「どうですか、あれから」
「うーん、悪くないよ」
2年ぶりに会った春日部さんは、老眼が始まったとのことで、老眼鏡をかけてやってきた。
春日部さんは職場にくるときは、あるいは、一度か二度、プライベートで遊んだことがあったのだが、それらの時には、きまって、でかいバックパックを背負ってやってくるのだが、このときはポケットに財布とスマホだけをつっこんで、近所にちい散歩をするような体でやってきたので、心なしか、こちらも身軽な気分になった。まるで、背中はすべて妻に任せてある、と言っているようだった。
カウンター越しにいる亭主らしき人物が、熱心に焼き鳥を焼いていた。どうやらこの店はふつうの焼き鳥屋と天地の差があるらしかった、半年前でないと予約は取れないとされ、通にいわせると、都道府県で3本の串に入るほどの名店らしかった。店内を見回すと、待ちに待って、半年前に予約した日からきょうの日まで、他のことは何も考えられなかったというような客の顔であふれかえっていた。店構え自体はふつうで、一般的な居酒屋兼焼き鳥屋と比べてそれほど遜色はないが、芸能人のサインや写真がたくさん飾られていた。
カウンター越しに亭主の焼いている姿を間近で見られる店内設計になっており、亭主はほとんど焼き場から一歩も動かず、何やら鬼気迫るような、並々ならぬ、重々しい、自身の命と引き換えるミツバチのような顔をしながら、鳥を焼いていた。
亭主は、火中の栗に手を突っ込むような動きを見せ、ほとんど炎と指が接触していた。爪先は真っ黒に焦げあがっていて、細胞はとっくに壊死しているように見えた。いったい何十年前からこの苦行を続けているのか、消し炭のようになった指先の上にさらに何十にも油絵を重ねるように炎をかさねてきたのだろう。この指を見て、小生は彼の焼く焼き鳥を食べてみたくなった。そう思ったのは小生だけでないようで、客たち全員が、これだけの犠牲をはらって焼かれる焼き鳥はさぞうまいに違いないと思ったようだった。しかし、その見慣れぬ、あまりに痛ましい光景は正視に耐えず、「あ、いたぁ……」「アッツ……」「うわぁ……」と、神経が壊死していて痛みを感じない亭主の代わりに、客たちが痛ましい声をあげた。
そして、最終的には、客たちの表情は変わっていき、客たちは、我々ができる最大の報いとは、彼の焼く焼き鳥をおいしく食べることに違いないという意見に満票一致で可決されたようだった。重々しい、重厚な、それが心意気だといわんばかりの、まっすぐに亭主に顔を向け、姿勢を整え、襟を正し、紙エプロンの着付けをして、いまかいまかと自分のテーブルに置かれるそのときを待ち焦がれる我々の方こそ全身が真っ黒に焦げてしまいそうだった。
亭主の年は70歳くらい。もう引退していてもよさそうものなのに、これくらいの人気店ならば、老後の貯金も十分に溜まっているように思われるが、いったい何が彼をそうさせるのか。亭主の妻だか娘らしい、女方2名が、彼の手足となって働いていた。この手の亭主のもとで働く女方というのは、その亭主の細胞を譲り受けたような、彼の発する汗の分身体となって働くものだ。まるで三匹のミツバチが一射絶命の針を突くような手合いで働いていた。亭主が亭主なら、女方も女方である。毒を喰らわば皿まで。わたしどもがあなたの失った爪先となり、どこまでもご一緒いたしますという覚悟を顔に浮かべていた。じっさい焼き場から一歩も動こうとしない亭主の汗が滴り落ちるタイミングさえわかっているようで、亭主のハチマキが汗で滲んでくると、それを新しいハチマキに取り替えるといった所作を、妻だと思われる女方がやっていた。
「すごい手だね……」
と春日部さんは言った。
「これはトングじゃダメなんでしょうか? そのためにトングがあるんじゃないでしょうか?」と、小生は亭主の覚悟を軽んじるような色気のないことを言った。
「たぶん、微妙な焼き加減だとか、そういった微妙な加減が、素手じゃないとわからないんだろうね」と、春日部さんはエアーで真似するように、クイクイと自分の指を動かせながら言った。
「んなバカな」と小生は言った。「焼き加減って、その焼き加減が10秒や20秒変わるだけで、そんなに味が変わりますかねぇ? タレとかの方が味に直結しなくないですか?」
「いや、蕎麦だってそうじゃない? 蕎麦だって、練ったり、叩いたり、ああいった工程のなかで、“コシ”がうまれるわけで、いかにこねたり、叩くかなんだよ。俺もそばの名店をたくさんまわってきたけど、叩きすぎて、背中が丸まってもう元に戻らないほど変形している職人さんがいてね、そういう人が作る蕎麦の味はぜんぜん違った。本物の味だったよ」と春日部さんは言った。
