たぶん、俺はもう、早い段階から、この手の子供は、大人になったら誰よりも静かになるんじゃないかと思っていたら、案の定、そうなった。
そう思う原因は、なぜなら、俺がそうだから。
これはプロフィールにも書いた通りであるが、俺は高校くらいまではうるさくて、誰よりもうるさくて、俺よりうるさい人間なんて見たためしはなかったけど、大学に入ったあたりからは、誰よりも静かになり、みんな俺と二人きりになるのを嫌がるくらいに俺は喋らなくなった。まわりにそんなに気を使わせるのも嫌だったから、無理をして、がんばって喋ろうと思ったけど、どうにも、何も言葉が湧いてこなかった。
アンの、よくしゃべる感じが俺と似ているなぁ、とずっと思っていて、もう一つ、ジョーの存在もある。じつのところ、親友からも、「お前はジョーと似てるね」とよく言われたこともある。ジョーも子供時代、おそろしいほどよくしゃべり、これ以上ないほどのワンパクだったが、なぜか、この手の人間は、大人になると誰よりも静かになるのだ。どんな大人よりも渋くなり、ジョーのあのラストシーンは、ジョーの渋さあってこそだろう。
「近頃はまったくしゃべらくなったねぇ……」と、マニラは感心するような、寂しいような、物憂げなような表情で、大きくなったアンに対してそう言うのだが、このシーンも明日のジョーとまったく同じである。丹下のおっちゃんも、「あのやろうときたら、近頃はまったく無口になっちまいやがって……」と作中で言うシーンがある。
アン自身も、自分でこう言っている。「あら、マニラ、私、もうしゃべりたいと思わなくなったのよ。ただ、胸の内で静かに温めて、それを一人で楽しんでいたいのよ。不思議と外に出したいと思わなくなったの」
外に出すか出さないかの違いだけで。内面に激しいものを飼っていると言う。事実、窓際に立って景色を見つめるその眼差しは、あの頃の熱い輝きが宿っている。
まぁ、俺もそんな感じかもしれない。なぜ、急に無口になったのか、自分でもよくわからない。とにかくしゃべりたくなくなった。しかし、アンときたら、誰よりも無口になったと思ったら、絶えず、何かと交信しているような、窓際に立って外の景色を眺めている姿は、誰よりも理知的な光を放ち、あの頃と同じような情愛に満ちたロマンチストの目を携えてはいるが、根本的なパワーは何も変わってはいないようだ。内では、今でもあの大変な量のおしゃべりが続けられているのか、今では、かなり大きな背丈な方の部類の女の子になったが、その姿形や姿勢からして、彼女の気宇壮大、独立不覊した態度が窺える。もう、うるさくなろうったって、うるさくなれない。明らかに完全に超越してしまっている。この手のキャラクターは、「さぁ、大人になりましたよ」と、ただ歳をとったバージョンとして外側から用意されることがあるが、あくまで、アン自身が歳をとったのだ。物語の、作中の時間のなかで。アンの、少女時代の、その空想の中で成長させていた女性がそのまま外に現れた。アン自身がそれになった。夢見る少女が夢になった。今じゃあダイアナよりもずっと静かで理知的な光を放つようになり、凛とした佇まいで、内側からあふれる知性的な光に圧倒される。大人は大人で、また素晴らしい。
そっかぁ。ここからはずっと、このアンになるのか。そして、これからも、まだまだ変化していくのだろう。アンはそういう人間だ。
(そうか、子供時代のアンはもう見れないのか)
いつまでも、その感覚がまとわりついた。
これは、確かに寂しいことかもしれないが。俺は、アンは誰よりも無口な大人になるだろうと確信していたけど、しかし、やっぱりなったらなったで寂しいものがある。37話で大人になってしまうのだけど、全50話あるのだから、50話、子供時代のアンを見ていたかったかもしれない。
あのマニラが。マニラが、アンがすっかり大人になってしまったと言って、空想ぎらいの、空想ばかりしているアンを怒り続けていたあの現実主義の冷血完璧主義の女性であるあのマニラが、アンの子供時代を空想して泣きだしてしまうのだから、無理もないことだろう。つい、俺もいっしょに涙してしまった。これほど子供時代のキャラクターと離れるのが嫌になるのはいつ以来だろう。べつに、クレヨンしんちゃんですら、しんのすけが大人になったところで、何一つ寂しくない。
