今まで盲点だったけど、タリーズまで、歩いて通ったらどうかということだ。自宅からタリーズまで3.9km。なんでもGoogleマップによると、徒歩だと52分の計算になるらしい。
いつも原付バイクで通っていた。11時〜13時、17時〜19時、計4時間、出前館をやることもあったからだ。タリーズで日がな一日過ごし、出前館の時間になったら、稼働する。
しかし、今年はもう出前館は終わった。93万円稼いでしまったので、これ以上稼ぐと、住民税の課税対象になってしまうからだ。だから、来年の一月まで、仕事はない。今年はもう……仕事納めだ……。去年は130万ぐらい稼いでしまって痛い目にあった。そのため地方給付金ももらえず、所得税も住民税や健康保険も高くつくことになってしまい、年金免除もできなかった。これだったら、93万円以下にした方がいいと思い、月にすると8万円以下だ。8万円以下で生活できればいい。
出前館をやらなくなってから、いろいろなところで、時間の改変を求められるようになった。
ああ、そっか。出前館をやる必要もないから、タリーズにバイクに乗って行く必要もないんだよなぁ。でも自転車持ってないしなぁ。うーん、歩いて……行けるかなぁ……? 片道、3.9km、Googleマップだと52分かかると計算されている。アップルのマップでも同じだ。
いっても、タリーズの前にはでかい公園があって、俺は日がな一日中、そこを十何周と歩いている。たぶん、一日で5kmくらいは歩いていると思う。しかし、それは手ぶらの話だ。2kgのノートパソコンを背負って、というのはどうだろう? ……と思ったけど、朝、いきなり執筆するよりも、52分くらい歩いたあとのほうが頭もまわるかもしれないと思って、やってみた。
うーん。楽しい。
楽しい。
楽しすぎる。
タリーズの開店に合わせて、朝8時10分に家を出るのだが。12月の初旬においても、わりかしその時間は暖かい。歩いているとすぐに暖かくなってくる。バイクだと、これが風の冷たいこと、冷たいこと。
なんて素晴らしい乗り物だろうと思った。これ以上の乗り物があるだろうか。メンテナンスも修理もいらない。寝ればもとどおり。金もかからない。それでいて気持ちいい。
歩くときは、中心感覚を大事にしている。ちょうどピタッと中心に一致する箇所があって、内部か外部か、そのどちらもか、ちょうど中心に心が吸い込まれるような一点があって、ただそこにピントを合わせるようにして歩いている。それは、武道の道場で教わったことだが、日常生活のほとんどすべてにおいて、俺はこれを採用している。
俺は家を見て歩くのが好きだ。家が好きだ。とくにBASEタイプの、木製の、薪や、広い庭、サンドバックおけそうだなとか、芝生の一面、将来? こんな家を建てたいとか、これくらいの面積の土地で、木刀を振り回してみたいなとか、ここだと近所の目を隠れて素振りができるなとか、理想的な住宅状況をチェックする意味合いもこめて、家を見比べながら歩いている。あんがい、山に建てなくても、住宅街においても、人里離れた瞑想的な場所があって、この3.9kmの旅路の途中で、3つくらい見つかった。いつも、その3つの家の前を通り過ぎるときは、非常にゆっくり歩き、しらみつぶしするように見入っている。さいきん泥棒が多いみたいだから、ヤバいけどね。
まぁ、一月からは、また出前館をやることになるから、こうして歩いて通うことはなくなってしまうけど。バイクよりぜんぜん楽しい。バイクはバイクの楽しさがあるんだけど。あらゆる意味で、この完成された乗り物に感動を禁じ得ない。
ボクシングジムまでは、2.6km、これもじゅうぶんに徒歩で通える圏内だ。
思うに、片道4kmぐらいだったら、ぜんぜん徒歩で通えるということがわかった。というより、これくらいがちょうどいい。これくらいは毎日歩きたいなと思わせられる距離だ。5km以上になってくると、厳しいかもしれない。
今までどうして気づかなかったのだろう。実家に帰ったときも、せいぜい3、4km程度のドトールやコメダに行くまでも車で通っていた。うちは縦列駐車だから、姉ちゃんに車を入れ替えを頼んでまで。じっさい、52分歩くなんてことはどうってことない。べつに俺が運動好きだからというわけでもない。こんなものは誰が歩いたって気持ちのいいものだ。こんな暇人が歩かなくてどうするというのだろう。
やっぱり出前館が悪さしていたな。出前館で、バイクであちこち動いているから、そのあいま、あいまに、ジムやカフェを挟むように移動することを余儀なくされていたが、出前館から、つまり仕事から解放されると、車やバイクがいらなくなる。自転車すらいらなくなる。時間も体力も精神的な余裕もたっぷりあるから、どこでも徒歩で移動したくなる。そうなったときは徒歩は最強の移動手段だ。これに気づかないでいたのは、車のせいというより、仕事のせいか。
とにかく時間がゆっくりで、べつに信号待ちでもイライラしないし、車と違って、イライラするということがない。どうせ急いだってたかがしれているし、このままゆっくり歩こうという気分になる。
