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『赤毛のアン』レビュー

『赤毛のアン』にはとくべつな想いがある。むかし、小学1、2年生くらいだったか。その頃、俺は、3つ年上の姉ちゃんと、二人でひとつの部屋を共有して生活していた。

姉ちゃんはその頃、小学校4年か5年だったと思うが、同じ部屋で生活してみると、パズルばかりやっていた。テトリスとか、ぷよぷよとか、あるいはジグソーパズルとか。小学校4年ながら、高専の文化祭のぷよぷよの大会に出ては優勝したりしていた(大人や大学生たちも混み)。この方面の才能があったのだろう、姉ちゃんは、もうすでに幼稚園児のころから、ジクソーパズルを裏返しにした状態であっという間に完成させたりして大人を驚かせていた。

しかし、小学校4年や5年になれば、もう女の子らしさの芽が出ていても遅くはないはずである。姉ちゃんは、服装や、身だしなみ、あらゆる挙動、あつかう言葉、趣味、すべてにおいて、理系男子のそれのようで、まったく女っ気がなかった。母はそれが原因で、「もっと女の子らしい娘が欲しかった!」と親父に泣きついていた。母のクセで、感情が高まり、いてもたってもいられなくなってくると、ダダダーッ! と勢いよく廊下を走り、階段をドンドンとものすごい音をたてて上っていき、親父の部屋に駆け込むのだった。

そりゃあね、母親なら、女の子が生まれたら、一緒にオシャレをしながら手を繋いで街を歩く風景を夢想だにしないことはないだろう。

魂に実直だったのか、女より人間としての生命をまっとうするほうを選んだのか、女らしい服を着る前の前段階として女らしさを着ることが、どうしても気肌に合わないようだった。40を越えた今になっても、姉ちゃんはまったく女らしくないまま育った。

母はある日、自室の本棚の中から『赤毛のアン』を取り出すと、姉に向かって投げつけた。「あんたくらいの年ならねぇ……! みんな、ふつうは……! 『赤毛のアン』くらいは読んでるわよ!」と怒鳴った。「私の兄弟も、学校の友達も、みんな、女なら、誰でも読んでたわよ!」

床に投げ捨てられた『赤毛のアン』は異彩な存在感を放っていた。俺はそのときの不思議な表紙をよく覚えている。これを読めば女らしくなるというのか。女のバイブル、女の聖書なる位置付け。と当時の俺は思った。小学校一年ながら、俺はこの時のことをよく覚えている。投げつけられた姉ちゃんの方はぜったい覚えてないだろうと言い切れるけど。

「あの……! チーズの焼くシーン! お菓子やチョコレートを作るシーンが本当に、好きで、好きで、学校で友達と語り合ったわよ!」と母は、詳細に、具体的に、マシュウおじさんが飼っている牛の搾りたてのミルクで作るチーズがどうとか、それを発酵させて、何たらかんたらと、怒りながらも、姉にことこまかに説明していた。

この事件のあと、この本は、俺と姉ちゃんが共同生活をする部屋の中でいちばん存在感を放つものとなった。

俺は、この事件のあと、いつ姉ちゃんが『赤毛のアン』を読むのかチェックしていた。しかし、姉ちゃんは一向に読む気配がなかった。一日に一回、母が取り込んだ洗濯物を部屋に届けるために扉を開けてくるのだが、そのときだけ、姉は赤毛のアンを手に取って読んでいるフリをしていた。ざっと、2、3秒である。母が扉を閉めると、姉も本を閉じた。

(おいおい、それじゃあ、読み終わるまでに何年かかるんだホイ……)

と、当時小学校一年だった俺は、少年ジャンプを読みながら、漫画を読む視線を外し、その様子を見ていた。姉も少年ジャンプの方がずっと読みたかったと思われる。

母が洗濯物を部屋に届けにきたときの2、3秒。一日、2、3秒の読書ペースだとすると……。

(お嫁に行くまでには、とうてい間に合わないだホイ……)

さて、そんな赤毛のアンだったが、ここ最近、とある友人がものすごい勢いで絶賛してきた。彼はふだんは美少女アニメみたいなものは見れないけど、『赤毛のアン』はすごく良かった……!と語っていて、彼はもともと宮崎駿のファンであり、すべての映画のなかでナウシカがいちばん好きであり、カリオストロの城は10回以上見たと言っており、そんな彼のいうことだから、あまり参考にできないと思っていた。どうも俺にはジブリの良さはわからないから。

