まったく、何だってこんなことをするかねぇ。
べつに、赤毛のアンなんだから、ほのぼの、田舎の自然の、この遊牧な大地での朗らかな農耕生活を見せてくれればそれでいいはずなのに。まぁ、40話近く、ほとんど全話が、ほのぼの、事件らしい事件もあるような、ないような、そんな物語だったから、そのまま終わってくれてよかったのに。
まるで、人生はこんなものですよ、とでもいうかのように、予想だにしない、急に期すべくもなく様々な事件が舞い込んできて、それは立て続けに起きて、、ああ、無情。アンだけじゃない、アンの周りにもそういった事件がちらほら起きて。まったく、人生とはこんなものですよ、と言いたげな、教訓めいた、一筋縄にはいかない人生の恐ろしさを見せられた。
それは、確かに、1話から、思い通りにいかない展開は多かったけれども(たとえば女の子という理由で孤児院に返されそうになったり)わずか11歳で、大人顔負けの、人生の深淵めいた格言みたいなものを矢継ぎ早に口から飛び出し、そういう意味では他のアニメとは違っていたけど。
でも、俺としては、悲しいシーンはいらなかったかなぁと思う。どうだろう、やっぱりこれがあっての赤毛のアンかな? これが世界的な名著である理由か。作者のモンゴメリは、なぜこんなシーンを用意したのだろう? 人生はかくもこういうものだと、アンに成長に欠かせないものだったのか。意図したものか、物語上で勝手に起こったことか、モンゴメリ自身もよくわかってないのか。
意図的に、読者の涙を誘おうとして、下品なやり方で、御涙頂戴という感じで、興醒めさせられる漫画やアニメは昨今とても多いが、その手のアニメじゃないことはわかる。本当に、自然死のように、自然にあるべきタイミングで起こった。だからやはり作品に対して忠実だったのだと思う。
俺はどうしても誰かが死んだりするシーンがあまり好きではなくて。どうせ、この人生が、悲喜交々で、頼みもしなくても、つらいことはいくらでもやってくるのだから、作品でそれを見たいとはまったく思わない。漫画太郎みたいに、ギャグで人が死んだり爆発したりするのは好きだけど、真面目なやつは嫌いだ。
俺はこういうシーンを見るたびに、そんなかたちできゃ感動を誘えないもんかねぇって斜めに構えて見てしまう。だって、これは、人生で体験する上でのつらさ、悲しみとまったく同じものだから、別に才能のなせる技でもない。作品だって、現実とそんなに変わるものじゃない。その人が生きている以上、その人の頭から生まれたものもまた生きものなのだと坂口安吾が言っていたが、現実で起こる悲しみを現実として書くことは、何をやってくれてんのかな、と思ってしまう。
しかしね、これはやっぱり、人ごとじゃないから、っていうのは、あるだろうね。
もう、うちの猫は16歳だし、今年はなんとか新年を越せたけど、果たして来年は越せるかわからない。うちの母親だって、会うたびに髪は白くなり、指は変形し、大好きだったパンを焼くこともできなくなってきている。ゆっくりゆっくり死に向かっているようだが、突然、どこかでパタンと力尽きることだってあるかもわからない。じっさい、俺はそうやって最も大切な人をなくした。だからかね、赤毛のアンといえども、そういったシーンを見るのはつらい。
まったく、大晦日に見るもんじゃなかったが。最後、どうしようもない心の切なさを残してくれた。果たして、これまで色んな作品を見てきたけれども、こんなに心に刺さる作品はあったかなと思うくらいだ。いい作品だった。続編も、原作を読んでみようと思う。
しかし、ある意味、物語でよかったかもしれない。予行練習できてよかったかもしれない。本当に、最愛の人が亡くなったとき、その準備はできていなければならない。悲しい、悲しいと言っても、悲しいのは、残される人たちだけだ。死者は、天上たかいところへ逝き、安らかな満点の星空の一つとなって、いつまでも燦然と輝き、肉体の制限から解き放たれ、ふたたび自由を手にするのだから。
幸福というのは、こんなふうに、二律背反したものでしかないものなのかね。つらいものがあるから楽しいがある。善もまた、悪がなければ成り立たないように、楽しいとか、幸せとかいった感情も、その対比でしかないのだろうか。
しかし、ヨガナンダ先生は、アストラル界では、そういった二律背反したものはないという。ただ、幸せの、幸福なる光の波動だけが続き、それはどんなものかは、やっぱり俺の方にはわからないが、ふだん、笑った、プレゼントをもらって喜んだとき、ゲームをしているときとか、そんな、最大沸点の最大値の楽しい、嬉しい、感情がいつまでもずっと続いて枯れることはないような言い方をしている。そして、偉大な魂ほど、長いあいだそこで過ごし、時期が来ると、また再び地球に行っては、魂の練度の向上のために漕ぎ出されるらしい。シェークスピアに至っては、赤ん坊が泣くのは、この地球の、肉体という制限がある星にまた産み落とされて、その苦しさのために赤ん坊は泣いているのだとハムレットで言っているが。
だから、死は決してつらいものではなく、不幸ではなく、むしろ救いだ。我々にしたって眠っている時間が何よりも幸福なように。死んでいったものたちは、我々が思っているよりずっと、暖かい場所で、楽しくやっているのだと思う。少なくとも、こんなふうに、残された人々たちからバケツいっぱいぶんの涙を流される人の魂は。だから、取り除かなくてはならないことは、私たちの無知であり、まぁ、悲しいときゃあ泣けばいいかもしれないけどね、何でそれをいちいちアニメでやられなきゃならんのかってことだ。いちいち、立て直すのにエネルギーがいるのだ。
