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最近、ヒナタ・サカグチが気になる。

最近、ヒナタ・サカグチが気になる。

『転生したらスライムだった件』に出てくる女性キャラクターだ。

ん? しまるこにしては珍しいじゃん。今までの好きなタイプと違くね? お前はどっちかっつーと、シュナ(同アニメの別女性キャラクター)のような童貞ホイホイの方が好きなんじゃなかったか? どんな心境の変化だぁオイ、豆腐の角に頭ぶつけたか? と賢明な読者の方々は思うかもしれない。

なぁしまるこ。お前の面は割れてんだ。お前がいくら女性研究家YouTuberと謳ったって、けっきょく、ただの童貞ホイホイだということはバレている。あんなバレバレの仕掛けに引っかかって、朝、粘着シートにへばりついていて、小学生のガキに「わー♪ 取れてる取れてるー♪」と喜ばれて、「汚いから早く捨ててきなさい」とお母さんに言われたガキにゴミ箱に捨てられんのがオチだ。と、そう皆さんに思われていることはわかっている。

確かに、これまでの小生のタイプはというと、シュナ↑のような女性だった。これは友達にもよく心配されて、「お前、年をとっていっているのに、好きな女のタイプが変化していかないけど大丈夫?」とよく言われた。それに対して、「ふつう好きなタイプなんて変化しないだろ」と返したら、「そうじゃなくて、お前が14歳が好きだとしたら、お前の方は歳をとっていっているのに、お前の想定する相手がずっと14歳で止まっていることを言ってんの。たとえば、中学生男子が中学生女子を好きだとしたら、そいつが高校生になったら、高校生の女を好きになるでしょ? んで、大学生になったら大学生の女を好きになっていくでしょ? そういう変化がないことを俺は言ってんの」と言われた。

そういった背景もあり、友達に「ヒナタ・サカグチが好き」と言ったら、たいへん喜ばれた。「へえ、どんな心境の変化? お前もちょっとだけ前に進んだんじゃん? なんか春が来たみたいで嬉しいよ」と言われた。その後に続いて、「ちょっと寂しくもあるけどね」と言われた。まるで童貞を卒業した体の言い草だった。

ヒナタ・サカグチ

神聖法皇国ルベリオスの守護を主とする聖騎士団の団長。冷徹な合理主義者であり見る者に冷たい印象を与える黒髪黒眼の麗人であり、いわゆるクールビューティー系キャラである。彼女のシーンにさしかかると、しばし作業の手を止めて見入ってしまう。とくに横顔が美しい。凛とした佇まいで、清々しいミネラルウォーターのような、ちょうど、このジメジメとした暑さの中で、彼女の顔を見ると熱気も吹っ飛ぶようである。置き畳の上で寝っ転がりながら転スラを見て、彼女のシーンになるたびに、ハッとするような、少し姿勢が正されるような思いになる。いいキャラクターデザインだと思う。リムルのデザインもいいし、個人的にはこの二人のデザインが作中トップクラスだと思う。ずっと見ていたくなる顔だ。

『転生したらスライムだった件』を見ている男たちは、昔から“だらしない”と相場が決まっていて、寝転がって、ポテトチップスを食ったり、ちんこをかきながら映像に浸っていることは想像に難くなく、そういう彼らにとって、ヒナタ・サカグチのような女性は天敵といえる。今にも七曜の老師から授かった竜破聖剣(ドラゴンバスター)で、ちんこを叩っ斬られそうな気配がする。こうした男たちにとっては、ヒナタ・サカグチの顔を見ているだけで罰が悪いような気がしてくるものだ。

そんな天敵ともいえる女性を、どうして最近気になるのかは小生もわからないが、おそらく霊性が進化したためだろう。近頃は、以前気にならなかった女性のことも、その内面の光に気づくことができるようになり、まるで女性の対する見方が変わってしまった。

ヒナタ・サカグチが、はたしてどんな男が好きなタイプかはわからないが、小生のような男が好きということはないだろう。それは小生にもわかる。自分のことを好きになる可能性のない相手のことを想うことは時間への冒涜だと思うし、それを考慮しても、小生はいわゆるクールビューティ系の女性とは相性が悪い。

