印刷工場で働いた体験談 霊的修行

真理は、つくり出されるものではなく、人はただこれを知覚しうるのみである。

昔、印刷工場に勤めていた頃、いつも休憩時間の午後12時になると、パタっと仕事の手を止めて、ロッカーの中から本を取り出し、読書をし始める同僚がいた。

午前の仕事が終わると、工員たちは作業場から別館にある食堂へと続く長い廊下を、兵隊の行進のように続々と歩いていくのだが、その行進の最中においても、彼は歩きながら本を読んでいた。食堂に着いて食事をする段になっても、食べながら本を読んでいた。喫煙所でタバコを吸うときも、吸いながら読んでいた。

よくもまぁ、そんなにすぐに本の世界に入っていけるものだなぁと、毎度のことながら感心したものだった。

俺は、彼のその様子を見るたびに、以下のショーペンハウエルの言葉を思い出していた。

本を読むとは、自分の頭ではなく、他人の頭で考えることだ。たえず本を読んでいると、他人の考えがどんどん流れ込んでくる。これは、一分のすきもなく完璧な体系とまではいかなくても理路整然たる全体像を展開させようとする、自分の頭で考える人にとって、マイナスにしかならない。なぜなら他人の考えはどれをとっても、ちがう精神から発し、ちがう体系に属し、ちがう色合いを帯びているので、決して思想・知識・洞察・確信が自然に融合してひとつにまとまってゆくことはなく、むしろ頭の中にバベルの塔のような言葉の混乱をそっと引き起こすからだ。他人の考えがぎっしり詰め込まれた精神は、明晰な洞察力をことごとく失い、いまにも全面崩壊しそうだ。この状態は、多くの学者に見受けられる。そのため、良識や正しい判断、場をわきまえた実際的行動の点で、学のない多くの人のほうがすぐれている。学のない人は、経験や会話、わずかな読書によって外から得たささやかな知識を、自分の考えの支配下において吸収する。

『読書について』ショーペンハウエル

そういうわけで重圧を与え続けると、バネの弾力がなくなるように、多読に走ると、精神のしなやかさが奪われる。自分の考えを持ちたくなければ、その絶対確実な方法は、一分でも空き時間ができたら、すぐさま本を手に取ることだ。これを実践すると、 生まれながら凡庸で単純な多くの人間は、博識があだとなってますます精神のひらめきを失い、またあれこれ書き散らすと、ことごとく失敗するはめになる。つまりポープの言葉通りになってしまう。

「頭の中は本の山

永遠に読み続ける悟ることなく」

(ポープ「愚人列伝』第三章、一九四)

学者、物知りとは書物を読破した人のことだ。だが思想家、天才、世界に光をもたらし、人類の進歩をうながす人とは、世界という書物を直接読破した人のことだ。

『読書について』ショーペンハウエル

ある日、食堂で彼の隣の席になった際、「いったいどんだけ本あんの?」と聞いてみた。

彼は、「ベッドにして寝れるほどあるよ」と言った。

「それはすごい夢になりそうだね」と僕が言ったら、「ハハハ」と彼は笑った。

そのとき、僕たちの会話を聞いていた女の子が、「それどういう意味?」と聞いてきた。読書しない女の子だった。

「ねぇ、なんですごい夢になるの?」と、もう一度聞いてきた。

「……」

僕たちは閉口した。僕たちの様子を見て、彼女は、だから本を読む人って嫌い、とでも言いた気な顔をして、席を立ち、その場を後にした。

ところがどっこい、仕事は彼女の方ができるのだ。

コミュニケーション能力、雑務、何から何まで、完璧にできた。努力している節も見られなかった。ただ細胞が反応しているとしか言いようがなった。誰もが怖がる女上司ともうまく連携し、信用も得ていた。高卒上がりで、年はいちばん若く、もともと派遣としてやってきた子だったが、あまりにも有能だったから、半年足らずで正社員になった。

この仕事(刷られてきた印刷物を整理整頓、加工する作業)をするために最適化されたロボットのようだった。他の人に比べて疲れている様子も少なかった。このとき、俺は、人間には各々の職能によって振り分けられるクラスがあることを知った。仕事をしているとき、いつも俺は、頭の中で下の絵図を思い浮かべていた。

