が太陽の光を求めて生きていることがわかる。

「この子、前までは8.5kgあったんだけど、今、6kgになっちゃったのよ」

「暑くなってきたからじゃない? 夏と冬で2kgぐらい変わるでしょ?」

と俺が言うと、

「そんなに変わるわけないじゃない!」

と母は叫んだ。

40年近い付き合いになるが、いまだに母が叫び出すポイントがわからない。

「ランちゃんとルーちゃんも最後の1ヶ月は1.5kgしかなかったからねぇ……。ほら、この子、もとがデブじゃない? だからこれで一般の猫の体型でもあるんだけど」母はカーテンの中に隠れているレオンヌを見ながら言った。「それから、最近、ものすごい鳴くのよ」

「鳴く?」

「うん」

「毎朝、すごい声で鳴いて、いつまでも鳴き止まないのよ」

「レオ」と俺は声をかけた。

レオ、か。まるでサッカー選手みたいだ。オ〜レ〜オレオレオレオレオレ〜からきているだろうか。毎度、コーナーキックに合わせてヘディングシュートを打つためにチームメイトに呼びかけている気分になる。

レオンヌはやはり手を交差させ、さながら詩人のように夕日を眺めていた。わずかに肩が揺れる。たまに耳がピクンと反応する。考えているのか、感じているのか、ただ静かにしている。言葉を使わずに思考しているのか。言葉を使わずに思考するとはどういうことか。ただ、気づいているということか。

「自分のこと話されているのがわかってるのよ」と母が言った。

「フ」と俺は笑った。すると、その笑い声に反応するように尻尾が動いた。

俺はこういう時の猫が退屈していると思って──

俺は小学校の時、こういう時の猫が退屈していると思って──、当時、飼っていた猫の相手をしてやるために、急いで学校から帰ったりしていた。それは、猫からしたら余計なお世話だったようで、けっきょく爪で引っかかれることによって終わったが。俺はこのとき初めて愛とは相手をおもいやることだと知った。これは内緒の話なのだが、俺は高校生の頃、小論文の授業の時に、「うちの猫は僕のようにゲームをして遊んだりできないのでいつも退屈そうでかわいそうです」という内容の作文を性懲りもなく書いて提出したら、小論文の先生に号泣されてしまったことがある。あまりにも素晴らしいとのことで、なんと、その作文は学年中に配布される羽目になってしまった(笑)まぁ、そのおかげで、ふだん話しかけられない可愛い女学生から話しかけられたりと、予想外の幸運が舞い降りたが。小論文の先生というのはあんがい情緒的である。

「ねぇ、あたし、明日東京に行ってくるから、レオンちゃんの面倒よろしくね」

「明日? 舞台見にいくの?」

「ミュージカルね」

母はしょっちゅう、東京へ舞台やミュージカルを見に行く。山口祐一郎という俳優の追っかけをしているのだ。リビングには、『ダンスオブヴァンパイア』のサイン入りパンフレットとともに、山口氏と母が一緒に並んでいる写真が飾られてある。

舞台──か。

舞台のように、リアルタイムで物音を立ててはいけない空気の中で劇が進行していくさまを見せられると、俺はつい、「フンヌラバ!」とでかい声を出してしまいたくなり、気が気でなくなってしまう。それで、舞台やミュージカルに足を運べたことはない。

コロッケを食べたら眠くなってしまい、俺は2階の自室に行って倒れるように起き畳の上に転がった。小さなローテーブルも申し訳程度に置かれてある。ちびっこが公文式ドリルをやるためにあつらえられたようなゴミみたいな部屋だ。

(夕飯まであと2時間か)

大コロッケを4つ食べた後だというのに、食欲が止まらなくなっていた。

俺は時間まで寝て待つことにした。

(今日の夕飯はなんだろう?)

(肉炒め? ピーマン? ピータン? 黒光りピータン? どいつだ? どいつ? ドイツ料理?)

(ドイツ料理?)

バックパックからMacBook Proを取り出して、ローテーブルの上に置き、寝そべった状態で、Amazonプライムで『薬屋の独り言』の最新話を視聴しながら、夕飯まで待つことにする。

『だれかーーー!!』

『だれかーーーーーー!!』

『だれかーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!』

深夜3時ごろ、凄まじい声が聞こえてきた。

フォルテッシモを強く踏んだような、それでいてかすれた、声にならない声。この世の終わりのような、悲痛に満ちた、リアリティがともなった、息も絶え絶えで、断続的に聞こえてくる。

こんな叫びは、映画やドラマでも聞いたことがない。その叫びだけで声の持ち主は身体が持ち堪えられずに死んでしまいそうだ。『呪怨ーじゅおん─』の俳優陣も真っ青だろう。

母の寝室からだ。

うなされている。

しきりに、『だれかーーー』と叫んでいる。

『だれかーーーーー』か。

どんな夢を見ているのだろう? 助けを求めるということは、絶体絶命の状況に出くわしながら、そばに誰もいないことを指しているのか。

人は本当に困ったとき、『だれかーーー』って叫ぶのか。

しかし、俺は、『だれかーーーー』なんて生涯で一度も言ったことない、と思った。みんな、そうじゃなかろうか? 母だってそうじゃないだろうか。少なくとも、起きている世界では。そんな、非日常なアバンチュールな世界をわれわれは毎晩体験しているというのか。ならば、わざわざディズニーランドや大阪万博など行かなくても良さそうだと思った。

俺は母の寝室側に身体を向き直し、耳の神経を集中させる。やはり、息を絶え絶えにしながら、力強く、それでいながらかすれた、声にならない声で、だれかーーーーとしきりに叫んでいる。声の緊迫感からして緊急性が要せられていることがわかる。裸足で、はだかで、駆けているような、聞いているだけで、こちらの全身の鳥肌が立ってくるような。母の感じているリアリティ、それは紛れもなくリアルだ。でなければ、こんな声を出すはずはないから。夢だろうと現実だろうと、今、つらぬかれている苦しみはまったくのリアルだ。だから、現実に起こっているのと同じだ。だから、現実だ。現実に母は、今、ゾンビに襲われているのだ。

あるいは、自身の想像しうるもっとも恐怖すべく対象を自身で描き出しているかもしれない、夢とはそういうものだ。俺も、幼い頃に見た、金田一少年の事件簿の『雪夜叉』がトラウマで、『雪夜叉』にナタで斬り刻まれる夢をいまだに幾度となく見る。

かわいそうに。どうして、もう64歳になる母が現実にゾンビに食い殺されなければならないのか? 母が何かしたのだろうか? 