「俺はナウシカはダメだ」と彼に言うと、

「お前はね」と友達は言った。「お前は、確かにそうかもしれないけど、カリオストロやナウシカのように、アクションや動き、場面構成を通じて、ストーリーを伝えようとするのが、お前的には無理なんでしょ?」

「そう」

と俺は言った。

「とくに、カリオストロの最初のカーチェイスシーンなんかね。あれがどれだけ見事なシーンだとしても、お前には響かないんだろうね。俺なんかは、もうそこだけ何十回もみちゃうタチなんだけど。でも、アンは大丈夫だよ。アンは、脚本的な部分に面白さがあるよ。脚本的というか、人物に焦点を置いているというか、まぁ、いわゆる、物語だよ。お前も気にいると思う」

俺は言った。「俺も、フランダースの犬くらい、一度は見た方がいいかなと思って、フランダースの犬は見たんだけど……。あの、有名なラストシーン以外はなにも知らなかったからね。で、重い腰を上げて見てみたら、きつかった。やっぱり童話はきついわ。しかも、ラストシーンだけ有名だけど、あれ、全部で60話あるじゃん(笑)とても見れねーわ(笑)童話は、シンプルさのなかにいろんな格言が込められているのかもしれないけど、ちょっと、フランダースの犬からは、それを感じられなかったね」

「フランダースの犬は俺も挫折したけど……」

と友達は言った。

 

アンの個性について

だから、あまり期待していなかったのだけど、赤毛のアンを見たときはもうびっくりした。もう、一話から見てびっくりした。こんなキャラクターは見たことがない。キャラクターどころか、人間としても見たことがない。俺は、新しい人間に出会えたことに感動した。

本当に、面白いと感じることはそれなりにあるけど、感動したのは、いつぶりだろう。

保坂和志さんは、共感のために読書をしてはならないという。感動のための読書でなければならないと言っていた。読書(この場合アニメ鑑賞)をする場合、あくまで、自分のサイズを大きくするためのものでなければならないと言っていて、俺はアンを見て、その言葉を思い出した。

とにかく、アンがよくしゃべる。延々としゃべり続けている。それも、作者が与えたよくしゃべるキャラクターというわけではなくて、アン自身がしゃべるのが止まらなくなっているようでいて、その様子を見ているのが楽しい。このおしゃべりが、まったくフィクションめいたものを感じさせず、オリジナルで、まったく唯一無二の人間として、自分が感じたことをそのまま話している。子供の仕事もまた感動することにあるかもしれないけど、アンはいつも感動している。孤児院でずっと暮らしていたが、11歳のときに、手違いによって、マニラとマシュウの老兄弟(老夫婦ではなく、老兄弟)に引き取られることになるのだが、そのプリンス・エドワード島の美しさといったら……。風景の感想にかぎらず、とにかく、人が胸の内側で思うことを、常に声に出すアンではあるが、非常に含蓄深いハッとするような名言のオンパレードだ。おそらく、この辺りは、作者であるモンゴメリの心の声だろう。本屋に行って、少しだけ赤毛のアンの原作を読んで確かめてみたが、やっぱり原作のセリフが如実に抜き出されていた。この辺りは原作に忠実なのだろう。

うーん、子供って、確かに、よくしゃべるものかもしれないけど、こんなにしゃべるものだっけか? たしかに子供というのは極端だ。ギャンギャン騒いだと思ったら、大人顔負けの押し黙ったような静けさを見せる。そのときの静けさといったら、大人がどんなに真似しようともできないような深みと迫力を携えている。まったくの主体で生きていると、大人と比べて、こういった差となってあらわれるのか。フィクションの子供となると、どうも典型的な子供像になってしまうのが常だが、アンにはそれがまったくない。

俺はアンの姿に、ずっと、『あしたのジョー』の、矢吹丈を重ねていた。本当にそっくりである。もっとも、毒されていない、本質の人間のまま育ったキャラクターの子供時代を描こうとしたら、こういったことになるのではないかと思った。

本来の、天然由来の、ひとつの生命としての子供が、そのありのままの姿のまま11歳を迎えることができたとしたら、それはアンだったりジョーのような子供になると俺は思う。子供でさえ、子供のまま年をとるということはできないものだから。アンとジョーが、時代をこえ、普遍的なキャラクターとして愛される理由はここにあると俺は見ている。

