仕事

荷揚げのアルバイトの面接に行ってきたよ〜!

いつも不思議に思うことなのだが、どうして運動というものは子供時代に集中されているのかということだ。学校で行われる『体育』は、大人にこそ必要ではないだろうか? みなさんが毎日目にするとおり、この俗世間では、ボンブレスハムの紐がはち切れたような醜悪な肉体があふれかえっており、子供なんてものは放っておいたって血圧は110にも満たないのだから、ひとまず置いておいてもいいではないか。

「体育」は会社でこそやるべきである。みんなでドッヂボールをやったり、相撲を取ってもいいだろう。それを各自の可処分時間の中でやれと言うけれども、せっかくこうしてスーパーの大安売りセールのようにハムが並んでいるのだから、みんなで加工しあったらいいと思う。

人のことはともかく、お前はどうなんだと問われると、俺は誰よりも運動をしている、と答えざるを得ない。なぜこの年(39歳)になっても運動ばかりしているのかわからないほどであり、ほとんどニート同然という恵まれた生活環境を活かし、俺は空いた時間のほとんどを運動している。それは実家に帰ったときでも違わないもので、実家に帰ったある日の夜、土木用の3.6kgの大ハンマーを持ち出して、俺は家の外で素振りをしていた。

時刻は22時過ぎ。辺りは静まり返っていた。

満点の星空の下、一月中旬の凍てついた空気は刺すように険しいものだったが、俺は上半身裸でハンマーを振っていた。

ハンマーは、野球のバットのように振ることもあれば、身体をコマのようにクルクルと回転させて急にビタッと止めることもある。すると体幹に凄まじい衝撃が走る。このとき、身体の奥のコアの部分が鍛えられている気がする。インナーマッスルだろうか。俺は理学療法士だけれども、この辺のことはまったくわかっておらず、体感的にその時にかかる強烈なブレーキが肉体に若さとキレをもたらすのではないかと思った。あらゆるトレーニングの中で、重い棒状のものを遠心力で振り回し、宙でビタッと止めることが最上と考える。室伏広治や武井壮がこういったトレーニングを好んでやっていたことから、運動に対し格別の知識を持っている人は、ここに行き着くものである。

「ねぇ、ちょっと、ハンマーはやめてよ!」

母が家の小窓から顔を乗り出して叫んできた。

「近所の目があるからやめて!」

「ああ」

これくらいの時間なら近所の目とやらも静まっているだろうと思ったから選んだというのに。

俺は力なくハンマーを下ろした。

母は俺の上半身裸の姿については何も言わなかった。

(近所の目といったって)

俺は高校時代から、22時過ぎになると、こうして何かしらの棒状のものを持ちだしては素振りをしていたから、近所の目だって見慣れたはずと思った。

ちょうど、近所一帯の私有の道路というか、なんと言っていいかわからないが、住宅街というか、家の前の道路である。玄関を出たすぐに駐車場があり、駐車場なら死角になるのだが、俺と姉の車が置かれているため、道路に躍り出るしかなかった。

22時過ぎといっても、あんがい車が通るものであり、そのため近所の人の車が通るときは、俺はイチイチ退いて駐車場の隅に隠れなければならなかった。

マナちゃんという20歳の女の子が、終電で駅からポツポツ歩いてくることもある。マナちゃんに出くわしたとき、俺は、猫が逃げるように、上半身裸でハンマーを背負って、慌てて車の裏に身を隠した。おそらくマナちゃんの目には、車からハンマーだけがはみ出ている不思議な光景が見えていたことだろう。

今でも、実家に帰ってきたときは、近所の人とそれなりに話をするものだ。「おお、りょういち君、お帰り」「りょうちゃん、大きくなったねぇ〜!」と言ってくれる。俺は「ヘヘヘ」と照れ笑いをして返す。しかし、そんな彼らも、夜、ハンマーを振っている俺と出くわしたときは、知らんぷりを決め込む。まるで暗くて何も見えなかった、私は何も見ていない、というふうに。闇のなかにすべてをうやむやにしようとする。そして、ふたたび昼間に会ったとき、ハンマーの件についてはまったく触れてこない。彼らはよく訓練された犬のように何も言わない。

このとき、俺はいつも思うのである。人間関係というのは"時間"によって左右されるのではないかと。"時間"というより"時間帯"か。

およそ彼らとて、もうずっと前に定年退職して一般常識も抜け落ちて久しく、そんな彼らにあっても、夜22時過ぎにハンマーを振っている輩には声をかけてはならないという暗黙の常識を残していることに驚かざるを得ない。なんたって、90歳のおじいちゃんでも見て見ぬフリをするのだから。

「ねぇ、あんた……本当にやめてよ。今、この辺の地域に空き巣が入られたとかで、近所の人たちも神経質になってるんだから」と、母は相変わらず小窓から顔を出して話していた。まるで古時計から顔を出す九官鳥のようだった。こんな夜は珍しかった。いつもハンマーを振っているとき、この窓が開いている姿を目にしたことはなかったから。

空き巣? 空き巣なら願ったり叶ったりじゃないか。さすがに空き巣も、ハンマーを振っている男の家には忍び込もうとはしないだろう。

「ねぇ、あんた、今日も昼間どっかに行ってたけど、まさか浜でハンマー振ってなかったわよねぇ?」

「振ってないよ」

「ねぇ、腕立てとかじゃダメなの?」

「腕立てって(笑)」

俺は苦笑した。

なーにが楽しくて、夜の22時に、家の外のコンクリートの地面に顔を近づけなきゃなんねーんだよ(笑) ハンマーも一緒か。

「あんた、向こうのマンションでも、ハンマー振ってないわよねぇ?」

「振ってないよ」

それは本当だった。振りたくても振れない。本当に、ハンマーが振れる場所がないのだ。

俺はいつもこの件に関してやり場のない怒りを抱いていた。むかし、侍といった連中は、庭で剣の素振りをするのが日課だったはずだ。心身錬磨の一環として当然であり、それを近所の目に訝しがられたり、詰問所に連れ出されたり、母親に怒られるなんてことはなかっただろう。「今日も修行に精が出るでござるな」と声をかけられることがあっても。

庭もなければ剣もない、剣もなければ道場もない、いよいよこの時代は終わっていると思う。俺は、日本人はみんな剣を振るべきだと思う。日々、庭で剣を振るい、道場に通い、そこで己の研鑽を競い合う。今こそ、そうでなければならないと思う。なぜなら剣がわれわれに最も大事なことを教えてくれるからだ。それについては後ほど話す。

現在、通っているボクシングジムのトレーニングルームにも大ハンマー(3.6kg)が置かれてあるが、誰が振るうでもない。全身鏡などに当たってしまったら怖いため誰も振れないでいた。だからハンマーを振るえるとしたら、実家の前の道路しかなかった。俺はハンマーを振るために、二週間に一回、実家に帰ってきていた。

「ねぇ、あんた、今日もボクシングジムに行ってきたんでしょ? で、明日はキックボクシングジムに行くんでしょ? それで、週に一回、武道の道場にも通っているんでしょ? それだけ身体を動かして、まだ足りないの?」

母からすればとうぜんの疑問だと思った。しかし俺から言わせれば、それは運動をしない者の意見である。運動している側からすると、運動とはすればするほどしたくなってくるものなのである。

「ねぇ、あんた、そんなに身体を動かすのが好きだったら肉体仕事でもすればいいじゃん。そのほうがお金も稼げて一石二鳥じゃん」

「はは」と俺は笑った。

それだけ言うと、母は窓を閉めて、リビング奥でiPadを弄る作業に戻っていった。

俺はそのあともハンマーを振り続けた。ハンマーを身体に水平な角度を保つと、体幹をギュッと回転させて、少し遅れてハンマーがついてくるようにする。そこから、一回転、二回転、と助走をつけていき……、クルクルとコマのよう回旋動作を加えていく、まるでフィギュアスケートだ。いや、ハンマー投げか。グン……グン……グン……と三回転ぐらいして、いちばん勢いがのったとき、急にハンマーの動きをピタッと止める、すると、グオオオオン! となんともいえない強烈な振動が身体に響く。

(ク……!)

(こいつはたまんねーな……!)

(まぁ、女子供にはわからねー代物だろーが)

たいして筋肥大するわけではないが、身体内部奥のコアの部分が鍛えられている気がする。確かに衝撃は強いものだけど、ウエイトトレーニングのように、筋肉が限界を達するようなことはなく、気持ちさえあれば無限にやれてしまうところがある。気持ちよくて、やめどきがわからなくなるほどだ。

そうやってハンマーを振っているあいだも、俺は一つの考えに支配されていた。

(どうして今まで気づかなかったのだろう?)