なるほど、だからここに連れてきたのか。
たくさん旅行して、あちこち美食をしてきた人は言うことが違うなと思った。食通もいきすぎると、指先が焦げてるとか、背中が曲がってるとか、そこで店の良し悪しを決めてるんじゃないかと思った。
「じっさい、トイレに立たれたらどうするんですか? トイレに行って戻ってくる頃には、2分や3分経っちゃいますよ。10秒や20秒の焼き加減でそんなに味が変わることを気にするんだったら、それこそ、トイレに行かれたら、もう終わりじゃないですか」
「それこそ、そのせいで味が悪くなってしまったら、それは自分のせいだって、客たちの方が自分に責任をおくでしょうよ。半年前から予約を取って来てるんだから、そんなポカするとは思えないけど」
「せめて、グローブつけてもよくないですか? グローブの先に、対炎防止用のなんらかのプラスチック素材をつけたり、じゃないと、手が……」
「……」
春日部さんも、黙って、遠く、複雑そうな顔をしながら亭主の手を見ていた。とくに、我々マッサージ師からすると、自分の指先が黒炭となって朽ち果てていくさまを思うと、よくない想像をさせられるものである。
「俺にはやっぱり、トングを使うとので、その差にあらわれるほどの味の差が、どうしても、あらわれるように思えないんですが」
「それは食べてみてから考えようよ」
けっきょく食べなきゃわかんねーのかよ、本当に食通かよ。
「いったって焼き鳥なんだから。鳥を焼いてるだけなんだから、そんなに味なんて変わりますかね? よっぽどいい鳥を仕入れてくれば変わるかもしれないけど」
「いや、あれはそうとういい肉を使ってるよ」
腕利の肉ハンターが獲物を見定めるような目つきでショーケースの中の肉を見て、老眼鏡を光らせながら春日部さんは言った。
「名古屋チンコーというやつですか」
「コーチンね」
「最高級松風地どりの松風地鶏だから」
もも、ねぎま、かわ、砂肝、レバー、つくね、ささみ、むね、手羽先、なんこつ、ハツ……12本フルコースで2500円。犠牲に釣り合っている値段設定なのかよくわからなかったが、とりあえず、小生と春日部さんはフルコースを一つづつ頼んだ。
「今は、訪問リハビリの仕事しているんでしたっけ?」
「そうだね」
「週5なんて、春日部さんにできるんですか?」
「はは、やっぱり身体はちょっと堪えるね。最初の2ヶ月くらいはきつかったけど、今はだいぶ慣れてきたよ」
「今は、結婚されて、彼女と二人暮らしなんですか?」
「デカい犬が一匹いるよ、彼女が連れてきたやつ」
「じゃあ、けっこう高い家を借りて住んでるんですかね?」
「11万だね。防音の、ペット可の物件だから、やっぱり高いよ。まぁ、うちの奥さんは、老健の看護師長をやってるから、給料の方はけっこう良くて、家賃補助もあるんだけど」
「へぇ、よかったじゃないすか」
春日部さんはビールに口つけた。「しまるこ君は飲まないんだっけ?」
「ああ、俺はいいっす。水で」
「あぁ〜……」と、ビールをごきゅごきゅと喉におくると、春日部さんは風呂に浸かるときの第一声のような声を出した。「いいねぇ……」性感帯マッサージ屋にやってきて性腺を刺激されたような色めき立った声だった。
「ゲームの時間はとれてますか?」
まるで受験生に勉強の時間はとれているか確認するように小生は聞いた。
「だんだん短くなってきてるね」
「どういうことですか?」
「結婚初期の方は、二時間ぐらいまでだったら見逃してくれてたんだけど、今は一時間以上はできないね。一時間以上やると、彼女の機嫌が悪くなってくるのがわかるから」
「はぁ、そういうもんですか」
あの自由の女神にペニスが生えたような彼でも、掲げているたいまつ(ゲーム)の火(電源)が消されてしまうということがありえるのか。
「べつに、そこでゲームをやめたとしても、その時間の代わりになにをするわけでもないし、手持ち無沙汰の時間になるだけなんだけどね」と言って春日部さんは笑った。「まぁ、その方が少しだけ彼女の方が話しかけやすくなるみたいで、俺はその時間は何もしないでソファに座ってるようにしてる」
「完全に犬がもう一匹いるようなもんじゃないですか」
「ははは」と春日部さんは笑った。
「今、どうですか? 幸せですか?」
「うーん、たぶん、まあまあ幸せだよ」
「幸せって、まあまあってことがあるんですね」
「子供は作れないってことはもう決定しているから、それについて考えなくていいことは気楽ではあるよね」
