初体験──か。
初体験、そういや、このブログで、初体験の話ってしたっけ? と思って。
まぁ、じっさい、俺だって書こうと思ったことは何度となくあったけど、あまりにもくだらなく、下品で、気持ち悪くて、低俗で、下品だから、隠していようと思った。
しかし、もう時効かなと思って。蓮の葉に溜まったしずくが時満ちてこぼれ落ちるように、今、うまれでようとしている。
そりゃあ、俺だって、セックスぐらいはしたことはあって。セックスしたことがあるってことは、初体験をしたことがあるってことで。初体験をしたことがあるってことは、初体験をしたことがないのにセックスしたことがあることはないということだ。
何を隠そう。俺は隠れ童貞だった。
高校時代からの親友である、このブログにもよく登場する彼にさえ、中二の頃に初体験は済ませたと嘘をついていた(今も絶賛継続中であり、この記事を読まれることで彼にも知られる)
なんでも、二階の自分の部屋で行為をしているとき、親の階段を上がってくる音が心臓に悪かったとか、コタツの中でやったのでちんこにコードが絡まったとか、あることないことを言っていた。
時期は25歳の会社員時代ににさかのぼる。大学を卒業して、社会人として働き出して、2年後といったところだ。そう、俺は25歳で初体験をすませたのだった。
25歳。あまりにも遅すぎる年齢だ。あやうく魔法使いになるところだった。まぁ、今思えば、魔法使いになっていた方がよっぽどよかったと思うがね。
初体験を済ませたあとは、次なるステップとして、出会い系にのめりこんでいくわけだけれども、初体験がひどいものだと、その人のそのあとの恋愛人生はひどいものとなると世間で信じられているジンクスは、俺において証明された。
俺は、このときのことをよく考える。今も、俺がちゃんとした女とちゃんとした交際ができないのも、結婚できないのも、すべてはあの女のせいな気がする。まるでクマのプーさんが抱えているようなあのおいしそうな蜜壺で誘っておいて、中身は毒タイパンだったというような、あの淫部奥に隠し持っていたタイパン毒が塗られたナイフのような毒牙は、いまだに俺の男根を噛み続けており、しょんべんのために出すたびに目に入る、この黒さは、たまにどうしようもなく頭が熱くなって、運転中に思い切りアクセルを踏んで交差点につっこみたくなるのも、すべてはこのちんこにかけられた呪いからきている気がする。
それはそれ自体が生き続けており、小生が出会い系の女性たちにあたり構わずこの毒牙で噛みついてしまったのも、ゾンビに襲われてゾンビになった人間がゾンビを量産していくように、静岡県がバイオハザードになってしまったのも、彼女のせいだと思われる。
ルーク・スカイウォーカーが、ダース・ベイダーになったのも、彼女のせいだと思われる。
※
25歳、新卒で印刷工場に勤めて、2年が経った頃だった。
その日、俺は離れ倉庫で部材整理をしていて、仕事を終えて自分の部署に戻ったところ、工員たちが集まって会議をしていた。
それは情報処理部という(何が情報で何を処理しているのかよくわからなかったが、世間にあやかってかっこつけて付けた名前だろう)部署の中に会議室があって、中では、部署にいる工員はもちろん、工場長やら、品質管理課の役職がついているお偉いさんといった、ふだん、この部署にやってこない人たちがやってきて、深刻そうな顔で話し合っていた。
しまった。出遅れたと思った。大事そうな会議だった。この2年間、これほど重要そうな重々しい会議をしていることは、ついぞ見たことはなかった。
俺は離れ倉庫で一時間ちかく作業をしていたので、この会議がいつから始まったかはわからなかった。もうすでにそうとう長い時間が経っているとしたら、もうすぐに終わるかもしれない。だから、ちょっと待ってみようと思った。
だが、5分経っても、10分経っても、会議は続いた。
長い話だ。これは、そうとう、なにか大事な話をしている。いかないと……。でも、もう、10分以上経ってしまった。今となっては、入りづらくなってしまった。部署に戻ってきたタイミングでサラッと入っておくべきだった。
そうしているうちに、20分が経った。こうなってくると、もう、どうやって中に入っていいかわからなくなった。今、入っていったら、(あ、やっと入ってきた)(決定的な要因はなんだったのだろう)と、会議室の中の人間に無用な詮索をされるのを恐れてか。
けっきょく、俺は一時間30分、会議室の前に立っていた。
人生でいちばん時間が長く感じたのはこの時間だった。
みんなが出てきた。
誰も俺に話しかけるものはいなかった。
工員たちは、印刷機が並んである作業エリアまで移動すると、今度はそこで話をし始めた。本当に話が好きなやつらだ。
一人、会議室から遅れて出てきた品質管理課の田中さんという人が、俺のところへやってきて、「みんなが集まって話をしているときはいっしょに聞こうよ」と言った。
まるで子供に話しかけるようだった。ずいぶん気をつかってくれている体でもあり、この言葉で君を傷つけてしまうかもしれないけど、でもこれだけは言わせてもらうねといった覚悟めいたものをはらませていた。
言っていることは正しい。正しいが、彼も学生時代に先生の授業をちゃんと聞いていれば、こんな刷るだけ無駄な社会に迷惑しかかけないクソみたいな印刷工場に就職することもなかったと思うと、よく言うぜと思った。
「はい……」と、俺は力ない返事をすると、田中さんはこれからこの部署を案内するよといったふうに俺を連れだすように歩きだしたので、俺は田中さんの背中にくっつくようにして歩いていった。どっちがこの部署の人間かわからなかった。
作業エリアでは、これまでやっていた手順を変えて、違うやり方を始めるらしかった。工員たちはそのために慌ただしく動いていた。それまで使っていた部材は破棄して、印刷機に違う薪をセットしていた。これは一体何をやっているのだろう?
