霊的修行

ぶつからないということ

さて、小生とくれば、これを意識している、あれを意識していると、やれ中心がどうだの、神がどうだの、考えないことが大事だと言ったり、気を下に流すことが大事だとか、姿勢が大事だとか言ったり、あれを大事と言ったら、これを大事と言ったり、1週間もたたないうちに、今度は〇〇が大事だとか言い出すから、どうしたって、皆さんの方からしたら、一体、けっきょく、しまるこは何を大事だと言いたいんだろうか? 次から次へと大事だと言うものが移り変わるから、こっちは言われるがままにその都度信じていたら、身が持たないと思うかもしれない。

まぁ、たしかに、これを大事にしておけばオールオッケーと言うような魔法のような答えはあるかもしれない。その答えにたどり着いていないから、すぐに見解が変わってしまう、ということもあるかもしれない。もしくは、真理というものは、その都度、その都度、姿形を変えて、出来事や対象に対して無数に存在しているかもしれないし、あるいはやっぱり屹立ふどうのものかもしれない。

とにかく、順調に階段をステップアップしてるのかわからないけれども、日に日に気づきなるものはやってきて、その気づき通りにことにあたってみると、それなりに手応えのある結果は返ってくるから、その実験検証をしている過程で、それに口にせずにはいられないところはあるかもしれない。それがこのブログのスタイルかもしれない。

まぁ何にせよ、ここに書かれてあるものが、どれくらい大事かというと、どれぐらい真実で、どれくらい真実から離れているかということは、真実それ自体が明らかにしてくれるだろう。あとは真実に一人歩きしてもらうとして、とにかく、語れることだけ語ることにする。つまり皆さんの方で、これは確かに真実だと思うのであれば、勝手に熟考してもらえればいいのである。

さて、今日の講義はぶつからないと言うことである。

どうも最近、武道やボクシングをやっていると、ぶつからないことが重要な気がしてならない。相手と対峙すると、今、そのまま踏み込んでいったり、殴りにいったら、「やられる!」というのはわかる。それはもう向かい合った瞬間にわかる。今行ったらやられる! というのがわかるから、動けなくなってしまう。それは外から見ていたらわかるものではないかもしれないけど、やっている本人たちからすると痛いほどわかることである。井上尚弥の試合なんかを見ていると、相手の選手が何もさせてもらえず、ただ逃げ回ってるだけの展開になっているのは、彼がもともとそういう選手というわけではなくて、相手が井上尚弥でなく、もっと格下の相手だったら、自由な動きをしていたことだろう。でなければ世界一位になんてなれっこないのだから。

というわけで、今いったらやられるというのがわかるから、どうしても動けなくなってしまう。まっすぐいってもやられる。左に回ってもやられる。右ストレートなんか出せこない。フックもアッパーもダメ。何を出してもダメな気がする。せいぜい出せたとしてもジャブで小さくこづくぐらいだろうか。しかしそれすら、今にも相手がこっちが何かする動きに合わせて攻撃してきそうだから、じっと待っていることしかできない。

まぁそれは誰と言わず、自分の経験や直感などが、今は動いてはいけない! いったらやられる! と、「これはやってはいけない」と、内側からメッセージを届けてきてくれているからだと思う。つまり防衛本能ではある。この防衛本能に対して、無理に逆らっていくことはできるけれども、そうすると、もうその瞬間、全てがめちゃくちゃになる。だから、この声は正しいものだと思う。この防衛本能に対して、無理に逆らって動いている人間というのは見るに耐えないものであり、それは日常生活の至るところで見つかるところだろう。

ではどうしたらいいかと言うと、そのぶつかる感じ、これをやったらダメ、これをやったらダメと言うように、「ダメ」というメッセージがあり。ぶつかるような、うまくいかないような、圧力をかけられて自分の体を封じ込めるような働きをしてくるので、つまり、この道、この線上はうまくいかないよ、ということを指し示してくれているのであり、だからそれ以外の道を探さなければならないのだが、あくまで、そのままの姿勢で向かい合っている中で、どこをどう探してみても、「ぶつかる」道しかないように思われるけれども、そのままの姿勢においても、「あれ?」なんか、ここ行けそうな気がするぞ、というような、一つだけ、スルッと動けそうな道があるものである。

