アガサ・クリスティーの小説の登場キャラのセリフで、「日本人があんなに頭がいいのは、いつも生煮えの米を食べているからだろう」と出てくる。
これはいかにも慧眼である。推理作家といえども、ここに目をつけるところにクリスティーの大作家たる由縁があるだろう。
さて、今さら、このブログで、食べ物は生の方がいい、自然に近い方がいい、と宣うのは、口説い形になってしまうだろうか。
気になるのは、昔の人が、生煮えの米を食べていた事実があったということだ。生煮えとはどれくらい煮たものか。西洋では、米ではなくパンを主食としているだろうから、ふつう、一般的にみられる、我々がよく目にする食卓のご飯を見ても、それが「生煮え」と称されるのか。それが、玄米なのか、白米なのかすらもわからない。
おそらく、クリスティーが日本のこの食文化に目をつけたのは、1930年の昭和はじめごろ。東京や大阪では地下鉄が開通して、家には電気やガス、水道が引かれるようになり、少しずつ便利になってきた時代。その頃、町に住んでいる人は、長屋に住んでいる人が多かった。
酵素玄米について
少し前に、酵素玄米というのを食べてみた。一応、有名な専門店で食べてみたが、そんなにおいしいとは思わなかった。やたらとベチョベチョしていて、ほとんど飲み物のようで、口に入れた瞬間、すぐに溶けてなくなってしまった。まったく咀嚼感がないことに驚いた。もともと、酵素玄米という食べ物自体が、3日以上保温し続けて、十分に発酵させたものだから(大豆の納豆バージョンみたいなものだろうか)、固さでいえば、ほとんどなくなってしまうのである。
味の方も、そんなにおいしいとは思わなかった。赤飯とほとんど変わらない。ビチョビチョの赤飯だ。
店の作り方が下手なんじゃないか?と思って、自分でも作ってみようと思って、保温器をヤフオクで入手して試してみた。一ヶ月くらい続けてみたけど、いちばん驚いたことは、米の消費量がとてつもなく多くなることである。
普通に炊いている時に比べて、やたらと腹持ちが悪いのである。ネットで触れ回っている情報だと、酵素玄米の方が腹持ちがいいとされているが。発酵することで栄養価が上がり、身体が必要とする栄養分が少量で足りるようになるからだという。
が、しかし、やはり、こういった情報は、自分の身で試してみないとわからないものだ。食べ物はその最たる例である。
食べても、食べても、おかわり、というふうに、ついつい、二杯、三杯、と食べてしまう。
これはおいしいからではない。みんな、おいしいから食べ過ぎてしまうと言っていたけど、俺の場合は否である。なんか、口に入れると、すぐになくなってしまうので、スナック菓子感覚で、ついつい、口に入れたくなってしまうのだ。
総じて、柔らかい食べ物は、たくさん身体の中に詰め込みたくなるものだ。じゃがいもでもにんじんでも何でもそうだが、炊けば炊くほど、栄養損失が著しく、クタクタになって、そのぶん、必要とする分量は多くなってくる。スナック菓子などもそうで、どうしてあんなに食べれてしまうかというと、塩加減もあるだろうが、ほとんど栄養をもたないためだろう。自然のものに対して、炊き過ぎたり加工し過ぎたものは、栄養の必要量に達するまで、いくらでも詰め込めれてしまう。これが多くの病気をもたらしている原因だ。
生煮え玄米
俺はいつも玄米を炊くときは、20分炊くことを当たり前にしている。
20分炊いて、10分蒸らすと、ちょうどいい固さになる。(炊くというか、煮る)
ちょうどいいと言うか、およそ、皆さんが一般的に口にしている、炊飯器で炊いたようなできあがりと同じくらいの固さになると思う。それよりも、ちょっとだけ固いかな? 固すぎてもアレだし、柔らかすぎても、ちと厳しい。みんな、やたらと柔らかい米を食べているけれどもね。
昔、縄文時代に遡るにつれて、食べものが固いという事実に気づかされるだろう。文明の発展とともに、食べ物はどんどん柔らかいものへシフトしていった。その結果、咀嚼回数が減り、歯や脳、身体そのものを悪くしていってしまった歴史がある。それを思うと、食べ物は固ければ固いほどいいという変な結論に行きついてしまうかもしれないが、あながち間違いでもないと思う。柔らかいものばかり食べていると馬鹿になる。なるべく固いものをよく噛んで食べた方がいいだろう。