(ハンマーを振る仕事)

(解体か)

ふと空を見上げると、満天の星空達が俺を祝福しているような気がした。今、すべての扉が同時に開かれているような気がした。

俺はワクワクが止まらなくなっていた。こんなに興奮するのはいつぶりだろう? 何か得体のしれないものに導かれていたような気がした。これから俺の人生に何かが起こりそうだ、そんな予感があった。

俺はハンマーを担いで家の中に戻っていった。階段を上がって、自室の中へ入っていくあいだも、一種の光芒の中を歩いているような気がした。俺は上半身裸のまま、自室のローテーブルの前に着座すると、滝のように流れる汗を拭くのも忘れ、 MacBook Proを開き、「△△市 解体 アルバイト」と検索した。その様子を、チンチラゴールデンのオス猫が見ていた。勝手に俺の部屋に入ってきては、お決まりの窓際の定位置に座して、尻尾を包ませている。

(ハンマーの素振りをして、それが金になるというのか?)

出前館の配達なんかやったって、キャリアシートに海苔弁当を乗せるくらいだから、身体なんて鍛えられるはずがない。俺は毎日、出前館の配達を二時間やっているが、それがとうとう終わるときが来たような気がした。

たしかに俺は、ハンマーの素振りを二時間ぐらいやったとき、二万円はもらってもいいんじゃないかな? という気持ちでいた。剣の素振りを千回やったときも、一万円をもらってもいいんじゃないかな? という気持ちでいたこともある。(一素振り十円だ)

ネットで小一時間くらい探してみたが、ハンマーを振るだけの仕事というのはなかった。解体の仕事においても、重機による作業が7割、手作業は3割で(重機が入れないところを手作業でやるといった感じ)、その手作業の内訳としても、パールでネジを取ったり、床に散らばった廃材の処理といった雑務が大半を占め、ハンマーを振るのはその全体の作業の一部だった。

今度は、薪割りの仕事を調べてみた。俺の住んでいる地域は富士山からそう遠くなく、富士山界隈だったら、薪割りの需要もありそうだと思った。しかし、これも解体の仕事と一緒で、『薪割り』の仕事はあったが、キャンプ場の受付、店舗用品販売、ベッドメイキング、五右衛門風呂掃除といった、アウトドアキャンピングの仕事の、全体の一部に組み込まれているに過ぎなかった。また、現代では薪割り専用の機械もあり、それを使用することも多いようだった。

(ほかに力仕事といえば、引越しとか、漁業とか、鉄骨を運ぶとか……か)

時刻は深夜一時をまわっていた。俺は相変わらず上半身裸だった。猫がその様子を見ていた。自身の毛深い身体と比較して、人間のツルツルした肌、その寒さに耐え難い構造をしているのにも関わらず、なぜこいつは平気なんだろう? といった目で見ていた。

今の仕事に不満はない。自営業で週に一回、おばあちゃん達のマッサージ。出前館で2時間の配達。それで月に8万円を稼いで生きていけている。おばあちゃん達とはもう10年来の付き合いで、俺に彼女達に関わらないという選択などできようはずもない。出前館の仕事も、心を無にし、配達のあいだは一種の座禅修行のつもりでいるので、これも俺のライフスタイルに欠かせないものとして屹立している。

それに、年に100万円以上稼ぐとなると、住民税がかかってくることになり、給付金ももらえなくなり、稼げば稼ぐほど損をするようになる。下手に稼いでしまうと、その分は結局搾取されてしまうのだ。

金だけじゃなくて、時間の問題もある。金を稼ぐということは自分の時間を差し出すということだ。人生とは時間だ。時間は人間にとって最も高価な財産だ。肉体仕事はそれに値するといえるのか? 俺は熟考した。この素振りの時間は、自分自身と言える……。この"自分の時間"が、そのままお金になるとしたらどうだろう? それはマッサージや出前館の仕事よりも、自分に適していると言えるのではないだろうか? やはり、天職かもしれないと思った。

次は、鉄骨を運んでいるドカタの姿が浮かんできた。たまにコンビニで買い物をしていると、土に塗れた作業着姿のドカタが床を汚しながら入ってきて、「お前らこんなに重たいもの持てないだろ」とドヤ顔でお茶を買っていくときがある。俺はなぜか、そのときの彼らを思い出した。

調べていると、建設現場における『荷揚げ』という仕事が、すべての力仕事のなかでも最も力を使うらしいことがわかってきた。THE・キング・オブ・力仕事。あらゆる力仕事でいちばんキツイというウワサがネット上にたくさん書かれていた。

この『荷揚げ』の仕事はどんなものかというと、ふつう、大工が家を建てるときに、石膏ボードをたくさん使うことになることは皆さんも想像につくと思うけれども、そのさい、大工の足元に石膏ボードが山積みに置いてあった方が作業がやりやすいこともおわかりになると思う。しかし、その石膏ボードは一枚13.6kg近くあるらしく、これをトラックから作業場へ運び出してくるだけでも相当な労働になるらしい。そこで、トラックに積まれてある石膏ボードを、数十メートル離れた大工の足元まで持ってくるだけの仕事が必要となり、その、面倒くさがりの大工のための御用達物件というか、お手伝いさんというか、とにかく、ただそれだけのために存在している仕事が、『荷揚げ』らしい。

YouTubeで荷揚げの仕事の動画を見ていると、必ずしもみんな筋骨隆々というわけでもなかった。小柄な人もいた。一般的に、石膏ボードは初心者は2枚持つことがやっとだが、熟練者になると8枚とか持てるようになるらしい。動画では、50代のベテランの人が6枚の石膏ボードを背中に担いでいた。この持ち方を見て、俺は、あの有名な、江戸時代のおばあちゃんが60kgある米俵を6個ほど担いでいる写真を思い出した。

これも理学療法士の職業柄が手伝っているかもしれないが、重たいものを自在に運ぶ身体の使い方は知っておく必要があると思った。筋肉の力に頼っていたら、一日に4時間も8時間も持てるはずはない、何かコツがあるのだろう。それを仕事の指針にしていくのは面白そうだと思った。俺は、かならずしも、ベンチプレス系の高重量を扱う方は得意ではなかったが(ベンチプレスMAX60kgぐらい……😂)、177㎝、59kg、見た目は細く、およそ重いものを運ぶにはたよりない身体ではあるが、筋持久力には自信がある。この手のものはコツさえつかんでしまえばわけないだろうと思った。

次は、『荷揚げ』の体験記事について、ネットに転がっているものを読んでいった。

『千葉県流山市のつくばエクスプレスのおおたかの森から1KMくらいの現場。3階だてのマンション。トイレの25個の荷揚げ作業。今日は二人の現場だったが、自分を含めて見習い3人と本社の社員が来たので、人数は6人。社員さんは監督者で荷揚げはしなかったが、5人いたので、超楽だった。8時から10時47分。自宅から40分くらいの現場で午前中に家についた♪』

『今日は桜新町の近くのマンション現場、二人+見習いの自分。いまだにまだ完全独立できていない。本日は13時から15時で終わった。13時から14時までは、新規の説明会。たまに、新規はちゃんと講習(この現場はこういうい感じで作業しています)的な10分くらいの講習を受ける。そして、14時から、15時が作業時間なので実働は1時間くらい。なので、自分がいる会社は1現場8000円なので、時給8000円ということになる』

『7日目と同じ川崎の現場。しかし、突然の中止の電話が前日にあった。でも、全額給料でたので、ラッキー!!!!!』

『三越駅付近の30階くらいの、新築ビル。東京はやはり凄い、普通に生活していると気づかないが、何気にどんどんタワービルが新築されている。今日は、前に着けた扉の部品が間違っていたので、その部品交換。ほとんど力仕事はなかった。8時から11時、今日は、超楽だった。』

『火曜日、東京国際クルーズターミナル駅付近。8時から11時くらい。』

『水曜日、都庁付近の改築現場。8時から11時くらい。』

『神保町付近の現場 8時から12時30分 仕事時代は楽だったが、重たい扉を10枚くらい運んだ、まだ両手運びができない状態。足場が悪く、一番重たい扉はもてたが、段差を超えらずに手伝ってもらっった。まだ、一人間になれていない。早く両手で持てないと。。。。。』