「いま、春日部さんが48歳で、奥さんは41歳でしたっけ? それだったら、もう、お互いの自由時間を満喫する感じで、余生を過ごすっていうか。いや、新婚かもしれないけど、春日部さんたちの場合は、そういうスタイルでも良さそうな気がするけどなぁ? だって、子供もいないし、べつに週5で働かなくても良さそうな気がするけど。ゲームも、もう少しやらしてもらってもいい気がするけど。少なくとも、2時間はやってもいいと思います」
「一時間だとさぁ、けっこうダンジョン潜るにも判断が必要になってくるっていうか。階層が深いダンジョンになってくると、入っていけないんだよねぇ。帰ってくる時間も考えなきゃいけないでしょ? ストーリーの進行に必要な深いダンジョンに入っていけないから、ストーリーが進まないんだよ」
「それは」と小生は驚きながら言った。「ゲームとしての体裁が保たれてないじゃないですか。小説でいったら、先のページを読み進められないのといっしょじゃないですか」
「なんのためのゲームかわからないよ」
「途中の雑魚を全逃げしてボスまで突っ込む感じで間に合わないすかね?」
「それじゃボスに負けるよ」と春日部さんは笑いながら言った。「RPGはなかなかやれないね。ストーリー性のない、アクションゲームばかりやるようにしてるよ」
「それはぜったい良くないですよ。間違ってますよ」
「しまるこ君も結婚すればわかるよ」
「……」
春日部さんの奥さんのような女性は、まちがっても小生のような男を夫には選ばない。それは彼女たちの本能でわかってしまうのだ。けっしてこの天性の野良犬のような男は手懐けられるものではないと。じじつ、小生が春日部さんの立場にあったら、ストーリー性のあるゲームを一時間といわず、二時間でも三時間でもプレイしてやるだろう。ガンダムオペレーションもやってやるだろう。画面の外でガンダムのような宇宙規模の戦争が始まってしまうとしても。
しかし、この感情はなんだろう……? 小生は胸にざわりとした手触りのよくない感情を覚えた。逆に、初めから、あなたはアウトオブ眼中という体で、見向きもされないとなると、悔しくなって結婚してしまいたくなってしまうこの感情は。
※
「いやぁ! めっちゃうまいね! なんだこれ!」
春日部さんは椅子から立ち上がりそうな勢いで言った。
「そうっすか?」
「いや、うまいよ! めちゃくちゃうまい! こんなうまい焼き鳥初めて食べたよ!」
ほとんど絶叫に近い声をあげる春日部さんを見て、なぜ彼が美味しんぼのキャストに抜擢されなかったのか不思議に思った。永谷園のお茶漬けのCMといい、彼以上の適役などいるはずないと思った。
それは皿というより、マーブル模様の大理石かレンガかわからない一個の石の上に、大家族のように仲良く並んだ鳥たちの死骸が、焼かれた後とは思えないほどみずみずしく、火炙りの刑によっていい塩梅に落とされた脂肪分が、せいぜいプールサイドで濡れた髪をちらつかせているいい女ぐらいの濡れ具合でとどまっており、天井から吊るされたオレンジ色のシーリングライトがステージ上のアイドルを照らすようにさながらキラキラと輝いてみせていた。串は本竹をそのまま削りとったようにサイズは大小バラバラで、黄色がかったり、白かったり、色もまだらだったが、それがかえってどこぞの誰かがCMをカットして並べたブルーレイ棚のように、完全な様式美を保っているように見えた。
「いやすごいよ!」
「うーん……」
「確かに、うま」
「なんだこりゃ」
「やだ……」
「こりゃちょっとした事件だ」
「…………」
客たちが一様に騒ぎ出していた。
「店長、こんなの食べたら、もう他の焼き鳥食べられないよ」と一人の客が亭主に向かって言った。
どうやら感嘆しているのは春日部さんだけではないようで、客たちは焼き鳥をスマホカメラで撮ったり、串を手にもって食い入るように見つめたり、さまざまに様子を見せた。
「スーパーの焼き鳥とは違いますね」と小生は言った。
「いやぜんぜん違うよ! まったく比べものにならない!」
ゲームを封じられていた時間と味覚の神経叢はつながっているのか。ゲームを封じられていた時間がおいしいと言っているようにしか聞こえなかった。あるいは犬のようにドッグフードしか食べていなかった舌が尻尾を振っているのか。
「俺、ハツが好きなんだ」
「じゃあ俺のハツあげますよ」
「本当に!? いいの!?」
春日部さんは嘘のように喜んだ。小さい頃、発売日のゲームを手にした時も、きっとこんな顔を浮かべたに違いなかった。