「あの、これから、何をやるんですか?」と聞こうと思ったが、その質問は口にする前にかき消された。俺は基本的に誰とも口をきかなかった。だから、こういうときに誰に聞いていいのかわからなかった。
俺は大卒ということもあり、このクソみたいな高卒の低学歴が集まる工場の奴らと話すことないと思っていたから、ほとんど彼らと口をきかなかった。その中で、唯一、まだ話せそうな、なんとか挨拶程度は交わす、この2年間で60文字くらいは話したことがありそうな男に声をかけてみたところ、「石野さんに聞いて」と言われた。石野さんとは直属の上司のことだ。この部署の責任者でもある。
石野さんは陣頭指揮をとっていて忙しそうで、また威圧的で怖かったこともあって、もう一人、2年間で70文字くらいは話したことがあった男に、「すいません、これ、何やってるんですか?」と聞いてみた。すると彼は無言だった。
ッチ。人の精一杯の努力をふいにするのがうまいもんだぜと思った。一人の男が恥を忍んで、一生のお願いという体で頭を下げているのに、どいつもこいつも印刷工員らしく紙みたいにペラペラな野郎だと思った。
「なんで、もう一度、お前に話さなきゃならないんだ」
石野さんのところに行くと、そう言われた。
「すいません」
「みんなに話しているときに聞いていればいっぺんで済むものを。会議に時間がかかったのわかってるだろう? あのかかった時間を、もう一回、お前にしろと?」
「すいません」
「こっちは遅れを取り返さなきゃならないんだよ」
と言って、けっきょく石野さんは教えてくれなかった。
そうはいっても言ってくれなきゃわからないじゃないか。そんなに忙しくて、人手が足りないなら、今、ここに世界一の暇人がいるじゃないか! 猫の手でも借りたいんだろう? だったら、さぁ! この手をとりなよ! と、俺はティンカーベルのように石野さんに手を伸ばそうとしたが、その手を取ってもらえなかった。
俺はティンカーベルのような顔をしながら作業場をウロウロしていたが、誰からもお呼びがかからなかった。ここはネバーランドではないらしい。作業員たちの、巻交換をしたり、オイル点検をしたり、部材の仕分けといった動きを見ていて、仕事があるっていいなぁ……と思った。もう一度、履歴書を書いて応募したい気分だった。
俺は、指を咥えながら、うらやましそうに、彼ら工員の動きを立ちんぼしながら見ていると、石野さんに次ぐ、二番手の責任者らしい、へんなポークジャーキーみたいな見た目をしている女上司が俺のところへやってきて、「どうする? 無理だったら無理でいいよ」と言った。
何を言っているんだろうと思った。なんでも省略して話す奴らだ。
何が無理で、何をどうするって、まず、俺はそれを聞かされてねーんだよブタが! おいブタ! こっちはわかんねーんだって、聞かされてねーんだよ! マジで! 何をやんのかそれすらもわかんねーんだって!
ブタ、話しかけんな……!と、信じられないほど、自分の中で怒りが膨れあがっていくのがわかった。
が、「やります……!」とだけ俺は答えた。自分でも何をやるのかわかっていなかった。
じゃあ宮本さんのところへと言って、へんな、40代のよくわからない、こいつも俺と一緒で、ほとんど誰とも話さない(印刷工場はそういう輩がやたらと多かった)へんな男だったが、ブタはそこに俺をポイ捨てると、もう一生こっちにくるなというふうにどこかに行ってしまった。
※
2年間、誰とも話さなかった。誰とも話さず、誰とも口をきかず、誰とも仕事せず、今日初めてやってくる新入社員と同じ仕事ぶりで、いてやった。
家に帰ってくると、うばわれた時間を取り戻すように、エロゲー三昧。精液を垂れ流し、そのままの格好でふて寝し、起きると、友達に電話して、愚痴、愚痴、愚痴。いつも寝るのは深夜2時過ぎ、そうすると今度は朝起きるのがつらくなる。目覚まし時計の音が耳障りだから、朝6時50分にTVが勝手に点くように設定していた。その時間は目覚ましテレビがやっていた。自分で設定しておきながら、目覚ましテレビが大嫌いだった。その頃はSuperflyの『やさしい気持ちで』がテーマ曲として流れており、本当にこの曲が大嫌いだった。毎朝、6時50分になると、この歌が流れて、ダイナミクスな、オーケストラっぽい、壮大な、仰々しい曲調と、Superflyのオーバーな歌い方も相まって、天変地異までとどきそうな、お前も、印刷会社も、ぜんぶ滅びろ……! と思いながら聴いていた。こうして最低な気分で起きると、シャワーを浴びるために風呂場に行く。出てくる頃には、6時58分になっていて、今度は星座占いがやっている。てんびん座が……出てこない……てんびん座はどこだ? 途中、2位までは表示されるが、1位と12位は、最後に同時発表になるので、結果が発表される前にテレビの電源を切る。
かならず、このころは、朝食代わりにファミチキを食べていた。脂ぎった、汁気たっぷりの、食べれば胃もたれ必至のやつだ。俺は毎朝2本買って、バス停でバスを待つあいだそれをクチャクチャ食べていた。同じくバスを待つ人々がいつもそれを気持ち悪そうに見ていた。俺は骨まで食べるタイプの人間で、バスがやってくる頃には身の方は食べ切ってしまうので、乗車してからは席に座って骨をガリガリ食べていた。
そうやってバスに乗って、工場へ着けば……、もうおわかりだろう。先ほどの工場内での立ち回りがまた幾度となく繰り返されるだけだ。それが俺の日常だった。
例の会議の日に、俺は辞めることを決断した。もうこれ以上は無理だった。2年間、この日々を耐え抜いたというのは、われながら恐ろしいメンタルの強さだが、今の俺だったら二日ともたないだろう。しかし、俺はすぐに辞めるかと思えば、会議室の前に90分立っていた例の事件がよほど堪えたのだとまわりに思われるのが嫌だったので、その後も一ヶ月働き続けた。ここでも、他人の目を気にすることが原因となっていることを考えると、やっぱりメンタルが強いとは言えそうにはないか……?