『土曜日、いつもは休みしてもらっているけど、この日は人がたりないということで出勤。西巣鴨付近の現場 扉の搬入と設置 9時から11時くらい』

『足立区でLSDの荷揚げ 今日は久しぶりに見習い扱いでいった、1週間ぶりのバイト、コロナの影響で仕事が減っているらしい。8時から9時30まで。家から自転車で20分くらいで、初めて10時まえに家に到着。実質働いたのは1時間くらい。家から自転車でいけたので、交通費はゲットできた。7000円+交通費700円で1時間で7700円ゲット!!!!!』

いろいろなブログを読んでいると、予定時間よりずっとはやく終わることが共通していた。この仕事は、一現場4時間という時間制で区切られているらしいが、実働時間は2〜3時間くらい。一時間以内に終わることもままあるらしい。一現場の報酬の相場は8000円のようで、1、2時間働いて、8000円もらえることになる。Yahoo知恵袋も覗いてみたが、だいたい同じようなことが書かれていた。確かに、どこの企業の求人PR文章にも、『予定よりはやく終わることが多いです!』と書かれてある。また、現場に直行直帰OKということも大きかった。フラッと立ち寄って、山積みになっている資材を運んで終わり、なんてさっぱりした仕事だろう。

せっかちな俺にとって、仕事の量が可視化でき、それをいかにはやく終わらせるかといったことに骨を折る方が性に合っているように感じられた。

これだ……と思った。

はやく、はやくやりたい! と思った。

はやく、やりたい……?

はやく、仕事がやりたい……、なんて、そんなことがあってもいいというのか?

すごい……。俺は今、はやく仕事がやりたいと思っている。

これは、嘘ではなかった。

今、もしかしたら、セックスより荷揚げの方がやりたいかもしれないと思った。今、もし、グラビアイドルがとつぜん裸で目の前にあらわれて『セックスしよう』と言ってきても、荷揚げの方がやりたいかもしれなかった。

俺はこのとき、すでに荷揚げの仕事を一生の仕事にしようと思っていた。まだ一枚の石膏ボードを運んでいないにも関わらず、70になっても80になっても、荷揚げをやるつもりでいた。この手のせっかちな性格は、建設系の仕事において吉と出るか凶と出るか。

俺はめぼしい会社に目をつけると、明日、さっそく電話をしようと思った。この日の夜はワクワクして眠れなかった。毒マムシジュースを1リットル飲んだぐらい、目がギンギンに冴えて寝れなかった。

翌朝、10時に電話をかけると、その日の午後に面接をすることになった(肉体系仕事の連中はやはり気が早いらしい。電話に出たのは事務職の人間だから、そうとも言えないか)

面接なんてものは楽勝だ。面接でいちばん重要なのは姿勢だ。面接は姿勢さえ良ければかならず受かる。どんなスポーツや武道や芸事でも姿勢がいちばん大事と言われるが、これはそのまま人生にも当てはまる。何も姿勢がいいとは、人形のように均整揃えて棒のように突っ立っていることを指すわけではない。正中心をピッタリ決めて、仙骨を立てて下腹部に力を入れるようにして、腰腹同等の緊張を保ち、人体の中心の力が生まれるようにすることである。

肉体上の芯がある位置は精神の芯がある位置でもあり、ここに緊張を入れると、幽玄微妙なエネルギーが相手に伝わり、無意識下のうちに相手を支配することが可能になるのだ。相手の姿勢が悪い状態であれば効果はなおさらである。これは人々が考える、姿勢が良ければ相手にいい印象を与えるといったレベルの発想をはるかに越えている。

剣道でいう、剣線を相手の中心に向ける、といったことがあるように、自分の中心姿勢を決めて、相手の中心を取るようにすれば、相手は何もできなくなってしまう。たんに武道とは中心の取り合いなのだ。それがそのまま人生のどんな機会にも当てはまる。こうやって文章を書くときもそうで、ただ中心を捉えることが必要とされる。

案の定、面接官は俺の姿勢の力に圧倒されていた。俺は面接において準備などまったくしなかった。姿勢を正していると、姿勢の方が何を話せばいいか、言葉を指し示してくれるのだ。俺は姿勢が教えてくれるままに言葉を紡いでいった。

「しまるこさんは、体力に自身はおありですか? この仕事を希望されたということは、おおよそ、どういう仕事かわかってのことだと思いますが」

「はい、YouTubeの動画なども見て参考にしました」

「あ、ああ……Youtubeを! そうですか! あはは!」と言って面接官は笑った。「そうですか。まぁ、動画で見たのならおわかりだと思いますが、はい、だいたい、動画で見た印象でいいと思いますよ。そんな、難しい仕事ではないですから」

面接官は、50代くらいの顎髭を生やした男だった。緑色の厚手のセーターにベージュのチノパンツ、カジュアルな服装をしていて、だらしない姿勢で椅子に寄りかかって座っていた。今にも足を組み始めてもおかしくなさそうな姿勢だった。これは彼の意識の低さをあらわしているのではなく、彼は、どんな厳粛の場においても、このような姿勢で座るタイプの人間と思われた。一重の腫れぼったい目に、分厚い唇、スポーツ刈りのような短髪で、髪がよく詰まっていて、白髪は一本もなさそうだった。背は170cmくらいだと思われたが、体格はよかった。彼に荷揚げの経験があるのかどうかはわからないが、あってもおかしくはなさそうだった。黙っていると人相はあまりいいとは言えなかったが、笑うと、同郷を懐かしく思わせるような、なんともいえない柔らかな気持ちにさせられた。

俺は面接官の目をじっと見ながら、どちらかというと観の目を働かせて、彼の背後にある中心点に圧力をかけ続けた。ピタッと何かが一致した気がした。武道において、このピタッと一致したときは間合い感覚が一致したときの感覚であり、これが決まると、そのままスルスルと相手の懐へ入っていけてしまう。これは、格闘技において、相手の姿勢が悪いと、スルスルと懐へ入っていけてしまうのと同じであり、目の前の相手の姿勢が悪いと、その中心を制しやすいのである。

「まぁ……、この仕事は……」面接官は言った。「誰でもできる仕事でして、ね。石膏ボードと言って、一枚13kgのものを運ぶことが主になるのですが……」と言って、面接官は立ち上がると、後ろの棚から資料を取り出して見せてくれた。「これも、持ち方次第なんですね、慣れてくれば、誰でも4枚くらいは持てるようになります。コツがあるんですね、そうでないと、4、5時間も運び続けるなんてできないですから。初めはきついかもしれないけど、やり方がわかってくると、とても楽な仕事だと思いますよ。一応、向き、不向きはあるようで、苦手な人は一週間……、いや、一日ももたずに辞めてっちゃう人もいるのですが」と言って面接官は笑った。「でも……」面接官は俺の目を見ながらはっきりとした口調で言った。「合う人には合う、というのが弊社の印象ですかね」

俺は感心して、「ほう」と答えそうになった。

「しまるこさんは普段、運動とかされていますか?」

「はい、学生時代にボクシングをやっていたのですが、現在も続けています。さらにキックボクシング、合気柔術、居合といったこともやっておりまして、毎日、剣の素振りなどもしています」

ハンマーを振っているとは言わなかった。

「それは……」

面接官は驚いて言った。

「剣の素振り……ですか?」

「はい」

「それはいったい、どういう」

なぜか、面接官は剣の素振りについて突っ込んで聞いてきた。剣の素振りって言ったら、剣の素振りじゃないか。俺は空中で木剣を構えるような真似をして、「普通の、こういった、木刀をですね」と言って、スッと宙で素振りするように動いた。一打ちだけ、わざと面接官の中心線をなぞるようにして、スッとその線上を斬り込んだ。すると、面接官は「ウ……!」と斬られたような声こそあげることはなかったが、破瓜の目にあった女子中学生のような生物上の深刻な目にあったような顔をした。エアーでも中心線をなぞられると、自身の内部奥に迫られたような不思議な気持ちを覚えるものである。

「これだけ運動していても、夜、体力があまりあまって寝つけないときがあるくらいでして」と言って俺は笑った。「そういうときは、夜、運動をして身体を疲れさせるんですよ。ですから、日中に肉体系の仕事をやるのがいいのではないかと思って」