一つでも動いたらやられてしまうから、闇雲に体は動かせず、姿勢はそのままでいなければならないのだが、そのままの姿勢でも、その制限された姿勢においても、これだったら動けるかもしれないといった、一つだけスムーズに動ける、出口のようなものがあって、たしかに、ぶつからない場所がある。

初心者などは、こういった感覚をお構いなしに、ぶつかろうがぶつからなかろうが、そんな繊細なものを感じとらずに、もう始まるそばから、経験者だったら誰もが通らない道を通ってぶつかって、ごちゃごちゃにぶつかりまくって、最初から全部が崩れていってしまうものだけれども。

だから、一つだけスッと出るものがある。そのスッと出るということは、やはり正しいということである。この、ぶつからない場所を的確に見極めて、スルスルと行けば、それに越したことがない。うまい人ほど、このぶつからない場所をスルスルと動けるう。つまり技術とは、たくさんのぶつかる場所の中から、一つだけスルッと動けることを見つけられる能力だと思う。まぁ、それだけ、注意深く体の声を聞いて、一つだけスルッといけるところを探す。まぁ年がら年中そんな探してばかりいたら、頭をたくさん使って疲れてしまうので、もうそれが体に染み付いてるというのが理想なのだろうけれども。

とくに、皆さんに言いたいことは、これが日常生活に応用できるということである。というより、すでに皆さんは日常生活で嫌というほど体験していることだと思う。今日は、それを伝えたいのである。

たとえば、誰だって、話しているときに、これを言ったらまずいなぁ、これは今黙っていたほうがいいなぁだとか、もう子供の時代から、たくさんのぶつかる経験をしてきて、もうぶつかる前から、ぶつかる感じかわかるから、言い出す前から危険な感じがして、口を閉じているときがある。それは、大人になればなるほど、社会生活の中では、たとえば、大人になるほど、会社で人間に会えば、もうおおよそ話せる言葉なんてものは。そんなに多くはないことだと思う。話せる言葉なんてものは、ごくわずかしかないかもしれない。「おはようございます」「ありがとうございました」「わはははは」「そうですねぇ」「はい」「課長、このあいだの会議の件ですが……」

それ以外の言葉を何か言おうと思ったら、不意に相手を傷つけたりしまいかと、何かまずいことを口走ってしまうんじゃないかと、恐ろしいほどに注意が働き、口が滑って、変な空気になってしまうのかを恐れて、たった一つの正解ぐらいしか口にできないだろう。それがさっき言ったボクシングの流れとまったく一緒である。人はいつもぶつからない場所を探し求めて会話しているものである。

そして、そんなことをやっていることに慣れてきて、ぶつからない場所がわかってきて、ぶつからない場所だけをスルッと見つけ出し、そこの連綿を縫うかのように会話をしていくようになるものだが。

あるいはあくまで、ボクシングともう少しつなげて考えるために、少し暴力的な部分、人との対峙をクローズアップさせて例に挙げるならば、誰かと討論(口喧嘩)しているときはとくにそうかもしれない。ひとりでいる時は、良い思案がたくさん浮かんできても、いざ相手と相対してみると、その人に対してふだん思っていたこと、言わなければならないこと、その人に対して確信めいた核心をついた言葉なるものが自分の中にあったとしても、どうしてもそれを、言わなければならないタイミング、口喧嘩の最中では言えなくなってしまうということがある。

どうしても、うまく、自分の口から言葉が滑っていかない感じがある。考えている言葉がまっすぐに出ないということはあると思う。そのまま、自分の言いたいことが何も言えないまま討論が終わってしまう。自分より格下の相手だと、一言一言で要所要所で、核心をついたような、ピンポイントで、相手の欠点をつけたり、明快なる論旨を繰り出せたりはできるけど、格上の相手だと、内容で負けるというより、ふだん、いつも話せているような、自分の力の出どころが塞がれる気がして、自分の思っていることを話せなくなってしまうことがあるだろう。

それはやはり相手が格上だからである。ボクシングをやっていても相手が格上だと、こちらがいつもやっている動きが何もできなくなってしまう。おそらく技術というものは、こういうところを指すのだろう。技術というものは、その人がぶつからないスルスルしたところを的確に動いているうちは、相手にそのスムーズさを奪われる形になってしまうのである。