ちょうどいい身体の疲れ。夜もよく眠れるようになる。修理もメンテナンスもいらない、寝るだけでいい。エネルギー供給もいらない。金もかからない。健康にいい。頭も良くなる。置き場所もいらない。寿命も20年のびるだろう。もともと自分の有しているものに近ければ近いほど、いいのだ。どれだけ、未来型の乗り物が発明されようと、これに代わる以上のものは発明できないと言い切れる。新しい発明がされようとも、いかに徒歩が素晴らしいかということを再確認されるだけだろう。
しかし、歩いていて思うことは、道路は車のために作られている、ということだ。
車に乗っていると、ッチ、歩行者はいいよな、縦横無尽にいろいろ融通無碍に動けて、と思っていたが、やっぱり歩行者側にまわると、後ろから、左右から、でかい鉄箱が押し入ってきて、すごく邪魔である。ぜんぶトラックに見える。へんな、細々しい路側帯に押し寄せられ、なんでこんなせせこましい道を、注意をはらって、気をつけながら歩かなければならないんだと思う。車も自転車も歩行者も平等ということで折半されているらしいけど、明らかに歩行者を冷たくあしらっている。立ち止まって、他人の家の庭を見るにしても、ある程度端っこにいなければ、すぐに後ろからデカい鉄箱が来て邪魔をされる。細い道だろうが、どこだろうが、お構いなしには奴らは走ってくるからね。歩行者のためにもちゃんと道を用意してあると道路交通省は言わんばかりだけど、これじゃあ気持ちよくは歩けないよ。いったい、どこを歩いても、車。車。車。車を手放したとしても、車、車だ。本当にこの世界は車を中心にまわっている。歩行者は、精神的に車に轢かれているのだ。
いかにも注意を払って歩かなければならないから、本然の意味で歩くことに溶け込めないでいる。それが人々を歩くことから遠ざけている一因でもある。Googleマップを見て、52分!? ムリ! ムリ! と思ってしまうくらいに。
さいきん、赤毛のアンを見ているが、プリンス・エドワード島の、あまりにも美しい景色に惚れ惚れする。あんな道を歩いてみたいなぁと思わされる。
これが頭脳や情操教育に与える影響は計り知れないだろう。
じっさい、じつのところ、カフェに着いて、仕事をする時間よりも、歩いている時間の方が重要だったりもするのだ。
たしか、ディケンズだったと思うが、ディケンズはなんと、一日に20kmは歩いたという。そして、自分が書いた作品のなかで、最も歩いていた時期が、最も作品も実りある時期だったと話している。ディケンズによれば、4、5kmていどでは、歩いたとは言えないそうな。
車>バイク>自転車>徒歩
というように、
その目新しさから、そのときに見た感動から、まだその残り香が後ろ髪を引っぱられるような形で残っているかもしれないが。
事実は、
徒歩>自転車>バイク>車
というふうに、もともと自分が持っているものに近づくにつれ、すごい発明品なのだ。
二宮金次郎は、じつは、楽しかったのではないか。辺境な田舎に住み、寺小屋に行くまでに、山を越え、谷を越え、3時間かかったと言われ、その道中、本を読みながら歩いていたと言われ、勤勉の神様のように讃えられているが。
車の音もない、交差点もない、信号機もない、端っこを歩かされることもない、四季折々の森林のなかを堂々と中央を歩け、右には年輪が入った切り株、左にはひょっこり現れてくるタヌキやキツネ、下には秋の落ち葉を踏む感触、俺は、毎日、3時間もこれだけのあいだを歩けるということは、贅沢なことだと思う。
あの、車の音がしないだけで、どれだけ心の平穏を破られないかはかりしれない。
今日も今日とて、ワイドショーで、凄惨な事件が起きると、それについて狂気だ、狂気だ、というけれども、目にみえるわかりやすい狂気を狂気と言うのは易しいものだ。本当の狂気は、この、道路という文化をわれわれ全員が当たり前のように受け入れていることだ。一歩でも外を出れば、精神を張り詰めていないとこの四角い悪魔に殺されてしまう。自転車なんて、あんな細い路肩を罪人のようにコソコソと走って、30cmでも右に傾いてしまったらジ・エンド。この景観を許してしまっていることこそが狂気なのだ。
今は、みんな、まだまだ忙して、生産だ、移動だ、便利だ、ワッショイと、その忙しさや習慣のために気づけないでいるが、これも戦争と一緒で、これはよくないことだということを肌に染み込ませるための時期、つまりカリユガ期だから仕方ないかもしれないが、人々が、これからベーシックインカムなどで、働かなくて済むようになってきたら、歩くことに価値を見出してくるだろう。俺が出前館をやらなくなってそうなったように。
私たちのフォルムを見たとき、歩いている姿が自然といえる。
おそらくは、へたに10分や20分のへんな運動をするよりは、小一時間、歩いた方がずっといいだろう。片道52分、ちょうどいいかもしれない。まぁ、じっさいは40分ていどだけどね。
そういえば、昔、デイサービスに勤めていたとき、徒歩で通勤してくるパートのおばさんたちは、みんな幸せそうな顔をしていたものだ。