昔、マッチングアプリで知り合った29歳の女性が、「外を歩いていると、たまに、世界が溶け出してしまいそうな感覚におそわれる」と言っていた。
なんてことない、普通の女性だ。べつに霊性修行者でもない。ただ、ちょっとメルヘンチックで、LINEのアイコンに幻想的な森の写真と、プロフィール文章に『世界が輝いているよ!』と書いてあったり、左手首には夢の世界に行くために押印された生々しい横一文字が三本あったが。
彼女からこの言葉を聞いたときは、安心したような気持ちを覚えたものだ。羨ましいというか。
今朝、4時に起きたのだが。とても静かな朝だった。まだ、ほとんど真っ暗なのだけど、夜の真っ暗とは違う。世界は何も活動していないように見えた。鳥の声さえ聞こえない。無だけが続いているように見えた。溶けてしまった世界があるというのなら、これがそうなんじゃないかと思えるくらいで。空気の振動音も心なしか小さい気がする。遊ぶにしろ、ゲームをするにしろ、この時間にやった方がいいじゃないかとすら思える。夜は21時に寝て、4時に起きてゲームをしろという話だ。
さいきんは、朝4時〜5時に起きてしまう。食事時間を変更したためだろう。夕食のみの一日一食をしていたが、これを昼に変えてみた。すると消化時間が早まるのか、朝、とても早く起きれるようになった。朝、なかなか起きれない人は試してみるといい。
少しだけ、出前館の話をしてもいいだろうか?
昨日はなんと、朝9時から夜20時まで出前館の稼働をしてみた。一度、限界まで休みなしで働いてみたら、いくら稼げるのか? と実験してみたかったのだ。結果から話すと、13,888円だった。感想としては「うーん」といった感じだ。11時〜13時、17時〜19時の計4時間がもっともオファーが鳴りやすい時間なのだが、この4時間をがんばるだけでも、16000円になったことは何度もある。そう考えると、丸一日がんばるよりも、昼食時と夕食時だけを狙った方が効率的だと思った。
こんなことはやる前からわかっていたけど、実際にやってみようと思ったのは、頭によぎったことは試したくなってしまうという、俺の性癖からくるところだろう。じつのところ、これを言いたかった。
これは出前館にしろ、仕事にしろ、食事にしろ、睡眠にしろ、俺は何か欲求らしいものが脳裏によぎると、それを試さずにはいられなくなってしまう。今日も4時に起きて、スッキリしていて、冷水シャワーも浴びたのでさらにスッキリしていたのだが、それでもあえて、もう一度、ここで二度寝してみたらどうだろう? と一瞬よぎった。普通だったらここで二度寝はしないだろう。眠いなんて気持ちはサラサラない。それでも、この状態で布団に入ったら、もう一度眠くなってしまうのか? と思うと、試さずにいられなくなってしまった。眠くなったらなんだというのか? こういうところの妙が、俺を書き物をする人間としてふさわしいものにしているかもしれない。
で、けっきょく、次に起きたのが、8時だった。4時間も二度寝してしまった。二度寝の方がはるかに深い睡眠を得られた。もう頭が痛くなって、一ミリも動かせないほどに。
そして、二度寝の方の夢は覚えていた。
さて、話が飛び飛びしてしまって申しわけないが、今度は夢の話である。夢の荒唐無稽子さといったら、いまさら皆さんにお話しするつもりもないが、今日の夢のシュールさといったらどんなもんだろう? 俺はなぜかわからないが、すごく細長い、クネクネした山道を友達と一緒に歩いていた。俺はその道をよく知っていたけど、友達にとっては初めての道だった。そのせいか、俺の足取りは軽く、友達は一歩一歩確かめるように鈍重に歩いた。俺は先を急ぎたいのか、友達をおいてけぼりにして走り出してしまった。10分か、それくらいの時間、俺は一人で軽快に走り続けてしまった。もう、友達とずいぶんと距離が離れてしまったが、俺にはなぜか友達が今どの位置にいてどういうふうに歩いているかが見えていた。友達は、俺がいなくなったことに対してものすごく怒っていた。友達は一人ではなくて、別のもう一人の男と一緒に歩いていて、その男にずっと俺の文句を言っていた。「初めてだぜ!? この道、初めてって言ったんだぜ!? なのに、なんで!? なんで先に行っちゃうわけ!? しかも、走って……、走っていっちゃうんだぜ!? マジ、頭おかしくね!? なんだよあいつ!」それはもう、後でどう謝っても許してもらえないほどの様相だった。
その後、俺は家に着いて、部屋の中で悶々と考え続けていた。どうして俺は先に行ってしまったのだろう? どうして引き返さなかったのだろう? どうして、俺だけ家に着いているのだろう? 友達は今も怒っている。今だって、LINEをたった一つ送れば、それで済むはずなのに、それすらしようともしない。早くしないと、友達との縁が切れてしまう。早くしないと、だめだ、なぜだろう、困った、うん? なんでだろう? そんなことをやっていたら、ふと目覚めることができた。
相変わらず、夢の中の自分ときたら何をどういう基準で生きているのかがわからない。倫理観がめちゃくちゃだ。だが、意識はある。それは、積み立ててきた正しい意識の上に成り立っている意識のような気がした。それは、今も見ている、この起きて見ている夢においても同じことが言えるだろうか? だとしたら、それが無知だろうか?
