理学療法「独立開業・副業・仕事体験記」

起きてみる夢も寝てみる夢も変わらない?

「ある日、散歩をしていると、目の前の世界が溶けてしまいそうな感覚におそわれる」と、ある若い女性が話していた。

じっさい、ヨガナンダ先生は、部屋で一人で瞑想しているとき、何度も、溶けて、黄金色のキラキラした粒子だけになってしまった体験を述懐している。

そんなふうに、この世界はバターみたいなもので、溶けてくれるものなら、さっさと溶けてほしいものだが、なかなか固くてうまくいかない。夢なら覚めてほしいが、あるいは、覚めてほしいがために、我々は眠りにつくのかもしれない。

夢と夢を代わりばんこさせ、現実逃避のために、もう一つの夢に逃げ込んだとしても、それがいい夢とは限らない。こちらの夢がいい夢とは限らないように。

夢の何が嫌かっていうと、「悪い夢」を見る可能性があることだ。夢の中にいるとき、それが現実としか思えないために(昔は夢の中にいるとき、夢だと気づいて抜け出すことができた。高校生ぐらいの頃、2、3回くらいだけだけどね)、夢の中にいるときはそれが現実としか思えないため、本当のところは夢も現実も変わらない。だから、とても恐ろしい夢を見ているとき、現実に恐ろしいできごとに遭遇していることとまったく同じだ。

誰だって、恐ろしいことに出会うなんて嫌だろう。一晩たりともごめんだ。それが、毎晩、毎晩となったらねぇ〜。だから、今日は悪い夢にならないといいな、と、小さな乙女チックな女の子のように、毎晩、眠りにつく頃、ビクビクしなきゃならなくなる、なんてこともある。この辺はギャンブルだ。死んでみなきゃ、天国にいくか地獄にいくかわからないように。

俺は、修行した賜物か、こちらの世界では、快不快をそれぞれ遠ざけることができてきたような? 起こる出来事に心までは巻き込まれないように少しはできてきたかな? と思っていた矢先、夢の方では、殺人鬼に斧を振るわれて(←本当にこういった夢をよく見る)、ギャーギャーわめいている。現実では出したことのない自分の悲鳴の大きさにびっくりして、それで起きる。殺人鬼は、映画「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」に出てくるピエロのような見た目をしており、わりとこの辺りは世俗的というか、潜在下では、怖いものの象徴として、この手のキャラクターを想起するらしい。さすがに、こっちの世界じゃ、殺人鬼に斧を振るわれることはないから、わめかずに済んでいるけど。でも、多分、こっちの方だと、そこまではわめかないとは思うんだよなぁ? 夢の方の自分は、こっちよりずいぶん弱体化している……のは、なぜだろうといつも思う。

以前の記事にも書いたが、理学療法士の国会試験当日に間に合わないという夢をよく見る。もう50回くらい見ている。

ぽくはこう見えても、小心者のきらいがあって、受験生時代、いつも例えようのない不安に駆られていた。もう若くないし、現役生たちが多い中で、自分一人だけ落ちたらどうしよう、と、自分だけ留年して、あの人は落ちた人だwと後ろ指をさされながら、また来年この学校に通うことを考えると、正気でいられなかった。そのときは実家暮らしだったから、とうぜん親の目もある。とにかく心配で心配で、そのせいで勉強が手につかなかった。(←?)

試験は受かった。試験には受かって10年経つのに、いまだに恐怖はあちらの世界で続いている。国家試験当日、何らかのアクシデントがあって、試験に間に合わなくなるという夢を見る。夢の中の僕ときたら、本当に自分か?と思うほど、世界でいちばんバカなことをしでかす。試験当日、なぜかシュークリームが食べたくなり、試験会場とは反対行きの列車にのって、シュークリームを買いに行ってしまうという夢だ。で、間に合わない、間に合わない、と泣いている。それが本気の涙なのだ。試験を、試験を受けさせてください神様──、このままじゃ試験が──、とシュークリーム片手に本気の涙を流して、もうこのままだと精神の方が持ち堪えられない──と最大のハレーションを迎えたとき、目覚める。手を変え、品を変え、シュークリームだったりチョコレートだったり、色々だ。「理学療法の国家試験」と「電車」はだいたいセットになっている。もう50回くらい。

