女性研究 恋愛

女はパクリ魔

ある友人が言ってくれた二つの言葉が胸に響いている。

「でも、最後は聖典の言葉ではなくて、あなたの本心の方を信じてください」

「しまるこブログがオワコン? 上等じゃないですか!」

これまで、このブログでは、たくさんのことを書いてきた。しかし、けっきょく、友人がくれた言葉のように、自分の芯から出た言葉以外は他者には響かないようだ。少なくとも、後になって思い出されることもないだろう。この場合、他者から見た景色のほうが正確だったりする。書き手は、書いているそばから、自分で落とし穴にはまっていってしまうおそれがあるが、その点、読者はいつも見晴らしのいい大地に立っているから一目瞭然であるからだ。

最近になって、文章を書くことは、自分の言葉を探すことだとわかった。この何者かに変えようとしてくる社会で、自分であり続けること、それだけが偉大な行為であり、悟りなのだ。人は生まれつき神であり、他者に影響されない自分こそが神にほかならない。

センスがいいだけに、いろいろ表現には心を砕いてきたが、そのセンスとやらがどうやら落とし穴につながっているらしい。

「音感がいいとか悪いとか、そんなことはどうでもいい。大体、画才があるやつにロクな絵描きはいないんだから。センスなんかに頼るから駄目なんだ」岡本太郎

「創造の最大の敵は『良い』センスだ」ピカソ

「私の芸術の中心は、私の脳髄の中にあるので、よそにはない。私が強いのは、他の人々にまどわされず、自分の中にあるものを創造しているからなのだ」ゴーギャン

「頭の中にある観念を表現することだけにつとめなければなりません。こうした手段だけが、すぐれたものであり、真実のものなのです」ゴーギャン

「ほんとうの自分の力だけで創造する、つまり、できあいのものにたよるのではなく、引き出してこなければならないものは、じつは自分自身の精神そのものなのです」岡本太郎

「おのれをのりこえるということは、極端におのれ自身になりきること以外にはありません」岡本太郎

文章を書いていると、そこには無数の恐ろしい罠が待ち受けていて、脳の限界容量、持続領域、息が続かなくなってくると、その変節点に他人の考えで埋めようとしてしまう働きがある。

これは、原理として知っていれば回避できる。これは、頭の良し悪しよりも、知っているか知っていないかの差である。これを知らないと、どれだけ自分の頭で考えられる力を持っている人でも、気づかないうちに、他人の落とし穴におちてしまうことがある。知っていれば、今、これは自分のナチュラルの部分から出てきた考えではないと区別することができる。自分が落とし穴におちたという感覚に気づいていれば救いはある。他人は引っ張り上げることはできないが、自分でまた陸に上ることができる。

しかし、たいていの場合、それに気づかないままおしゃべりをやめない場合が多い。その穴に落ちる原因はいくらでもある。これは、人間精神のいちばん真面目な部分からきていることが多いから、タチが悪く、他人もあまり咎めることができない。

昨今は、本を読まなくなったと言われて久しいが、読む人は読んでいる。YouTubeでは本の要約チャンネルなんかは流行っているし、いつの時代も知性を求めてやまない人は少なくないものだ。

本の言っていることはおおかた正しい。正しいけれども、そのとき、その瞬間に、ピッタリ合う言葉が書かれている本は一つもない。もしそんな本があるとすれば、自身の胸中にある本だけだ。

すべての物事は、第一人者というものがあって、次に出てくる人は、それを元にして書いていくから、味が薄味になる。3番手、4番手となるごとにどんどん薄味になっていく。そのため、昔にいけばいくほど濃い味になる。その証拠に、古代ギリシャの賢人や、ホメロスなどを読むと、信じられないほど濃いエッセンスが凝縮されている。

われわれの時代のつい最近の文化でさえ、そういうものだ。この短い時間、漫画一つをとっても、ドラゴンボールから、まねっこ、まねっこ、まねっこ。今、ジャンプも、変なエロ漫画の卵みたいなものが雁首を並べて連載している。古いほうにいけばいくほど、たいてい、新しくなる。

