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ストレスかな

友達とららぽーとのカレー屋にて

「どうにも俺は、生きるということが、その最底辺のボーダーが高すぎるところからきている気がするんだよね。ただ、ふつうに生きるということが、どうしたってむずかしい。それを、ふつうに、なんとかして、ほとんどの人がそれをやり抜いていて、やり抜けていて? それをどうにかやれているから、すこしながらは、自分に対して褒めてあげてもいいような、ちゃんとやれている自分に対していくらかの労いや誇りを持っていることだと思う。みんながみんな、ね。俺はちゃんと戦士としてやれている、けど、お前はそれができなかったんだってね。俺はいつも、ああいうとき、犯罪者に対してではなくて、自分に対して声かけをしているように聞こえてしまう。人としての、戦士としての義務を怠った、それは恥ずべきことだって。でも、自分だって、いつ気が抜けてしまって、そんな馬鹿げたことをしでかしてしまうかもわからない、今度は自分の番かもしれないってね、そんな揺蕩う危険な線は、誰もが持っていて、ほんの、ふと、軽い気持ちの、

だけど、そこからあぶれてしまう人というのは、どうしてもいて。みんなといっしょにそのペースを走れずに、どうしても転がり落ちてしまう人がいるのはとうぜんだと思う。小学校の頃、マラソン大会があったとき、やっぱりどうしても遅れて走ってしまう人、何週遅れにもなってしまう人、というのは必ずしもいて。

いま、まさに、この世界に対して、犯罪だったり悪辣だったり出来事が絶えない昨今ではあるかもしれないけど、それに対してやたらと過剰に反応して、やたらと攻撃して、とっちめようとするのは、やっぱりマラソンで走るのが遅い人に対して、いくらか自分がその人より速く走れていること、まともに走れていることが優越感につながっているところもあると思う。まるで自分の代わりにその人がやってくれたことにホッとして、みんなで大縄跳びをしているときに、自分でない誰かが縄に引っ掛かってくれて、それでみんなして緊張感が解けて、安心とともにせきが切れてギャーギャー騒ぎ立てているような。このようにして、人災にしろ、自然災害にしろ、人々の中で、ふくれ上がった負のエネルギーや緊張は、必ずどこかでハレーションを起こす仕組みになっていて、それが地震や刃傷沙汰にしろ、厄災の正体だということをヨガナンダ先生は話していたけれども。まぁ、信じられないかもしれないけど、霊的真理に言わせれば、我々一人ひとりの負の想念がいっぱいになったときに、こうした事件が引き起こされるわけらしいけど、まぁ、それはおいといて。だから、本当のところでは、犯罪を引き起こしているのは我々なんじゃないかと思う。

でも、その人だって、今はこのボーダーに対して、何とか走ってはいられるけれども、その人だってギリギリの状態で、いつ転んでしまうかはわからない。ボーダーは、だんだん上がり続けていて、あるいは下がり続けているのか、わからないけれども、もしこのまま上がり続けていったら。いま、何とかギリギリで綱渡りのようにこの危険な橋を走っていられている人たちだって、どうにもならないときがくるかもしれない。俺は、誰もがそれをみんな恐れているように見える。だから、その恐怖心が彼らの口を開かせて、まるで自分に言い聞かせるように、あくまで自分はこっち側にいなきゃならないんだ……って、犯罪者ではなく自分を責め立てているような、いや自分を励ましているといった方がいいのかな、そんな気がする。

それで、いったん転んだら最後、今度は気力すらなくしてしまって、本来走れる力すらも自分からなくしてしまって、自分の方からゆっくり歩いてしまうかもわからない。それで2週遅れにされ、3週遅れにされ、歩き方がわからなくなってしまったら、人はどんな行動に出るかわからないよ。

だから俺は、みんながみんな、そんな危険な橋の上をマラソンしているから、大縄跳びをしているから、あんなにSNSで犯罪を起こした人に対して過剰に反応するのだと思う。あれはギリギリのところからきているストレスだと思う。」

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