中心がすべてである。
俺はこれまで中心を誤解していた。抽象的な意味合いでの神ではなく、科学的に神の存在を感じられなければ意味がないという思いを新たにさせられた。
さいきん思うところがあって、パワーとかスピードではなく、単純に中心の問題ではないかと思った。これは、いま通っている道場の先生にさんざん言われていることなのだけれども、自分の中心線と相手の中心線のその線上の最短距離を手を伸ばしてつなぐようにすると、もうそれ以上の攻撃はないのだ。ただその導線をたどればいい。中心と中心をくっつけるようにする。少しでも向きがズレると塵芥と化す。ただの姿勢の問題である。
向きを合わせて、自分の中心と相手の中心をピタリと一致させるようにすると、相手を捉えることができる。剣道でいう剣線を向けるのと同じだ。最近はマススパーリングをすると、ただ中心を合わせることだけを念頭に置いている。そうすることによって飛躍的にすべてのパフォーマンスが向上し、相手の動きがよく見えるようになり、まぁ、大体の場合は対応できるようになった。
中心を合わせていると、勝手にすべての攻撃を避けてくれて、勝手にすべての攻撃を起こしてくれる。自分の内側の何かがだ。マスだから当てはしないけど、破壊力も比べるべくもなく甚大である。どう考えても、これ以上のものはないように思われる。この精度を上げていくことだと思う。中心の精度である。
肥田先生は立ち合いを挑まれたとき、姿勢を決めて、ただ立っていたら、気づいたら試合が終わっていたと言っていた通り、植芝盛平先生も、戦いの最中にあってはただ立っているだけでいいと言った意味は、おそらく、ここからきているんじゃないかと俺は考えている。この中心感覚をさらに肥大していった結果ではないかと。俺はこれまで言葉の通りそのまま立っていればいいものと思っていたけれど、中心と中心を合わせることを少なからず言っていたのではないかと考えている。
これはもしかしたら揮毫にも応用できるのではないかとふと思い立ち、字を書いてみると、確かに以前とは違うものを感じた。文字ですら中心に還るようになっている。俺は字を書くときは、お手本なるものを一度も見たことがないが、お手本らしいいかにもアカデミックな字になるのは、過去に見たアカデミックな美文字が脳内のデータベースとして蓄積されているためか、それとも中心感覚がそうさせているのか、わからないが、いかにもお手本の明朝体といったものを書いてしまう節がある。
だとするなら、もともと人間には、どんな分野においても、己の内側にお手本なるものが宿っているように思う。正しいパンチの打ち方なんて教わってもないのに、お手本のようなパンチがあらわれるのは、少なくとも、俺は、執筆においても書道においてもボクシングにおいてもYouTubeで挙げている変なお笑い動画においても赤毛のアンの感想を書くにしても、お手本というものを当てにしたことがないのに、どこかお手本らしいものがあらわれるのは、中心が教えてくれるからだと思う。
ふと、これはもしや、瞑想も中心に迫ることではないかと思った。ボクシングもキックボクシングも絵も文章も揮毫も、歩くにしたって、ほかのすべてが、すべての分野が、中心とその中心の熟練度でしかないというのなら、瞑想だってこの域から出るものではないという確信が降りたった。そこで結跏趺坐して試してみたところ、やはりその通りだと思った。単に姿勢と中心の科学ではないかと思う。中心の一点のピタとするところに心を置いて、そこにとどまり続けるのだ。これまでよりはっきりらしい何かが見つかった気がした。これ以外に瞑想などはないと思った。
この中心以外に探求するものなどあろうかと思う。すべてはここにある。言葉も、心も、脳もこえて、これが本体ではないかと感じられる。さらに研ぎ澄ましていくこと、そしてそのなかに埋没してしまうこと、このようにして、自分の正体を突き詰めること以上に、大事なことなどないと思う。今年も残りわずかだが、そのおぼろげながらも確かな実感が、ふと、ヒントして降りてきて、この恩寵に対して感動を禁じ得ない。とりわけ、中心座標にピントを合わせている最中に恩寵が降りてこなくても、このように神とアクセスを試みた分、その見返りとして、ふと、あるときに、ヒントをくれる。いつもこの気づきを手がかりに追っているに過ぎない。俺が熱心に追いかけているのを見てくれているようで、よしよしと言って、ご褒美としてヒントをくれる。ただそれだけの話だ。もし俺が神を追いかけなかったら、ヒントや気づきは得ることはできない。
こんなふうにしか、進みというものはないと思っている。近頃では、頭が良くなる一方で、記憶力もたいへん良くなり、今ならすこし勉強すれば、学校のテストなどは簡単に満点は取れてしまうだろう。霊的修行はたいへん知力が良くなるとアンマが言っていたけど、これより他に頭脳を強化する方法などないと思う。霊的数学のように、中心座標にピントを合わせるようにするのだ。このすべての力は神からきており、これを人間の持ち物だと思っていることに、すべての間違いがある。
