45歳で出会い系を始めた春日部さん。
さいきん引退したイチローも45歳、GACKTも45歳、45歳というのは、一つの役割を築き上げて、終わっていくには、十分な年のようである。
しかし春日部さんの役割はこれからだった。
45歳の春日部さんは出会い系をやり出した。小生の勧めである。春日部さんは3ヶ月もしないうちに彼女ができてしまった。春日部さんより12個若い小生が、いくら出会い系をやっても彼女ができないというのに、なんてことだろう。勧めた方が彼女ができないというほど笑い話はない。
春日部さんの彼女は、39歳の看護師で、介護施設に勤めている。彼女は重度の2型糖尿病を患い、身長は160cmで体重は100キロ以上あるそうで、乳がんも併発しており、もうすぐ乳房の切除手術予定らしい。
付き合って1年経つらしかった。 2人はどんなデートをしているかと言うと、春日部さんは温泉旅館だったり、海岸線のドライブだったり、45歳と39歳らしいデートを提案するのだが、彼女の方はラブホしか受け付けないという。
理由はよくわからないが、デートはラブホで行われるらしい。ラブホの中でやることといえば一つしかないが、話を聞くと普通のそれとは違った。ただ二人で全裸で抱きついたまま1日を過ごすらしい。行為に及ぶことはなく、8時間も9時間も、朝から夕方まで生まれたままの姿で抱き合っているらしい。ホテル内の置物になってしまったかのように、ずっと静止しているらしい。週に2回デートをするらしいが、毎回決まってこのコースだという。
39歳となると、まともにデートする気力がなくなるのか? いや39歳に限った話ではない。ペアーズの女のプロフィールを見ていると、その多くに「一緒に添い寝したい」「寂しい夜は抱きついたまま眠りたい」「ハグされたい」といったハッシュタグが付いており、日夜労働で消耗し、今を生きる女子たちの汗と涙とファンデーションで汚れた毛穴と心は、浅黒い男の腕の中に永遠の眠りを求めていることがわかる。
「こんな39歳の、何重苦かもわからない、病気が服を着て歩いてるような女なんて捨てちゃっていいんだよ? 春日部くんは優しいから振れないんでしょ? ふふ、いいよ。私から振ってあげる。今まで素敵な思い出をありがとう……」と、毎回デートの終わりになると必ずこれを言われるらしい。
デート終わりは春日部さんが彼女を家に送り届けるらしいが、家に送り届けると、今度は彼女が春日部さんを家まで送ろうとするらしい。「それじゃあお互い一生家に着かないから」と何度いっても聞かず、必ず春日部さんの家まで付いてくるらしい。
彼女は料理がとても下手らしく、彼女の作ったカルボナーラを春日部さんが口に運ぼうとしたら、カルボナーラのすべてが持ち上がったという。「ぜんぶついてきた」と春日部さんは小生に話した。片栗粉をつかったのか、麺がひとつも分離されていなかったらしい。
春日部さんは非常に禿げていて、ほとんど波平と同じ髪型をしている。波平と唯一違うのは、残った数本さえ白髪だということだ。いつも小学生が着るようなアジアン系の英字Tシャツを着ていて、ゲームが大好きで、通勤中はドラクエ2のサントラを聴いて電車に乗っている。最近では週に5日が休みという恵まれた環境を活かし、複雑なやり込みが強いられる「ガンダムオペレーション」というゲームをプレイしている。
バラエティー番組を録画するのが好きで、休みの日は撮り溜めておいた番組のCMをカットして、一秒足りとも無駄のない完全無欠な状態に仕上げるのが好きらしい。それをブルーレイに焼いて棚に並べ、「あ〜わ行」まで均整がとれたDISC棚を眺めて過ごすのが最高の楽しみらしい。
その作業は丸一日かかるらしいが、なんと、それを見返すことはないらしい。ただ完全無欠な様式美を誇ったブルーレイディスク棚を見ることが楽しみでやっているらしい。
春日部さんは通所介護施設で機能訓練指導員として働いている。一日に15人ぐらいマッサージをするが、春日部さんは決して手を抜かない。「痛くないですか、大丈夫ですか?」と積極的に患者さんに声をかける。一つ触る度に一つ声をかける。汗が流れ出て、いつも服の上半分だけ濃いグレーになっている。びちゃびちゃの手で触られるのは患者さんにとって不快に違いなかったが、嫌悪を顕にする者はいなかった。
小生の方はというと、「ずっと壁を見ている」「いつまでも同じ箇所を揉んでいる」「壁を見たままずっと同じ箇所を揉んでいる」「トイレに行ったまま戻ってこない」とクレームばかりで、春日部さんを見習いなさいとよく怒られた。
春日部さんはなぜかわからないが、週に2日しか働かない人だった。
実家暮らしで、趣味はゲームぐらいなので、金に困っている様子はなかった。たまに2週間のイタリア旅行に行ってお土産をくれたりした。週に2日働くだけで楽しく生きていけるのだと夢を見させてくれた。
「どうして週に2日しか働かないんですか?」と聞いたら、「起業の準備中」と返ってきた。25歳からマッサージの仕事をやっているといってたから、もう20年準備していることになる。まだ準備はかかるんだろうか? ブルーレイディスクの棚も、ガンダムオペレーションも、準備に関係あるのだろうか?