「まさにうちのドンピシャの人材ですね」と面接官は言った。

俺は内心でニヤリと笑った。

これは食生活も大いに一役買っていたと思われる。女優の小雪は、玄米と発酵食品を中心とした食生活をしていた 20〜30代の頃、どれだけ仕事に忙殺されていても疲れを覚えることはなかったという。夜な夜な都会の街並みをマラソンして肉体を疲れさせなければ眠れないこともしばしばだったと回顧するほどで、それはその食生活からきているのではないかと、とあるTV番組で語っていた。

面接官ははやくも俺を採用したいという顔をしていた。もう答えは決まっていて、こんな、くだらない、しちめんどくさい茶番ごとはさっさと終わりにして、実務面についての話題に移していきたいようだった。じっさい、特に採用です、という言葉はかけられなかったけれども、はやくもサインする書類、初勤務における持ち物などの話に移っていった。

このとき、お手伝いらしき事務職の女性が何度もこの部屋を出入りしていた。彼女は部屋に一歩入り込むたびに、どちらの人間が高貴なオーラを発しているか一目瞭然のようだった。彼女もはやくも俺に好印象を覚えたようだった。俺はただ姿勢を正しているだけで、そのほかに特別なことは何もしなかったが、女性は頬を少し紅らめていて、何かと用事をつけて俺に接したがっているように見えた。俺はこのとき、恋愛にも姿勢の力は応用できるのではないかと思った。

このとおり、下手に仕事をしているよりも、仕事をせずに修行していた方が、彼らの土俵である社会生活においても上回ってしまうことがあるのだ。

「ただいまー♪」

と、俺はルンルン気分で家に帰った。

「これにサインしてちょ♪」

と言って、母に一枚の書類を手渡した。保証人の同意書である。

「何これ」

と言って、母は身体を起こした。母はリビングのコタツで雑魚寝をしていた。昼の15時過ぎ、ちょうど夜勤の姉の出勤時刻でもあり、姉がいなくなると、母はすべての活動を停止して、この時間は小休憩していることが多かった。

「ん、きのう言ってたやつ。ほら、そんなに運動したかったら、肉体仕事でもやればいいじゃんって、お母さんが言ったんじゃん」

「……」

母は怪訝な顔色を浮かべ、まるで便器の中から一枚のトイレットペーパーを取り出すかのように、書類の端っこを指でつまんで持った。

母は書類の端っこをつまみながら、ジィィ……と汚物を見るように眺めた。

「私、いやよ。よくわからない会社だと、サインなんてできない」と言った。

「……」

(テメェが肉体仕事しろって言ったんじゃねーか)

「会社の情報ならネットに出回っているけど」と俺は言った。

母はなんとも言えない面持ちをしながらコタツの前に座り直した。それからテーブルの上に置いてあったiPadを引き寄せ、俺の手渡した書類を見ながら、「◯◯株式会社」と音声入力をつかって検索欄に打ち込んだ。

「◯◯株式会社? 聞いたことない会社ねぇ……」と、自分の言葉を復唱しながら、苦虫を噛むような顔をした。

「あんた、この会社、どこで見つけてきたの?」

「ネット」

「ネット!?」

母はすっとんきょうな声をあげた。

「ネットって、あんた、大丈夫なの……?」

ネットで探さなかったらどこで探すっていうんだよと思った。その辺で鉄骨担いでるトビ職に声をかけて面接してくださいって頼めって言うのか?

「ねぇ……。今、建設とか、リフォームとか、いちばんやばいって言うじゃない。あんた、ニュースとか見てないの? ほら、リフォームがいちばん闇バイトが多いって言われてるじゃない。それをネットって……、ねぇ、あんた……、こういうのは、もっと安全な人に紹介してもらった方がいいんじゃないの? いないの? そういう人……?」

と言って、母はホームページをじっくり見ていった。

「せめて、名前がよく通った会社ならいいんだけどねぇ……。あんた、労災のこととかちゃんと聞いたの? 補償とか、そういうの、大きい会社じゃないと支払ってくれない場合があるよ? 小さい会社だと、それもネットとかだと、事故を起こしたときに踏み倒されることがあるよ? 何かあったときに電話が繋がらなかったり、文句を言いたくても言えなくて、窓口もどこにもなくて、泣き寝入りするしかなくなっちゃうことがあるよ?」

「俺も、そんなにがっつり働きたいわけじゃないから」俺は言った。「週に、2、3日、それも、数時間だけ。フルタイムで働く気もないし。せいぜい、日に3、4時間だけ働けばいいかな? みたいに思ってるだけだから。だから、ちょっと働く分には、気にならないっていうか。それだって、じっさいに働いてみないことにはわからないし。研修期間もあるし、向こうも、研修期間を通して、お互いにやっていけそうだったら本採用に移行できればいいね、みたいな感じだったし」

「だから! そのあいだに事故しちゃったら困るでしょ!? あたしはそれを言ってるの! うちのお父さんのこともあるでしょ? 親戚のジュン君だって、あんたと同じじゃない! 20歳のときに建設会社でアルバイトして、そこでトラックの下敷きになっちゃって、それからずっと下半身不髄じゃない! ジュン君、もう30年間もずっと車椅子生活じゃない! 30年よ! 30年! そのあいだ労災が下りなかったら、あんたどうなってたと思う!? で、その会社、労災がおりなくて、大変だったじゃない! それでノブさんが(ジュン君の母)、あちこち取り次いで、やっと、5年かかって、労災がおりたんじゃない! 5年もかかったのよ!? 変な会社だったから! あんた、労災がおりなかったときのこと考えてる!? ジュンくん、それで、結婚もできなくて、今だって、ノブさんがぜんぶ世話しているんじゃない……! ノブさんだって、もう80になるんだよ!? あんたは気軽でやるつもりでいるかもしれないけど、それだって、わからないじゃない! 何があるか……! あんただって、小さい頃、まだ赤ちゃんの頃、この家が建つときに大工さんの仕事を見ていたら、大工さんがトンカチ落として、あんたの頭にぶつかって、大変だったじゃない! あのときだって、大変だったんだから! あんた、すごい血を流して、大工さんも私たちも大慌てで、どうしたらいいか、赤ちゃんだから、死ぬかもしれないって、あんたも気を失って、病院に行って、なんとか一命を取り留めたけど……、それで、今だって、あんたの頭の形おかしいじゃない! あんたといい、お父さんといい、建築関係には不運があるっていうか、どうも、なんか嫌な予感がするのよねぇ……。だって、ふつう、そんなこと起きないじゃない! 抱っこされている頭にトンカチがぶつかるって……、そんな話聞いたことある!? だから、イヤなのよ、建設って……ねぇ……。建設ってあんたと一番相性が悪い気がする。ほら、あんた、あんまり器用じゃないし、注意力もないから、しょっちゅう車の運転だって事故ばっかり起こしてるでしょ? ぜったい、なんかヤバい気がするのよねぇ……」

俺は黙って聞いていた。この話は本当だ。この家が建つ頃、父と母は定期的に、できあがっていくマイホームを野次馬のように見物に行っていたら、ちょうど母に抱っこされていた赤ん坊だった俺の頭に、高場で作業していた大工さんの落としたトンカチが直撃したらしい。そのせいか、今でも俺の頭は変な形に曲がっている。現場は血の海になり、赤ん坊ということもあって、ダメかと思われたが、奇跡的に一命を取り留めたらしい。もしかしたら、俺が夜な夜なハンマーを振り続けてしまうのは、その大工に対する怨念がそうさせているのかもしれない。

「せめて、もっと、人伝に紹介してもらわないと……、ネットっていうのがねぇ……」

「でも、建設業の知り合いなんていないし。俺自身も、週にちょっとだけ入って、それも3、4時間だけ働きたいだけだから、そんな融通きかせてくれるとなると限られるだろうし。さすがにそれはネットじゃないと見つからないと思う。向こうはそれでいいって言ってくれてるんだから、ってか、そういう枠としての採用を希望しているんだから、お互いのニーズが合っているというか」

「……」

俺は言った。「まぁ、べつに、働いてみて、怪しかったらやめればいいってだけの話で。俺だって、べつに、どうせ身体を動かすんだったら、そのついでにお金をもらえたらいいなっていう気持ちでいるし、仕事というより、趣味というか、実益もかねて、みたいな? そんな気でいるからさ、だから、ちょっとでもイヤなことがあったらすぐに辞める気でいるから」

「……」

母は黙って聞いていた。

「本当に、何か怪しいと思ったら、すぐに辞めなさいよ?」

そう言うと、母は立ち上がり、リビング奥の机へ印鑑を取り出しに行った。戻ってくると、コタツの前に座り直し、いよいよ押印する段になって、もう一度、隅から隅まで、書類を読みはじめた。