ゲームもそうである。ドラクエもF Fも見るに耐えない。

このことがそのまま恋愛にもあてはまっている。

自分が、最初にピンときた異性ではなくて、他人がいいと言っている人、世間一般にいいと言われている人、じっさいは個ではなくて社会と付き合って結婚していることが多い。

単純に話していて、友達のように居心地がよかったり、風に運ばれるようにテンポがいいという理由で結婚してしまうこともある。

アンガールズはキモカワイイ、荒川静香はクールビューティー、クマムシはあったかい。みんながそう言っているから、そう見えてくる。それが恋愛にも持ちこまれている。異性を好きになる感覚すら、借り物からきているのだ。

シンボル。シンボルが歩いているようなものだ。

ほとんど女性というのは同じ顔をしている。同じ格好をしている。同じ頭をしている。

女は個性という点において、男に比べてずっと弱い。これは脳の解剖学的器質、染色体的要素、同列意識の生活環境からきているだろう。

その脱皮をはかった、派手なファッション、奇抜なファッションといわれるものほど、他人の影響を受けている。

そんな彼女たち女性に好かれたいがために、男たちもバカになっている。彼女たちの気を引くためにバカなふりをしているうちに、本当にバカになってしまう。ボケ老人が家族に怒られてボケたフリをしてごまかしているうちに、本当にボケてしまうように。

いつも電話している友人が、こんなことを言っていた。

「俺、この世界に女がいなかったら、何もやる気を出してないと思う。たぶん女がいなかったら、今の仕事をがんばってないし、とっくにやめてると思う。べつに職場に気になる女がいるわけじゃないよ。それとは関係なく、モテたいとか付き合いたいとか結婚したいとかとは別でね。女がいるだけでやろうって思える。女がいなかったら、夢や理想も追いかけないと思う。いくら好きなことがあっても、それが自分の人生をかけるに値する立派なものだとしても、女がいなかったらやらないと思う。娯楽も、いつもダラダラしながら見ているAmazonプライムの映画も見なくなると思う。それとは別に、女が登場しない映画は見ないと思う」

皆さんはおそらく、この地上において、男女のお付き合いや結婚は、個と個のあいだにしかないと思っているだろうが、それはちょっと違う。事実、私たちは、この世界でたった一人の異性をえらんで、結婚して離婚することに終始していると思われがちだけれども、全体としての、恋愛、結婚、というものがある。

「偉大になろうとする者たちは、女性がそばにいることによって、彼ら自身が欲していた偉大なる道筋をはっきりとつかまえることができるようになる。というのも、女性がその全存在をもってして何か本能的なモラルのようなものを男たちに示唆してくれるからだ」ニ-チェ

「偉大な男の背後には必ず、その男を愛してくれる女がいた。「愛する女がかなえてくれるレベルより、もっと偉大になんか男はなれない」という言葉には、多くの真理が含まれている」ピカソ

上の偉人らの言葉のとおり、女の全存在が、男に対して、何か、本能的なものをうったえてくるため、男はいつも女の目を気にせずにはいられない。

それは、個と個の男と女のあいだに限ったことではない。

たとえば、現在はびこっている嘘みたいなサービスも、女の目を気にしすぎるところからきている。ありもしない女の目を気にして、女性専用ラーメンとか、女性専用列車とか、女性専用総理大臣だとか、プリクラとか、タピオカとか、ぴえんとか、インスタとか、女性の支持を得ようとして嘘みたいなサービスがはびこっている。サービスが、どんどん陳腐化して、偏差値が下がってきているのは、男が女の目を気にしてへんなものを作るからである。

そして、そうされて、女が喜んでいるかというと、大して喜んではいない。女性専用ラーメンとか、女性専用フィットネスとかいわれても、ふーん、アタイのこと気にしてくれてんだ、じゃあ、一応、のっかってみるけどと言って、たまたま外を歩いていたら、どうぞどうぞと低姿勢の男がうやうやしく赤い絨毯を敷いてくれるから、足をのせてみるけど、むずがゆい感じがするだけである。じゃあ、女が何を望んでいるかと言ったら、女自身もわかっていない。とうぜん男もわかっていない。