まだ赤毛のアンは9話までしか見ていないけど、これは、すべての少女漫画を代表する少女キャラクターだと思った。そして、ジョーは、すべての男キャラクターを代表するキャラクターに見える。もはや漫画の枠を越えて、代表する人間といってもいい。もっとも人間の男と女、もっとも子供としての男の子と女の子、その答えに迫っているように見える。

あらゆる漫画やアニメのキャラクターで、ここまで、天然由来の自然児を描けたことはなかっただろう。べつに、どこかの辺境の地で、ジャングルの森の部族をモデルにした漫画だったりしても、このようにはいかないだろう。たんに自然であればいいという話ではないのだから。アンやジョーは、場所や地域、環境というものを越えている。このキャラクターの個性を書くといった点では、手塚治虫でさえ成し遂げられなかったものだと思う。

それは、誰しもがあわせもつ、たしかに胸の奥にある、その人間の最たるものが、そのエッセンスが凝縮されたキャラクター。純粋さ、天真爛漫さ、精神の限りのなさ、器がまったく計り知れない、あまりにも純粋すぎるために、見ているほうの胸が苦しくなってしまう。善か悪さえもよくわからない。およそ精神が分裂される前の、統合された人間、人間が何かの概念に毒される前に、それ自体の生命のまま11歳を迎えたとき、人間はどんな生き物であるのか、それを教えてくれているようだ。もっと言えば、生命力か。生命力そのものをぶつけられている感じであり、アンがあまりにも人間すぎるので、どこで怒りだすかわからない。ほとんどの人は、機械のように生きているから、どこで何をされれば怒るということが見当がつくけど、アンになると、まるでわからない、それが冷や冷やする。どこで、何の一言がきっかけで、この人物が怒りだすのかさっぱりわからないから、視聴中、すごく冷や冷やすることになる。11歳の女の子を、怯えながら見るハメになる。こういう部分は、本当にジョーに似ている。それでいて、すべて、アンの正直で誠実な気持ちから生まれているから、どんなに怒ったり、奇想天外な動きを見せられても、納得させられてしまう。なるほど、アンはそう思ったのか。そうか、間違っているのは、アンじゃなくてこちらの方だったと思えるほどに。

 

アンと自然

アン一家の行動を見ていると、朝5時くらいには起きて働いている。まず最初は、アンとマニラは、牛の乳搾りをしている。それからニワトリが産んだ卵をとっている。それが終わると朝食を作って、朝食を食べて、朝食の片付け。マシュウは畑作業をしに出かける。干草を刈ったり、薪を割ったり、野良仕事などをしている。夕方になる頃には、すべての作業は終えていて、暗くならないうちに帰ってくる。そして夜になると、読書かダラダラして過ごしている。一日の最後にはみんなで祈る。あるいは1人で祈ったりもする。夜はぜんぜん忙しそうにしていない。彼らは、蝋燭の灯りをもとにして本を読むか、編み物をするか、ソファに寝転がるか、椅子に座ってシンとしているか、とても静かに過ごしている。

アンの生活はわりと忙しく、ベッドメイキング、皿洗い、掃除、牛の乳搾り、編み物の手伝い、鶏の世話、野良仕事、たしかに、今の時代とうってかわって生活するだけで一日が終わりそうである。俺の場合、食事、掃除、風呂など、一日のすべての家事の時間を凝縮させても一時間に満たないけれども、アン一家は、本当にただ生活するだけで忙しそうである。服すら自前で作っているからね。マニラにいたっては裁縫シーンが目立つ。このあたりの一日の時間帯における生活描写は、高畑勲と宮崎駿が直接カナダまでいって取材してきているのだから、間違いはないだろう(意外に、9話まで見ていて、風呂のシーンだけがないんだよな。朝起きると顔を洗うシーンはあるけれども。彼らの風呂事情が気になる……)

このぐらいの年頃は、いくらでも好きに外に出て遊んでいるかと思ったら、あんがい、そんなこともないようで。「ねぇ、マニラ、ちょっと休憩して、外に遊びに行ってきてもいい?」とアンは言い、「いいわよ。皿洗いが終わったら、30分だけなら」と、思っているより、ほんのちょっとの時間しか遊んでないように見える。学校などにおいても、家の農業の手伝いで来れない子が半数を占めるようである。