「ねぇ、ちょっと……ヤダ!」

母は絶叫した。

「イヤ! ヤダ……! ちょっと! これ! あんたこれちゃんと本当に読んだの!?」

「え?」

「これ! ここ!」

俺は呆気に取られていた。

「あたし、こんなの見たことないわよ! こんな条文! 初めて読んだ!」

そう言って、母は該当箇所を読み上げていった。

『上記のものが貴社に入社するに際し、身元保証人として会社の就業規則その他諸規則を守り、忠実に勤務することを保証します。

万が一、本人が故意又は重大な過失により御社に損害を与えたときは、連帯してその損害を賠償することを確約いたします。

なお、本身元保証書の契約期間は、契約締結の日から5年間とします。』

「こんなの、ただの脅迫じゃない!」

母は叫んだ。

「ぜったい、これ、闇バイトよ! 闇バイト!」

母は続けて言った。「だって……! これ! 何かあったとしても、こっちは責任は一切取りません、お前が弁償しろ、お前が弁償できない場合、私に払えって言ってるんでしょ!? 私、こんな文面見たことないわよ!」

うーん……と唸るようにして、俺も文面に目を通した。俺は、べつに、ふつうじゃないか? と思った。どこからどこまでをこちらの責任とするのかは明確に書かれてないが、かならずしも全ての責任を押しつけようとしているとは言えないのではないかと思った。

これは会社に尋ねてみないとわからないことだろう。

ちなみに俺はこの文章をまったく読んでいなかった。読んでいないまま母に渡した。

「確約ってなに!? 確約って……!」

母は叫んだ。

「確約って、ぜったい脅しにきてる!」

母は続けて言った。「確約って! あたし、聞いたことないわよ! 確約って!」

スロットじゃあるまいし、そんな、確約、確約って連呼しなくても……と俺は思った。

「闇バイトだとしたって、やめればいいだけじゃん」と俺は言った。

「イヤ!」

母はほとんど悲鳴のような声をあげた。

まさにヒステリック100%中の100%。一度こうなってしまったらもはや聞き耳ひとつ持たないだろう。女性特有の生理的拒否反応が頂点に達してしまったように思われた。この会社は生理的に無理というように、泥遊びをしたあとに洗ってない毛むくじゃらの手で子宮を握りしめられたときのような声をあげていた。

「お姉ちゃんは……!」母は言った。「お姉ちゃんは……! 看護師学会の保険が適用されるから職務上でどれだけトラブルが起きようとも個人としての責任が問われることはないけど……! 病院じゃなくて看護師学会が守ってくれるのよ! 医療ミスとか起こしても、なんなら患者さんを殺しちゃったとしても、看護学会が身代わりになってくれるわけ! だから、大丈夫なのよ! お姉ちゃんの病院も保証人のサインは必要だったけど、だけど、こんな条文なかった……! これって、もし医療機器を壊したり、患者さんを死なせちゃったりした場合、損害額を払ってもらいますって、そういうことだよ!? あんただって、器用じゃないんだから、なにか、物を運んでいるときに、狭いところだったり、ぶつかっちゃうこともあるかもしれないじゃない! 建設現場なんだから、そんな、いつも見通しのいい場所とは限らないでしょう!?」

「……」

「悪いけど、私はサインできない」と母は言った。

「わかった。いいよ」と俺は言った。

俺は書類を引き取り、その場を後にしようとした。

「それで、あんた、どうするの?」

「さぁ」と俺は言った。

俺はリビングを後にすると、車に乗り込んだ。

運転中、俺はどうしようもない感情におそわれた。

どうして、どうして、いつもこうなんだ? テメェが言ったから、始めたんだろーが。こっちは7年ぶりに仕事する気になって、慣れないスーツを着て、息子の晴れ舞台を見せてやろうと思って、親孝行の気持ちで書類を渡したのに、なんなんだあの態度は? 

ふざけんな、クソッタレが。ふざけんな、死ね。バカが。クソッタレが。ほんと、クソ野郎だな。わからずやにもほどがある。わからなすぎるだろ、すべてが。なんであんなに話がわかんねーんだ? 本当にババアって話がわかんねーのな。そのババアに実権を握られていると思うと、こっちは何もできない。せっかく、俺にはこの仕事しかないって思ったのに、鼻っぱしからグシャ、だ。なんで、母親なんかに自分の将来を左右されなきゃなんねーんだ? 俺が、俺がやりてーって言ってんじゃねーか! 

俺はハンドルに拳をガン! と叩きつけた。

違う……。違うんだ……。違う。怒りじゃないんだ。怒っちゃダメなんだ。これは、そういうことじゃないんだ。これは、母の意思だ。サインというものは、その人の意思でするものなんだ。だから、その人がNOと言ったらそれまでなんだ。だから、それで断られたから恨むってのは、お門違いだ。それはわかってる。だから、怒っちゃいけないんだ。……。だけど……。いや……、しかし……。はいそうですかって言って、食い下がったら、俺は荷揚げができない。

クソ……! どうしろっつーんだ? どうしろっていうんだ。どうしようもねーじゃねーか。ダメだ、どうしようもない。サインがなきゃ、どうしようもできない。なんでだよ、テメーがやれって言ったんじゃねーか。危険だって? 危険とか、怪我とか、危険なことなら毎日やってるよ、こちとら、出前館で毎日バイクで運転してんだよ、それで何度も事故しているし、骨折だってしている。そうだよ、テメーの言うとおりだよ、もう、とっくにこっちは危険な目にあってんだよ、てめーには言わないだけでな。そりゃあ、団子屋で袋の中に団子を入れる仕事をしてりゃあ、危険はねーかもしれねーけどよ。俺は、男には、危険な仕事しか、やりたがらないところがあんだよ。出前館とか、ハンマーとか、荷揚げとか、そういう危険な仕事しかワクワクしねーんだからしょうがねーじゃねーか! 女子供にはわかりゃーしねーかもしれねーがよ! こっちは昔からマンモスに向かって投槍してるんだから! なにが、”なんかやばい気がする”だよ。なんかってなんだよ。オメーが"なんか"やばい気がしたら、俺は一生自分のやりたい仕事ができねーのかよ。だってそうだろ? どこに勤めるにしたって、テメーのサインがなきゃ俺は仕事ができねーんだから(笑)姉ちゃんみたいに大きな病院に勤めろってか? そいつは土台無理な話だ。ハンマー振るしか脳がねー脳筋バカに、そんな仕事は土台無理だってことはテメーがいちばんよくわかってるだろ? だから肉体仕事でもやったほうがいいんじゃない? って、テメーが言ったんだろ!

クソ……!

俺は再びハンドルをガン! と殴りつけた。俺はこのとき、未来の嫁さんが助手席に座っていたら、どうなっていただろうと思った。離婚されたかもしれない。少なくとも、結婚したことを後悔されるだろうと思った。よかった、一人で、と思った。こんなにやるせなくて、怒りに震えて、どうしようもなくなって、ハンドルを何度も殴りつける夫なんて、ぜったいに嫌に決まっている。本当はクラクションをガンガン鳴らしてやりたかったけど、さすがにそれはできなかった。そのことが余計にイライラさせられた。思うぞんぶんにクラクションを鳴らせないこと、それにいちばんイライラさせられた。こんなときでも、キレ散らかすことができない。怒りに徹することができない。道路全体でオーケストラを奏でるように、うまく周囲の車と調和しながら運転しなければ嘘になる。そのことが、今やいちばん頭にきていた。こんなの、レイプと同じじゃねーか! レイプと同じだと思った。無理やり大きな力にねじ伏せられている。無抵抗に、嫌、困る、もう無理! 無理! と言ったって、聞いてもくれない。無理やりちんこを突っ込まれて、されるがまま、なすがまま。俺はほとんどレイプ目になって、抵抗する力も消え失せ、だらんと力なく腕を下ろして、ただ虚空を見つめていた。不思議と、ハハハハと、漫画みたいな乾いた笑いが口元からあふれてきた。"漫画"で思い出したが、Hunter× Hunterの作者の冨樫義博氏も、「主人公だからって油断してんじゃねーぞ」と、主人公のゴンを殺したくなると、どこかのインタビューで語っていたが、俺もまったく同じ気持ちだった。俺がアクセルを思い切り踏んで突っ込んでくることはないと油断している前の車に、「油断してんじゃねーぞ?」と突っ込みたくなっていた。

一人暮らし用マンションに着くと、俺は家中のどこにいても苦しめられるようでいて、たまらなくなって外へ出た。俺はあてもなく道すがら道を歩き続けた。時刻は17時を過ぎていた。一月ということもあってもう暗く、そして寒かった。頭はボーッとして使い物にならず、ダウンジャケットを羽織わずに出てきてしまった。それでも俺は歩き続けた。怒ると腹が空くものだ。無性にドガ喰いをしたくなり、俺はスーパーへ行き、さつまいもを3本買った。ホカホカのさつまいもを胸に3本抱えながら歩いていると、ポケットの中のスマホが鳴り出した。先の面接官からだった。俺はすぐに電話に出た。

そのとき、(しまった!)と思った。

(やっちまった……!)