しかし! それもとうとう終わる日がやってきた! 俺は間違いなく、人生でいちばん幸せだった日とはこの日だったと心から言える。最後の日……。最後の日になっても、今日で最後だね、と言ってくれる人はいなかったが、何か、迷っているような、俺に声をかけようと、ソワソワしている女性工員の姿が一人いて、俺は、話しかけてきたら殺す。と出せる全力の殺気を出して追い払っていた。
時計が17時を示した。
早足で作業場を抜け出し、ロッカールームで着替えを済まし、バスに乗った。
バスから降りると、とてつもない全能感におそわれた。6月の空はまだ明るかった。その空と雲のほかに障害物が何もなく広がっている光景は他人事とは思えなかった。刑務所から出たばかりの囚人も同じ思いを抱いただろう。自由は精神を追い越していた。自由は、俺の手に余るようで、俺の身体を追い越し、追い越せ、と、すき家に入っていった。
自由はチーズ牛丼のメガ盛を注文した。ふんふんと鼻歌をうたいながら、注文が届くのを待っていると、最後に、見たくもない光景を見せられることになった。
バス停から一人の女が降りてくる姿が見えた。俺と同じく、ほとんど誰とも話さない、同じ部署の女性工員だ(工場は本当にこの手の人間が多かった)。彼女はバスから降りると、その足で駆けるように銀行に入っていった。
彼女はカツカツの生活を送っているらしく、毎月、給料日になると、よくこの光景が見られた。俺の方でも、これを見て、今日は給料日かと思い出したものだった。
彼女はATMで金を下ろすと、そのおろしたての金ですき家に牛丼を食べにくることがあるので、油断ならなかった。じっさいに何度か出くわしたことがある。お互い、他人のふりをしてやり過ごすのが常だったが、今日という最後の日は、すき家に入ってこないでくれよ! と思った。彼女は小走りで北の方へ駆けて行った。きっと借金の支払いだろう。よかったと俺は安堵した。
と、安堵した瞬間、俺は目の前の視界がゆがんで、どうにもならなくなってしまった。下腹部のあたりから、強い衝動が込み上げてきて、いてもたってもいられなくなった。メガチーズ丼か。テーブルに置かれたそれを一口、一口、食べるごとに、涙が止まらなくなった。ポロポロと、静かに、頬をつたって、あ……、あ……と、降り出したポツポツ雨がまもなくザーザー雨になってしまうように、すぐに濁流のような涙になった。一度でも、自分の人生で、こんなに涙したことがあっただろうか? わからない、思い出せない。もう、遠い過去だ。自分がいったい、今、どんな顔をしているだろうと気になって、トイレに行って鏡を見に行こうとした。しかし、トイレは使用中で、俺はドアノブを握りしめて、頭を扉に押しつけて耐え難い顔をした。その姿ははたから見たら、どんだけウンコしたいんだよ……と見えただろう。
しかたなく席に戻ると、牛丼を口にしても味もわからず、鼻が涙で詰まって、食べるそばから吐き出しそうになった。巨大な想いがこみあげてきて、もう何も口にできなくなり、震えが止まらなかった。牛丼を作った店員が、そんなにおいしい……? というふうに俺を見ていた。誰が見ても、号泣している姿はバレバレで、店内でいちばん目立つ見せ物になっていた。あまり大っぴらに私は泣いてますと認めてしまうのは、自慢めいた、アピールのようで嫌だったので、ただ……、ただ……? ただ……、戦っていた。
一人、俺の右となりに座っていた、70か80くらいの、牛丼を食べても消化できるのかわからなそうなおばあちゃんが、「大丈夫?」と声をかけてきた。俺は声を捻り出そうとしたけど、難しかった。左となりに座っている男は新聞を読んでいたが、こちらばかり見てくるので、俺は新聞に載っているどんな事件よりも大事件らしかった。おばあちゃんは、ゆっくりと、礼儀正しい、静かな食べ方で、小ぶりの牛丼とおしんこを食べると、そっとテーブルの上に白いハンカチをおいてその場を後にした。
やはり女性かと思った。あれくらいの年齢でも(いや、あれくらいの年齢だからか?)、女はいつでも、誰かの涙を拭くためにハンカチを持ち歩いているのだと思った。
しかし、多分だけど、あのATMに駆け込んだ女はハンカチを持ち歩いてないと思う。キャッシュカードしか持ち歩いてないと思う。あのATM女がいなくてよかったと安堵した。こんな、すき家で牛丼を食べながら号泣している姿を見られたら、自分がそうだからといって、給料日にやっと肉にありつけて泣いたのだと職場で吹聴されてしまう(あの女も話す相手がいないからそれはないけどね)。よかった。本当によかった。終わったんだと、俺は心の底から安堵した。
※
ベッドの上で横になって息を吐いていた。これまでの2年間で溜まった毒ガスをぜんぶ吐き出し切ってみたくなったのだ。映画『グリーンマイル』のコフィーのように、口の中からたくさんのアブやらコバエがブンブン羽音を立てて飛び立っていくように、ハーーーーと思いきり、息が続くかぎり吐いていた。
そんなことをやっていると、大学時代の仲間から結婚の電報が届いた。俺は結婚式に行った。仲間たちが集まっている席で、仕事を辞めたから実家の静岡に帰るという話をしたら、じゃあ最後に埼玉で思い出づくりをしようと言い出してくれた友人が一人いた。彼は千葉に住んでいたが、千葉から埼玉まで飛んできて、俺のためにできる思い出づくりを買って出たいというのだ。
皆さんが知ってるかわからないが、少し前に、『大学の友人が単身赴任で静岡にやってきた』というタイトルの動画を出したが、その彼である。190cm、90kgの、ワンピースに出てくるような巨人で、高校時代はバスケ部のセンターをやっており、隣を歩かれているだけで地割れが起きて、俺はよく地面に挟まって抜けなくなっていた。大学時代、彼の一人暮らし用アパートはビックカメラの隣に位置していて、ビック山(ビックヤマ)というあだ名をつけられていた。山は、山本の山である。
ビック山は卒業後、大手の広告代理店に就職した。うちの大学は名前を書けば受かる程度の大学で、このような大学から、誰もが知っている一流広告会社に就職できたのは、それは、はるばる千葉から埼玉まで、友人の思い出作りのためにやってくることに労をいとわないところからきているだろう。
朝9時、川越駅で彼と待ち合わせた。このときも思ったことだが、なぜ、こんな時間を選んだのだろうということだ。さいきん彼と遊んだときも、朝8時とか、9時とか、早い時間だった。彼はふだんは単身赴任用のマンションでその大きな身体を横にして過ごすだけで、テレビもなければネットも契約していない。ほとんど毎日、深夜まで接待をして、キャバクラでお偉いさん相手に飲みの席を過ごしている。「キャバクラなんていまだにあるの?」と聞いたら、「昔ながらのキャバクラだよ。たぶん、りょうちゃんが頭の中で描いているキャバクラで合っていると思う」と言っていた。仕事の話はほとんどしないと言っていたから、よっぽど相手がくつろいだり、楽しめるような、そんな会話を提供しているということだろう。それができるということは、すべての職業でもっとも偉大な仕事であり能力だと思う。彼はそうやって、現在、連日連夜、接待続きの日々を送っているが、このとき、埼玉にやってきてくれたときは、新卒2年目で、自社商品を理解するために、自社工場にて、高卒の工員をあごで使う立場で仕事をしていた。
じゃあ、どこに行くかと話し合っていたら、たった今、電車でやってきたときに、車内で絵画教室の無料体験のポスターを見たからそこに行かない? と、ビック山は言った。パンフレットも持ってきていた。開催場所は池袋と書かれてある。埼玉の思い出づくりじゃなかったのかよ。そして、絵画教室?