で、どんなふうにして遊ぶかというと、もっぱら自然を相手にしている。木、山、全体である。まるで初めて相手をするようにワーっと感動しながら裸足で駆けていく。本当に、裸足だ。家の前に桶が用意されていて、帰ってくると、そこで足を洗う。川まで降りていったり、どこまでも地続きでつづいている自然を相手にしている。平気で寝転んだり、顔を真っ黒しにさせている。うちの猫も、外に出してやると同じようにして遊ぶので、あんがい人間も動物も一緒なのかもしれない、と思った。

 

アンと食事

これは母もよく言っていたが、赤毛のアンの何が好きかといったら、チーズやパンを焼くシーン、お菓子を食べるシーン(食べるよりも作るシーン?)が好きらしい。日常の切り取り、風景、あんな場所であんな暮らしをしてみたいという、物語よりも、生活の切り取り、とくに料理のシーンが好きらしいかった。そこは宮崎駿も同じことを言っていた。場面構成においては、そこをいちばん気をつけたと話している。食器ひとつとっても間違いがないようにしたらしく、確かに、食事シーンがいちばん面白いかもしれない。

この時代の人は、15時ぐらいになると、お茶の時間というものがある。昼食とは別だ。先ほど言った通り、朝から非常に忙しくしているが、なぜかこの忙しい合間を縫って、お茶の時間というものが必ず用意されている。スープだか紅茶だかわからない。変なパンやお菓子みたいな、不思議なものを食べている。千と千尋の食べ物のシーンを見て思ったけど、ジブリは美味しそうだけど、実だかパンだかえたいのしれないものがよく描かれている。飲み物においては、おそらく牛を飼っているから、その絞り立てのミルクを飲んでいるように見受けられるけれども。

さらに不思議なことに、このお茶のシーンにおいても、マニラとマシュウはほとんど話さない。ずっと無言で食べている。押し黙って、刺すような、すごく重そうな空気の中で……。静かに、テーブルの上に並んである色とりどりのお菓子やパンケーキを食べている。これは、見ていて、恐ろしくシュールな時間だ……。楽しい、のだろうか……? なぜ、わざわざ、忙しい時間の合間をぬって、この時間を過ごしているのかわからないくらい、静かで刺々しい空気が流れていて、怖くなるのだが。カチカチと、ナイフと皿の音だけが静かに響いていて、怖くなる。

 

アンと祈り

この祈りについては、皆さんも気になるところだろう。最近のアニメにしたって、祈りがキーワードとして登場することはなくもないけれども、せいぜい異世界ファンタジーアニメで、白魔導士なるものが出てきて、祈りらしいうたい文句を形式的に口にするくらいが関の山だろう。祈りの、外見を模すことができたとしても、中身までは難しい。その時代の人たちの生活信条まで立ち入った、生活に根ざした祈りというのは。

赤毛のアンでそれが一部垣間見れてよかった。この時代の人々にとって、どれだけ祈りが大事なのかがうかがいしれる。例えば、アン一家が祈るシーンがあるのだが、初めの一節、冒頭において、「われらがおりなす、永遠不滅の大霊よ」といったものが聞こえてきた。ここで重要なのは、“神”ではなく“大霊”ということ。永遠不滅ということがキーワードになっていること。これは、アンの舞台であるカナダにおいても、インドのヨガ的思想からきていることがわかる。バガヴァッド・ギーターの内容と一致している。アンの舞台は、1900年くらいだから、今からおおよそ100年前。原作を書いたときのモンゴメリの生活模様が文化がそのまま現れていることだろう。

この祈りついて。日本は、もともと他の国と比べて祈るという文化がないことは、キリスト教意識が根付かない土地柄のためではないかと遠藤周作が沈黙という本の中に書いてあったけれども。それでも日本はもっとも神に近い国とされているのは、日本人は古来より、偶像崇拝といったり、そういった儀式儀礼を重んじるよりも、仕事や芸事、もっといえば、生活を通じて、それが祈りとなっていたらしい。たとえばアーチェリーひとつとってみても、それは西洋となると、ひとつの競技に過ぎないわけだけれども、日本における弓道となると、神への道となる。『◯◯道』と道が名のつくものは、そのまま神への道へとなっていたと思われる。祈るというよりも神をそのまま体現する文化だったように思われるのだ。