俺は電話に出てから気づいた。俺は買い物袋を持っていなかったため、3本のさつまいもをそれぞれ小分けの紙袋の状態で渡され、それを胸に抱えながら電話に出ることを余儀なくされた。

(電話に出なきゃよかったんだ!)

電話にでんわ。バカだな、なんで俺は電話に出てしまったんだ? さっきからずっとバカだ。もともとか? 今日はもう、ずーっとバカだ。やっぱり赤ん坊の頃、頭にハンマーを落とされたことがまだ尾を引いているのだろうか? だとしたら、あれからずっとバカだ。

片手で無理な体制で持っていると、熱くてかなわなかった。左脇にジュウウ……と焼きつくようでいて、鉄板を抱えているようだった。小分けされた3本のさつまいもなんて両手で持つのだって大変なのに、片手でなんて……。俺の頭はさつまいも以上に熱していた。

「すいません、山本です〜。先ほどは面接のほうありがとうございました〜!」

「ああ、いえ、こちらこそ、ありがとうございました!」

「早ければ明日からでも働けるとのことでしたので、シフトの件でお話したいと思いましてお電話させていただきました。今、大丈夫ですか?」

「はい」

と、つい反射的に返事をしてしまった。言ってる側からまた同じ過ちを繰り返してしまった。やっぱり赤ん坊の頃にハンマーを落とされたせいか。

「しまるこさん、LINEの方はやられていますか? やられていたら、ぜひ、『友達登録』をしてもらいたいのですが」

「友達登録?」

「はい」

友達……か。友達なら、相談させてもらおうかな、と思った。というより、もうそれしか思いつかなかった。保証人のサインをごまかす方法など、ネットで調べればわかるかもしれないが、できればそれはやりたくなかった。正直に話したら採用してもらえなくなる恐れがあったが俺は話すことにした。それは合理的な判断というよりも、どこぞのヤリマンのように忍耐力の欠如からきていた。

「い、いやぁ……、あはは、い、いやぁ……、山本さん、あの、タハハ……、いや、あの、お恥ずかしい話なのですが、あのー、先ほどいただいた保証人の書類なんですけれども、わたくし、母しか保証人として頼れる者がいないのですけれども、ね、その母がですね、保証人になることをひどく反対しておりまして、建設のような危険な仕事には、どうしてもサインができないと言われまして」

弱々しく頼み込む姿ときたら、姿勢もクソもなかった。ヨボヨボの枯れ木もいいところで、もはや電柱に支えてもらわなければ立っていられないほどで、さきほど面接時に見せていたあの金剛力士像のような姿勢の影もなかった。

「そうですか」

山本さんはあんがい毅然として口調で言った。

思ったより動じないなと思った。保証人のサインが貰えないというケースは少なくないのだろうか? 電話越しではあるが、ひどく落ち着いている様子で、俺よりもずっと武道の達人のように思えた。

「やっぱり、保証人のサインがもらえない以上は、難しい……のかなぁと、今、考え込んでいたところでして……」

「そうですか」

と、山本さんは、もう一度、毅然とした口調で言った。

「母のほかに、保証人になってもらえる人がいないものですから……」

39歳にして、母親以外に保証人になってくれる人がいない、という事実は、それだけで怪しい印象を与えてしまっている気がした。俺はだんだんと多弁となり、言わなくてもいい情報をぜんぶ洗いざらいにぶちまけていた。「本当に、私としましても、母以外に保証人として頼れるものがいなくてですね、私の身内にも……建設の仕事で不幸があったこともあって、それで一層、母は神経質になっているようなんですよ。あと、このご時世ですから、ほら、その……、闇バイトがどうとか、巷では治安の悪いニュースが絶えないですし、母も、そういうところを懸念したと思うのですが」

「私の方で部長に掛け合ってみますよ」と山本さんは俺の話をせきとめるように言った。

「本当ですか?」

と、俺はつい軽はずみな声をあげた。

同時にすぐに疑問が浮かんだ。部長に掛け合うってなんだ? 部長って誰だ? こいつは部長じゃないのか? 部長ってなんだ? 保証人のサインがなくても部長の一任で決まるというのか? 保証人のシステムってそういうものだったか? 

「大丈夫だと思いますよ」と山本さんは言った。

山本さんの言い方は、保証人のサインなしでも採用した前例が一度ならず、二度も三度もあるかのように聞こえた。

「本当ですか!?」

(やった! 荷揚げの仕事ができる!)

俺は犬のようにハアハア息を荒げてシッポを振っていた。もう、このときはさつまいもの熱さは気にならなくなっていた。

俺は、そうだよな、と、だんだんと考えを改めていった。荷揚げの仕事だもん、そりゃあそうだわ、と思った。荷揚げの仕事を甘くみてたわ、と思った。いや、買い被っていた、というところか。というか、持ち上げすぎていた、か。荷揚げだけに。荷揚げの仕事だもん。そりゃあそうだわ、と思った。そういう人、つまり、保証人がいないネットカフェ難民たちが水中で溺れている時に掴まるボードが荷揚げの仕事かもしれないんだからと思った。

「すいません、ありがとうございます!」

俺は電話越しだというのに、嬉しくなって、何度も恭しくペコペコお辞儀をした。もはや姿勢は崩れに崩れ、その姿ときたら日雇い労働者もいいところで、えた・ひにんといってもよかった。それに加え、左脇に挟んださつまいも達がクソのように熱く、クの字に身体を曲げていなければ耐えられないほどで、通行人の目からすると、石膏ボードどころかペン一つ持てなさそうな、

(さっきは俺の方が優勢だった気がするけど、押されている?)

ふと俺は思った。こうやって、立場が逆転していくのだろうか。

しかし、母親のサインをもう必要としない、このことがどれだけ嬉しかったか。俺は母に勝った気がした。ッヘ、どんなもんだいと思った。しかし、保証人のサインがなくても受からせてくれたなんて、そんなことを母に言ったら、それこそ、「ほら、闇バイトだったじゃない!」と勝ち誇られてしまうだろう。

ッチ、素直に勝利を喜べねーな……。

こんなことは、闇バイトが闇バイトだって言ってるようなもんだ、闇バイト、ここに極まれり、だ。

ッチ、闇バイトのせいで、素直に喜べるもんも喜べねー! 

と、なると、やっぱり俺の負けか?

「あー、あと、しまるこさん」

「はい」

「今回、しまるこさんは△△市での勤務を希望とのことでしたが、それがですね、先ほど、現場の方に確認を取ってみたところ、直行直帰は難しいそうです」

「えっ」

俺は思わず声に出てしまった。

「私も現場の状況はよくわからずに、つい憶測で話してしまったのですが、どうやら、うちは、直行直帰というものは基本的にはないようでして、その、慣れてくれば……、慣れてくれば……、なきにしろあらずといったところかもしれないのですが、そういった例外もあるとのことでしたが。ただ、最初は、もちろん、最初は、新人を現場に一人で行かせるなんてことはありませんから、とうぜん、初めは先輩と一緒に現場に向かうことになりますが。それで、しまるこさんが独り立ちできるようになって、十分に仕事を覚えて、そんな折に、もし、△△市の仕事があったら、そのときは、しまるこさんにお任せしようかな、とは思っているのですが」

「……ということは、基本的には、毎回、今日うかがった事務所まで向かう形になりますか?」

「そうなりますね」

冗談じゃない、と思った。◯◯市といったら、車で50分かかる。今日だって、面接の一回きりだと思ったから行けたのだ。これが仕事のたびに毎回となったら、どうして働き続けることなんてできるだろう? たとえ現場が俺の家の近くだったとしても、片道50分(往復1時間40分)かけて隣の市まで行って戻ってこなければならないというのだ。

「そうですか。ネットで荷揚げの求人を見ていると、どこの会社も直行直帰OKと書かれていましたので、御社もそうなのかと思っておりました」

「必要な道具とかもありますし、一度、事務所に集まって、そこで、従業員たちが車に乗り合わせて向かう形になりますね。だけど、もちろん、融通は効かせたいとは思っていますよ。もし、△△市での仕事があった場合、率先してしまるこさんを向かわせたいと思います」

(車で乗り合わせる?)