そういえば昔から、あんまり良い夢を見た記憶はない。たいてい、夢というと、あんまり良い夢ではない。夢にもモチーフがあって、その指すところの核の部分、クライマックスに差し掛かって、ウンウンと唸って、もう取り返しのつかない、どうにもならないとなって、最後、ハレーションを起こすように、ハッと目覚めて、こちらの世界に戻ってくるパターンが多い。精神的な死を迎えるわけだ。
昔、子供時代は、夢の中にいると、それに気づけて、そこから好きなように覚めることができた。小学校時代だ。今ではとてもできない。「あ! 今いるのは夢だ!」と思った瞬間に世界が溶けて目覚めることができたのだから、同じように、今いる世界でさえ、夢だと気づけられれば覚めることができるような気がするのだけれども、これがなかなかどうしてうまくいかない。
ラマナ・マハルシや聖賢ヴァシシュタ、ヨガナンダ先生が言うには、岡本太郎も言っていたけど、すべての聖者たちが言うには、この世界は夢らしい。私たちが今この住んでいる世界は夢らしい。寝ているときに見る夢と何も本質のところでは変わらないらしい。
昔、とある読者に、「霊性修行なんかしている奴よりも、困ってる人に手を差し伸べられる存在でありたいす。ボランティアの一つでもしろと言いたいです」と言われたことがあって、確かに、思うところがあった言葉ではあったが、それと同時に、別のところでも思うところもあった。
ラマナ・マハルシも、サットサンガにおいて、霊性探究者に同じようなことを尋ねられていた。「あなたは、なぜ、すべてを悟ったというのに、ここでこうしてじっと座っているだけなんですか? その力を通じて、より多くの人を救おうとは思わないのですか?」マハルシは、「誰が誰を救うというのか、それを見出しなさい」と言った。
「存在しない人間から生まれる出来事は、存在していないのと同じ、というのでしょうか?」
「あなたが誰なのか、それを見出しなさい、その考えが誰のもとに起きたのかを確かめなさい、それから、あなたが話している事柄について考えなさい」
「聖者どの! それは無理があります! 今、確かに、目の前に困っている人がいるのです! それは、今だって、他国では戦争したり、傷ついたり、命を落としている現実があります! その現実を前にして、その方便は通用しません! 聖者どの! 皮膚をつねれば今だって痛いのです! これらをすべて夢とひとくくりにして片付けるには無理があります!」
例えば、空は青いといっても、ほんとに青いわけではないらしい。それは人間の視覚能力の限界が現在の色を映し出しているだけであって、本当のところは別の色をしているらしい。同じように、形、匂い、通り抜ける皮膚感覚、私たちは感覚器官の限界によってわかるところまでしかわからないらしい、それと同じことが心にも言えるらしい。この世界も、本当はぜんぜん姿、形が違っているらしいが、それも心の限界が生み出しているに過ぎず、
少なくとも、何かチーズみたいに溶けてしまいそうな予感だけはある。タリーズ前のでかい公園の中を散歩しているとき、太陽がはりきって活動しているとき、その熱で溶けてしまいそうな気がする。
だけど、できるのはここまでである。それが俺の心の限界だろう。俺の心が作り出し、俺の心が映し出している世界ではあるけれども、だから、世界よりも俺の心の方に問題があるのだろう。
しかし、昨日、9時から20時まで出前館で働いていたら、もう、そんなことは考えられなくなっていた。とにかく報酬という報酬、金、金、金。時間、時間、時間。疲労、疲労、疲労。夢の世界の現象物にあくせくして、心がいっぱいいっぱいで、夢を溶かすどころではなく、社会の中に溶け込んでいきそうになった。こりゃぁ、まずいと思った。これを週5でやっていたら、夢とか夢じゃないとか、霊的修行がどうだとか、全部どうでもよくなりそうになった。
高校時代の同級生に、学校が終わったら夜までアルバイトをして、土日も朝から晩までバイト、「1年間で100万貯めたぜ!」と豪語していたヤツがいたけど、やはり史上まれに見ないつまらない野郎だった。形而上学的な部分が、バイト先のケンタッキーのフライヤーの中に消滅させられているようだった。
誰もが、朝4時に起きて、静かな時間の中で2時間、何もしない時間が必要だ。カフェで一人ぶらり、2時間はそんな時間が必要だ。でなければ夢の中に吸い込まれてしまう。そして、二度寝、三度寝といった様子で、新しい夢が続いていく。悪夢と同じく、起きてみる悪夢だって、救われる道は一つ、夢から覚めることである。