悟空は、どうだったかな。悟空みたいな例もあるからな。悟空は大人になってから、本番みたいなところがあるが。ジョーも、そうだな。
悟空もべつに大人になっても、そんなに寂しくはなかったな。思い切ったことをするもんだと思ったが、悟空は大人の方がずっといい。悟空は大して内面的にはあんまり変化は無いように思うかもしれないけど、最後、最終話でこんな顔を見せるものだから、やはり感慨深いものがある。これは、悟空なのか、鳥山明の精神から出たものなのか、よくわからないが、俺は色々な悟空のなかで、この顔がいちばん好きである。やっぱり悟空の内面的な部分を把握できていなければ、こんな表情は描けないだろう。他の誰として描けないだろう。やはり、鳥山明だと思った。ほかの格闘漫画の主人公で、こんな顔をするキャラクターはやはり見たことはない。それが、悟空がすべての漫画キャラクターの中で評価されている所以でもあると思う。
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俺でさえ、あの、子供時代の、あの爆発的パワーは何だったのだと思う。あの頃の力が欲しいなと思うことがある。何も怖いものはなかった。すべてが楽しかった。いつも爆発物のように爆発していた。今、俺自身に求められているもは、外からも内からも、あれが求められているような気がするのだが。どうも、何をどうしたら、あの頃のうるささが帰ってくるのかはわからない。
だが、しかし、その火種は、まだあのパワーは、外に現れないだけで、内で飼っているのかと思わなくもない。人間は静かしていても、何もせず、何一つ話さないでいなくても、「うるさい」と言われることがあるものだ。俺は昔、姉ちゃんが結婚した時、その結婚式で、結婚式を初めて目にした時だったから、建物や、神父や、式場や、キスをするのか、指輪交換は、ウエディングケーキは……と、注意深く観察しながらも、何も喋らず、とても静かにしていたのだが、式が終わって、たまたま教会の中庭を散歩していたら、神父と出くわして、「あなたはとても元気な方だ。とてもパワーがありますね」と言われたことを覚えている。確かに、アンもまた、黙っていても、うるさいかもしれない。
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俺は思うに、これが、全50話のアニメだから良かったように思う。これが、1、2時間の映画だったら、どんなに素晴らしい出来だったとしても、これほど感動しなかったと思う。
というのも、やはり、アニメは、日常シーンを映し出す媒体としてこれ以上のものはないからである。アン一家の、自然に囲まれた、プリンス・エドワード島のなかで、農家の仕事をして、学校に行って、友達と遊んで、その一日の様子を見られてとても楽しかった。
エヴァンゲリオンでさえ、俺は映画となると何も楽しめなかった。しかし、アニメの方はとても好きである。とくにアスカと一緒に2人暮らしをしながら変なダンスの練習といった、ああいった地味な日常シーンが好きなのかもしれない。そのひとしおあっての感動というか、それはガンダムSEEDのアニメは好きだったけど映画は面白く感じられなかったのも同じ理由かもしれない。どうも映画は、キャラクターよりもシナリオ重視になりがちで、脚本にそって、完膚なきまでに無駄を削げ落としたストーリーというものは、見ていて落ち着かないところがある。アニメだと、ほとんど日常しかない。およそ捨て回みたいなものがあって、大きく余裕を持って、のびのびと時間を使っているところが好きである。ぎゅうぎゅうに詰め込まれたものは見ているものにも逼迫感を引き起こすものである。赤毛のアンなんて、これが、2、3時間の映画だったら、子供時代なんてものは一瞬で通り過ぎてしまっただろう。ここまで、視聴者にとっても、大切な子供時代にはならなかっただろう。