重度2型糖尿病。乳がん。体重100キロ。袋麺カルボナーラも作れない。デートはラブホで乗っかられるだけ。デート終わりには必ずニッコリ微笑みながら、「春日部、今までありがとう、幸せになってね」と言われる。これから入院して集中治療予定。抗がん剤やらで相当な費用がかかる見込み。貯金なし。
春日部さんも不良債権だといっていた。「本当にデカイからキングボンビーみたいだよ?」と笑いながら話すので、小生も笑ってしまった。ゲームが大好きな春日部さんらしい表現だ。
「彼女のことは好きだと思う。一緒にいてこれほど居心地がいい人はいない。あまりにもデカイから、少し痩せてくれない? と言っちゃったことがあるんだけど、だいぶ泣かれたよ。もう二度と体型の話はしないと決めた。好きとか愛してるかとかよくわからないけど、一緒にいて居心地がいいよ。居心地がいいから一緒にいるんだと思う。俺も45歳でこんなんだから、他に付き合えるわけじゃないしね。妥協といえば妥協かな。うん……妥協……」
春日部さんは駅のホームで遠くを見つめながら、消え入りそうな声で、その言葉を繰り返した。
「彼女はこれから闘病生活に入るから、この先も付き合っていくか別れるか、もう決めなきゃいけない。今は彼女といるのが心地いいから一緒にいるけど、これからも一緒にいることは自動的に結婚を意味すると思う。もう、ただ一緒にいることはできない。迷ってるんだよなぁ……。こういうことは迷って当然なのか、迷うくらいならするべきじゃないのか」
まさかこんな不良債権にここまで真剣に考える人がいることに驚いてしまった。世界の創造主「無」なる黒い影が、指揮棒を振って世界の調和を律している映像が浮かんだ。
「妥協……」と春日部さんは言ったけど、ペアーズの女性にはまだ数段階上がいる。
小生は意を決して聞いてみた。
「死ぬかもしれないんですよね?」
「うん。このままじゃ本当にやばいかもしれない。だから運動してほしいって言ったんだけど、『じゃあ細い子と付き合えばいいじゃない!』って取り乱して泣いちゃうんだよ。見た目のことを言ってるわけじゃないんだけど、そう受け取られちゃうの。食事や運動の話だけはダメなんだよ。本人が何度も失敗してきてトラウマになってる。命に関わるから言ってるんだけど、取り乱しちゃうから、何も言えないんだよ」
「結婚するとなると、生きててもらわなきゃ困りますしね」
「そうなんだよ。俺、医療職なのに何もできない。知識があっても何も言えない」
「春日部さん……」
「彼女も医療職なんだけどね」
怖いので言えない。いちばんの問題はそこにあるらしかった。今言えないなら結婚したって言えない。でも居心地はいい。しかしそれも妥協だと言う。春日部さんは自分でももうよくわからなくなって、ブルーレイをカットして棚に並べ続けてしまうという。
春日部さんの友達は、『毎週GWがなくなっちゃうじゃん』『子供できるの? できたらもっと大変になりそうだけど』『体重100キロってがんばってもそこまで太れないよ』『お前のガンダムオペレーションやってる日々、羨ましかったけどなぁ〜』と、全員が全員、制止したという。
小生も友達にこの話をしたら、「悩むだけ凄いね」と友達は言った。
「悩むだけ凄い」か。確かにそうなのだが、小生はこの問題を考えたとき、ある一つの思案が離れなかった。
二人が一年以上一緒にいる、ということだ。週2回。ラブホで9時間100キロに乗られる。それを一年以上。正直、この彼女と一年一緒にいられるのはすごいことだ。社会人で週に2回会うというのもすごい(春日部さんが週休5日ということを考慮しても?)。しかも会ったら会ったで、ラブホで9時間、乗っかられるだけである。それを毎週二回、9時間。それを一年以上やり続けた。春日部さん以外にこれを為せる人が、この世にいるだろうか?
春日部さん本人も大して嫌がっているようにも見えない。居心地がいいとさえ言っている。妥協とも言ってるけど、この一件を苦とすることなく受け入れられてしまうことに、すべての答えがあるような気がする。
春日部さんはモテる。波平みたいな髪型をしているがモテる。出会い系では全然らしいが、職場ではその勤勉な仕事ぶりや、全身から愛のオーラが溢れていて、誰もが春日部さんといると幸せになり、長く話していたくなる。20歳の介護職の女の子や、35歳のキャバ嬢くずれや、50歳のパートのおばさんたちも、そして男職員も、みんな春日部さんが好きだ。とくに20歳の介護職の女の子は本気で春日部さんに恋していて、春日部さんが来ない日は(ほとんど来ない日なのだが)、今日は何の楽しみのない一日が決定したという表情をしてから仕事に向かう。
小生は、春日部さんがなぜこの20歳の子と付き合わないのか不思議だった。この子は仕事もできないし可愛くもないし金もなさそうだが、若くて何一つ病気のない身体をしている。体重も45キロくらいだと思われる。春日部さんもこの子の気持ちに気づいていた。気づいていながらも、今の彼女と付き合うのは、今の彼女の方がいいということだ。この子は、若くてスタイリッシュで、今売られているいちばん高価なスマホを持っている小生に対しては冷たく、小生にマッサージされる患者さんが可哀想という目で見ながら、無言でカルテを渡してくる。小生と春日部さんのシフトが反対だったらみんな幸せになれるのになぁ〜、という顔で血圧計を渡してくる。
この子が小生を選ばないように、春日部さんがこの子を選ばないように、誰もが春日部さんの彼女を選ばないように、ダメなものはいつもはっきりしている。いいものはいいのか。妥協は妥協なのか。それもすべて「無」なる調律者によって奏でられているのか。