俺はそれを聞いてゾッとした。だとしたら、変なマッチョとか、汗臭い男、夢追いフリーター、よくわからない音楽を作っている作曲家とか、そんなやつらと乗り合わせて、現場へ向かうことになるかもしれない、50分かけて。

(しかも……俺がいちばん年上で……)

変な、日雇い労働者たちと一つの車の中におしくらまんじゅうにされるのがどうしても嫌だった。よくしゃべるやつがいたり、風呂に入ってないのがいたり、まったく話さないやつがいたり、色々なやつがいるだろう。鍋の中に汚い具材を放り込むみたいに、闇バイトっていうより、闇鍋だ。

この内容だったら、確実に直行直帰できる荷揚げの会社を探した方がいいと思った。が、しかし、俺の住んでいる地域だと、荷揚げの求人はこの会社しかなかった。県内の東部地域の荷揚げの仕事はこの会社がすべて司っており、他にここら一帯で求人を出している荷揚げの会社はなかった。だから、母は会社の規模をとても心配していたが、規模としてはそれなりに大きかった。だから、荷揚げの仕事をやるとしたら、この会社でしかできない。この会社以外で荷揚げをやりたかったら、別の地域に引っ越すしかなくなる。

「大丈夫……ですか?」

山本さんはひどく心配そうな声を出した。俺の雑な態度が伝わってしまったのだろう。こんなにすぐにボロを出してしまうとは、俺の修行もまだまだだ。

俺は、「大丈夫です!」と空元気で大きな声で返事をした。

「それでは、これからグループLINEでシフトの相談をしたいので、私の携帯電話番号から、『友達登録』をしてもらうようお願いします」

「はい! 電話を切り次第、すぐに登録させていただきます!」と俺は信頼を取り戻すべく、元気よく返事をした。

ふたたび家に着くと、俺はクチャクチャとさつまいもを食べていた。

時刻は17時30分。すぐに『友達登録』をすると言っておきながら、俺はもうかれこれ20分くらい放ったらかしていた。

だいぶ、遅いかもしれない。『友達登録』なんて10秒もかかるものではない。怪しまれていると思って、信用を取り返そうとして、すぐに登録します、と言ってしまった。そのせいで余計に自分を追い込む状況を作ってしまった。

本当に、なんていう日だろう、なんて日だ!

やはり、孤高に出前館をやって、人里に降りてこないほうがよかったか。世俗と関わらない生活を続けていたほうがよかったか。こうして、少し人と関わっただけで、トラブルの連続だ。今もトラブルの真っただ中にいる。

せめて、さつまいもを食べ終わるまでに答えを出そうと思った。大丈夫、3本もある。3本買っておいて本当によかったと思った。3本なら、食べ終わるまでに結論が出るだろうと思った。

17時30分。事務職となると、もう帰宅する頃かもしれない。はやく『友達登録』を済ませて送らないと、向こうでもシフト作りを始められないかもしれない。今も、今かと、それを待っているかもしれない。俺はこんなにのんきにさつまいもを食っていてもいいのか……? 

向こうも、おかしいな、遅いな、と思っていることだろう。俺に電話をかけようか迷っているかもしれない。でも、ここで電話をかけたら闇バイトっぽくなるから、自重しているのかもしれない。なーにが友達登録だ。互いの胸の内は疑心暗鬼もいいところじゃねーか。

まずいな……。これ以上遅いと怪しまれる。はやく友達登録しないと友達になりたくないと思っていると思われかねないからな。

よし、もう一度だ。最後にもう一度、はっきりした意識で考えてみよう。

えっと……、毎朝、◯◯市まで行くんだよな? 8時から現場スタートってことは、7時30分には◯◯市の事務所に着いてなきゃいけないのか? ってことは、家を出るのは6時50分くらい? サラリーマンじゃねーか。

ちょっと、力仕事をしたいってだけなのに、なんで6時50分に家を出なきゃならねーんだ? もう、母親は関係ねーぞ? ここからは、俺の意思の問題だ。俺はそうまでして荷揚げをやりたいのか。朝、早起きして、片道50分かけて、荷揚げをやりたいのか、それだけが問われているんだ(朝、6時30分に起きて、片道50分通勤なんて、ほとんどのサラリーマンがやっていることなんだけどな)

俺は、片道50分かけてまでもやりたいのか? それがわからない。それはやってみないことにはわからないことだ。やってみたら楽しいかもしれないし、やっぱり面倒くさいかもしれない。

とりあえずやってみるか? まだ本採用ってわけじゃないし、一週間もやれば勝手は掴めるだろう。面倒くさかったらそのままやめてしまえばいいし。そうだよ、一度、やってみて、それで、嫌だったらやめちゃえばいいじゃん。べつに無責任なことじゃない。そのための研修期間なんだから。向こうだってお試しのつもりでいるんだし、やってみないことにはその面倒臭いかどうかすらもわからないんだから。とりあえず、やるだけやってみよう。そうだよ! やってみて、ちょっとでも嫌なことがあったら、やめちゃえばいいんだから! そうだよ! 研修とはそのためにあるんだから! ヨシ! と俺の決意は決まった。

で、シフトに入るとしたら、どうすればいい? いつから入ることにする? やるにしても、やめるにしても、早くしてしまったほうがいい。この場合、早さだけが重要だ。ウダウダ、やりもしないうちから憶測で考え続けることほど無駄な時間はないのだから。早く体験すればそれだけ早く次のステップに進めることになる。だったら、もう、明日から入った方がいい。一日でも早い方がいいんだ、こういうのは。じゃあ、シフトに入るのは、明日か? まぁ、明日でいいか。こういうのは、早いほうがいいんだから。明日、すぐに働いてしまおう。

明日……。

明日?

明日、俺は、働くというのか?

一瞬、背中の辺りがヒンヤリとした。

明日?

ウソ……。

明日、俺が、働くというのか?

明日、働く……、俺が……?

(嘘……)

ドクン、ドクン、と心臓が激しく脈打つ気がした。

まだ、正式に働くわけでもない。研修期間だ。どんなものか、体験してみなければわからないじゃないか、その、どんなものか確かめに行こうということ、それすらも俺は嫌だというのか? だとしたら、もうどうしようもないじゃないか、荷揚げもクソもない、はじめから詰んでいるじゃないか。自分の身体も持ち上げられないというのだから。

「あーしまるこさん、よかった。今、こちらから電話をかけようと思っていたところだったんですよ」

「あ、は、はぁ。すいません」

「すぐに『友達登録』してくれるとのことだったので待っていたのですが、登録の仕方がわからなかったのか、心配していたんですよ」

「すいません、車の運転をしていて、家に着いてから『友達登録』しようと思っていたので遅くなってしまいました、すいません」

やっぱり待っていたか、と思った。本当に自分は社会人失格だと思った。一応、言い訳だけは用意していた。

「『友達登録』の方はできました? まだこちらには届いてこないようなのですが」

「ああ、それがですね、その……」

俺は意を決して言った。

「その……、ちょっと、難しいというか」

「え?」

「あ、あの、やっぱりちょっと……、あの……、やっぱり……ですね、あれから少し考えてみましたところ、現場へ直行直帰できないとなると、私には午後、自営業のマッサージの仕事があることはお伝えしたと思うのですが、午前中に◯◯市へ行って、午後に△△市に戻ってくるとなると、午後の自営業の仕事に間に合わない可能性があるかと思いまして」

「午後は何時くらいに戻られたい感じですか?」

「13時……」と言おうと思ったけど、それじゃ逃げきれないと思って、「11時30分……ですかね……」と言った。

「11時30分!?」

面接官はとても驚いた声をあげた。

「11時30分に戻られたいんですか!?」

「は……、はぁ……」

俺も自分でも何を言っているのかわからなかった。

「11時30分に戻られるとなると、えーっと、こちらでの仕事は、もう、10時30分くらいには、切り上げないと間に合わなくなるかもしれないですね?」

「は……はぁ……そ、そうかもしれません……」

自分でもなんてムチャクチャを言っているんだろうと思った。

「確かに、この仕事ははやく終わることが多くてですね、一時間もしないうちに終わることはままあるのですが。わかりました。それでしたら、しまるこさんには特別にはやく終わる現場をアテンドしようと思います」

(マ……マジか……)と思った。

『午前中』の仕事を希望していて、10時30分に帰りたいって言ってんだぞ!? どこが『午前中』なんだよ! 午前中でもなんでもねーじゃねーか。10時30分だぞ!? それでいいってどういうことだよ!

