「あら、りょうちゃん」
「あ、おめでとうございます」
朝、8時ごろ。台所に置いてあるナッツカゴの中に手をつっこんで、片手で収まるくらいの量のナッツを食おうと思って一階に降りてきたら、サチコおばさんに出会した。
サチコおばさんは、玄関にて靴を脱ぐと、そのまま家の者の許可をとらずに居間に上がってきた。ほとんど毎日のようにやってくるようで、もう慣れたものらしい。もともとはこの家の人間であり、結婚するまでここに住んでいたことを考えると、そう不思議でもないか。さすがに靴を履いたまま上がってきたら、俺もひとこと言わせもらうが。
台所では、母がお茶の支度を整えていた。もう7時ぐらいには朝食を済ませておいて、いつお客さんが来てもいいようにしてある。60歳代の人たちの朝とはこうも早いものだろうか。
「りょうちゃんは大きくなったわねぇ」
「もうずっと前から大きいわよ」
「あ、そうそう、ちょうどよかった」
と言って、サチコおばさんは、いかにも60代くらいの女性が使っていそうな、ウエルシアの店舗入り口にセールで叩き売りされているようなバッグから一封のポチ袋を取り出し、「りょうちゃん」と言った。
「サッちゃん!」
母は慌てて言った。
「いいわよ! いい! いい! こいつ、もう39歳なんだから!」
「あら、いいじゃないの、オホホホホ!」
と、サッちゃんおばちゃんは、とても優雅そうに笑った。
「もう〜! 本当にやめてよ〜! サッちゃん〜!」
と、母はこんなふうに言ってはいるが、じつは母も、ほんの1時間前、いっしょに朝食を食べているときに俺にお年玉をくれた。
サチコおばさんはお年玉をくれるときはかならず一万円をくれるので、きっと今年もこのポチ袋の中には一万円が入っていることだろうと思った。ナッツのために一階に降りてきたのに得をしたと思った。一挙両得とはこのことか。母とサチコおばさんとで、それぞれ一万円づつ。合計2万。俺は39歳になりながらも、今年、2万円のお年玉を手に入れた。
おかしい、もうあげる方の年齢なのに……。うちの親戚どもがみんな独身ばっかりで本当に助かっている。姉ちゃんや親戚の兄弟たち、彼らが結婚して子供を産んでいたら、考えただけでも恐ろしいことだ。たとえポチ袋の中にお金を入れるとしても、1000円がやっとだったかもしれない。
「ありがとうございます」
と言って、俺は受け取ると、そのまま台所に置いてあるナッツ箱(アーモンド、ピスタチオ、クルミ、マカデミアなどがいっぱい入った缶)の中に片手を突っ込んで、手いっぱいに収まるぐらいの量を掴むと、口の中に放り込んでバリボリ噛みながら二階へ上がっていった。
「りょうちゃんは、余裕があるわねぇ」とサチコおばさんの声が聞こえてきた。
「やっぱりそう見える?」
「うん、りょうちゃんくらいの年の人だと、みんなどこか疲れているような顔している人が多いけど、りょうちゃんにはそれがないわねぇ」
「アハハハハ!」と母のデカい笑い声が聞こえてきた。
二階へ登っていく階段のなかで考えた。マッチングアプリなど、いろいろな女性と会うと、その少なくない女性が、家にお金を入れているものだ。弟の学費代だったり、あるいは足の悪い母のために車を買ってあげたという話も、彼女たちの口から聞いたことがある。風俗嬢なんかでも、俺はてっきり彼女たちが強欲のためにセカンドバッグでも買うために小遣い稼ぎをしているものと思っていたら、実家のリフォーム代のために渋々働いているといった話を嬢の口から聞いたことがある。
俺は一つひとつの段を踏みしめるように階段を登り、もし生まれる家が一つ違えば、この階段の段を一つ踏み外したように転がり落ちてしまっていたかもしれないと思った。それは人は『運』だと考えるが、どうやらそれは少し違うようだ。俺はとかく厳しいしつけのもとに育てられたが、このお金の問題に関しては、ずいぶん、砂糖水のように甘い、砂糖水のように、甘さが溶け切ったような、環境で育てられたものである。
「あいつ、正月に帰ってきても、なぜかわからないけど、ああやって朝だけは早いのよねぇ。ふつう、ああやって、働いてるのか働いてないのかわかんない人って、朝は遅かったりするんだけど」
「何時くらいに起きてるの?」
「わかんない。もう、7時前にはフラフラ外に出かけていくけど。今日はちょっと遅いみたいで、よかった、サッちゃんと顔合わせられて」
バーカ! お年玉もらうために、わざと時間合わせたに決まってんだろ……! と、階段をあがる途中、ニヤニヤしながら俺は聞いていた。
