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自分の時間は長い

さて、この時間は、ネットも切ったから、Amazon Prime Videoも見れない、YouTubeも見れない、他人のブログだって見れない、本だって読まないし、ここにきてはじめて、自分の時間がやってきたような気がする。

人生は短いかあるいは長いか。答えはこの時間にある気がする。

俺はもしかしたら、ひょっとしたら、人生というのは、すごく長いのではないかと思える。みんなは、短い短いというが。

今、こうしてネットを切って、さぁーて執筆に取りかかろうと思って、朝の7時に机に向かっていると、さぁ、時間の長いこと、長いこと。4時間も書けばお腹がいっぱいで、何をこれ以上書くことがあろうか。読む側だって、一人の作者が書いた文章を読める量には限りがあるだろう。日に1万字も2万字も読まされたらねぇ。それが面白かったとしても。

これだけ、朝、4時間も執筆したら、お腹いっぱいだ。もう、これだけの時間を過ごしたのであれば、一生分を過ごしたような気分だ。もし、明日も時間がもらえるというのなら、また書いてもいい。お釣りをもらった気分だ。

じっさいは、たいして執筆は進んでいないし、作品は完成していないから、明日がこなければ困ってしまう。まだまだ時間を必要としているところはあるかもしれないが、今日という日をやりきれて、また、明日、この机の前で、長い、長い時間を過ごすことを考えたら、今、死んでもいいと思えなくもない。

友人のブログにあった文章で、とくべつ心に残っているものがある。わりと頻繁に思い出す言葉だ。彼は、やたらと長生きをしたがる老人を快く思っていないようで、老人が、死に際になって、ベッドの上で、みっともなく延命を求めることについて、彼らはじゅうぶんに自分の生命をまっとうしてこなかったから、ここにきて時間を求めだすのだ、というようなことを書いていた。僕は十分に自分のやりたいように生きてきたから悔いはないのだと。

ふつう、ほとんどの人は、自分の時間をもたない。幼年期から始まって、外部の環境に反応してきたばかりで、大人になって、とうぜん、どこかの組織に所属して従業員として働くことは、その雇用主の手駒となって働くことであり、雇用主のやりたくない仕事を代わりに引き受けることであるから、自分の時間とはいえないだろう。また、雇用主の方だって、社会という雇用主の従業員に過ぎないのだから、自分の時間とはいえないだろう。

楽しいこと、好きなことというのは時間があっというまにすぎていくといわれているが、まぁたしかに、執筆がのってきているときなどは、あっというまにすぎていくときもあるけれども。基本的には、ゆっくりゆっくり。時間はやたらとゆっくりすぎていくような気がする。この時間は瞑想に似ているような気がする。ゆっくり時間が経てば経つほど、そのゆっくりさに応じて、私たちは時間にたいして満足を覚えるのだろうか? それとも、この文章を書いている時間は自分の時間といえるだろうか? それともサボっている時間だろうか? というのも、これはいま書いている作品から外れて、ちょっとした息抜き程度に、思ったことを書いている文章だからだ。まぁ、自分の内側と向かい合ってきたところから生まれてきた文章だからよしとしよう。

酒やタバコやパチンコや映画や、そんなものをたくさん見たって、あるいはネットフリックスにある動画をぜんぶ見終わったとして、そのときは、もう十分だと感じるんだろうか? それとも、まだまだ時間が欲しいと思うのだろうか? たしかにまぁ、ゼルダのティアーズオブキングダムとかいうやつも、RPG好きとしては一回ぐらいプレイしておきたいと思うし、ドラクエ3好きとしては、最近、3のHDリメイクが出たとのことで、それもプレイしたいとは思うが。

これが本当に自分の時間だといって、これが私の時間ですよ、と手のひらにつかんだもの。両手を開いて、他人に見せるかのように、これが自分の時間だといえる時間は、一体どれだけ私たちが持っていることだろう。

ゲームをやっている時間か、YouTubeを見ている時間か、あるいは習い事をやっている時間、ボクシングのジムに行っている時間、合気柔術の道場に行っている時間か、あるいは親友と夜通し電話している時間か、それとも瞑想している時間か、それとも執筆している時間か、それらのどれにも当てはまらない漠然としたぼんやりとした時間か、それともこの時間について考えている時間か。

たしかに瞑想している時間は、それが良いか悪いか、何を得られる得られないはおいておいて。たしかに自分の時間といえるかもしれない。あぁこれが自分だなと。自分があまりにも意識的に、重くのしかかってくるから、食傷気味になってしまうのかもしれない。そして、時間がゆっくりだ。おそらく、すべての時間経過のなかで、ゆっくりで、自分がゆっくり重くのしかかってくるから、すぐに立ってしまう。それだけみんな、自分の時間が苦手だ。だけど、死に際になって取り戻したがる。

そして、そういう時間を5分でも過ごせば、それだけでもうお腹いっぱいになるが。これを1時間でも2時間でもやって、もう1日の半分やほとんどをそんなふうにして過ごせるようになったときには、もう人生に対して愛着など残っているだろうか? 時間に対しての欠乏感というものはもうとっくになくなっているような気がする。時間が、時間が、時間が欲しい、時間が足りないといっている人たちは、この自分の時間を過ごせなかった時間が、自分の時間を欲しているのではないか。

俺が自分の時間を満足に過ごせているかといったら、それについて疑問する程度には時間をもっているだけである。いうほどには、働いてないけどね。いや、いうほどには働いていないということが、自分の時間かもしれないが。

はたして、死ぬ頃になって、これが私の過ごしてきた時間です、と両手を開いて、他人に見せられる時間はどれくらいになるだろうか。はたして5分としてあるだろうか。この時間をたくさん過ごせてきたのであれば、もう二度と地上に降りてきたいと思うだろうか。

もう十分に生ききった、この自分の時間が、そのまま自分の人生を生きたというところにつながっている気がする。少なくとも今日4時間、こうしてただ座って、およそ書いたような書いてないような、さっきから一行も進まず、こうしてくだらない雑記に気をそらしているとはいえ、ほとんど満足に仕事が進まなかった日でさえ、こうした日が続くと、こうした日が一日でもあると、もう十分に生きたというような、二度と生まれてこなくても大丈夫というような気分になる。

さいきん、時間が長い気がする。何かしていると短くて、何もしていないと長い。

ただ、黙って、自分を自分だと感じられる時間を瞑想というのなら。

とりわけ、どこで過ごすかも一役買っているだろう。カフェだと短いが、自宅だと長い。自宅のニートマンションは、あまりにも窮屈で、すぐに抜け出したくなるが、自分をもっとも感じられる場所の一つでもある。

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