したがって、このことからして、平和も神によって行われる。もう、今年もわずかだというのに、世間では、見るに耐えない、聞くに忍びない、凄惨な事件が相次いでいる。加害者は悪辣で最低としか言いようがないかもしれないが、罪は我々の側にもあると思う。加害者を攻撃したとして、それでこの世が良くなるわけでもない。
この国の、現代おかれている病の、すべての原因は神を信じないことだ。われわれ一人ひとりが神を信じないから、犯罪者たちも神を信じない。もし私たち一人ひとりが神を信じていたら、必ず彼らも神を信じる。そうなると犯罪などは起きようがない。松ちゃんが、ワイドなショーで、凄惨な事件について感想を求められると、いつも決まって言うのが、「こうした欠陥品、バグは、必ずどこかで現れる。これに対しては防ぎようがないから、そういうものだと割り切るしかない。まったく迷惑な話だけど」
俺がよく電話をする親友も、「犯罪者と俺たちじゃ、明確な一線があると思う。とても越えられない一線がね。たとえどんなに狂気を秘めている人でも、やらない人はやらないよ。でも、やる人はやる。その明確な一線はかならずあると思う」と言っていた。
俺が思うに、人間は矛盾の生き物だから、人間はそれ自体で完成することはできず、いつも、なんらかの精神的傾向や、過去の心の堆積物、習慣、自分が自分だと思っているものすら、どこでどうやって機能しているかも、本当のところはよくわからず、こんなあやふやな物体に、善があるのか悪があるのか怪しいものだと思っている。外部の原因にさらされて、その場の反応、反射で生きている、ただの鋳型であり、それ自体は、はたして価値感情すら持たない、ただの器みたいなものだと思っている。だから、神によってはじめて機能するものであり、神の息吹が注入されていなければ、平気でただの悪にも善にも成り下がってしまう。人間は、ただの神の道具であり、もし道具が道具自体で何かしらの行動を起こそうとしたら、それは確かにバグでしかないと思う。そういう意味じゃ、犯罪者もわれわれも、同じ欠陥品だと思っている。
われわれは、全員、誰しもが、神を求めるために再び地上に戻ってきて、今度こそは……という気持ちでやってきたのに、その当初の目的も忘れて、このうつしよが見せる幻想に縛られていて、犯罪者が病気だというのなら、まず、この国事態が病気だ。こんな病人である国が身体中のあちこちに悪性腫瘍(犯罪者)を発症させていても何ら不思議ではない。癌の一つひとつを治療するよりも、病巣それ自体を摘出する必要があると思う。だから、俺にとっては、個々の犯罪のケースなどといったものはない。すべて原因は同じであり、ただ不信仰、これに尽きる。
もし、人々が当初の目的を忘れず、神を求めることに切磋琢磨していたら、犯罪者など一人たりともありえない。われわれの、誰一人として神を求めないからこんなことになっているのだ。これは個々に限った病例ではなく、全体として根付いている問題であり、人々が今一度、神を求め歩き出すこと、それ以外に犯罪を抑える手立てはない。
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例えば
一つ前の記事に、高血圧について語ったが
病気には対症療法と原因療法があって、高血圧の場合、対症療法が降圧薬を飲むことであれば、原因療法は自然なものを自然に食べることである。そうすれば、すべての病気が良くなってしまうように、
人間の心の病気もまた同じである。この世間における、対症療法にあたるものが、誰かを非難したり、罰則を与えたり、攻撃をすることにあたるとすれば、原因療法は神しかない。この世界は、すべて二律背反した、表と裏、すべて二面性によるマーヤの幻想によって作られているのであって、この二つの作用からは逃れられない。この二面性はあくまでベールによって惑わしており、この二面性を飛び越えることでしか解決はできない。この二面生を超えることに、私たちが地球にやってきた意味がある。だから、解決はただ一つ神しかなく、神以外の何をやったところで、すべて二元性の幻想世界で一悶着やるだけになってしまう。武道においても、突きに対してこう、蹴りに対してはこうというような対症療法ではなく、中心という原因療法が確立されれば、ほかのすべての動きを問題としなくなってくるように。
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この考えの正しさを結論づけるように、赤毛のアンの世界は平和だ。
平気で人が人の家に訪ねてきて、お茶をして、最高のもてなしをしようとする。笑いがある。笑顔がある。まるで天使たちが住む楽園のようであり、誰もが清潔な波動を帯びており、ここにやましい犯罪が起こる気配などない。気持ちいのいい挨拶、「いってまいります」と、健全なものを食べて健全な陽の光を浴びて育った少女が家を後にする。