なぜだかはわからないが、小生は、昔から、荒川静香のようなクールビューティ系の女性とは相性が悪かった。彼女たちの凛とした佇まい、無言の高貴なる波動が、小生に対して違うと言っていた。小生の方でも違うと言っていた。ある程度、知性や世界に対する理解度など、多分に交わる部分はあり、お互いに良い理解者になるかもしれないと互いに希望をもってお近づきになることはあったが、いつも最後の一点で弾かれてしまうのだった。それは案外、彼女たちの趣味が平凡かもしれないからだった。ゲーテは、「その人がどこで笑うかで、その人間のレベルがわかる」と言っていたが、この手の女性は、黙っていられるという強みしか持たないのである。高尚な趣味があるかというと、そうでもなく、巷の女性たちと同じところで笑い、同じところで喜んでいたりする。じっさいアニメにおいても、彼女はラーメンを食べたり餃子を食べたりして、平凡な趣味がうかがえた。街角の女子高生のそれである。みんなから孤立して、ツンとして、一人窓辺にたたずんでいる姿を見たときは運命の人のように思えたけれども、こうして皆と一緒に戯れてラーメンを啜っているのを見たときに、小生の方は冷やし中華のように気持ちが冷めてしまったところがある。所詮この程度かと言うつもりはないが、 案外、のっぴきならない知性的美女というものは、そこらの女性と同じところで笑ったり喜んだりするものである。

 

中学校の同級生に、ヒナタ・サカグチのような女性がいた。

なぜかくも、学校の少年少女は差が生まれるのか。同じ年代、同じ環境に囲まれて、家族構成、父母の学歴、その教育は異なるかもしれないが、なぜこんなにも差が生まれのかということに小生は当時から疑問を持っていた。小生はこの頃から、輪廻転生というものがあるに違いないと思っていた。明らかにそうでなければ説明がつかないのだ。やたらと暴力的に吠えるような男は犬のような気配を感じられたし、すぐに股を開いて男子生徒とエッチな関係になってしまう女子生徒は雌猫の鼻腔をくすぐる色香めいたものを感じたし、クレヨンしんちゃんのボーちゃんのように頭の中に大きな石が入っているような生徒は石だったのかもしれないし。

ヒナタ・サカグチのような女子生徒がいたが、こいつは絶対人生初めてじゃないだろうなと、“絶対”と言い切れるくらい、異性界チートキャラのようなものを感じさせられた。一つ言えることは、同じ時間に生まれ、同じ家庭、同じ教育で育ったとしても、彼女と上のボーちゃんのような生徒が、一緒の将来結果になることはないと絶対の確信をもって言い切れた。うっすらではあるが、彼女が机に向かって勉学している後ろ姿を見ていたとき、そのとき、背後に言い表せない過去生で積まれてきた徳のようなものが見えた気がしたのだ。やはりそうか、徳の量だったか。バガヴァッドギーターやブッダもいっているし、彼女の不思議な気品は、過去生の徳からきているんだと一人合点がいったものである。

第41節:挫折したヨーギーは次生において 純真清浄な者たちの住む星界に往き 長い間そこの生活を楽しんだ後で 地上の徳高き豊かな貴族の家庭に生まれる

第42節:または大いなる知識をそなえた ヨーギーの家庭に生まれてくる 地球上において このような誕生は まことにまことに稀なのである

彼女は、5科目の教科すべて47点(50点満点中)を取ったり、将来は、東大の理一に入り、研究職になり、我が同級生たちの中でいちばんの出世頭になるのだが、また、成人式の答辞も彼女が述べた。振袖姿も美しかった。彼女はこれだけ立派なのに関わらず、自慢めいたものがなかった。そこに徳があるのだろう。男はどうしても自慢しいがあり、どんなに偉大な男でも、この自慢しいが抜けないが、女にはまったくない人間がいる。彼女はいつも黙っていた。みんなが騒いでいる間も、彼女は大人より大人びた顔をして黙っていた。黙っていられない生徒からすると、黙っている人間は黙っているから偉く見えるだけであって、それで称賛を独り占めして、ずるい野郎だ! と、そう、当時の小生は思っていたが、じっさい、沈黙より偉大な行為はないのである。ボーボワールの名言に「人間は誰もが考えている。インテリだけがそれを自慢しているのだ」とあるが、頭のいい女性に沈黙をされたら、自慢しいの男はにっちもさっちもいかなくなってしまう。およそ彼女は知性というものに執着していなかった。じっさい知性とは、無欲からくるものだと言われているが、もっというと、知性と無欲はイコールなのだ。