ラマナ・マハルシは、言葉や想念の非実在性に気づきなさい、となんどもいう。人は頭で考えて、創作したことを実在のものと見なし、その「夢」の中で苦悩する。

それ自体としては、われわれが「心」と呼ぶことのできる実体は存在しない。想念が生ずるがゆえに、われわれはそれから想念が生じてきた何ものかがあると想定し、そしてそれを心と名づける。それが何であるかを知ろうとわれわれが探るとき、そこには何もないことを発見する。心がそのように消え失せたあとに、永遠の平和が残る

ずいぶんと騙されている。そして、目の前にないもの、過去として消滅したことを、現実に目の前に存在しているかのように、泣いたり、悲しんだりできる。でもそれは、どこにも実在しない。架空の、虚構の、フィクションの世界に騙されているのである。ラマナ・マハルシはそれを映画にたとえるが、言葉や観念はほんとうに映画だ 

実在しない世界のしっぺ返し――『不滅の意識』 ラマナ・マハルシ

「この頃、というより、昔からなんだけど、なぜか、大事な用事に間に合わない、という夢をよく見るのよねぇ。亡くなった主人だとか、大切な人との、ぜったいにこれだけは間に合わせなきゃならないという大事な用事。私、婦人会の会長やってたでしょう? 自分が企画した婦人会の海外旅行で、その時刻にのらなきゃ間に合わなくなる、という機関車にのれなくて、全部パーになっちゃう、という夢。自分ではね、頭では間に合わせなきゃ、と思ってるんだけど、ぜんぜんトンチンカンな行動をとって、間に合わなくなっちゃうの。人生でいちばん大切な用事で、それが間に合わなくなって、すごいショックで崩れ落ちそうになって、その瞬間、目覚めるのよ。それが、ここ何日も続いて」

「とくに、機関車が多いわね。機関車に乗り込むのに、間に合わない、というのが多い気がする。それで、間に合わない。大変なことになってしまった──、って、その瞬間、目覚めるという感じ。もう、汗ダクダクよ。それで、3回も、4回も、一晩で着替え直したりすることもあるのよ」

マッサージの仕事をしているとき、87歳の雅代さんが語ってくれた。みんなでお寿司を食べているとき、彼女が急に口走った言葉だ。

ふーむ。俺とまったく同じケースだと思った。

87歳になってもそうなのかと思った。

俺はともかく、善一辺倒で生きてきた雅代さんにこのような仕打ちをするとは、神はいったい何を考えているのだろう? 何らかのカルマの浄化が働いているのか、聖者は悪い夢を見ないというのは偽りなのか、気になるところだ。

じっさい、岡田以蔵のように──、まだ人が人を斬ることが許されていた時代、時代の情勢に任せて、あたりかまわず斬ってばかりいた人間は、決まって悪い夢を見て、それは大変なうなされようだという。人斬りの仲間を匿って、馬小屋を借して寝かしていた頃、毎晩、大変なうなされようだった友人の姿を見た山岡鉄舟は、今後決して人を斬らぬようにしようと決意したそうな。

俺だって、最近は誰にも迷惑をかけてないし、ちゃんと自然な食べ物を少量でよく噛んで食べているのに、どうしてだろうと思い、茹でているせいなのかと思って、生で食べてみたが、変わらなかった。食べ物じゃどうにもならないかと思って、もっと瞑想の方をがんばらないと思案中だ。なぜここに食べ物の問題を持ち込むかというと、ルイジ・コルナロの著書にあったからだ。

こうしてわれらがルイジ・コルナロは、病気とは無縁のうちに、公私にわたって人生を謳歌しつつ年齢をかさねて一〇〇歳を越え、そしてそれから数年後、ある日ようやく最期と悟ったとき、日ごろ口にしていたとおり、いつもの午睡と変わらないようすで、おだやかに息を引きとった(享年一○二歳)。 しかも、最晩年まで目も歯も耳も完全で、足腰も若いときの力強さと変わらず、声の張りにいたっては、むしろ年齢とともに高まり、食後でさえつい歌い出したくなるほどであったという。気分もつねに快活。さらには、見る夢までもが、どれも快いものばかり。

ルイジ・コルナロ. 無病法 (p.7). 株式会社PHP研究所. Kindle 版.

「食事については、昔の豪華な食事より今の質素な食事の方を心から好んでいる。このことは、前に述べた理由からして、とくに幸いなことである。また、眠りも快適である。どこであろうとすぐに熟睡でき、しかも見る夢はすべてどれもが楽しいものばかりだ。」

ルイジ・コルナロ. 無病法 (pp.37-38). 株式会社PHP研究所. Kindle 版.

ルイジ・コルナロのいうように、寝てみる夢がいい夢になるのなら、起きてみる夢もいい夢になるだろうと思ったからだ。

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