霊的修行 仕事 ブログ・文章論

カフェで勉強している女子高校生を見るとうらやましく思う。

カフェで勉強している女子高校生を見るとうらやましく思う。

こうして、文章を書いていると、一瞬、一瞬、立ち止まることを余儀なくされる。もっとも、注意を働かせなければならない場所に。都度、その都度、心の内側の、もっとも神妙な、もっとも深淵な場所に耳を澄ませ、いわゆる精神集中をして、その着想の源泉なるものにカーソルを合わせ続けなければならない……。

これを、一言であらわすのであれば、新鮮を維持する、と言える。じっさい、精神集中をしているわけではないのだ。その都度、自分をゼロ化して、その都度、もっとも自分の新鮮な状態を起こしているのだ。

思うに、毎瞬、毎瞬、そのたびに、自分の新鮮な状態を維持する。ボクシングでもそう、何を求められるかといったら、対応力であり、伝説の雀士といわれる桜井章一さんも、“実力があるということは対応力があること”といっていたが、その対応力とは、もっとも精神が伸びやかに、柔軟に、なんでも対応できるようなリフレッシュしたような心持ち、つまり、永続するような新鮮な状態をキープすることにある。

だから、文章を書くことも、いかにその書き手の精神が新鮮でいられることを求められる。読者はもちろんその文章をはじめて読むのだから、作者もまたはじめて読む視点でなければならない。ここで、既視感が走って、自分一人で、2手、3手、先回りして、処置を施すと、読者しては「?」ということになってしまう。だから、推敲とは、文章をより完璧に綺麗に仕上げることではなくて、初めて文章を見る視点に立ちかえることをいう。そのために、翌日の朝、最も新鮮に物事を見れる時間、はやくアップロードしたくなるけど、その時間まで持ち越さなければならないから、それがいちばんつらいところでもある。

しかしだ。そんな苦労をよそに、今、となりの席の女子高生なるものは、そんな苦労をしらないといった感じに、勉学に励んでいる。なんでも、ナポレオンの肖像や、アンコールワットなどの歴史建造物の挿絵がたくさん挿入されていることから、資料などを見て、世界史の勉強をしているようだ。

俺は、この手の作業を横目で見ていて、いつもうらやましく思う。

今なら、もっとも新鮮な状態のときに、グッと心を強めて、その事象を覚えるようにすれば、俺はだいたい一回で、それを覚えられてしまう。昔はこれができなかった。おそらく、瞑想や食生活や、精神力の強化、あるいは芸術活動、精神修行の賜物だと思う。年はとったが、学生時代に比べて著しく記憶力が強化された。雑念、妄念が少なくなり、事象をくっきり焼き付けることができるようになったからだと思う。

この力を勉学で試してみたい気持ちはある。まぁ、資格試験とか、そういったものはやらないがね。半ば強制という形で、みんなと一緒に学校で授業を受けて、ダラダラと、みんなのやる通りに、なし崩しというかたちで大学受験をするという、烏合の衆の群れに、およばずながら、一緒に参加して、俺もその環境のなかで、フラフラとちい散歩するつもりで勉強なるものをしてみたい。そんな、3ヶ月とか、半年とか、短期集中でガンガン勉強するわけでもなく。

ふつうに学校生活をたんたんと送りながら、一日、3時間くらい、暗記や演習といった作業に勤しんでみたい。おそらく、今でも、家で勉強となると集中できそうにないが、タリーズやドトールで、カフェでというのなら、ちゃんとその時間は勉強できそうな気がする。俺はかつて、これまで、まるまる3時間、気を逸らさないで勉強したことなど一度もなかったのだから。まぁ平たい話、創作によって身につけた集中や習慣を、今さらながら学校勉強で活かしてみたいということだ。

いいなぁ、と思う。ハッと精神集中させて、ハッとぴたりと、その単語を覚える。

これは、やはり、やっていることは、“新鮮”ということである。集中とは、やはり、“新鮮”を指しているのだ。何が大変だ、何が難しいって、この、新鮮さを自在に自分のもとへ持ってこさせることだろう。集中、なんていったって、地に足をついた、癒着の沼へ沼へ、深く潜っていくことが、集中ではない。集中は、延々と続く新鮮さだ。なんでそれがわかるかというと、執筆とボクシングの経験からだ。この二つが、常に、新鮮さが求められることから、勉強も記憶も新鮮さが求められるということがわかった。常に、新鮮でいることが難しいから、記憶が難しいのだろう、普通の人々は。

時間経過によって、必ず、意識が混濁されてくる。ハリと伸びやかさを失い、汚れてくる。

そして、ものを覚えるときの態度、その精神集中のやり方を、きっと知らないのだろう。すべて、世の中は一つ、まったく、一つだ。

霊性修行の何がいちばん実生活上で活かされるかというと、新鮮さだろう。溜まった水が腐るように、それよりよほど早く、精神は濁っていく。常に新鮮でみずみずしい精神を維持するために、そのために、修行者は心を砕いて研心することを余儀なくされる。

そして、それで得た精神性は、他のあらゆる万物に通底するだろう。すべて知性というものは、この新鮮さからくるみずみずしさにすぎないのだから。というよりも、この新鮮と知性がイコールであり、英知と言われるものの正体だ。知性とは、新鮮さに過ぎない。この新鮮さを失ったとき、われわれは神から引き離されているのだ。

ここに若さは関係ない。傍目から見ても、高校生といわれる彼らは、ほとんど精神の伸びやかさを失っている場合が多い。およそ物質世界の、自分の心奪われる対象の一つを信条しているため、もっとも立たなければならない視座を失っている。たとえ若かったとしても、この視座を失っていては、どうにもならないのだ。彼らの精神は見た目以上に形骸化していて、老害化している。ほとんど、おじいちゃんとおばあちゃんに見えなくもない。やはり人間は、年をとるごとに若くなるのだ。そうでなければ、人間の人生とは言えない。

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