しかし、この赤毛のアンを見ていると、祈りという文化は美しいなと思った。彼らがなんのために祈っているのか、単なる形式的なものか、その口にしていることについて深い理解や、それを人生のスローガンとしているのか、そういった背景や事情まではわからないが、祈るという行為が根付いていることはたしかである。たしかに忙しい生活をしているが、祈る時間となったら、すべての動きをパタっと止めて、家族みんなで暖炉の前に集い、「われらがおりなす永遠不滅の大霊よ……」とやりだすことは、とても美しいと思って見ていた。毎晩、これをやるのとやらないのとでは、恐ろしいまでにその人の人生の幸福度に差があるかわからない。たとえ5分でも、10分でも。そういうこともあってだろう。アンがマシュウ兄弟に引き取られるまで、一度も祈ったことがないと口にしたとき、マニラは、「なんですって! アン! もう一度言ってみなさい!」と、これまでの数多のアンの蛮行と比較にならないほど驚いたのは。マニラは、マシュウに向かって、「ちょっと聞いてくださいよ! アンったら、これまで一度も祈ったことがないっていうんですよ!」と、一晩経っても熱が冷めないありさまで、マシュウも開いた口が塞がらないようだった。

俺は近頃じゃ物語のなかといえども、誰かが争ったり困ったり死んだりすることが気が重たくなるからあんまり見たくないのだけど、それが決して面白さに結びついているとは思えないし、むしろその作者の、凡夫さをごまかすために脚本的な部分でうやむやにしようとしているかのようにしか見えず、その反面、アンの、たった一話の中でさえ、ただ牛の乳搾りや、鶏に餌をあげたりしているだけで、ほとんど音楽らしい音楽さえもなく、それだけで一話が終わってしまうこともあるが(9話まで、こんな調子なのだが)それでいて、どんなアニメよりもハラハラする。アンが、次に何を言うか、何をしでかすのかわからないのだ。本当に、知人から子供を託されて、面倒を見ているような時間だ。

アンは本気で怒ることができる。多くの人は、じつのところ、怒るということができない。怒ってるらしい人は、多く見かけるけれども、あれは怒りではなくて、反応だ。ショーペンハウエルが、「怒りのない人間は、知力もない。知力はある種のとげとげしさ、鋭さをはらみ、そのため毎日、実生活、芸術や文学で無数の事柄にひそかな非難やあざけりをおぼえるが、それこそ愚かな模倣を阻止してくれるものだ」と言っているように、もし、本当に怒るということができるのであれば、それは偉大なことである。しかし、それができる人間は一握りである。それは、本当に自分の主体で生きていて、自分の誇りが傷つけられたといって怒ることができる人間は稀だからである。

アンは、出会う人、出会う人から、面白い、あなたってほんとに変わってるわね、あなたって本当に面白いわね、と言われ続けている。みんなに、面白い、面白いと言われているけれども、そういえば、今日も、女芸人グランプリなるものがやっているようだけれども、たとえ、この中で、センスに優れ、相手と競ったところで生まれる、面白いなるものが生み出されたとしても、それは、出会う人、出会う人に、あなたってほんとに変わってるわねと言われる人間が、この女性芸人の中に一人としているだろうか、ということである。

芸の上で、新しい切り口や角度なるものが見つかったとしても、まぁ、たしかに、紺野ブルマが、「お待たせしました。いや、お股そのものかもしれません」というのは、面白いけどね。それはたしかに面白い。が、アンのような面白さとは次元を画す。アンはたしかにそういった小器用な面白いことは言えないかもしれないけど、存在として、生命として、まるで計り知れない何かを持っている。この、何かはわからない。一つ言えるのは、芸ではなく生命だろう。

保坂さんの言う通り、感動することが大事だ。自分のサイズを超えたものに触れることが大事だ。俺は10年ぶりくらいにそれに触れられてとても嬉しく思っている。この感動の正体は、アンそれ自身が感動しているからだろう。アンは見るものすべてに感動している。まるで初めてこの世界を見ているかのように。その感動は、内実の実直からきた、本物の感動だ。子供の仕事とは感動することだ。芸術家の仕事もまた感動することだ。見るもの、すべての中から美しいものを見つけ出して、心の底から感動できる。感動しようと思ってもなかなかできるものじゃない。共感はあっても感動はね。

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