さて、日常生活において、この、ぶつかる、ぶつからないが、通底していることはわかってもらえただろうか? これは決して、ボクシングと人間関係に限ったことではなくて、すべての「技術」と言われるものでそうである。バドミントンでも、将棋でも一緒である。皿洗いでも一緒だろう。

それは、今こうして文章を書いている時でもまったく同じである。今こうして文章を書いている上でも、自由に何でも書いてもいいということになっているけれども、本当に自由に書こうとして、美容院の話、正月にお年玉に20,000円をもらったとか、もう乱雑にそんなことを組み入れて話し始めたら、何もかもがメチャクチャになる。今だって、この一つのメッセージを届けるために、どんなふうに言葉を紡ぐか、何を話して何を話さないかと選択していくことは、ぶつかる、ぶつからないといった問題なのである。

たくさんの、ぶつかる中で、たった一つだけのスルっとした出口だけを探す。その動作の連続なのである。よく小説家などが、続きが書けないといって、書きかけの紙をゴミ箱に捨てて、ハーッとため息をついているシーンなどがあるが、あれも、何を書いてもぶつかる感じがしてしまうからである。書くそばからぶつかってしまって、何も書けなくなってしまう。書く前から失敗する感じがわかるから、それを書いてみたところで、それはやはり失敗であることが多いから、何もできなくなる。でも、やはり、そんな時でも、ぶつからないで、スルッと出る出口がある。書くということは、その都度、スルッとでる出口を探していく作業なのである。

これを理屈として知っていると、たとえどんなにぶつかっていようと、どこかに必ずスルッと出る出口があるということがわかり、自然とその出口を探すようになる。これを知らないと、あぁダメだと言って、自分は何もできないんだと言って諦めてしまうことがなくなる。これがどんなにメリットがあることが計り知れない。

また、たとえば、よく皆さんが目にするように、とても能天気な人、がむしゃらな人、空気が読めない人、やたらとむやみに突破口を開こうとする人など、我々がそこはぶつかるからと思って避けていたぶつかる場所に対して、その注意が働かずに、ぶつかっているのに、その場所を突き進もうとする豪の人というのは見かけるけれども。そういう人ほど、側から見ていると低劣に映るだろう。

一度ぶつかったら最後、ぶつかっている場所から開かれていく道はすべてぶつかっているのだけど、それは蜘蛛の糸にこんがらがっているように、どんどん糸を巻きつけていっているに過ぎないのだけど、まぁ、冷静に欠いている、と言えるだろう。だから、この、ぶつかる、ぶつからないというのは、瞬間、瞬間にあるのだと思う。

だから、ぶつかった上での文章というのは、道を踏み外して、意味不明な言葉の羅列を長々と書いたところで、そこはもう道を踏み外してしまっているのだから、元も子もないように。それと同じことが、この人生航路において多くの人々が犯していることである。闇雲に突っ込むのだけど、最初の入り口を、ぶつかったところからスタートしていて、それにすら気づいていない。

この理屈を知っていると、どんなふうに役立つかというと、やっぱり物事を是正したり、判別する上で、ぶつかっているか、ぶつかっていないか、繊細に、一つ一つ、確かめて、あ、ここがスルッと抜けたなという感じがあれば、一つ一つの正しい物事の基準を確かめる上でのバロメーターとなるし、これを知らないと、姿勢や道を踏み外したりしてまで、出口を追い求めていってしまう。そのように、たとえ、ぶつかった道の線上で成功したとしたって、それは邪法だし、初めから邪法だということがわかっていれば、わざわざその覇道を突き進もうとは思わなくなり、また、たとえどんな困難に阻まれたとしても、一つだけぶつからない場所があることを成功の目印とすれば、もろともしなくなるだろう。どんな人生の困難においても、一つだけスルッと動ける場所へ方向転換するゲームとして捉えることができるようになるだろう。

俺があくまで言いたいのは、姿勢はそのままでいいから、そのままの姿勢において、スルッと出ていける出口があるから、その箇所を探すということである。

いわゆる、すべての技術と言われているものの正体は、その姿勢のまま、ぶつかる、ぶつからないという、制限の中から一つだけスルッという出口を見つけられることを指すように思えるのである。

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