※
そこは古いテナントビルの一室を使われており、サークルや何かの部活動の集まりのような場所だった。入会歓迎と銘打っておいて、彼らは自分の創作に没頭しており、ほとんどこちらに話しかけてはこなかった。今日は水彩画の日のようで、参加者たちは机の上に置かれた花瓶をモチーフに水彩画を描いた。体験に来た者は俺たち二人だけで、あとは40代、50代の常連らしいおばさん達だった。全体で、7、8人くらいの規模だ。
「とてもお上手ですよ」
「りょうちゃん! うめーじゃん!」
「あら、やだ」
「まぁ……!」
「何かやってらしたのですか?」と講師の女性に言われた。
「はぁ、むかし漫画家を目指していたことがあって」
ビック山の絵も相当なものだった。他人を絵画教室に誘うくらいだから、もともと絵心はあるだろう。俺などは漫画家になるために、いやいやデッサンを練習した口だが、彼の線はそういったアカデミックの跡が見られない天衣無縫のもともと絵心がある素人の線だった。もし絵の勉強をしたことにメリットがあるとすれば、彼の線の良し悪しについてわかることができたことだろう。
着色の段となると困った。俺はキャラクターデッサンはやっていたが、色塗りは一度もやったことがなかった。ただ目の前の花が赤い花だったから赤色で塗った。茎は緑だから緑で塗った。周囲を見渡すと、まわりは意外にも見たものをそのままの色で塗っている者はいなかった。たしかに配布されたモチーフの花は全員赤色だったが、それにもかかわらず、全員、黄色や、紫、青、灰色、デタラメな色で塗りつけていた。
水彩画ってそういうものなのか? 水彩画において、見たものをそのままの色で塗るってことは恥ずかしいことかもしれないと思った。ビック山も当然だといわんばかりに、青だの黄色だの、いろんな色を組み合わせて自由に塗っていた。なぜ言われてないのにわかるのだろう。俺は、ただ線から絵の具がはみ出ないように、それだけに気をつけて、ほとんど作業に近い、パソコンのペイントソフトのバケツツールをクリックしたような、濃淡も気にせず、なるべく均一になるように塗っていった。
みんなが俺の絵を見ると、
「まぁ、素敵な赤……!」
「おお……!」
「やだ……綺麗!」
「これは……素敵な赤色ですね……!」
「あら、いいですよ!」
と、スタンディングオベーションふうになった。
「いや、でも、赤を赤に塗っただけですし」俺は抗議する体でいった。
「とても綺麗な赤色ですよ!」と講師が言った。
「でも、皆さんと違って、そのままの色を、そのままに塗っただけですよ?」
「いえ……とても素敵な赤色です……!」
何言ってんだ?
さっぱりわからない。
だって、そんなに赤色がいいってうらやましがるなら、赤で塗ればいいのに。
赤で塗れない?
色盲?
ここは色盲の集まりなのか?
なんだ……ここは?
ここはいったい……?
本当の色が見えている俺だけが、ここでは正常で、偉いと、いっているのか?
※
時刻は12時になっていた。きっかり2時間、絵画教室で遊んだ俺たちは昼食を食べることにした。繁華街をほっつき歩いていると、チェーン店でない、個人でやっている、しかしキャップ帽はチェーン店の真似をしてかぶっている、個人店のハンバーガー屋が見つかり、ここにしようとなった。
一つ1000円越えの、こだわりのパン生地と牛肉を使用しているリッチ志向だったが、テラス席から池袋の街並みを見渡せて楽しめそうだった。
「今日は俺が奢るぜ」とビック山は言った。
「ポテトとジュースもいいの? けっこう高くなっちゃうよ?」
「いいよ」
バーガーが届くと、サイズが大きく、店の主人がエアポンプを踏んで空気を送っているようなパンパンに膨らんだ生地だったが、ほおばってみると歯応えがあり、レタスも濃い緑色でシャキシャキしていて、チーズも食卓のソーマが降り注がれたような黄金色の輝きを見せていた。
「これ、ブクロきて正解だったっしょ、りょうちゃん」とビック山は言った。
「間違いない」と、俺は長井秀和の真似をしながら言った。
「このあと、どうすっか」
芸術欲を満たし、食欲を満たしたなると、次は何の欲を満たすかというと、答えは決まっていたのかもしれない。
俺たちはとくに打ち合わせたわけではないが、ピンク通りを歩いていた。
「お兄さんたち〜。一回1500円ポッキリだよ〜」
と、下品な金色の変なキラキラしたハッピを着た、プールの清掃員のような見た目をした50代くらいの男がこちらを見て言ってきた。
「1500円って安くない?」と俺は言った。
「いや、たぶん、指名料とか初回入会金とか取られて、5000円はいくよ」
「手コキ専門店だよぉ〜」と、その金色ハッピを着ている男は、もう一度、俺たちの顔を見ながら言った。
「手コキじゃいいや」と俺は言った。
「本番やりたい感じ?」とビック山は言った。
「やるんだったらね」と俺は返した。
やるんだったらも何も俺は童貞だった。
むかし、童貞の友人が、「たまに風俗に行ってみたいときがあるんだけど、風俗で童貞卒業したら終わりだと思うさ。がんばって素人と初体験を済ませたら、そのあと好きなだけ風俗に行こうと思ってる」と言ってきたことがある。俺は「風俗で童貞捨てたら終わりだね」と返した。
「本番アリだと、ソープになるけど」とビック山は言った。
「ソープかぁ」と俺は不満げに言った。
ソープはどうも湯上がり卵肌の女性が昔からあまり好きではないのと、泡とか風呂はセックスと関係ない気がする。もっと生活に密着した、学校や職場のそのままの衣装の衣擦れから始まるような、地に足ついた、風呂とは遠いところにあると思った。だから、「お水」とか、よくわからない形容のされ方をされるんだ、と童貞のくせに、文句だけは一言申し立てたい気持ちでいた。
道すがら歩いていると、『出会い喫茶』と掲げられている看板が目に入った。灰色ビルに看板だけが飾られてある。普通の喫茶店とは似ても似つかわない、一階入り口に仄暗い部屋につながっていそうな階段だけがある。およそ普通の喫茶店の入り口ではなかった。