「いや……、あの……、やっぱり、親がすごく反対しているので……。あの……、うちの親戚で、建設現場で働いていた者がいるのですが、トラックに下敷きになっちゃって、車椅子になっちゃって、そういうこともあって、母がやるなってうるさいんですよ……、だから、ちょっと今回は難しいというか……母が……、そう言うので……」

あれだけ母のせいで荷揚げの仕事ができないと言っておいて、すべての責任を母に押しつけていた。

「……」

不思議と山本さんは沈黙した。

このとき、長い沈黙が訪れた。

「す、すいません……」

「いえ……」

とだけ山本さんは言った。

それでも、なぜか山本さんは電話を切ろうとしなかった。

「……」

「……」

再び、何の沈黙かわからない沈黙の時間が続いた。

「あの……?」

「え、ええ……はい」

(はいって)

これは、どうしたらいいんだろう? こっちから切ってしまってもいいんだろうか? それはさすがに失礼だろうと思った。だから、はやく向こうから切ってほしいと思っていた。

「……」

「……」

(闇バイト)

(闇バイトだから切ろうとしないのか)

俺はだんだんと怖くなってきた。

「す、すいません、お忙しい中、お時間をとらせてしまって大変申しわけありませんでした! それでは失礼します」と言って俺は電話を切った。

どっと疲れた。もう500枚くらい、石膏ボードを運んだ気分だった。

「ふう……」と、俺は嘆息をもらした。

その瞬間、プルルルル! とスマホが鳴った。

(マジかよ! どこまで闇バイトなんだ)

俺はゾッとした。ふつう、『このあと』に電話をかけてくるかよ! マジで、どういう神経してんだ? ほんとうに、闇バイトって距離感がわかんねぇんだなぁと思った。たぶん、これはナチュラルでやっていると思った。闇バイトだから距離感がわからないのではなくて、距離感がわからないから闇バイトなのだ。

このあともまだ、『友達登録』しろって言ってくんのか? ほんとうにコエ〜! 

俺は本当にここに入社しないでよかったと思った。

プルルルル……!

プルルルルル……!

電話はまだ鳴り続いている。

いったい、電話に出たとして、何を話すっていうんだろう? お前、最後、無言だったじゃねーか、と思った。電話に出ても、また無言電話をするだけなんじゃないのか? 

プルルルル……!

プルルルルル…!

(しつけーな)

30秒以上コールは続いていた。このコールの長さが、闇バイトが闇バイトを主張しているような気がした。

どうしよう、一回、出るだけ出てみようか? 

こうまでされたら、こっちだって強気に出たっていいはずだ。『ああ? コラ、闇バイト』って言ってもいいくらいの権利を得たわけだ。

よし! と思って、覚悟を決めてスマホに近づいて手に取ってみた。すると、闇バイトじゃなくて母親からだった。

「もしもし? ああ……、あんた、あの後、どうしたのかと思って」

「ああ」

「あんたのことだから、保証人の偽装でもして提出したんじゃないかと思って、心配になって」

「ああ」

俺は話した。「うーん、なんかね、あのあと、向こうから電話があって。俺はてっきり、現場に直接向かっていいもんだと思ってたんだけど、どうも、それがダメみたいで。いったん事務所に集まらなきゃダメなんだって。毎回、今日、面接に行った△△市まで行かなきゃダメみたいでさ。それが、やっぱり、ちょっと厳しいかなと思って、さっき電話で断ったところ」

「そう」

と母は言った。

「あのね……」母は静かに語り出した。「あんたがね、そういう肉体仕事をやりたがるのはわかるのよ。私の高校の同級生にも一人いたのよ、あんたと一緒で、ボクシングが好きで、ボクシング部で活躍して全国区の選手だったんだけど、その子、スポーツ推薦で早稲田に行ったのね。で、早稲田だから就職先もいいわけじゃない? だから超ホワイト企業に就職できたんだけど……。そこがものすごく頭を使う仕事らしくてね。ほら、学歴は早稲田だけど、頭は早稲田じゃないわけじゃない? でね、本人、それですごく苦労したみたい。仕事がぜんぜん覚えられなくて、まわりの人と頭の違いを見せつけられて大変なんですって。それでね、会社に通勤する時に、建設現場で肉体仕事をする人たちを見て、『俺もこっちで働きたいなぁ……』って思うんですって。なんかね、あんたを見ていると、その人のことを思い出しちゃって……」

「ふーん」と俺は言った。

運動ばかりしていると、それだけで『バカ』というレッテルを貼られるのはなぜだろう? スポーツが得意だったり、身体を動かしてばかりいる人間は、それだけでそれをやってない人間と比べてもバカに見えてしまうところがある。べつに頭の悪い部分が露呈したわけではないというのに。

そのためか、だいたい格闘家というものは、本を読んでいるアピールをするだろう。自分はただの筋肉バカではないと世間に知らしめたいがためだ。彼らの本棚にはいつも小難しい本が置かれてある。また学者タイプの人間も、スポーツをこよなく愛するものだ。彼らもまた、自分は勉強だけが取り柄のガリ勉タイプだと思われたくないためだ。だから、この世に一律というのはありえないのかもしれない。

母に間接的にバカと言われたことはそれほど腹は立たなかった。なぜなら、俺は長らくブログを書いてきて、少なくない数の人に、その文章や頭脳を褒めちぎられたことがあるからだ。彼らからすると、俺は文化系の人間に見え、スポーツのスの字も感じられないようで、しかし母の目を通すと、今度は文化のぶの字も感じられないようで、同じ人間だというのに、通すフィルターが違うだけで、これほど見え方が異なることに驚いた。

母は、俺がこんなに小難しい文章を書けることはしらないだろう。おそらく、ハンマーの素振りにしても、俺が外で二時間も三時間も振り続けているのは、数を数えられないために、永遠に終わらないためだと思っているだろう。

「ねぇ、そんなに肉体労働したいなら……。知り合いに一人づつ、声をかけてまわってみたらどう? そういうのは声をかけておくだけで違うから。だいたい、いい仕事だったり、とくに建設系の仕事って、身内で雇用関係を結んでることが多いでしょう? 仲間うちで声をかけあって仕事を斡旋しあって、だって、お隣の文彦ちゃん(一級建築士)だってそうじゃない、あのウチはずっと長いこと家族ぐるみだけで仕事してて、ネットで募集かけたことなんて一度もないじゃない。そういうもんでしょ? 建築系の仕事って。で、そのあぶれたような、ようは誰もやりたがらない仕事だけがネットに出回ってるんでしょ? だからあんたも、知り合いに力仕事を探していると言っておけば、何か幸先のいい仕事が舞い込んでくるかもしれないよ? さすがに何もしないでいると、そういうのは勝手に入ってくるものじゃないと思うけど」

「まぁ、今回は直行直帰できなかったから見送ったんだけどね。もしこれが直行直帰OKだったら、俺はやってたけどね」と、俺は強がって言った。

「でもあんた、やるもなにも、私のサインがなかったらできなかったじゃない」

「そ、それは……まぁ……」

俺は悔しくなって、部長が保証人のサインがなくてもOKにしてくれそうだったことを言いそうになってしまった。

「まあ、やめたんならいいけど」

と言って母は電話を切った。

ふう、と俺は二度目の大きなため息を吐いた。

やれやれだぜ。

本当に、この一連の流れに何の意味があったんだろう? 俺はこの一連の流れから、何を学び、何を感じ取ればよかったのだろう? ハンマーを振る、怒られる、荷揚げの仕事をしろと言われる、荷揚げの仕事がダメになる。俺はこの一連の流れを通して、何を学びとればよかったのだろう?

この経験を通して、俺は前進に繋がったのか。

いやしかし……、と俺は思った。

明日、仕事がない、というのか?

へぇ……と、俺は思った。

へぇ……すごい。

明日、仕事がないというのか?

へぇ……と、俺は思った。

俺はカーテンを開けて、窓の外の景色を眺めた。

へぇ……。

俺は何度も心の中で、へぇ……と言っていた。

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