およそ、創作の道に励んでいる人たちのあいだでは、かならずといっていいほど、何のために書くか、という話し合いが行われる。
俺がよく行く小説投稿サイトでもそうだし、いざ、お笑い芸人の養成学校に通う学生たちでは、授業が終わると、酒を持ち込んでは、仲間のアパートの一室に集まり、夜通し語り合う。あるいは、漫画家のアシスタントたちも、先生のお手伝いが終わったら、これもまた、飲み屋の席で、私は読者を喜ばせようと思って書いている、いや、あくまで作家は自分の感性にしたがって書くべきだ、とやっている。
これはそのまま、普通に働いている社会人たちにもあてはまる。われわれは自分のために生きるべきか、それとも他人のために生きるべきか。自分軸で生きるべきか、他人軸で生きるべきか。永遠に尽きないまでに話し合っている。本の世界でも一緒であり、そういう人たちのために、この手の本が売れている。表現者も、サラリーマンも、自己啓発本を売り歩いている人らも、みんな、悩んでいることは同じということだ。
自分の頭のなかにある抽象概念を、そのまま原稿用紙に落とすことは、自分のために書いている、といえるだろうか。
岡本太郎の言葉に、こんなものがある。
「なんのために創るか、考えたことはあるかい? 自分のため? そんなのは甘いよ。」
俺はこの言葉の意味がぜんぜんわからなかった。俺は岡本太郎は自分のために作っていると思っていた。じじつ、彼の著書には、僕は他人の目など気にしない、自分の目すら気にしない、と書かれてある。
(太陽の塔が歴史上の建造物として残ったことに対して)「あれは、公明正大のものとして残そうとしなかったから残ったんだ。もっとも個人的なものが、もっとも大衆なものとなる」と話していたこともある。
※ただし、別の機会では、(太陽の塔についてどんなモチーフによって作られたかという質問に対して)「さぁ、向こうに聞いてくれ」と答えてもいる。
だったら、じゃあ、岡本太郎は、個人(自分)のために作っているのか、と言えそうだと思っていた。
同じように、フレディマーキュリーも、「全ての楽曲は、自分の身近な、数人の大切な人のために作った曲なんだ」と言っていて、これにも驚いた。クイーンの楽曲ほど、公明正大に聴こえるものはないからだ。『We Are The Champions』なんて、これ以上に、全体的な楽曲があるだろうか? これ以上ないほど、格闘技大会の入場曲として使われ、どこでも使われ、この指とまれといったような、みんなで声を合わせて歌うための、依頼も依頼、人種的な問題や世界平和のテーゼとして政府から依頼されて作った楽曲ではないかと思っていたからだ。とても、個人的な曲とは思えない。
※
さて、ここはいつものごとく、ヨガナンダ先生に聞いてみよう。
ある日曜日、師は教会に出かけました。教会の聖歌隊が、師のために特別に歌を披露することになっていました。教会の礼拝が終わると、聖歌隊とその指揮者は、パラマハンサジに尋ねました。
「歌を楽しんでいただけましたか?」
「良かったです。」スリ・ヨガナンダは、そっけない口調で言いました。
「まあ、お気に召さなかったのですね?」彼らは質問しました。
「そうは言っていません。」
説明を迫られて、師はついに話し出しました。「音楽的な技術について言えば、完璧でした。しかし、あなた方は誰に対して歌っているのかを理解していません。わたしと聴衆を喜ばせることしか考えていなかったのです。次回は、人のためではなく、神のために歌ってください。」
※
谷崎潤一郎は、文章を書くときに、それを明確に示す語彙は、たくさんあるようでいて、一つしかない、と言っている。確かに、こうやって文章を書いている今も、一つしかない、というような気がするのだ。一つ、すでに完成されているものが空間の中に眠っていて、それを掘り起こすだけのような、ただ、“ある”という気さえする。
とりわけ、書いているよりも、書かされている、というような、ただ地中に眠っているものを掘り起こすだけの心持ちでなければ、長いものは書けないだろう。そうでないと、迷って、迷って、さんざん迷って、もう自分の方から出口を作って切り上げたくなってしまうからだ。
ここに精神活動はいらないかもしれない。あくまで、目を凝らして、この空間の中から抜き差しならないものを見つけるだけの作業といえそうだが、そこには哲学や思想、イデオロギーや、自分のためとか、他人のためといったものもない。ただ絶対的なものしかない。
相対的な立場で作っていると、自分のために、とか、他人のために、とか、一悶着やらずにはいられないだろう。
自分のために生きるか、他人のために生きるか、も同じことだ。
何度もいうが、これはけっして創作論の話をしているわけではない。創作も生きることも同じことだからだ。俺は今、人々が自分のために生きるか、それとも他人のために生きるかと、いつまでも一悶着やっている問題に、決定的な答えを打ち出そうとしているだけだ。
自分軸でもなければ他人軸でもない、ただ、絶対的なものにしたがって生きることを話しているだけだ。
神もそれを望んでいることのように思う。
「仕事のすべてを、“わたし”にまかせなさい」 バガヴァッドギーター
自分も、他人もこえた、抜き差しならないもの。文字通り、抜き差しができない、ピッタリと合っているもの。この空間には、いくらでもピッタリと合っているものが無限に広がっている。私たちは個々の能力にしたがって、これを外にあらわすことでしかないのではないか。
自分のためでもなく、他人のためでもなく、ただ真実と目が合ったら、それを外にあらわす。というのが俺の答えなのだが、どうだろうか、岡本太郎さん。