人々が自然に近い生活をしているから、そのまま神との距離が近いのか。
24話において、アンは変なクラスメイトの女の子と張り合い、屋根の上を歩こうとするが……
その、屋根を登ろうとするアンを見て、「神様……」と思わず口にしたときのダイアナの表情と声。アン自身も歩き出したとき、「神様……」と口にする。けっきょく落ちてしまって、大怪我をして、その家の住人に抱きかかえられて家まで送られて、それを見たマニラの第一声も「神様……」
なにかがあれば、『神様』と口にする。それは私たちも一緒かもしれない。私たちでさえ、何かあったときは、『神様』と口にせずにはいられない。
どれだけ、この時代の人々が、神を拠り所にし、神に救いを求めたか。それが、いかにも自然に生活に溶け込んでいて。牧師は、その厳重さを大切に説き、いつまでも後世に語りつがねばらないとし、日曜教会として、人々は、週に一度、教会へ向かい。この時代、人々を神へと向かわせるための場所が用意されていた。だから、プリンス・エドワード島においては、悪い人間が一人もいないのである。
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プリンス・エドワード島を見ていて思うことだが、自然においては、日本より外国の方が美しいのではないかと思われる。
確かに、われわれ日本人の胸にさえ、理想的な土地というものをイメージしてみると、日本的な和風な風景よりも、西洋の土地を思い浮かべてしまうものではないか。古民家もいいかもしれないが、どちらかというと、ログハウスの方が軍配が上がると思っている人が多いのではないか。見た目として。
これは、ドラクエひとつとってみてもあらわれている。戦国時代や侍の物語のRPGよりも、中世騎士道ファンタジーの方が、ずっと心を躍らせて、我々の心にワクワクと豊かに迫ってくる。これは、単純に日本がアメリカの植民地になっていてアメリカの思想にかぶれているからとは言えないだろう。正直な気持ちとして、実際的な審美として私たちに迫っていると思う。
日本は世界のどこの国よりも自然が豊かだとされているけれども、たしかに不足なく美しいと思うけれども、それでも、やっぱり、美しさとしては外国の方が上じゃないかなぁと思う。
じっさい、パンよりご飯の方が上質なように、中身はどこをとっても日本の方が優れているに違いないけれども、見た目は外国の方が上なんじゃないかと思う。岡本太郎が言っていたけど、もっともフォーマルな服装を比べたとき、今現在、みんなが着ているスーツと古代ローマのトーガとを比べたとき、センスにおいて雲泥の差があると言っていた。俺も、確かに、古代ローマのトーガが、フォーマルな服装のなかでいちばん美しいと思う。
まぁ、国歌にしても、どこかジジくさい、アメリカのように、タータタータターターターター! と、王者の韻律を匂わすものと違い、君が代なんかは、まるで、敗戦国がうらめしや〜と呪わしげに歌っているような、どうも陰日向のようにジメジメしたものを思わせるものである。
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まぁ、話はそれたが。
自然について、思うことがある。
これは、いいものか、悪いものなのか、ということである。
若年から年配まで大勢の女性の弟子たちが、SRFエンシニタス僧院の太平洋を見おろす庭園で、師を囲んでピクニックを楽しんでいました。パラマハンサジは言いました。
「落ち着きのない世俗の人々がしているような、ただ時間を無駄にする娯楽よりも、この方がどれほど良いだろう。 こうやって過ごすことで、あなた方一人ひとりは、平安と幸せに富むようになってきている。神は、ご自分の子供たちに、質素に生活し、純粋で害のない楽しみで満足できるようになって欲しいと思っておられるのだ。」
沢庵も不動智神妙録で同じことを言っている。
遊びの心ばえ
僧侶は、遊ぶということなど、するべきではありません。しかし、僧侶の生活は総て公ごととして、たとえ針の先ほどの僅かなことをも厳重に守らねばならないのに反し、一般人の生活は私ごととして、馬や車も通れるぐらいに大きく融通をつけているということが、一般の人の同情をかい、昔と違って近頃では、たいていの遊びも許されるようになってきたようです。
夜のひっそりした会合では、詩歌をたしなむことも許され、連句なども同様の扱いをうけているようです。さらに一般的な遊びとしては、月や花の美しさを愛で、花の木の下、月の見える軒近くに、十四、五歳の少年を連れ、風雅な小壺などを持って来て、少人数で宴を張るなどのことは、品のよいものです。
また、小硯、短冊箱などを用意してあるのも、奥ゆかしいものです。
道をきわめようと熱意をもって修行している坊主などは、これぐらいの遊びさえも否定しようとします。まして、これ以外の雑多な風情など、断固として許さないでしょう。