ただ、こんな湿っぽいのは、どうも、後を引くものがある。これだったら馬鹿みたいに笑って、馬鹿みたいに笑ったまま終わる方がいい。でも、俺にこんな思いをさせるのだから、そりゃあ作品としては成功か。
俺は、作中で、いちばん好きだったシーンは。
「そうさのう、あの子はそう甘やかされもしなかったようだ。時々わしがお節介したのも、別に害はなかったようだ。あの子は利口で、きれいで、それに何よりも良いことに優しい子だ。私たちにとってはお恵みだった。スペンサーの奥さんが間違ってくれて、運が良かったと言うもんだ。もっとも、それが運ならばの話だが、どうもそれとは少し違うようだ。神の思し召しというものかも知れない、全能の神がわしたちにはあの子が必要だと認めて下さったんだ。」
マシュウが家の外に出て、そして星空を見上げてこう独り言を言うシーンである。
本当に贈り物なのだろうと思った。それを、そのことを、作中の人物誰もが理解している。少し前に読んだ、「透明な力」という、大東流柔術の師弟物語に、この師弟が巡り会ったのは運命だからであると、二人で語るシーンがあるのだが、
静かにしていると、ああこれは神から与えられたものなのだと、どうしてもそう思わざるを得ないということがある。リアルの人間にしろ、作中の人物にしろ、それが訪れるシーン、いや、すベてがそのみわざであることを、それを悟るシーンが好きである。神が与えてくれるもの、神はその人が思っているよりも、ずっといいものを、最もいいものをいつも用意してくれて、そこに人間が辿りつくことが、最も尊いことのように感じられるからである。
だけど、神は何を望んでいるのだろう? 神が最もいいとされる夢を、その人間に見させ続け、
ちょうど、赤毛のアンを全話見終わって、悲しみに暮れていたところ、なぜか、ふと、アーナンダマイー・マーの言葉に触れたくなって、貪り読んだ。
そのとき、一文だけ光って見えたのが、心の中に完全に俺の部分として飛び込んできて、一つの感覚になった気がしたのは、
「どんなことがあろうとも、そんなことはどうでもいいではないですか。」
というものだった。
アーナンダマイー・マーの言いそうな言葉だなと思った。まぁ、もっとも、俺がこの言葉を求めて探し回ったのかもしれないけれども。
赤毛のアンの、登場人物の織りなす、愛、友情、神聖さ、どれをとっても素晴らしいが、「どんなことがあろうとも、そんなことはどうでもいい」という言葉を最後のデザートとして食すことで、ちゃんと消化できたような気がする。
まっすぐに神に行きなさい、ということかね。
俺はいつも夢見ていることがある。それはやはり神の至福の喜びに浸ることだ。永遠に終わることのない喜び。それは一抹の儚さや悲しみや苦しみを残すものもない。どんな喜びだって、どんな喜びにしろ、たとえどんな喜びだって、俺は一抹の悲しみを残すことを知っている。俺はそれがない世界に行きたい。本当の喜びってやつだ。
それはやはり、神が見せてくれる夢ではなくて、神そのものでなければならないと思う。神は、神が与えてくれるものよりも、直接に神に向かうことを何よりも我々に語っているように思う。この夢を通して。「どんなことがあろうとも、そんなことはどうでもいいではないですか。」とは、俺はそれを意味しているように思う。
不思議と、赤毛のアンの最終話である50話を見ているときは、ずっとそのことを考えていた。いろんなことがある。いろんなことがありやがる。嬉しいこともあり、悲しいこともあり、人生はその総決算だ。俺はこの人間ドラマを楽しむ一方で、もうこんなのは終わりにしたいと常々思った。それは、リアルの俺の人生に対してもだ。バガヴァッド・ギーターには、「賢者は、自分の死にも、他人の死にも悲しまない」とある。俺はいよいよ母親が死ぬことになったら、多分泣いてしまう気がする。理屈じゃあ、母がよりいい天界に行って、より良き魂となって、さらに幸福のステージへ駆け上がっていくことを知っていても、それでも、今じゃあ泣いてしまうだろう。アンの登場人物で泣いてしまうくらいなのだから。
この感情を、残す残さないは別にして、まっすぐ神のところへ行って、直接神と一つになることでしか、この悲しみは終わりにできないと思った。俺は、モンゴメリと、ヴァージニア・ウルフと、ボーボワール夫人は、女性性の最も奥地に突き進んだ三傑だと思っているが、作者のモンゴメリにしても、ヴァージニア・ウルフにしても、その最期を思うと、マーのように、まっすぐに神の元へ行かなかったからのように思う。文学は、あくまで、神と人間のあいだの揺れ動く心、神に至るまでの道としてテーゼとして屹立しているのかもしれないが、レミゼラブルはまさに文学の大金字塔として打ち立てられているのは、ジャン・ヴァルジャンの神になるまでのその数奇な運命を見事に描き切ったからかもしれないが。文学はそのためにあるということに否を唱えるつもりはないが。俺はこんな、悲喜交々した人間ドラマより、神の至福そのもの。まずその人が存分に神のキラキラした光の中で十全に喜びを味わって、喜びの中に生きて、それがそのまま剥がれて落ちて作品となるのが、一番いいと思う。そうすると、誰かが変に死んだりして、こんなふうに、一抹の切ない感情を残すこともなく、ただキラキラした神の喜びをみんなで味わうことができるからだ。神か、神ではないか、それが問題だ。全ての悲しみを終わらせるためにはそれしかないのだから。