もし俺がバラモンやクシャトリヤ階級だったとして、彼女がシュードラだというのなら、シュードラの仕事で競ってもどうやっても敵うはずがないと思った。あの大古の詩聖ソポクレスでさえ、兵役として召集されたときは船上でボーッとしていて使い物にならなかったと言われているし、悪魔の筆バルザックも、勤務先から、「今日は忙しくなりそうだから出勤しないでもらいたい」と、早朝、早馬で通達されていたと言われている。

適材適所と言えば、それまでだが、どうやらこれを決定的にしているものは、明快さだと思われる。

なんにせよ、仕事ができる人間というのは、明快だ。

こういった、グループでの活動において、キーパーソンなるものは、その場において、いちばん人間も思想も明快だ。出前館の商品の受け取りのためにマクドナルドに寄るとき、厨房内の様子が目に入ってくるが、いちばん明快そうな人間が場を支配しているものだ。学の上ではそのキーパーソンよりも優れていそうな者をちらほら見るけれども、彼も、自分の方が優れているのにと反駁している様子が窺えるが、潜在下ではどちらの方が明快かわかっているようで、成す術もなく従ってしまうらしい。

社会では、明快さがある方に道を譲る。先の彼女にしても、「ねぇ、それどういう意味?」と、ヅカヅカと他人の会話に入ってきて(いちばん若く、元派遣社員でありながら)、わからなければ、もう一度質問をし直し、相手の態度が気に入らなければ、沸いたヤカンのようにピーピー音を鳴らしてその場を後にする。これほど明快な人間がいるだろうか。仕事中、彼女の行動には間髪がなかった。「切り結ぶ 太刀の下こそ 地獄なれ 踏み込みいれば ここは極楽」を地で行くような人で、先の読書狂である彼と仕事ぶりを比べると、彼の方が読んだ本のページ分だけ無駄が多いように見えた。先ほど上で引用した「良識や正しい判断、場をわきまえた実際的行動の点で、学のない多くの人のほうがすぐれている」というショーペンハウエルの言葉が明快に立証されているようだった。

トルストイは、芸術の三大原則として、誠実であること、明快であること、新鮮であることを挙げている。

この、明快であることは、頭脳の表れとしては最上のもので、文章を書くことも明快さを競っていることに他ならない。今これを書いている最中も、いかに明快にするために骨折っているに過ぎないのだから。

書くということは、なんにせよ、それについて読まされるとき、とうぜん物事は明らかにされるべきなのだが、それが無視されることがある。霊的分野でいえば、こと明快さが求められるのだが、死後の世界、アストラル界について明快に記述してくれるのなら、全ての用は片付いてしまい、他の本が立ち入る隙はなくなるのだが。明快さとは、このように、すべての悪を洗い流す浄化の作用をあわせもつ。また、読者も書かれているものが明快かどうかでその作者に信を置くものだ。

個人的には、ひろゆきの討論スタイルは誉められたものではないと思うが、彼は専門分野の人と討論するとき、素人みたいな、子供のような、率直な質問をぶつける。それが返って、インテリにとっては明快すぎて苦しくなっている。専門家たちはいつもそこまで明快な部分からスタートしているわけではないから、普段より、ずっと明快のところで質問されると太刀打ちできなくなってしまう。まぁ、世間では、そんな質問はする方がおバカさんだということになっているから、なかなか口にする者はおらず、この場合、試されるのは勇気だ。

何も持たないという点で、持っている人より優れている、ということがある。それが明快さにつながっているようだ。

恐ろしいほどに、人々は記憶から話している。こういう人と話しているとき、目が合っていても、いつも相対している気がしない。過去の思考の堆積物、心理的骨董品、壊れたラジオがノイズが出している人しかいないものだ。彼らはいつも他人はおろか自分すら過去の堆積物の中に埃被った古本のように、出会う人、ジムや道場、いろんな場所に行っても、赤ん坊のようなキョトンとした目を備えているものはおらず、たった今この地上に新しく生まれましたという顔をして話す人に会ったためしがない。

人々はいまだに知恵について思い違いをしている。勉強して、学習すれば、知恵が身につくと思っている。

よく、しまるこさん、観察の方法は?と尋ねられることがあるけど、よくじゃないけど、一回か二回しか言われたことないけど、あんなものは、静かにしているに尽きる。静かにしていれば、わからないことはないのだ。静かになって考えることが知恵なのではなく、静けさが知恵とイコールなのだ。