しかし、今日は元旦なのでカフェがやっていないことは事実だった。近所のドトールは、いつも7時には開店しているのが、今日は元旦なのでやっていない。
俺はカフェに行きたくてたまらなくなった。正直なところ、もう、限界が訪れていた。いてもたってもいられず、ソワソワして、どうしようもなくなっていたので、俺は朝から家中をウロウロして、階段を上がったり降りたりして、もう朝から何度と食べたかわからない、ナッツ箱に片手を突っ込んで、それを手の平いっぱいにグワッと掴み、口に突っ込んでいた。
(カフェに行きてぇ……)
俺は、今2階へ上がったばかりだというのに、また一階に降りてきた。一階に降りると、また台所に行った。(あら……)という顔をして、サチコおばさんが俺の方を見た。そして、また、ナッツ箱に手を伸ばし、ぐわっと、片手を突っ込んだ。
さっき、片手いっぱいに、大量のナッツを抱えて2階に行ったばかりだというのに。先ほどのナッツはまだ食べ切らずに2階の自室の枕元の上に散らばして置いてある。なぜ、また再度、食べきらないうちに取りに来てしまったのかわからない。
(また食べるの? さっき、たくさん掴んで2階に上がっていったじゃん)という二人の視線があったが、その視線も気にならなくなっていた。
もう一つ。俺は実家に帰ったときは、暇さえあれば刀を振っていた。
道場で習っている居合術だが、そのために買った居合い刀が、25000円なのだが、その刀が、一階の畳の部屋に転がっていて、俺は実家に帰ったときは、暇さえあれば、その刀を振っている。
一人暮らし用のマンションだとぞんぶんに振れないので、実家に帰ったときはチャンスだと思って振っていた。ヒュウン、ヒュウンと、切先から振るようにすると聞こえる音が気持ちよくて、俺はもっぱらその音を楽しむために、たいていの時間をその12畳の和室で過ごした。
ちょうど母とサチコおばさんが話しているリビング近くの、一つ廊下を挟んだ部屋なので、二人の会話は筒抜けだった。そうでなくても、60代の女性の会話というのは、あらゆる年代でいちばん声が大きいものである。二人の会話の声が聞こえてくるということは、こちらの素振りの音も届くというわけで。サチコおばさんからしたら、俺のこの姿はどう映っただろう? 妹の子供、39歳のりょうちゃんは、年始そうそう刀を振っている(さいきん悪いニュースがよく飛び込んでくるけど……)、ナッツ箱の中に手を入れてそれを一挙に口にほおばる。39歳でお年玉をもらっても、すこしも恥ずかしそうにしない。とうぜんのように受け取ると、ナッツ箱から大量のナッツを手に取ってそれを口に含んで二階へ上がっていく。そしてすぐに降りてきて、またナッツ箱から大量のナッツを手に取り、今度は畳の部屋に行って、刀を振る。
「そんな時間に何をしに行くの? 店だってどこも開いてないでしょ?」
「んー、たぶん、ドトールとか、早い時間にやってるカフェに行ってるみたいよ」
「へー、すごいわねぇ」
すごい? 朝7時前にドトールに行くことが、すごいのか?
俺は、ヒュウン、ヒュウンと、刀を滑らせながら、耳に神経を集中させて聞いていた。
いや、まぁ、すごいか。
「車で?」
「それがね、歩いて行くのよ」
「歩いて!?」
「だって、ドトールっていったら、あそこまで、えーっ、学園通りでしょ!? ここからだと……5km以上はあるわよねぇ……? 自転車だったら行けないこともないけど」
「そうなのよ」と、母がお茶をごくりと飲み込む絵が浮かぶようだった。
「でね、さっちゃん。あいつったら、そのあと、図書館にも行くようで、ドトールから図書館まで、そこも、それはそれで3kmは離れているでしょ? でね、それも歩いて行くみたい。で、ぐるっと回って、家に帰ってくるみたいで、たぶん、往復したら、ぜんぶで20kmは歩いてると思う」
「やだぁ……」
と、サッちゃんおばちゃんは、感嘆のような、悲鳴のような声を出した。
「お母さんに似たのかしらねぇ」
「私もそう思う」と母が言った。「お母さんも暇さえあればしょっちゅう歩いてたからねぇ、だって、サッちゃんは一緒に暮らしてなかったからわかんないかもしれないけど、お母さん、犬の散歩をしてきたあと、今度は自分の番って言って、帰ってきたそばからまた歩き出しにいっちゃう人なんだよ!?」
「わかるわよ!」とサッちゃんおばちゃんも声を荒らげて負けじと言った。「私が子供のときから、お母さんは歩いてたもの! ちょっと火事が起きると、10kmぐらい先のところでも、そこまで見物しに歩いていっちゃうんだから!」
