子供は親の背中を見て覚えるというが。
人が成長するというときはどんなときかというと、見ている時間だと思う。
子供は親の背中を見て覚えるというが、たしかに、ああいうときの子供の顔は、なんともいえない、何かを受信しているような顔をしている。あれは、魂や霊格が、発展しているときの姿なのだろう。
じっさい、言葉や単語を、花の水やりのように与えてみたとしても、人間は育つものではない。
ズン……とくるような、いい波動が、その人の身のもとにふりかかる。その絶対量が、彼の未来を決めるだろう。
どうも、もともと幸がない顔をしている人、人間として軽薄な人、何を言っても胸に響かない人、鈍感な人、表情がない人、そういう人は、ジーン……とくるものが、感じるということ、感受性が乏しいのだと思われる。
そういう人は、止まって、受信するということをしらない。ただ、言葉で物事を捉えている。
言葉で学び、言葉で育ってきた人は、こういう人間になる。
子供が、人をナイフで刺してはダメ、といわれる前から、刺さないのはなぜだろう。
小さな女の子が、ポルノビデオや、そそりたった男性器を見て、いけないものを見たような、怖く、恐ろしくなって、その場をあとにしてしまうのは。
それは教わったことなど、一度もないはずだ。
また、道すがら、ゴミ拾いをして歩く人を見ては、あれは何をしているんだろう、と食い入るように見つめている。
正しい、正しくない、善と悪。
それをエネルギー体として、感受して、育っているところがあるようだ。
この原始的な力は。発展は……。
まぁ、頭に言い聞かせても、ダメということだな。
タリーズにいる家族連れで来ている小さな子供を見ていると、非常に落ち着きがなく、ワーギャー騒ぎどおしでいるが。そんな子でも、何か、いつも、宇宙の電波を受信しているかのように、電波時計が正確な時刻をキャッチするためのように、立ち止まる瞬間がある。
ああして、騒ぎながらも、いっしゅん静かになって、何かと帳尻を合わせることによって、一歩一歩、歩みを進めていっているのだろう。
おそらく、子育てなんてものはそんなもので。そうやって勝手に育っていくのだろう。
が、親の、善の動き、悪の動きをよく見ているもので。その善なる動きも、悪なる動きも、波動体として受け取っていて、ショーケースの中のプラモデルや、お菓子を、指を咥えてじっと見つめるように、見つめている。あれは、受け取っているといっていいだろう。
どうも、スレた人間と、まっすぐな人間。援交するような、風俗やるような子は、その波動の浴びた絶対量や、波動の質。それが分かれ目になっているように思う。
今もまた、アンマの弟子が、「アンマは決して車の前を通り過ぎたりはしません。かならず後ろを通ります。それを人間の顔のように捉えていて、失礼にあたると考えているからです」と本に書いてあったのを目にしてからというもの、これはいったいなんだろうと、子供が親の背中を不思議そうにじっと見るように、姿こそ見ていないが、俺も、同じようにアンマの背中を見ている気分になった。