これは女心がわからないほとんど童貞に近いハゲ議員が女の機嫌をうかがって立案した政策であり、ちゃんと打ち解けていない間柄なのに、こういうことをするから、溝を埋めているようで広がっていってしまっている。単純に弱い立場にいるものに手を差し伸べる行為は、なんとなく綺麗事のようにうつるから、議会でも賛同を得やすく、すぐに可決されるが、事実は、忙しいお父さんが子供と一緒に遊ぶかわりにSwitchを与えておくような雑な政策である。

これまで虐げてきたから、今度は逆に優しくなり過ぎてしまう。塩梅がわからないのだ。ちょうど、パワハラをチクられた学校教師が、次の授業のときに気持ち悪いくらいに優しくなるのと同じであり、これまで花に水やりをしなかったのを、今度はあげすぎて枯らしてしまうと言い換えることもできる。

男は、女を喜ばせるのが好きだ。しかし、その実態は、不安からきていることが多い。一家庭においても、夫は妻の機嫌をいつも気にしてやまないものだし、妻の機嫌を取ろうとしていつも失敗している。でも妻は自分の言いたいことを言わずに、とりあえず亭主の用意してきたプレゼントとやらを気味が悪いと思いながら受け取っている。あ、そうなの? じゃあ、とりあえず、もらっといてあげるけど。なんだろう? 急に、へんなものをよこして。へんなネット記事でも読んだのかしら? まぁ、いいや、もらうぶんには損はないから、というふうに。

これが社会レベルで起きているだけである。つまり、全体の男女の恋愛関係の不調和からきている。女の本心が置き去りにされたまま、この手のサービスが続いてしまっている。全国版仮面夫婦というやつである。

まだ、男の明後日の方向のプレゼント(政策)は届けられるだろう。現在、政治が乱れているのは、あんがいここ(男と女の確執)からきているから、無視できないものである。

「男性的男性の弱さを、女性は本能的に見抜いてしまう」岡本太郎

「女が何を考えているのか、すっかりわかれば、男は何千倍も大胆になるだろう」ピカソ

女も、客も、奴隷も、それまで弱い立場にあったものが、押さえつけてあったタガを急に外されてしまうと、刑務所から出た囚人のように、行き場がわからずにさまよってしまう。

その反動でつけあがってしまうこともある。それに加え、男がむやみにペコペコしてくるから、よけいに偉そうに見えてしまっている不幸がある。

女が男に操を立てる社会がまだ残っているのは、お笑い界だけだと言っていいだろう。なぜなら、お笑いのセンスだけは、未だに男と女では歴然の差があるからだ。

他の職業に比べて、お笑い界は、男尊女卑が色濃く残っている。千原ジュニアの『座王』などはそれが顕著だろう。女性芸人は、私なんかが出てしまってすいません💦 男同士ならではの圧倒的センスで盛り上がっているなか、一応は女だから画面映えするかもしれないという理由で呼んでくださってありがとうございます。女だからつまらないのはしかたありませんが、女なりにがんばらせていただきます! という卑屈な姿勢が一貫している。

いつも低姿勢で、古き良き時代の大和撫子像を彷彿とさせる、とくに彼女たちは面白い男芸人に対してはへりくだる姿勢を見せ、つまらない男芸人に対しては、他の男芸人らのそれがしているように、頭の中で低い位置においているという、まるで犬みたいなことをする。笑い飯西田やベジータには怖くて近づけずにいるけど、三下の芸人らにはフレンドリーな対応を見せる。にゃんこスターのアンゴラ村長などは、そうです、そうです、うちの主人がつまらなくてすいません💦といつも謝ってまわっている。このように、女が、男社会に取り込まれると、自分の相方やパートナー、夫などを、見下げた形でふれまわることが少なくないから、注意が必要だ。