「この、出会い喫茶ってなんだろう?」と俺は看板を見ながら言った。「見知らぬ男女がお茶するの?」
「いや、そうじゃないよ」ビック山は言った。「女がマジックミラー号みたいに、ガラス張りの向こうに並んでて、それが男からは見えるようになってて、女の中の一つを選んで、飯に行くか、やるか、女と打ち合わせて決めていく感じ」
「ふ〜ん」と言いながら、詳しいじゃん、と俺は思った。
「入る分には金かからないの?」
「入るだけで2000円は取られるよ」ビック山は言った。「2000円払って、中に入る権利を得られて、そのあと、ガラス張りの向こうにいる女たちの姿を見れる感じ」
※
中に入って受付を済ますと、会員証なるものとバッジを交付されて、胸につけた。ビック山はすでに会員証を持っていた。
「なんじゃこりゃ、肝試しかよ……」
なかは真っ暗だった。入り口を遮っている分厚いカーテンを開くと、水族館の生簀のように、ガラス越しにそれぞれ番号をつけた女たちが並んでいた。映画『羊たちの沈黙』に出てくるような囚われの囚人か、いかにも奴隷市場といった、女たちが商品のようにショーケースのなかに陳列されていた。
男性エリアの方は真っ暗闇で、椅子などもなく、立ち見で女性エリアを見るために誂えられただけの簡易スペース。女性エリアは、待機ルームというかのように、横に伸びた長いソファが置かれてあって、そこに女性たちが共同で座っていた。7、8人がそこに座って、漫画を読んだり、携帯を触ったりしていた。漫画喫茶ばりのコミックやジュースサーバーが用意されていて、自由に利用できるようだった。
男の姿は4、5人。日曜日の昼下がり、平日のあいだに溜め込んでいた精液をここで発射しようと考えているらしく、ジロジロと興味深そうに生け簀のなかの女性たちを見つめていた。
ガラス窓には「4545禁止!」と書かれた張り紙がはられていた。
「なんだろう、これ」と俺は言った
「するわけないじゃんね」とビック山は苦笑した。
「なんで数字なんだろう?」
「ちょっとしたユーモアじゃね?」
「ユーモア……」
わからない、池袋のユーモアは。
ひときわ目立った男の姿があった。60代か、70代か、これもまた、プールの清掃員のような格好をして、前頭部は禿げているが、後ろ髪は被爆して逆髪になったような、クラッカーを引いたような髪型をしている。およそ世間からはもう性欲から解き放たれていると信じられている年齢の男が、食い入るように女たちを見つめていた。まるで子供がショーケースの中のプラモデルをほしがるように目を輝かせていた。ほとんど鼻がガラスにくっつく距離で、ガラスが白く濁っていた。
彼は、その場からピクリとも動かずに、ずっと眺めていた。
なぜ、ただ見ているだけなんだろうと思った。そんなに欲しいのだったら売り物なのだから買えばいいのに。
しかし、このことは、女性陣からこちらが見えていない証拠だと思えた。もし、この、カナブンのようにガラスに張りついている彼の姿が向こうから見えていたら、座って漫画を読んでいるなんてことはできやしないのだから。
たしかに、このおじさんは、注意書きの貼り紙がないと、4545とやらをしでかしてしまいそうだった。
ってか、たぶんこいつだと思った。こいつがじっさいに4545したんだろう。それでこの注意書きが貼られているんだ……。こいつ一人のために……。
おじさんは、およそ自分の孫ともとれる年齢の女の子を、全体重を瞳にのせるように鑑賞していた。庭の盆栽を見るように、あるいは美術館の展示絵を眺めるように、それがちょっと人型の若い女になっただけだというふうに。
俺たちも彼にならって物色することにした。本当に向こうからは見えていないのか、ガラスをコンコンとこづいて確かめたくなった。それを予期してか、ガラスには、「4545禁止」のとなりに、「ガラスを叩かないでください」という張り紙がはられており、ペットショップのそれじゃねーかと思った。
女性の姿は、7、8人くらい。家出少女、変なデブだったり、育ちが悪そうなのが半分で、もう半分は、普通に街を歩いていて見かけるような女性だった。女の子たちはみんなオシャレで高そうな服を着ていた。6月だったので、ミニスカートを履いて、元気のいい生足を披露している者もいた。基本的には股をとじて行儀よく座っているが、平気で横に開いて座っている姿もあった。こういうときにガニ股で座る女がいる。TVのトーク番組においても、まだ、このあたりにうとい若いアイドルの子などが股を開いて座っているのを見かけるものだ。
ここでは座っている姿がすべてなのに、と俺は呆れた。たとえどんなに美人だったとしても、この場でガニ股で座ることは、男性客の性欲を萎えさせるには十分であり、彼ら変なファッションをしているオタクにさえ呆れられてしまうものだった。
女性陣のなかでひとり、ポーチの中からリキッドタイプのファンデーションを取り出すと、手にひらにチュウウ……と液体をのせ、それを顔面にグチャーッと塗りつける姿があった。男たちは全員、ギョッとした顔でその光景を見ていた。
「あれはないなぁ……」とビック山もつぶやいた。
「そうか」と俺は言った。
でも、ファンデーションを塗ったあとの姿が、街で見かけるすべての女性のそれなのだし、とうぜん、今、他の席に座っている女もそうなのだから。見せるか見せないかの違いでしかない。俺は彼女に代わって弁明したい気分にかられた。単純に“塗る”という行為がそれほど引くにあたいするものなのか。口紅だったら、彼らもこれほどには引かないだろう。
男たちはいうに及ばない、ソフマップのエロゲーコーナーに群がっているそれであり、黒い格好、黒いズボン、全身黒、もう何年も着ているとわからない、お母さんが買ってきたものを着ている、オタクを絵に描いたような男たちだった。
だから、俺とビック山の姿は浮いていた。俺は当時、童貞のくせにファッションにはとても凝っていて、毎日、仕事帰りにマルイに通って、給料の三分の一を服につぎ込んでいた。俺の格好といえば、バッファローボブズの革ジャンに、インナーに深紅のドレープカットソー、パンツは目にきつい蛍光色の緑だった。ファッションに前衛的な人間でなければけっして履かない代物だった。