話せば話すほど、考えれば考えるほど
ますます真理から遠ざかるばかり
話すことも考えることもやめなさい
そうすれば知り得ないものは何もない

『信心銘』

もし、言葉も思考もないところに住まうことができれば、それ以上の英智はない。本当のところはすべての人間が頭のいいことに気づくだろう。人間はもともと頭がいい。愚鈍だと決めつけていた凡夫の時折見せるダイヤのような発言に耳を奪われたことのない人はいないだろう。心の中の妨害している電波を外しさえすれば、真理はひとりでにあらわれる。我々の方で、真理の上に思考のヴェールをのせてしまうことによって、真理から離れていっているだけなのだ。

明快さとは、頭でこねくりまわして、論旨を透き通ったものに近づけることではなくて、静けさの中で真理を直接そのまま浮かび上がらせることを言うのだ。

バガボンドの32巻の巻末コメントにも書いてあるだろう。

作品をつくるのに何が必要だろうか
技術か、知識か、才能か、努力か
理想か、情熱か、賞賛か、批判か

心のうち側の静けさ
今それを大切に思っています

氏はそれを言っているのだ。

「直覚は、心が静まった瞬間に自然に現われる魂の導きである。なぜか不思議に予感が当たったり、自分の考えていることがそのまま人に通じたりした経験は、ほとんどの人がもっているであろう。

人間の心は、動揺という『妨害電波”から解放されると、複雑なラジオ装置と同様のあらゆる機能を果たすことができるようになる。すなわち、想念を発信したり受信したりすることもできれば、また、好ましくない想念は受け付けないようにすることもできる。そして、ちょうど放送局で用いる電流の強さによって放送電波の強さが決められるように、人間送信機の強さも、各人の意志の力の強さによって決まるのである。

宇宙には、あらゆる想念が時空を超えて振動しており、大師は精神集中によって、生者死者を問わず、いかなる人のいかなる想念をも探知することができる。想念の根源は、個々別々なものではなく普遍的なものである。そして、真理は、つくり出されるものではなく、人はただこれを知覚しうるのみである。人間の誤った思想は、大なり小なりその認識の不完全さから生ずる。ヨガ科学の目的は、 常に誤りなき内奥の声の導きをゆがみなく聞き取るために心を鎮静させることにあるのである。」

『とあるヨギの自叙伝』パラマハンサ・ヨガナンダ

「わたしの脳は受信機にすぎない。宇宙には中核となるものがあり、わたしたちはそこから知識や力、インスピレーションを得ている。わたしはこの中核の秘密に立ち入ったことはないが、それが存在するということは知っている。」ニコラ・テスラ

一つ言えることは、過去から話さないことだろう。英智は現在にだけある。

記憶は消え去ってよい。現在の瞬間の判断があやまらなければ。ゲーテ

絶えず刹那に即していたまえ。ゲーテ

私は彼に、すでに当地に滞在した利益が分かりだした。すなわち、私はこれまでの観念的な理論的な傾向を徐々に離れて、刹那の境地を貴ぶようになった、と答えた。「そうでなかったら、困るよ。」とゲーテは言った。「それをただ持続してゆきたまえ。そして絶えず刹那に即していたまえ。いかなる境地もそうだ。いかなる刹那も無限の価値がある。なぜなら、その一つ一つが永遠の表れであるから。」エッカーマン. ゲーテとの対話(上)

何も、本に限ったことではない。いつでも、心の中のページを紐解いている。堆く積もれた埃被った本のように、精神のハリを失い、まるで、習慣の堆積物、彼らの来し方、彼らの本体ではなく、彼らの過去の堆積物と話しているような気分となる。目をキョトンとさせて、まるで赤ちゃんみたいに、不思議な国のアリスみたいに、異世界アニメみたいに、どこか遠い彼方へ連れていってくれそうな人間にお目にかかったことはない。まぁ、そんな人間に会って話されても困ってしまうけど。現在に即して会話できる人間というものはめったにない。

 

まぁ、本当は、とあるヨギの自叙伝をパラパラめくっていたら、「真理は、つくり出されるものではなく、人はただこれを知覚しうるのみである。人間の誤った思想は、大なり小なりその認識の不完全さから生ずる。」←このヨガナンダ先生の言葉に感銘を受けて、引用したくなっただけなんだけどね。えらく長くなってしまった。

俺はもう少し、世の中が、静けさの中から浮かび上がる真理のみを話すようになってほしいと思う。

© 2025 しまるこブログ Powered by AFFINGER5