公卿や武士の人々にとっても、この浮世とは、夢のようにはかなく、移ろい易いものです。だから、灯をともして、夜も遊ぼうとするのも至極もっともでありましょう。
だが、総ては夢、まぼろしのようなものだ、さあ、遊べ遊べとばかり、無闇に心を揺すぶって、色ごとに溺れ、おごりの限りを尽すというのでは、いくら古人の言葉を引っぱり出して、その行動を合理化しようとしても、その中身は雪と墨ほどに違うということです。
このように、あらゆる娯楽のなかで、自然に親しむことは、ヨガナンダ先生も沢庵も認めているところだけれども、それでもどこか、二人は、(自然は)気晴らしとしてはまともな位置付けという程度であり、行き過ぎればまた神の道から離れることを戒めているようでもある。とくにヨガナンダ先生においては、自然はアストラル界の縮小バージョンと揶揄しているように伺える。
初めて教えを聞きに来た人:「何が個我(エゴ)を輪廻させるのですか?」
ヨガナンダ:「欲望です。いいですか、欲望がエネルギーを指揮するのです。ひとが地上のものを欲しがるかぎり、ここに戻ってこなければなりません。そこでしか、その人の欲望をみたされないのですから。もしタバコを、あるいは車を、お金を欲しがるなら、アストラル界はそうしたものを提供できません。ですから、そうしたものが手にはいる地上に戻らざるをえません」
ある弟子:「地上で抱かれたすべての欲望は、同じようにまた、地上で満たされなければならないのですか?」
ヨガナンダ:「いや、純粋な欲望は違います。たとえば、美しい音楽、広大な風景、調和した人間関係への希求などです。そうした欲望は、この不完全な物質界よりアストラル界のほうが、ずっとよく満たされます。この地上で美を創造したいという欲求は、多くの場合、ひとがアストラル界において経験した、意識下にある美と調和していたときの記憶によるものなのです」
※
師:「天国には二種類あります。たいていの人が思うのは、アストラル界の天国、つまりアストラル界のなかの高次領域のことです。しかしほんとうの天国とは、イエスがしばしば話されているように、神と一体の世界をいうのです。
アストラル界の天国は、イエスが描写しているように、たくさんの「館」すなわち波動の階層(レベル)を持っています。それは物質界とよく似ています。というのも、ここ物質界は、そうした精妙なアストラル界領域が投影された世界のうちの一つだからです。しかし、地上の存在次元にある無数の不完全さは、アストラル界の天国には存在しません。
ふつう人が想像するように、天国は「上の方」にはありません。それは私たちを取り囲んで降り、人間の物理的視野のちょうど背後にあるのです。私はいつもそれを見ています。そして、そこで多くの時間をすごします。それは広大な宇宙であり、美しい光、音、そして色でできています。物質次元の色は、それにくらべるなら非常にくすんでいます。天国の美しさは、あなたの今まで見たいちばん輝く夕陽のようであり、いや、さらに美しくさえあるものです。
アストラル界には無限の多様性があります。そこの四季は、進化した魂たちの意志で変えられることがあります。ふつうは中陽のさす春の季節です。雪も降りますが、降るときは穏やかで美しく、まったく寒くありません。雨が降るときは、やさしく無数の彩りの光線として降ります。
アストラル次元では、感情も非常に洗練され、ふつう地上で経験するよりずっと密度の濃いものになります。天国は手持ちぶさたなところではありません。そこにいる住人は非常に活発です。ここでの感性上の波動は、すべて天使たちによってコントロールされています。アストラル界の存在達は、忙しいけれども、同時に非常に幸せなのです。
ときどき、人間にたいする同情から、夢やビジョンで人びとを訪問したり、人に美しい想念を吹き込んだりします。どのくらいアストラル界に留まるかは、地上でどれほど善く生きたかに依ります。善いカルマを持つ人びとは何世紀にもわたって留まるかもしれません。一方、覚醒への欲求に駆り立てられる魂は、自分の霊的努力を継続するため、地上に早く帰ることを選択するかもしれません。というのは、アストラル界においてもまた、永遠にして完全なる神の顔容はベールに覆われていることを知っているからです」
※
この通り、ヨガナンダ先生は、いつもアストラル界を自由に行き来していられたから、いつも美しい風景を目にしていられた。だからことさら物質次元において美しい風景を希求する必要もなかったように思われる。
しかし、自然は、あの肥田先生においてさえ、自然豊かな友人の邸宅に招待されたときに、自分もこんなところに住みたいと思って、伊豆の山奥に引っ越してしまったくらいだ。
俺もせいぜい、希求があるとしたら、自然豊かなプリンス・エドワード島みたいなところで暮らしたいと思うくらいで。が、しかし、いつも常にアストラル界と行き来でき、胸の中心で神の世界を確立させることができたら、そちらの方がずっと素晴らしいと思う。ヨガナンダ先生もそう言っているように見える。