「りょうちゃんが浮いて見えるわ」とビック山は言った。
「そうかな?」と俺は言った。
たしかに、それは気のせいではないようで、先ほどから、(ッチ、野郎、いいファッションしてきやがって。てめーみたいなハイカラファッション男にやってこられると、こっちはいい迷惑なんだよ。俺たちの場を荒らしにくんじゃねー)という彼らの視線が痛いほどに刺さっていた。
しかし、それをいうならこっちだって、「ファッションだぜ? 服ぐらい買えばいいだけだろ。今すぐ彼女作れって言われても無理かもしれないけど、買えばいいだけだろ。っていうか、一つ言いたいんだけど、よくその格好で風俗にこれたな」と言ってやりたかった。
こんなファッションをしている奴がまさか童貞とは思わなかっただろうが。また俺の後ろには、190㎝、90kgの、地区大会予選二回戦まで行ったことのある元バスケ部センターの男が控えていた。なんでこんなデカいやつがここにいるんだ? お前のちんこのサイズに合う女なんてここにはいねーよ、アメリカ行け! という顔を彼らはしていた。
下を向いていてよくわからなかったが、ひどく背が小さそうな、茶色のエプロンだかワンピースだかよくわからない、胸にリボンが付いた、レースの襟付きワンピース? メイドコーデというやつだろうか? メイド服を着ていたわけではないが、メイド風なワンピースとエプロンが私服っぽくなっているようなファッションの女の子がいた。まるで自分をドールと見立てて楽しんでいるような、今でいう、ぴえん系というような、ファッションだけでもう可愛かった。おそらく、そのあまりにも強いインパクトのため、買っても2、3回しか着る機会もなさそうな、ミツバチの針のような一射絶命の服であり、袖先のフリルや腰にある編み込みリボンがとてもかわいく、3枚ほどレイヤードしていて、メイドが履くような黒い靴に、かぼちゃパンツを逆さまにしたような靴下を履いていて、とくに靴下が可愛かった。俺は靴下で決めてしまったのかもしれない。
「あの子、いいかもなぁ」
と俺が言うと、ビック山は「え?」と、意外だという顔をした。
たしかに、見たところ、彼女は147㎝もなさそうだった。そんな女が190㎝のチンコを挿れられたら、真っ二つに裂けてしまうこともありえそうであり、それを避けるためか、天は今、ビック山の心に、「いけません、他の子を選びなさい」と、彼女を可愛いと思わない方向の感情を与えたのではないかと瞬間思った。そうでなかったら、この子を可愛くないと思う人間が一人としているはずがないから。
「はやくしないととられちゃうよ」とビック山は言った。
まるで品薄のSwitchやPS5みたいに言う。
「たぶん、りょうちゃんを見たらさぁ、女からしたら、当たりって思うんじゃね?」とビック山は言った。
「んなことないって」
と言いながら、自分でもそう思っていた。その分、安くしてくれないかなと思っていた。
これは、今、書いていて、書こうかどうしようか、すごく迷ったことなのだけど、やはり、いちばんの決め手となったことだったから、書いてしまうことにした。
じつは、このとき思ったことは、背が小さい方がマンコも小さいんじゃないかということだ。人生の、行きずりで出会いでつくった彼女とセックスして童貞を捨てた場合、そのマンコの大小は決められないが、この場合、少なくともマンコの大小は決められる。少しでもゴージャスな童貞喪失体験にしたいという、普通の彼女で童貞を捨てることがかなわなかったことに対する精一杯の抵抗だった。ロールプレイングゲームのキャラ設定画面のように、他の要素をすべて投げうって、マンコの締まりにパラメーターを全振りした感じだ。
「6番の子でお願いします」と、俺は受付に願い出ると、まもなく受理された。
俺は個室ルームに移動して、座って待機していると、すぐに女の子がやってきた。
「えっうそ」と言われた。
「え?」
「浮いてるって言われません?」
「え?」
「え、すごい、オシャレな人がきたからびっくりしちゃった」
「え? 本当ですか?」
「え、浮いてませんでした? さっき、待機ルームで」
「あはぁ、まぁ、確かに、トイレットペーパーみたいな、触ったらビリビリに破れちゃいそうな服を着ている人たちが多かったかもしれないですね」
「えーっ、びっくり。めっちゃオシャレー。嬉しい〜」
やった! 嬉しがってる!
ほらみろ、ちょっとマルイで服買ってくりゃ、こうやって嬉しがられるってもんだ。ここで、そうやって金をケチろうとするからダメなんだ。ちょっといい服を買ってくるだけで、こんなに評価が変わってくるんだ。そして、これは行為中のサービスにもあらわれるんだ。同じちんぽをさばくでも、オシャレな男とダサい男とじゃあ、そこにあらわれる手つきが変わってくるってもんよ。じっさいオプション代だぜこりゃあ。
「えっえっ、友達になってくださ〜い」
友達?
「え、こちらこそ、はぁ、よろしくお願いします」
なんだ、この好印象は。いま、聞き間違いじゃなければ、友達っていったよな? 友達って、こういうふうに作るんだっけか?
「えー? どうしますか〜?」
「どうします? その、いや、俺初めてなんですけど、どうしたもんか……」
「じゃあ、ご飯いきますー?」
「ご飯、いいね、ご飯行こう」
「じゃあ、ご飯行きましょう〜」
「うん」
決まりだね、というふうに、すぐに決まった。
「お小遣いはいくらもらえます?」
と女の子は言った。
「お小遣い?」
「はい」
「……」
なんでご飯に行くのにお小遣いが必要なんだろう? 俺の子供か何かか? 友達とか言っていたような気がするが。
そのお小遣いとやらは、いったいいくら出せばいいんだろう? もしここで、「千円」とか言えば、すぐに席を立たれることは想像できた。三千円……。たぶん、三千円だせば文句はないだろう。よし、三千円で行こう!