ぽくちんのように、炊飯器は使わず、20cmフライパンで米を煮る変わり種はいるようだが、だいたい、そういう場合でも、20分が相場らしい。二木博士も、20分煮て10分蒸らすのがいいと言っている。そういうこともあって、ずっと機械的に、20分煮ていた。
で、今回は、実験として、10分炊いて、10分蒸らしてみることにした。
すると、悪くなかった。
まぁ、ちと硬いかな、という感じはあるけど、芯の部分がかろうじて残っているように、もし、この「芯」が「生命」なのであれば、かろうじて、まだ生き残っているような。
十分に食べれる。
これは、もう少しだけ、いけるな、と思った。
8分にしてみようと思った。
8分煮て、10分蒸らしてみると、
ふむ。
悪くない。
確かに、あの、炊きあがった後の、水分を含ませて膨らんだような、あの、食欲をそそる景観はなく。
いかにも穀物。膨らんでない米はあまりおいしそうには見えないけれども、口に入れると、
確かに、これが、アガサクリスティーが言っていた、「生煮え」というやつだろうか?
米を食べている感。食べ物というより、穀物そのものを食べている感がそれなりに増すけれども、決して悪くはない。
「火食は過食に通ず」という医聖ヒポクラテスの言葉にある通り、炊けば、炊いた分だけ、栄養損失され、食餌として必要とする分量が多くなる。
20分よりも10分の方が少なくすみ、8分なら、さらに少なくなる。
これは単純な好みの話なのだけど、俺はあまり煮過ぎてクタクタになった食べ物が全般的に好きではない。ニンジンやジャガイモでも、どこかの山奥の悪い魔女のように、大釜に錬金棒でかき混ぜてクタクタになるまで煮る輩がいるが、ああいうのを見てると、脳みそも一緒に溶かしているように思う。
ちょっと煮て、固さが残っている方が好みであり、おそらくではあるが、この「固さ」や、「芯」なるものが、食べ物の「生命」をあらわしている気がしないでもない。だから、酵素玄米なるものには反対なのである。
じゃあ生で食えよ、うるせーな、じゃあ、一秒でも炊くな、殺すぞ、と思うかもしれないが。
まぁ、その指摘もなかなか正しいが。生も生で、小腹が空いたときは、お菓子感覚で、生の玄米を食べているが、これはなかなか美味である。だが、どうもこれまで火食を繰り返してきた経験からか、生食では栄養吸収がうまくされず、エネルギー源としての身体の同化作用が働いてくれない実感がある。二木博士も同じことを言っている。これは慣れの問題もあるかもしれないがね。
しかし、玄米は8分煮るのがちょうどいいと思った。8分煮て、10分蒸らす。今まであまり考えず、慣習にしたがって20分煮ていたのが盲点だった。やはり、なんでも疑ってかかってみるべきである。
20分煮ていたときは、一合は食べなければ落ち着かなかったが、8分だと、0.5合くらいでお腹いっぱいになる。もう、これ以上はいいかな、という限界点がピンポイントでやってくるのだ。さらに、塩などの調味料を加えないでいると、余計に十分という気持ちになる。およそ塩辛いものなどを加えてしまうと、もっともっとというふうに、塩分とカリウムの濃度均衡を合わせようとして、身体が外の食べ物を使って、恒常性を保とうとする働きが出てきてしまう。つまり、塩を摂取すると、それを薄めようとして、余計にご飯を食べたくなるってことだ。それで、本来必要としている食事量をオーバーしていってしまう。これが、現代、世の中に蔓延っている恐ろしい病の正体だろう。
これから、食糧難の時代に突入するだろうが、各々が、与えられている食料の中で、どうやって有効活用していくか。自分の身体で試していく必要性に迫られているだろう。
酵素玄米をやっていたときは、5kg6000円の玄米を、20日もしないうちに使い切っていたけど、8分煮にしてから、米が減らない、二ヶ月経っても、ぜんぜん減らない。