「無欲と叡智は別のものではありません。それらは同一です。無欲とは、心がいかなる対象物に向かうことも差し控えることです。叡智とは、何の対象物も現れないことを意味しています。言い換えれば、真我以外の何ものも求めないことが無欲あるいは無執着であり、真我をけっして離れないことが叡智です」ラマナ・マハルシ

ほとんど無欲の人間は、女性の中にしかないと思われる。アーナンダマイー・マーは、ヒナタ・サカグチと瓜二つのクールビューティなのだが、彼女もまたこう言っている。

「女性が社会の舵を取り、男性がオールをせっせと漕ぐことになるでしょう。このことは今の時代の精神を印します」アーナンダマイー・マー

これについては、アンマと斎藤一人さんもまったく同じことを言っている。斎藤一人さんの会社の全国の営業部の一位となる人は決まって女性だと言う。

と、しまった。おっとっと……。今日は、ヒナタ・サカグチのことを語ろうと思っていたのだが、気づけば同級生の女子生徒のことを語っていた。

まぁ、ここまできたら、彼女のことを話すとしようか? どうせほとんど似たようなキャラなのだから。

その中学の同級生の彼女は、ミワコ・ハラニシと言った。ほとんどヒナタ・サカグチと変わらない女性だ。外見も中身も瓜二つだと言っていい。

ミワコ・ハラニシはとても優秀な生徒だった。学年で必ず一人はいる秀才だ。ミワコ・ハラニシは、当然のように東大(理一)に行き、今では我が同胞にていちばんの出世頭で、東大の助教授となって変な微生物の研究をしているとのことだ。ネットで名前を検索すれば出てくる。

中学校とは、鍋みたいなもので、バカもヘチマもナスもきゅうりも一緒くたに煮られてしまい、「うちの子と汚いエキスを持つガキンチョを一緒の教室に閉じ込めるなんて虐待ザマス!」という、教育ママの気持ちもわからなくないほど、いささか乱暴で雑な詰め方といえる。そのため、一部の優秀な生徒は、中学を卒業し、その学力に見合った高校に行くと、「やっとバカと一緒の空気を吸うことから解放された♪」という顔をするものである。

そういう顔をされることが悔しいこともあって、ヤンキーたちは、あいつらに迷惑をかけられるのは今しかない……と、少し慌てたように、中学校時代は、その限られた時間を彼らの足を引っ張るために専心するが、ヤンキーたちは、ミワコ・ハラニシに対しては手出しができないようだった。

やはり、“霊性”というものがある。僕たち低学歴がミワコ・ハラニシに近づいちゃいけないんだ、ということが、暗黙のうちにわかっていた。どれだけお調子者も、どれだけヤンキーでも、彼女の前では不思議な力で存在をかき消された。そういう意味で、高嶺の花だったかもしれない。もっとも、それは頭で分かっていたことではなく。小生の母もよく言ったものである。「ねぇ、あんたのクラスのミワコ・ハラニシさんだっけ? あの子、なんであんな気品があるのかしらねぇ? 何を食べたらあんなに気品があるようになるのかしら?」と、それは大人の目から見ても明らかだった。

そういえば、三島由紀夫が文章を書くときにいちばん大事なものは気品であると言っていた。「うまい文章や面白い文章を書けても、気品がある文章はまったくの生まれつきだ」と言っていたが、確かにそうかもしれないと今になって思う。小生が思うに、気品と三島由紀夫が呼んでいたものは、霊性と言い換えることができるかもしれないということだ。あれは、およそ守られている感じがあった。守護霊か何かが憑いていた。渡り廊下ですれ違うたびに臆し難いオーラを感じた。いつも分厚い透明な壁があって、結界がそのまま歩いているようだった。人と人は霊性に応じた階級でしかつながり合えないということを身をもって証明しているようだった。

そういう意味では、ミワコ・ハラニシは男子生徒からはモテなかった。しかし女子生徒からは凄まじい人気だった。女性はいつもこういう女性が好きなようである。それはミワコ・ハラニシの中に一種の男性性を見るからだろう。女性が、小さな男の子や、オス猫を愛撫するときに見られるが、どこか潜在的に、男という性を弄びたいという思いがあるようだ。しかしリアルの男は、その不潔さや、男性的シンボルの発達によって受ける様々な制約があって、それができないでいるが、ペットや子供、あるいは女性となると、できてしまえる。彼女たちの、ヒナタ・サカグチや、ミワコ・ハラニシへの熱情は、潜在的な男性性への欲求のあらわれなのである。ジャンヌ・ダルクみたいなものだろうか。