「五千円で」
「本当ですかー!」
この値段が高いのか、安いのか、さっぱりわからなかった。少なくとも反応を見るに、相場より高かったように思われた。
「ご飯だけ? えーと、他になんか、やってもらってもいいのかなぁ?」
自分でもずいぶん親父くさい口調だなと思った。
「他に?」
「えーと、ホテルはあり?」
「いいですよ」
あっけらかんと女の子は言った。
あ、いいんだ、と思った。言ってみるもんだと思った。地方交付金のように、こちらから言い出さなかったらもらえない損するタイプのやつだと思った。
もし、こちらから言い出さなかったら、ホテルは永遠に頭上の星として輝いていたかと思うと、背筋が冷やりとした。
「でも、ホテルは、お兄さんと、もう少し仲良くなってからにしたいかも」
と女の子は言った。
「ふーむ……」
俺は熟考した。
「仲良く……か」
「うん……」
仲良くって、つまり、他人同士がホテルに行ってもおかしくないくらいの仲良しになりましょうってことだよな? そんな過程を築いたことも、そのために打ち合わせをしたこともなかったからわからなかった。
「じゃあ、カラオケ行く?」
「うん」
「カラオケ行って、そのあとホテルに行こう」
「うん」
まるで旅行プランでも立てるかのようだった。
「ホテルの場合はお小遣いいくらもらえる?」
と彼女は言った。
「二万でいい?」
「うん」
この「うん」は高いとも低いともいえない、相場だというかのような「うん」に聞こえた。
「あのさー、カップリングが成立すると、2500円とられるみたいなんだよ、成立料として。でも俺が一人で外に出ていけば、たぶん成立料とられないと思うんだよ。成立してないから。だから俺が一人で店を出たあと、5分ぐらいしたら、えーっと、名前なんだっけ?」
「きらり」
「きらりちゃん(なんだ……この名前は……?)も出てきてくれない? そうすれば成立料とられないですむから」
せこい男だと思われてしまったかと、冷や冷やしながらきらりちゃんの顔をうかがうと、上官の指示に疑いをもたない部下特有の声色で、「OK」ときらりちゃんは言った。
俺は受付に行ってナンバープレートを返すと、「2500円になります」と店員に毅然とした声で言われた。
「え? あ、あの、カップインは……」
「2500円になります」ともう一度、今度は店員はニヤニヤ笑いながら言った。
この顔は気づいている……!? なぜバレた!? 個室での会話が筒抜けだったのか? だとしたら、成立料バックれようとしていた会話を聞かれてたのか。は、恥ずかしい〜……!
こいつ、壁に耳をあてて聞いてやがったな? 俺だって、気をつけて、ヒソヒソ声でバレないように話してたのに。じゃないとバレるはずがない。本当に下品な店だぜ。
※
「今日は来てくれてありがとうね」
「がんばって」
それは、どっちの意味だろうと思った。退職後の俺のこれからの人生か、それとも……。
「今日、遠くから来てくれたのに、こんな感じで別れることになっちゃって」
「いいよ」
そう言うと、ビック山は役目を終えて引き下がっていくどこかの漫画のキャラクターのように引き下がっていった。
「じゃ!」
ビック山は池袋駅に向かって歩き出していった。なぜか、俺のとなりで、きらりちゃんもいっしょになって手を振っていた。
「ごめんね、きらりのせいで、お友達とお別れすることになっちゃって」
「さっきたまたま鉢合わせただけだから」と俺は言った。
「え、そうなの?」
フッと俺は笑って言った。
「優しいんだ、あいつ。俺がね、2年勤めた会社を退職することになって、実家に帰ることにしたんだけど、そしたら最後だからって、今日、千葉から駆けつけてくれたの」
「えー、すごーい……!」
きらりちゃんは、まるで人生において、そんな人間に一度も出会ったことがないというふうに驚いていた。
そういう出会いしかしてこなかったように思われた。この出会い喫茶のような出会いしか。縁あったとしても、一晩寝れば忘れ、三晩経てばそれ以降は永遠にその人のことを思い出さない。そういう人間特有の声をしていた。
※
池袋、6月の昼間、晴れ──
いっしょに街を歩いた感想としては、本当にオシャレで小さな子で、となりにこんな可愛い格好をした子がいるというだけで射精してしまいそうになっていた。
しかし、外を歩く姿は似合わなかった。歩く速度はナメクジのように遅く、太陽の光を浴びるとダメージを食うようで、ナメクジのようにコンクリートに溶けてしまいそうだった。先の店でガラス張りのショーケースの中で人形のように並んでいた方がずっと生命をまっとうしている姿に見えた。また地縛霊のようでもあり、店からあるていど距離が離れてしまうと、存在そのものが消滅してしまうかのように思われた。
個室での会話時から思っていたことだが、基本的に下を向いていて、ほとんどこちらの顔を見てこない。前髪で厚く目元を覆うようにしていることもあって、顔がよくわからなかった。個室での会話中、どんな顔をしているのか気になって、俺はつい、となりに座っている彼女のスカート丈まで顔位置を下げてそこから彼女の顔を覗き込むという気持ち悪いことをしてしまったが、すると、彼女も自分のスカート丈まで顔位置を下げて、互いにその位置から顔を見合うといった、コントもいい絵図になった。
とにかく顔が小さく、目、鼻、口、といったパーツも小ぶりで、どの部分にも押し付けがましいところがなく、それが凛とした空気を感じさせた。全体的になめらかで、淡く、女の子らしく、茶髪で、メイド服の私服版のようなファッションも相まって、女子高生とリスが合体した生き物のようだった。
※
彼女は歌をうたうと、信じられないほど音痴だった。まったくの地声で歌うので、歌っていてどんな爽快が得られるのか疑問だった。さっきまでふつうに話していた声と少しも変わらない声で歌うので、歌っているというより話しているという方が近かった。
たまにこの手の女の子がいる。高音を出すのを恥ずかしがっているのか、歌をうたうモードの自分を見られることを恥ずかしがっているのか(これは高学歴の女性に多く見られる)もう一つ、精神に幅がない、のっぺりとした気質から由来しているパターンもあり、たとえば、Mr.Childrenの桜井氏やB’zの稲葉氏にみられるような、あの常軌を逸した高音は、その高い精神から出ている。平凡と、のほほんとした、一律の精神様式を保った人間はまた、歌声ものっぺりしたものである。
声と精神は一致しており、高い声は高い精神領域、低い声は低い精神領域、頭の中から高い声域の場所を見つけることは、頭脳の働きが重要になってくるのだが、頭が器用でない人は、この場所の捜索ができないということもありえる。
これじゃあ何を歌っていても楽しくないだろうなと思った。本人も楽しいかどうかよくわかってなさそうだった。一応、カラオケという文化が、世間一般に楽しいと評されているから、これを進んで受けているように思われた。この場合、本然の満たされなかった部分は、どこにいくのか。人間が、そのような偽物でやり過ごせるわけがない。やり過ごせても、かならずどこかに歪みが生まれる。この手の女性たちは、いつもどこか、壊れかけのおもちゃのようで、いつどこで、その歪みがあらわれるのかわからないものだ。
金を出せば、それなりに楽しいらしい体験が手に入る。しかしそれだって無料だったら得られるかどうかはわからない。もはや、このために金が世界で必要になっているとも思えなくもない。
そう、彼女の歌声が言っているような気がした。
「うまぁーい」
俺が歌いだすと、褒めてくれた。
俺はMr.Childrenの『名もなき詩』と、尾崎豊の『Forget me not』 を高音で歌った。
「さすがに尾崎豊はしらないか」
「しらないけどいい曲だった」
「ミスチルはしってるでしょ?」
「しらない」
「しらない!? ミスチルはしってるでしょ!?」
「しらない」
その言葉に嘘はなさそうだった。
俺も25歳にして、USJをしらなかったり、Perfumeをしらなかったり、ETをしらなかったりして、「外では言わないようにした方がいいよ」と友達に深刻に注意されたことがあるくらいだが、尾崎豊はともかく、ミスチルをしらないということがありえるだろうか?