ふーむ、と俺は思った。どうやら、この、回遊魚みたいに外を20km歩き回ってしまう性格は、祖母譲りらしい。血筋かもしれない。たしかに、祖母は毎晩のようにうなされていて、凄まじい雄叫びを夜毎繰り返していたが、俺にもこの癖があるのだ。俺もよくひどい悪夢にうなされ、変な黒人らに、ヘリコプターで上空高いところまで連れていかれると、そこから問答無用で蹴り落とされるという夢をみる。俺はかれこれ、この夢を250回くらい見ている。友達にこの話をしたところ、「俺にはよくわからないけど、たぶんその夢に出てくる『黒人』は、お前にとって『社会』をあらわしていると思う」とだけ言われた。
「でもいいじゃない、引きこもられるよりは」
「私もそれは思う」と、母は真面目な静かなトーンで答えた。
「だって、あんた、引きこもりになられたら、たいへんよぉ? 引きこもりなんて、家にいられるだけで、ずっと粗大ゴミが部屋に置かれているような、不穏な空気が家中に広がっちゃって、家にいる人たちだって、その空気に巻き込まれちゃうんだから。外に行ってくれているなんて、そんなにありがたいことはないじゃない」
「そうなのよ」と母はしきりに感心してうなづくばかりだったようだった。
(やっぱりそうだったんだ)
と俺は思った。
(そうか、やっぱり俺は、家にいないほうがよかったんだ)
たしかに、いつも心なしか、俺が外出するたびに、母と姉が嬉しそうにしている気がした。いわゆる、コロナ禍においても、これまで会社で働いていた夫が家に始終いるようになると、絶えず不穏な空気が家中に流れるという、好き同士で結婚したはずの間柄でさえそうなのだから、俺の存在でいうと……。
「でも、仕事はしてるんでしょう?」
「うーん、してるのか、してないのかよくわかんないけどねぇ」と言って母は苦笑した。「土曜日は、ほら、3人のおばあちゃんたちをマッサージしてるでしょ? それで、一人5000円だから、一日にしたら15,000円で。それが週に一回だから、月にしたら6万は入ってくるみたいだけど。収入でいったら、たぶん、それだけでやってるんじゃない?」
「え!? それだけ!? それだけでやっていけるの!?」
サチコおばさんは、このとき一際大きい声を出した。
「わかんない、まぁ、それに加えて、チラホラお客さんもいるみたいだけど。だから、ざっと7、8万ってところじゃない? 本人も100万越えないように気をつけているらしいよ。それだと税金かかってきちゃうから。住民税非課税者として、そのラインを死守しているみたい」
「それでやっていけてるの?」
「さぁ……」
「一人暮らしでしょ? 家賃だって、食費だってどうしてるの?」
「さぁ、一日一食にして、玄米食べてるらしいけど」
「やだぁ……」
今日、二度目のやだぁ……をサッちゃんおばちゃんは口にした。やはり、感嘆と悲鳴が合わさったような声をしていた。
「私は、できれば、看護師になってもらいたかっていうのがあるんだけどねぇ。本当に、今からでも看護師になってくれないかしらね」
「看護師?」
「だって、今、求人すごいじゃない。サッちゃん、タウンワーク見ない? すごいじゃない、もう、看護師ばっかり! それもすごい高給でさぁ、時給2500円とかザラにあるし、有料老人ホームの夜勤なら、一回の勤務で、4万円近くの求人とか出てるじゃん。うちのお姉ちゃんも、一回夜勤やるだけで4万円くらいもらえてるし、あいつも、週に一回しか働かないんだったら、やっぱり看護師になってもらいたかったわねぇ。そうすれば、同じ週に一回働くだけでもぜんぜん違うわけじゃない? 今のお客さんだっって、いつ死ぬかわからないじゃない。私は言ったんだけどねぇ。看護師の資格を取りなさいって、当時も強く言ったんだけど、ほら、あの子、ガンコだから聞かないでしょ」
「でも、いいじゃない、資格があるんだから」
「でも、取得難易度がそんなに変わらないのに、お金がぜんぜん違うのよ。理学療法士と看護師とじゃあ。最近の求人見てると、すごい差があらわれてきてるのよ。前から差は開いてたけど、ここにきて、ぜんぜん変わってきてるの。本当、あいつの人生最大の失敗は看護師にならなかったことね」
「でも、りょうちゃん、看護師ってがらでもないでしょ」
「それはそうなんだけど」母はうなづいて言った。「でも、理学療法士ってがらでもないでしょ」と続けて言った。
「そうねぇ」とサチコおばさんは言った。
たしかに、今もこうして、わけもわからずに剣を振っている。もう朝から、わけがわからなくて、ナッツを食うか、剣を振るか、それしかできないでいる。
もう、わけがわからないので、二人を斬り殺してしまおうかと思った。