神に到達するために日常的にやっていることは何ですか?
この世界は相対的な世界です。善と悪、正と邪、損と得、生と死、男と女、愛と不安、快と苦、自由と束縛、主体と客体、有と無、
とにかく何が何でもすべてが相対的にできています。この世界で相対的でないものはありません。このマーヤーと言われる、私たちが住んでいる幻想世界には、相対的なものしか存在しません。別の言い方だと、二元性ということになります。
この世界で手に入るものはなんでも相対的で、幸せにおいても相対的になっているということです。そのため、人はいつも良いことがあると喜び、悪いことがあると悲しみます。相対的なできごとに相対的に反応して生きているのが、この世界に住んでいる私たちの在り方です。
すべての生きものの本能として、幸せ(喜び)を求めて生きようとしますが、この相対的世界で人が喜びを求めて生きていこうとすると、かならず相対的なものに出会います。その結果、良いことがあれば喜び、悪いことがあると悲しむ。いかなるときも、これを繰り返しているわけです。これを、妄想といいます。
良いことがあれば喜ぶということは、悪いことがあると悲しむということです。これではなんだか、良いことですら悲しみのように聞こえてくるかもしれません。
例えば、私は出前館の仕事をしているとき、たった126mの配達で1800円の報酬をもらえることもあれば、4.3kmの配達をしても720円にしかならないことがあります。そういうとき、やった〜!とはしゃいだり、クッソ!ムカつくぜ!と怒っては、こういったことを繰り返して、この世界が見せる幻に振り回されて、いつも幸不幸を外側を原因としていることが、この世界で生きている私たちの最大の特徴ではないでしょうか。
このことを理解することは、じつのところ、瞑想よりも重要だと言われています。なぜなら、これを正しく理解することができれば、人は直ちに解脱できると言われているからです。
バガヴァッド・ギーターには、
(12)
ヨーガの実修ができぬ者は知識を究(きわ)めよ
だが 知識より瞑想が勝(まさ)り
瞑想より行果の放棄が勝る
行果を捨て去れば直(ただ)ちに心の平和が得られる
と書かれております。
『ヨーガ・ヴァーシシュタ』という、聖賢たちがとりわけ愛した最高峰の聖典においても、以下のように書かれています。
『この聖典を学び、その意味について黙想する人に、苦行や瞑想やマントラの必要はない。なぜなら、この聖典を学べば解脱は確実だからだーー聖仙ヴァシシュタ』
この良いこと、悪いこと、私たちが生きている幻の相対世界はリーラ(神々の遊戯)と言われ、この世界の中で起こることはすべて決まっていて、単に前世での行為の結果が映像として流れているだけに過ぎないと言われています。そのため、私たちは結果にも行為にも干渉できず、ただこのスクリーン上に描かれているものに対して、"気づいているもの"として、観照者の立場に留まるしかできないと言われています。だから聖典では、この世界におけるできごと、目の前のことに一喜一憂することをやめよと強く戒めています。
とはいえ、私たちは喜びなしでは生きられません。すべての生きとし生けるものは、喜びのために生きています。何をするにしても、生活を送るにしても、仕事をするにしても、友達と遊ぶにしても、ゲームをするにしても、霊的修行をするにしても、世捨て人になるにしても、この相対世界の真実を理解したとしても、そこに喜びがなければ生きていくことはできません。
すべての生き物には、かならず幸せになろうとする本能がありますが、“わたし”という本来、絶対的な世界で絶対的に生きている存在が、この相対的世界の中で喜びを見出そうとすることは、それを取り違えて、感覚を満足させる快楽の道へ走ってしまうことになってしまっているのです。これがこの世界で起こっている悲劇です。
私たちが喜びと思っているものは快楽に過ぎず、快楽はすべて一時的なものであり、この相対的世界において幸せは存在せず、幻の中で何を手にしても幸福になれることはない、と聖典は、繰り返し、くりかえし、説いています。
こういったことから、霊的修行は、本当の幸せを手にすることであって、それ以外の目的は嘘ということになります。スリ・ユクテスワ氏は、修行時代のヨガナンダ先生に向かって、「なぜお前はそんなに難しい顔をしながら修行に励んでいるのだ。すべての人は勘違いしているが、神を求めるということは、本当の至福を得ることなのだ」と言っております。
私の経験から一つ言えることがありますが、霊的修行の達成度合いは、この幻想世界からの影響を受ける度合いが減少し、実在世界からの至福が流れ込んでくる総量にしたがって、本人がますます幸せになってくることから測られます。
ときどき、誰しもが、理由もなく幸福な気分がやってくることがあると思います。なんの理由もなく、無条件に。しかし人は相対的な世界へ分け入っていってしまい、自分からその幸せを手放してしまいます。
幸せとは、無条件で、いつ、いかなるときもここにあるものであり、外部をまったく必要としない、このことを悟ることが、悟りといいます。
人々は、そのことをまったく見当もつかないから、人生には幸もあれば不幸もあるのが当然だと思って、今日もまた、乗り越える苦難として生きています。
毎日、一分一秒を生活しているあいだ、朝から夜まで、寝ているあいだもずっと幸せなんてことは普通では考えられないでしょう。楽しいとか喜びとか幸せといったものは、行為だったり、結果からして得られるもの、そう私たちはマーヤーが織りなす幻想から思っているのです。
そこで、聖典は、無明を切り裂け、と言っています。瞑想も霊的修行も必要ない。ただ、この真実を悟れ、と言っています。
まずは、これについて正しく認識しろと言っています。これを正しく認識したとき、解脱は確実だと言っています。
私としても、一つ理解が深まり、一つ幻想が壊れるたびに、至福が流れ込んでくるのがわかります。
これが質問の答えになります。
これについて熟考し、外側からの影響を受けないようにし、絶えず内面を意識して、実在とは何か、私とは誰か、を探ります。
この世界の本質をちゃんと理解して、実行して、相対的世界に流されず、ただ絶対の実在だけにフォーカスする、それが私の修行方法です。
相対的なものから距離をとり、観照者としての立場にとどまろうとします。そして、その背後にある絶対的なものだけを見据えるようにしています。じっさい瞑想とはこのことを言います。基本的には日がな、この状態で過ごしています。一時間くらい座ってやることもあれば、出前館の配達中もそんなふうにしてやっています。そんなことをやってると、結果に振り回されず、ただ状態として、心良い気持ちがずっと続くようになります。昨日よりも今日、今日よりも明日というふうに、幻想が振り解かれるにしたがって、絶対的な幸福感に浸れる分量が多くなってきます。これは、頭で理解したからでしょう。とつじょ、どこからか突然やってくる幸福感に包まれることも多くなりました。また一つ、また一つ、自分をなくしていって、実在の中に溶け込むことを考えて生きています。熟考し、反証し、実在はこれか、あれかといったことを、普段の生活や、執筆、ボクシングをつなげて考えているところです。
友人も、寄せられた質問を記事にしてくれました。ぜひ読んでみてください。