俺は小型の恐竜を見るような目つきで、さっきからもうずっと20分も30分もデンモクと格闘している少女を見た。基本的にずっと下を向いていて、こちらを見ようとしない。それは照れとは違うところからきていると思われた。こちらが声をかけないと、けっして会話は発生しない。彼女から話しかけてくることはまずなかった。
「年はいくつだっけ?」
「にじゅう」
「にじゅう、はたちか」
にじゅう、と答える人間に初めて会ったのでびっくりした。はたちが読めないなんてことはありはしないだろうが。
やっと曲を入れた。タンポポの『乙女 パスタに感動』だった。彼女らしい、ゆるふわの、ぴったりの曲だと思った。
「ここ、80歳のおじいちゃんと一緒に来たことがある」
「ここのカラオケ?」
「そう」
「80歳のおじいさんって、何を歌うの? 演歌?」
「演歌」と言って、彼女は笑った。
このとき、初めて彼女は笑顔を見せた。花がほころぶような、この空間に、もっとも偉大なものが充満したように思えた。それは知識や知性よりずっと高尚なものに思われた。
「こぶしがきいた、いい声出してた。すごく上手だった」
「そっか」
「カラオケ一緒に行っただけで、5万くれた」
「5万……」
「うん」
「老人はなんであれ、若い子にお金を渡せるタイミングがあったら、渡してやったらいいんだよ」
「うん」
社会が悪いのだと思った。彼女の方ではない。この資本主義、競争社会を勝手におしつけ、誰も彼女を正しい道に誘導することはせず、崖から突き落としたライオンの子のように、生きよ!という。
一歩でも足を踏み違えたら、搾取、搾取、搾取。どうして、ただ生きるということが、これほどまでに難しいのだろう。なぜ、誰も、彼女たちに安息の場を与えようとはしないのだろう。どうして、この、何もしらない、ミスチルも、はたちも、なにもしらない、こんな赤ん坊同然の子を、荒野に一人放っぽりだしておけるのだろう。どうか神様、もし、あなたが彼女の胸の中にお住まいなら、彼女の導き手となって、彼女を守ってあげてください。とても、可愛い子なんです。犬のようにコロッと笑うのです。それゆえ、犬のように野垂れ死んでしまいそうなのです。
「一人暮らし? 実家に住んでる?」
「ひとり」
「池袋?」
「うん」
「池袋に一人暮らし? マンション代高いっしょ?」
「11万」
「そりゃぁ……」
いったいどれだけ援交やってるんだ?
「池袋だもんね、それぐらいするよね」
おじいちゃんとセックスしたのか、聞こうと思ったけどやめた。もし、おじいちゃんの使用済みということがわかったら、老人用紙オムツが歩いているようにしか思えなくなってしまうからだ。
滞在時間は、ざっと一時間。俺は6曲歌って、彼女は2曲しか歌わなかった。彼女はものすごい難しい問題を解いているような顔でデンモクを見つめ、すべての行動が遅々としていることが、もうこの頃にはぜんぶわかったが、構わずに俺にどんどん歌ってほしそうにしていたので、俺は彼女が一回歌うたびに3回歌っていた。
「もう、仲良くなれたかな?」
と俺は親父くさいことを言った。なぜこういうときは何を言っても親父くさくなってしまうのだろう。
彼女は、「うん」と言った。
「じゃあ、ホテルいこっか」
「うん」
これまで生きてきて、いちばん嬉しい「うん」だった。
急にやってくるんだなと思った。昨日の晩は、こんなこと考えもしなかったのに。昨日の晩どころじゃない、今日でさえ、家を出てくるときでさえ……。
まるで交通事故だ。
こんな、せめて、無様な、次元の低い、低い、低い、低い次元になってしまったからには……
頼む、俺の見たこともない、信じられないキツさであってくれよ……!
俺はこのとき、バガボンド20巻26ページの、山頂で佐々木小次郎と戦っているときの巨雲のセリフを思い出していた。
『つまらぬ男だったら……取るに足らない腕だったら許さんぞ』
『定伊(さだこれ)さんを倒した貴様は俺がまだ見たこともない強さであってくれ』
というセリフは、
『つまらぬマンコだったら……締まるに足らないマンコだったら許さんぞ』
『おじいちゃんをイカしたマンコは俺がまだ見たこともないキツさであってくれ……!』
というセリフに置き換えられ、
巨雲はけっきょく佐々木小次郎に敗れたけど、俺はぜったいに佐々木小次郎に勝つ! と心に決めたのだった。