しかし、一つ注意したいことは、このとき、彼女たちは喜んでこの役を買って出ているということだ。男たちにへんに持ち上げられると、勘違いしないようにと、都度、わざと自分を貶めて、この距離感を大事に守ろうとしているし、実力のある男芸人にイジられると、子宮に羽が生えたように浮き足だった顔を見せる。高校のサッカー部のマネージャーなども、言いつけられてユニフォームを洗濯しているときは、川で洗濯する桃太郎のおばあちゃんのように、ここに我が意を得たりという顔をしているものだ。やはり根本として男を支えたいというのがあるのだろう。将棋部のマネージャーにはこういった景色は見られない。

パリコレなどで、舞台上でチヤホヤされている女は、いったん舞台から降りて、裏方に入ると、裏方の男が化粧おとしを用意していなかったことに、まったく鈍臭いわねぇ!と、男に下手に出られて世話を焼かれることに対して始終イライラし、男がその支配力によって影響下に置かないことに、ヒステリーはとどまることをしらず、好き勝手に振り撒いているうちに、自家中毒を起こして発狂することもある。こうしたものを見るたびに、女には、男というタガが必要になるように思われる。

男が不甲斐なかったり、精を出して働かなかったり、働けば今度は女より仕事ができなかったりするので、女はその本分を活かしたサポートをする気持ちも失せてくるが、お笑い界だけは完全な実力主義で女をリードしてくれているので、女は安心して男に心を委ねることができているのだ。

そのため、男の目がつかない場所で、女性芸人だけを集めて、彼女たちの好きにやらせると、たいてい目もあてられない惨事になってしまう。

女性芸人たちにすべての権利をたくして自由にやらせると、たいてい舞台やミュージカルのような形相になってしまう。それがもっともわかりやすい形であらわれるのが、松本人志のドキュメンタルだ。女芸人、女タレントだけのドキュメンタル企画だったが、

お花畑、メロディ、ロミオとジュリエット、メリーゴーランド、ベルサイユのばら、宝塚歌劇団みたいになってしまっていた。ラ〜ララ〜♪ と、どうも女は男の目を離すと、ピノキオみたいに鼻を伸ばして、歌を歌い出していってしまう傾向がある。生来がそういうふうにできているのだろう。男の手綱でしっかり握られているうちはこの顔を出さないが、少し綱を緩めると、歌い出しにいってしまう。最後には学校の文化祭みたいに、“面白い”より“楽しい”ノリになってしまっていて、とても視聴に耐えうるものではなかった。彼女たち自身もそれに気づいていて、「もう助けてください!」「VTRを止めて!」「はやく男性芸人の方々きてください!」「私たちもうどうしていいかわかりません!」と、完全にパニクってしまっていた。腕がいいとされるユリアンレトリバーや友近らも、この世界観からきており、峯岸みなみだけが、いちばん男性脳に近かったから、優勝するに至った。

大久保佳代子なども、たいへん知性的な女性であり、他の番組では、男や実力のない三流芸人に対してその切れ味鋭い舌鋒でめったぎりにしているが、コアなお笑い番組に出演すると、自分よりずっと若い実力のある男芸人に対して、貞淑ふうな女性となって仕事をしている。渋谷凪咲などもそうである。いくら面白いとか大喜利がどうのと騒がれていても、面白い男性芸人の前では低姿勢になる。いくら腕がいいといっても、やはり優れた男のコピーであり、男によって作られ、男によって磨かれた芸であるから、オリジナルの前にいつもビクついている。田中みなみや橋本環奈などは、バラエティには片足を突っ込んでいるだけで、いつ辞めてもいいやと思っているから、あまりこの姿勢は見られない。

もし、お笑界までもが、女性専用ラーメンとか、女性専用総理大臣とかいうようになってしまったら、私たちが後生として大事に取っておいてある最後の一本の稲までもが刈り取られる結果になるだろう。

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