お願いします──。神様──。

神様──、どうか──、どうか──、母はもう、人生においてすべての役割を終え、あとはもうゆっくり楽しく老後を過ごしていいはずです。テレビを見ながら茶を飲んで舞台を見に行って、それでいいはずなのに、どうして、母をこのような目に遭わせるのですか? お願いします……! 神様! どうか、どうか、母をお救いください!

俺は布団の中でうずくまりながら、一晩中、祈り続けていた。

『あああおおおおオオオオオオオーーーお!!』

『おおおおおおおおーーーーーーーーーーん』

(昨日言ってたのはこれか……)

『あおおおおオオオオオオオーーー!』

朝、起きると、レオンヌが凄まじい声で鳴いていた。

俺は一階に降りて、リビングにいくと、母が調理時にいちばん導線として行き来するキッチンとリビングテーブルのあいだの中央を陣取って、そこから一歩も動かずに鳴いていた。

「あオオオオオオオーーー!」

「はーい」

「あオオオオオオオーーーん!」

「はいはい」

「おおおおオオオオオオオーーーお!!」

「はーい」

母は慣れたように軽返事をしながら、レオンヌの方をまったく見ずに朝食のパンケーキを作り続けていた。

「ああああああオオオオオオオーーー!」

まるで壊れんばかりの声を出していた。完全にタガが外れてしまっている。『自分はここにいる』と言っているようだった。 2、3回やれば気が済みそうなものだが、10分くらいやっていた。先の長くない命をさらに縮めそうだと思ったから止めようとしたが、この小さな生き物の迫力に押されて止められなかった。

「ねぇ、あたし、昨日うなされてた?」

母が俺に尋ねてきた。

「うん」

と俺は答えた。

「あんたも叫んでたわよ」

「え? うそ」

「遺伝だね」

遺伝──。家系の呪いなのか。俺と母と亡くなった祖母と、この3人は3晩に一回はうなされていた。うなされ様も同一で、みんな、昨晩の母のような声を出す。原因はわからないが、この3人にしか起こらない。姉や父は一度も起こったことがない。

「すごい声だったわよ」

「そうか」

「結婚はちょっと考えものかもねぇ」

「え?」

「だって、聞かれたら困るかもよ? ちょっと引かれるかもねぇ。私たちはもう慣れてるからべつに大丈夫だけど」

(自分のことは置いといてよく言うぜ)

まあ、確かに、俺も、それが理由で結婚できずにいる。自分の悲鳴を聞かれるが怖くて結婚できないのだ。うわああああーーーーーーーーーーじゃなくて、ひいいっっ、ひいいいっついい……! い……っイィ、い……、ひ……い、いいいいーーーーーー! 変な悪代官が高潔な侍に斬って捨てられるときのような、下品で小物感満載な声。雑魚キャラが主人公に殺される時の声だ。主人公の声ではない。まぁ、それが俺の実体をあらわしているのかもしれんがな。

「変な、イスラム語かなにか、日本語じゃなかったけど。高い声だったから、最初、お姉ちゃんかと思ったけど、お姉ちゃんがうなされるはずがないしねぇ」

母はフライパンに溶き卵を落としながら言った。

「あんた、何か変な宗教やってないよね?」

「やってないよ」

「ねぇ、お姉ちゃん? 亮一、昨日うなされてたよね?」

姉はキッチン奥のリビングテーブルで、パンケーキにフォークを刺しながら「うん」と言った。

「ほらぁ」と母は言った。

うなされていたからなんだというのか。うなされていた張本人が下手人を突き詰めたがる心理がよくわからん。こっちはむしろ気づかなかったフリをしてやるつもりでいたのに。

母は、俺が昨晩うなされていたと見るや、翌朝、かならず嬉しそうな顔をして、「昨日うなされてたでしょ〜♪」と、鬼の首をとったかのように、とった首を姉にかざしながら言う。

今回は痛み分けに終わったが、”俺だけ”が叫んだ晩となるや、そのはしゃぎぶりといったらない。

しかし──、いつも思うことだが、あの小汚い断末魔を聞いた後で、よく、こうしてふつうに接してくれているということだ。俺が今、意識的にあの声を出したら、家族の縁は木っ端微塵に砕けてなくなるだろう。無意識であればいいということになっているのだ。

「おおおおオオオオオオオーーーお!!」

しかし、意識的に鳴いているコイツは──

「じゃあレオンちゃんよろしくね」

母は食洗機の中に食器を仕舞い込み、あらかたの台所仕事を片付けると、エプロンを外しながら言った。

「え? 東京行くの?」

「行くけど、なんで?」

すげーな、舞台見に行くのか。昨日、あれだけの死に目にあっておいて、昨日見た夢より、すごいストーリーなんてあるわけないだろうに。

わざわざ東京なんて行かなくても、今日の夜にだって、すげえドラマが見れるんじゃねーか? と思ったけど言わないでおいた。

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