「奥さんに写真送ってやるかな」と言って、春日部さんはうきうきしながらポケットからスマホを取り出した。このとき、これがのちに恐ろしい事態を引き起こすことになろうとは、小生も春日部さんも予想だにしなかった。
「しまるこ君の方はどうなの?」
「ん?」
「出会い系はやってるの?」
「いやぁ、さぁ」
「さぁって」
「どうだったかなぁ」
「やってるかどうかぐらいはわかるでしょ」
「さぁ、よくわかんないです」と言って、小生は笑った。
「……」
「うーん、ぜんぜんわからなくて……」
「女性と会ったりはしてるの?」
「どうだったかなぁ、それもよくわかんないです(笑)」と言って小生は笑った。
春日部さんは付き合いきれないといった調子で、串を手にとってかぶりつこうとした。
「あれぇ〜? ここどこだろう? それもよくわかんないや(笑)」と小生が笑って言うと、その瞬間、春日部さんのスマホが鳴った。
「ほう、ドラクエ4の戦闘の音楽ですか」
「それはわかるんだ」と春日部さんは小気味のいいツッコミをくれた。
小生はドラクエのナンバリング作品はどれも3週以上やっているから、すぐにわかった。
「なんだろう、奥さんからだ」
「バカなもんですよ。男も、女も」と小生はケラケラ笑った。
「ふつうの焼き鳥のそれじゃないじゃない!」
「……」
「そんなにおいしいものを食べてるなんてどういうこと!?」
電話越しの罵声は、こちらにも聞こえてきた。
「……」
「他に女がいるんでしょ! 男と一緒に食べに行く食べ物じゃない!」
「ちょっと待ってよ、これは違うんだってば、そうじゃないんだってば、これは、しまるこ君って言って。前にも話したことあったでしょ? しまるこ君はいわば俺たちを引き合わせたキューピット役でもあるんだよ。彼に勧められてアプリをやって、君と知り合ったんだから」
「うちのお母さんが今、危篤状態ってわかってて言ってるの?」
「それとこれとは関係ないじゃない」
「どうして、今、高級焼き鳥を食べる心境でいられるの?」
「だから、2年ぶりに会うし、久しぶりということもあって、こういう機会でもないと、ここに食べにくることはないなと思って。それは、今日家を出るときに言っておいたじゃない」
「こんな高級焼き鳥を食べにいくなんて聞いてない! ふつうの焼き鳥屋でいいじゃない! 私だって、そんなところ連れていってもらったことがないのに!」
「それは、君は糖尿病で、そういったものを食べれないんだから仕方ないでしょ。それに、君となら、新婚旅行で、あちこち行って、おいしいもの食べたじゃない」
「じゃあ、私は新婚旅行からもどったら、あとはずっとまずいものをたべてろっていうの? あなたはこれからもお友達とおいしいものを食べて!?」
「じゃあ、お土産に買っていくよ」
「冷めた焼き鳥なんていらないわよ!」
「じゃあ、どうしたらいいの」
「夫婦でしょう!? 私たち、楽しみも、苦しみも、ぜんぶ一緒に分かち合っていくものでしょう!?」
小生は、ひとり焼き鳥を食べた。楽しみも、苦しみも、一緒に口の中に入ってくるような味だった。
客たちの様子を見ると、火の鳥とはまさにこのことだったのかと言わんばかりに、口の中にそれを生け鳥にしようとしていた。
まるで地を這う蛇が、空飛ぶ鳥を捕食するかのような、生々しい、ミドガルズオルムやヨルムンガルドが、春日部さんが禁止されたゲームのなかから飛び出してきて、暴れ出して食い散らかしているようだった。炎を得てさらに不死鳥となって蘇ったそれは、食べられるそばから再生し、大蛇の口元から羽が生え出しているようだった。
ただ、小生としては、やはり、これはどうにかトングを使ったとしても出せない味だろうか、と、しばし考えさせられた。もしこの舌つづみをうつ客たちでさえ、トングを使って焼かれたものを出されたとして、その違いに気づけたものが一人としてあるだろうか、それを確かめるべく、小生は、注意深く、一口ひとくち、全神経を働かせて食べてみたが、けっきょくわからずじまいだった。
電話を切った春日部さんは、うかない顔をしていて、心ここにあらずといったふうだった。
春日部さんの方こそ、今、どこで、誰と会っているのか、わかってなさそうだった。
「今日はガンダムオペレーションできそうにないっすね」と小生は言った。
「そうだね」と春日部さんは言うと、運ばれてきた焼き鳥が故郷の巣を思いだすかのような遠い顔を浮かべ、「家にガンダムはいるけど」
小生は次の言葉を待った。
「とてもオペレーションできそうにはないよ」と言って、大好物のハツに手をつけた。しかし、ハツはすでに冷めきってしまっていた。