女性たちは、街中の冴えない男に比べたら、ジャンヌ・ダルクのような女性に、自分を明け渡したいと考えているようである。

彼女たちが日々、男性に対して願っているもの。つまり、“聖騎士” その聖騎士像を、ミワコ・ハラニシのなかに見てとったのだ。これはまだ研究中なのだが、女というものは、男だろうが女だろうが、最悪どっちでもいいみたいなところがあるんじゃないかということだ。聖騎士の夢を見させてくれるのであれば……。正直、この、ヒナタ・サカグチでも、ミワコ・ハラニシでも、ジャンヌ・ダルクでもいいが、涼風・真世でも、天海・祐希でも、黒木・瞳でも、竹内・まりやでも、宝塚・歌劇団でも、なんでも・いいが、そういう人間が身近にいて、心奪われるものがあったら、最悪どうなってしまってもいいと考えている要素は、男より強いと考えられる。その辺の男よりも、聖騎士を内面に住まわせている女性ならば、どうにかなってもいいという気持ちが隠されており、このうやむやさに男も女もないのである。このうやむやさに小生も吸い込まれてしまいそうになるのである。

ヾ(´ε`;)ゝ ふぅ。。。話は長くなったが、小生がヒナタ・サカグチを好きと言ったのは、こういうところから来ている気がする。それだけのことを話すのに、こんなに長くなってしまった。

長くなったついでに、↓に、一応、ミワコ・ハラニシの小学校時代の忘れらないエピソードを書いておいたけど、これはもう、読まないで別にいいと思う。気になった人だけ読んでくれたらいい。

ミワコ・ハラニシのことで忘れられないことがある。とても恐ろしい事件だった。小学校2年の時のことだ。先ほど、さしづめ、バカとハサミは同じ詰め物にされるのは中学校までと言ったが、それはとうぜん小学校も含まれる。小生は、小学校もミワコ・ハラニシと一緒に過ごした。

おそらく、彼女の方でも覚えてないだろうが、あの頃、あの教室にいた誰もが覚えていないだろうが、小生だけは持って生まれた凄まじい記憶力のため、これを覚えている。

これは、小学校2年の国語の授業の時だったが、ミワコ・ハラニシが先生に指名され、教科書の文章を音読するにあたった。「現に……」ミワコ・ハラニシは教科書の文章を流暢に読んでいたが、一瞬止まった。少し止まった後、ふたたび読み上げていった。「現に今日(こんにち)まで度々自分は自分よりも自分の身になって、菊池に自分の問……」

「なぁ、ありゃぁ、“きょう”って読むんじゃねえかぁ?」

一人の男子生徒が疑問の声を上げた。

「んあ。おらたち、この前、この漢字は、“きょう”っていう読み方で習ったばっかけんろ」

「ああ、これは確かに、きょうって読むでさ」

「いくらオラ達だって、きょう、ぐらい読めるでさぁ」

教室は騒ぎになった。

「おい、ミワコさん、間違えてっぞ」

「ミワコさんでも、間違えっことあるでなぁ」

「ミワコさんが間違えることなんてあるわけないじゃない!」

一人の女子生徒が、机をダンと叩いて、立ち上がって言った。

「うーん。なぁ、みんなに問いたいんだが、ふつうに考えてみて、オラたちがわかるような漢字を、ミワコさんが間違える、なんてことがあるやろか?」

「確かに、そりゃあ、考えづらいわな」

「んなら何か? おまあ、オラたちが間違ってるっていうのかえ? オラたち、昨日、この漢字、習ったばかりじゃ」

「ミワコさんでも間違えっことあるけろ」

「いや、これは、もしかしたら、“こんにち”って読むんじゃねえさ?」

「んなわけあるわけねえべ!」

一人の生徒が立ち上がって、怒りながら言った。

「なぁ、先生さん、教えてくれんか? これは、“きょう”って読むんじゃねえか? だって先生さん言ったっけ? これは“きょう”って読むんだって、先生さん、昨日、オラたちに言ったばかりだけろ!」

「この場合、こんにちって読むことのほうが正しいのです」

と先生が答えた。

「な、なんやと!?」

「先生さん、そりゃあないでよ!」

今も不思議なことだが、どうして小学校2年生の時点で、ミワコ・ハラニシは、その文脈の意味するところで、“こんにち”と読み変えなければならないことを知っていたのかということだ。

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